そして、企業人として最も深く心を打たれたことは、自分が、日本製品に守られていると感じたことだ。
タクシーに乗る。イエメンでは初乗りメーターは「ゼロ」からはじまる。整備も危ういぼろぼろのタクシーだが割とメーターはついていた。
乗るとほぼ例外なく「シーニー?(中国人か?)」ときいてくる。「ラー(いいえ)、ヤバニーヤ(日本人)」と言うと、これもほぼ例外なく同じ答えがかえってきた。「ヤバーン(日本)、タマーム(いいね!とか、すばらしい!の意味の方言。英語のgreat、good、というかんじ)」運転手によっては、後ろをふりかえって大げさなぐらい敬意を表してくれる。危ないから前見て運転してちょうだい。
イエメンでも電化製品は売られていた。うちのテレビは「Konka」だった。コニカの模倣品。町には「Pensonic」パナソニックの模倣品、そのほか似たようなまがいものがたくさんあった。バイクのカワサキやスズキも、上手にもじった名前の模倣品があったように記憶している。中国製品は、庶民でもなんとか買える値段だったが、1か月ほどでたいていこわれる。安定しない電圧に耐えられない設計なのだろう。日本製品は、ソニー、パナソニック、どれもぴかぴかだった。ショーウインドーがまぶしい。10倍の値段だとしても、10倍以上の期間使用に耐えるとわかっていても、庶民には手が出なかった。日本の製品は憧れであり、それがそのまま、日本への尊敬につながっている。と私は感じた。
家具付きアパートを借りていたうちの大家が、洗濯機のところまでわざわざ私をつれていき、日本製だと自慢気に言ったことを鮮やかに思い出す。当時はまだ日本企業のSANYO(サンヨー)製だった。隊員生活の2年間使ったが、こわれなかった。シャワーの水がかかり、トイレの上に置くという過酷な条件下だった。ペパーミントグリーンの二層式洗濯機だった。しばしば突然停電するので、全自動でないほうがありがたい。
配属先で、日本からの援助を受けられることになり、ジェネレーター(自家発電機)を買えることになった。停電は日常茶飯事なので、ジェネレーターは必要だった。単位は忘れてしまったが、1000何某かの馬力の中国製は1100ドルだった。2000ぐらいの馬力のKOMATSU(コマツ)製は、6000ドルだった。負担をかけるとすぐに中国製は壊れてしまうだろうから、配属先の同僚と相談して、中国製を2台買うことにした。KOMATSU製を買ったほうが長く使えることはわかっていたが、予算上、どうしても買えなかった。紫色のジェネレーターを、どんなにうらやましく眺めたことだろう。これがあれば夕方停電があっても授業を続けられる。数年は使えるはずだ。生まれてはじめてのどから手が出るほどほしいという思いを経験した。そして、中国製のジェネレーターは1か月たたないうちに2台とも壊れた。同僚はショップとかけあって、何度も修理を依頼し、何度か修理をしてもらったが、やっぱりだめだった。まともに動いたのは、最初の1~2回だけだったように思う。それでも、停電で初めてこのジェネレーターを使って発電し、明かりがついたとき、配属先の協会では学生たちから拍手と歓声が起こった。
かくして、イエメンの人たちは日本が好きだった、これが言い過ぎならイエメンの首都、サナアの人たちは、それでも言いすぎなら少なくともサナアのタクシーの運転手たちは、日本が好きだった。日本を信頼していた。
日本の政府のそれほど特別でもない一言で撃たれる覚悟をする生活の中で、日本製品への信頼とあこがれが日本人への信頼につながり、おそらく引き金をひくとしても一瞬迷うぐらいの影響は与えてくれていたと思う。日本人のつくるものは確かだ、ごまかしたりしない。町中を歩いている数少ない日本人に、彼らは日本製品の供給者をオーバラップし、米英寄りの日本政府は気に入らないけれど、(さらにイスラム教徒でもないけれど)、やっぱり日本人ってのはいいモノを誠実に作る国民性であることは確かだ、ここんとこは認めてやらなくちゃな、ってとこかと思う。(ちょっと眠くなってきたので、このあたりとこのあとの部分は後日推敲します。)
かつて、ビールの営業をしていたときに訪問した自社の工場で、現場の人たちの誠実でひたむき、真摯な製品づくりに心を打たれた。この人たちと同じ会社にいることを誇らしく思い、この人たちのつくってくれたものを売ることへの使命感を抱き、万一なにか事故やクレームがあったとしても、お客様との間で絶対盾になるぞと思った。今思えば、私は心を打たれただけでなく、心奪われ、現場に恋をしたのだと思う。そして今回、協力隊の赴任地で、私は再び恋に落ちた。日本製品と、それを供給する日本の企業に。帰国したら、私はそんな企業のひとつに戻るのだと思った。製品で世界の信頼を得られる国に戻るのだと。
