無題 投稿者:風天 投稿日:2004年 5月15日
「前世療法」の著者ワイス氏の「魂の伴侶(PHP出版 原書1996年出版)」にサイババに関わる件がありました。少し長文です。ご存知の方も多いと思いますが、共感するところが多かったので紹介しておきます。
----
(前略)-- わたしたちはみんな超能力者であり、みんなグルである。わたしたちはそれをただ忘れているにすぎない。
ある患者が、わたしにサイババというインドの聖者について質問した。彼はアバターと呼ばれる、肉体を持って地上に降りてきた神なのだろうか?
「わたしは知りません」とわたしは答えた。「でも、ある意味で、わたしたちはみんなそうではありませんか?」
わたしたちはみんな神なのだ。神はわたしたちの中に存在する。わたしたちは超能力に惑わされてはならない。なぜならば、超能力は、霊的な成長の道の道標に過ぎないからだ。私たちは、自分たちの神聖と愛を、良き行いによって、また人々への奉仕によって、表わす必要があるのだ。おそらく、誰も、1ヶ月か2ヶ月以上にわたって、誰かのグルになるべきではないのだろう。インドへ何回も行く必要はない。真の旅は、私たちの内にあるのだから。
自分で超常的な体験をすることは、神の存在に心を開き始めるために、あるいは、人生は目に見えるものよりも、ずっと大きく広いということを理解するために、まぎれもなく有効である。人は自分で体験しないと、それを信じないことが多いからだ。
私たちの道は、内へ向かう旅である。それはより困難で、よりつらい旅である。私たちは自分自身の学びに責任を負っている。この責任を回避し、誰か他人に、またはグルに責任を押し付けることはできない。
--(後略)
たぶん、愛 投稿者:風天 投稿日:2004年 6月 1日
「愛」という言葉は苦手なんです。もっと他に言い様がないものかと思う。
しかし、「愛」って、なんなのでしょうねぇ。
愛を示す行為。たとえば、見つめ合う。頬ずりする。抱きしめる。キスする。接触し、肌をふれあう。言葉のないときに愛を表現する手段は、そういったことなんだと思います。
今や、テレビの政府広報で?「子供を抱きしめてあげましょう」とかわざわざ言わなければいけない時代らしいです。
一緒だということ。一体だということ。相手に安心感を与えること。愛とは基本的にそんな感じなのでしょう。
人間の場合は、もう少し高等になってきて、「相手の幸福を願う」ということが、愛と呼ばれるかもしれない。
たとえば、彼女の幸福のために、ほれている相手から身を引いたとか・・・情けない話だと思ったりもするが、たぶんこれも愛。
自己愛も立派な愛なのでしょうね。オギャーと生まれたとき他と自分を比べたりはしない。生きたいという本能が自己愛なのかもしれません。赤ちゃんは、まず母親を愛するようになります。自分を愛してくれる人を愛するのです。自分を愛してくれる人を愛する・・・赤ちゃんですから受動的です。
自己愛の「自己」をどんどん拡大してゆけば、どうなるか?
自分の所有するものも自己とみなす。この場合は自分が中心にある感じ。・・・どこまで広げていっても自己愛のままかもしれないが、それが悪いというわけでもない。
それでは、所有という概念を取り去ってしまえばよい。つまり、天動説から地動説に転換する。
自分の所属する集団も自己とみなす。この場合の自分の位置は中心でなくてもよい。家族・仲間・会社・地域・国・民族・・・人間・生きとし生けるもの・地球・・・正義・自由・思想・宗教・・・自分はどの集団に所属しているのか。それを決めるのは自分である。
愛は、結びつける力であり、成長する力であり、発展するための原動力です。それによって、良いことも悪いことも起きますが、何もないよりははるかによいのでしょう。
愛がなければこの宇宙は存在しなかった、かもしれませんね。
**コメント**
サイフォーラムへの書込みのコピーは、これで終わりにします。
2002年9月から2004年6月までの約2年の間、書き込ませていただきました。
なお、サイフォーラムへの書込みをすべてコピーしたというわけでもありません。
また、私の書込みは本からのコピーが多いのですが、掲示板への書込みでしたので紹介の意味もあると御理解いただければと思います。
「前世療法」の著者ワイス氏の「魂の伴侶(PHP出版 原書1996年出版)」にサイババに関わる件がありました。少し長文です。ご存知の方も多いと思いますが、共感するところが多かったので紹介しておきます。
----
(前略)-- わたしたちはみんな超能力者であり、みんなグルである。わたしたちはそれをただ忘れているにすぎない。
ある患者が、わたしにサイババというインドの聖者について質問した。彼はアバターと呼ばれる、肉体を持って地上に降りてきた神なのだろうか?