・・・すみません、今日のところはここで投稿します。後日推敲、修正します。おやすみなさい。
タクシーに乗る。イエメンでは初乗りメーターは「ゼロ」からはじまる。整備も危ういぼろぼろのタクシーだが割とメーターはついていた。
乗るとほぼ例外なく「シーニー?(中国人か?)」ときいてくる。「ラー(いいえ)、ヤバニーヤ(日本人)」と言うと、これもほぼ例外なく同じ答えがかえってきた。「ヤバーン(日本)、タマーム(いいね!とか、すばらしい!の意味の方言。英語のgreat、good、というかんじ)」運転手によっては、後ろをふりかえって大げさなぐらい敬意を表してくれる。危ないから前見て運転してちょうだい。
イエメンでも電化製品は売られていた。うちのテレビは「Konka」だった。コニカの模倣品。町には「Pensonic」パナソニックの模倣品、そのほか似たようなまがいものがたくさんあった。バイクのカワサキやスズキも、上手にもじった名前の模倣品があったように記憶している。中国製品は、庶民でもなんとか買える値段だったが、1か月ほどでたいていこわれる。安定しない電圧に耐えられない設計なのだろう。日本製品は、ソニー、パナソニック、どれもぴかぴかだった。ショーウインドーがまぶしい。10倍の値段だとしても、10倍以上の期間使用に耐えるとわかっていても、庶民には手が出なかった。日本の製品は憧れであり、それがそのまま、日本への尊敬につながっている。と私は感じた。
家具付きアパートを借りていたうちの大家が、洗濯機のところまでわざわざ私をつれていき、日本製だと自慢気に言ったことを鮮やかに思い出す。当時はまだ日本企業のSANYO(サンヨー)製だった。隊員生活の2年間使ったが、こわれなかった。シャワーの水がかかり、トイレの上に置くという過酷な条件下だった。ペパーミントグリーンの二層式洗濯機だった。しばしば突然停電するので、全自動でないほうがありがたい。
配属先で、日本からの援助を受けられることになり、ジェネレーター(自家発電機)を買えることになった。停電は日常茶飯事なので、ジェネレーターは必要だった。単位は忘れてしまったが、1000何某かの馬力の中国製は1100ドルだった。2000ぐらいの馬力のKOMATSU(コマツ)製は、6000ドルだった。負担をかけるとすぐに中国製は壊れてしまうだろうから、配属先の同僚と相談して、中国製を2台買うことにした。KOMATSU製を買ったほうが長く使えることはわかっていたが、予算上、どうしても買えなかった。紫色のジェネレーターを、どんなにうらやましく眺めたことだろう。これがあれば夕方停電があっても授業を続けられる。数年は使えるはずだ。生まれてはじめてのどから手が出るほどほしいという思いを経験した。そして、中国製のジェネレーターは1か月たたないうちに2台とも壊れた。同僚はショップとかけあって、何度も修理を依頼し、何度か修理をしてもらったが、やっぱりだめだった。まともに動いたのは、最初の1~2回だけだったように思う。それでも、停電で初めてこのジェネレーターを使って発電し、明かりがついたとき、配属先の協会では学生たちから拍手と歓声が起こった。
かくして、イエメンの人たちは日本が好きだった、これが言い過ぎならイエメンの首都、サナアの人たちは、それでも言いすぎなら少なくともサナアのタクシーの運転手たちは、日本が好きだった。日本を信頼していた。
日本の政府のそれほど特別でもない一言で撃たれる覚悟をする生活の中で、日本製品への信頼とあこがれが日本人への信頼につながり、おそらく引き金をひくとしても一瞬迷うぐらいの影響は与えてくれていたと思う。日本人のつくるものは確かだ、ごまかしたりしない。町中を歩いている数少ない日本人に、彼らは日本製品の供給者をオーバラップし、米英寄りの日本政府は気に入らないけれど、(さらにイスラム教徒でもないけれど)、やっぱり日本人ってのはいいモノを誠実に作る国民性であることは確かだ、ここんとこは認めてやらなくちゃな、ってとこかと思う。(ちょっと眠くなってきたので、このあたりとこのあとの部分は後日推敲します。)
かつて、ビールの営業をしていたときに訪問した自社の工場で、現場の人たちの誠実でひたむき、真摯な製品づくりに心を打たれた。この人たちと同じ会社にいることを誇らしく思い、この人たちのつくってくれたものを売ることへの使命感を抱き、万一なにか事故やクレームがあったとしても、お客様との間で絶対盾になるぞと思った。今思えば、私は心を打たれただけでなく、心奪われ、現場に恋をしたのだと思う。そして今回、協力隊の赴任地で、私は再び恋に落ちた。日本製品と、それを供給する日本の企業に。帰国したら、私はそんな企業のひとつに戻るのだと思った。製品で世界の信頼を得られる国に戻るのだと。
・・・すみません、今日のところはここで投稿します。後日推敲、修正します。おやすみなさい。