「わたしは知りません」とわたしは答えた。「でも、ある意味で、わたしたちはみんなそうではありませんか?」
わたしたちはみんな神なのだ。神はわたしたちの中に存在する。わたしたちは超能力に惑わされてはならない。なぜならば、超能力は、霊的な成長の道の道標に過ぎないからだ。私たちは、自分たちの神聖と愛を、良き行いによって、また人々への奉仕によって、表わす必要があるのだ。おそらく、誰も、1ヶ月か2ヶ月以上にわたって、誰かのグルになるべきではないのだろう。インドへ何回も行く必要はない。真の旅は、私たちの内にあるのだから。
自分で超常的な体験をすることは、神の存在に心を開き始めるために、あるいは、人生は目に見えるものよりも、ずっと大きく広いということを理解するために、まぎれもなく有効である。人は自分で体験しないと、それを信じないことが多いからだ。
私たちの道は、内へ向かう旅である。それはより困難で、よりつらい旅である。私たちは自分自身の学びに責任を負っている。この責任を回避し、誰か他人に、またはグルに責任を押し付けることはできない。
--(後略)
たぶん、愛 投稿者:風天 投稿日:2004年 6月 1日
「愛」という言葉は苦手なんです。もっと他に言い様がないものかと思う。
しかし、「愛」って、なんなのでしょうねぇ。
愛を示す行為。たとえば、見つめ合う。頬ずりする。抱きしめる。キスする。接触し、肌をふれあう。言葉のないときに愛を表現する手段は、そういったことなんだと思います。
今や、テレビの政府広報で?「子供を抱きしめてあげましょう」とかわざわざ言わなければいけない時代らしいです。
一緒だということ。一体だということ。相手に安心感を与えること。愛とは基本的にそんな感じなのでしょう。
人間の場合は、もう少し高等になってきて、「相手の幸福を願う」ということが、愛と呼ばれるかもしれない。
たとえば、彼女の幸福のために、ほれている相手から身を引いたとか・・・情けない話だと思ったりもするが、たぶんこれも愛。
自己愛も立派な愛なのでしょうね。オギャーと生まれたとき他と自分を比べたりはしない。生きたいという本能が自己愛なのかもしれません。赤ちゃんは、まず母親を愛するようになります。自分を愛してくれる人を愛するのです。自分を愛してくれる人を愛する・・・赤ちゃんですから受動的です。
自己愛の「自己」をどんどん拡大してゆけば、どうなるか?
自分の所有するものも自己とみなす。この場合は自分が中心にある感じ。・・・どこまで広げていっても自己愛のままかもしれないが、それが悪いというわけでもない。
それでは、所有という概念を取り去ってしまえばよい。つまり、天動説から地動説に転換する。
自分の所属する集団も自己とみなす。この場合の自分の位置は中心でなくてもよい。家族・仲間・会社・地域・国・民族・・・人間・生きとし生けるもの・地球・・・正義・自由・思想・宗教・・・自分はどの集団に所属しているのか。それを決めるのは自分である。
愛は、結びつける力であり、成長する力であり、発展するための原動力です。それによって、良いことも悪いことも起きますが、何もないよりははるかによいのでしょう。
愛がなければこの宇宙は存在しなかった、かもしれませんね。
**コメント**
サイフォーラムへの書込みのコピーは、これで終わりにします。
2002年9月から2004年6月までの約2年の間、書き込ませていただきました。
なお、サイフォーラムへの書込みをすべてコピーしたというわけでもありません。
また、私の書込みは本からのコピーが多いのですが、掲示板への書込みでしたので紹介の意味もあると御理解いただければと思います。