如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

たぶん、愛

2007-08-04 10:49:25 | サイ・フォーラムへの書込み
無題 投稿者:風天  投稿日:2004年 5月15日

「前世療法」の著者ワイス氏の「魂の伴侶(PHP出版 原書1996年出版)」にサイババに関わる件がありました。少し長文です。ご存知の方も多いと思いますが、共感するところが多かったので紹介しておきます。
----
(前略)-- わたしたちはみんな超能力者であり、みんなグルである。わたしたちはそれをただ忘れているにすぎない。
ある患者が、わたしにサイババというインドの聖者について質問した。彼はアバターと呼ばれる、肉体を持って地上に降りてきた神なのだろうか?
「わたしは知りません」とわたしは答えた。「でも、ある意味で、わたしたちはみんなそうではありませんか?」
わたしたちはみんな神なのだ。神はわたしたちの中に存在する。わたしたちは超能力に惑わされてはならない。なぜならば、超能力は、霊的な成長の道の道標に過ぎないからだ。私たちは、自分たちの神聖と愛を、良き行いによって、また人々への奉仕によって、表わす必要があるのだ。おそらく、誰も、1ヶ月か2ヶ月以上にわたって、誰かのグルになるべきではないのだろう。インドへ何回も行く必要はない。真の旅は、私たちの内にあるのだから。
 自分で超常的な体験をすることは、神の存在に心を開き始めるために、あるいは、人生は目に見えるものよりも、ずっと大きく広いということを理解するために、まぎれもなく有効である。人は自分で体験しないと、それを信じないことが多いからだ。
 私たちの道は、内へ向かう旅である。それはより困難で、よりつらい旅である。私たちは自分自身の学びに責任を負っている。この責任を回避し、誰か他人に、またはグルに責任を押し付けることはできない。
--(後略)


たぶん、愛 投稿者:風天  投稿日:2004年 6月 1日

「愛」という言葉は苦手なんです。もっと他に言い様がないものかと思う。
しかし、「愛」って、なんなのでしょうねぇ。
愛を示す行為。たとえば、見つめ合う。頬ずりする。抱きしめる。キスする。接触し、肌をふれあう。言葉のないときに愛を表現する手段は、そういったことなんだと思います。
今や、テレビの政府広報で?「子供を抱きしめてあげましょう」とかわざわざ言わなければいけない時代らしいです。
一緒だということ。一体だということ。相手に安心感を与えること。愛とは基本的にそんな感じなのでしょう。

人間の場合は、もう少し高等になってきて、「相手の幸福を願う」ということが、愛と呼ばれるかもしれない。
たとえば、彼女の幸福のために、ほれている相手から身を引いたとか・・・情けない話だと思ったりもするが、たぶんこれも愛。

自己愛も立派な愛なのでしょうね。オギャーと生まれたとき他と自分を比べたりはしない。生きたいという本能が自己愛なのかもしれません。赤ちゃんは、まず母親を愛するようになります。自分を愛してくれる人を愛するのです。自分を愛してくれる人を愛する・・・赤ちゃんですから受動的です。

自己愛の「自己」をどんどん拡大してゆけば、どうなるか?
自分の所有するものも自己とみなす。この場合は自分が中心にある感じ。・・・どこまで広げていっても自己愛のままかもしれないが、それが悪いというわけでもない。
それでは、所有という概念を取り去ってしまえばよい。つまり、天動説から地動説に転換する。
自分の所属する集団も自己とみなす。この場合の自分の位置は中心でなくてもよい。家族・仲間・会社・地域・国・民族・・・人間・生きとし生けるもの・地球・・・正義・自由・思想・宗教・・・自分はどの集団に所属しているのか。それを決めるのは自分である。

愛は、結びつける力であり、成長する力であり、発展するための原動力です。それによって、良いことも悪いことも起きますが、何もないよりははるかによいのでしょう。
愛がなければこの宇宙は存在しなかった、かもしれませんね。

**コメント**
サイフォーラムへの書込みのコピーは、これで終わりにします。
2002年9月から2004年6月までの約2年の間、書き込ませていただきました。
なお、サイフォーラムへの書込みをすべてコピーしたというわけでもありません。
また、私の書込みは本からのコピーが多いのですが、掲示板への書込みでしたので紹介の意味もあると御理解いただければと思います。

反省。深く深く反省

2007-08-03 23:34:41 | サイ・フォーラムへの書込み
他力本願無為徒食さんへ 投稿者:風天  投稿日:2003年12月23日

宝物のような貴重な時間をこんなことに費やしていていいのかと、私も思いますが。
まあ、案外こういった無駄も、人生にとって必要なのかもしれないと、自分に都合よく考えています。
少なくとも、ひとりで考えているよりも刺激があるし、書き込むことで考えもまとまるかもしれない。

>『レベルが高い、低い』、『霊格(霊性)が高い、低い』、『波長が高い、低い』という表現を聞くと生理的に虫酸が走る・・・
そう思うときが私にも確かにあります。
「高い」「低い」という表現がまずいのですが、階層構造を表現するとそのようになってしまう。階層構造でなく平面的な層構造で表現すれば良いのかもしれませんが、私としても階層構造のほうが、より自分のイメージに近いと思ってしまうのです。

スエデンボルグの霊界って知ってますか、あの霊界の階層構造のイメージが私のイメージなのです。
スエデンボルグの霊界の階層構造は「住み分け」って感じなのです。
その霊界は、闇の世界からまばゆい光の世界へと階層構造になっている。
しかし、まばゆい光の世界が誰にとっても住み易いとは限らない。
「まばゆい光の世界」はちょっと覗く分には良いかもしれないが、1時間とは耐えられない世界・・・モグラが地上を覗いたときのような感じ。

スエデンボルグの霊界は、似たもの同士が集まっている世界なのです。
そして、どの霊も結局住み易い世界に落ち着くわけです。
当人が住み易いと自覚しているかどうかは別として、結局そこでしか住めないのかもしれません。

私たちは、気温15°~28°位が快適であり、それより高くても低くても不快なのです。
それと似たようなものなのです。
まあ、霊界の方には、多少の上昇志向があるわけですが、この上昇志向のようなもの(方向性)は、この世界自体の志向性から生まれてくるものかなと思ってはいます。
ではなぜこの世界にそのような方向性があるのか・・・私にはわかりません。


やっと土曜日の夜 投稿者:風天  投稿日:2004年 1月17日

70年・80年もあっという間・・・。確かにそうかもしれません。
しかし、見方によってはずいぶん長い時間でもあります。
今から70年前は昭和のはじめ頃。
自家用車などはほとんどなく、大八車や牛に引かせた荷車で物を運んでいたし、汽車はほとんど蒸気機関車。便利なコンビなどあるはずもなく、田舎の我が家には電気すらなかったはず。
かまどで煮炊きをして、お便所は汲み取りで。子供は青っ洟にあかぎれが当たり前。
しかし、まあ、それはそれで幸せだったのでしょう。
もちろん私は生まれてません。まあ、私が生まれた頃も似たようなものですが・・・
軍国主義・太平洋戦争・敗戦・復興・工業立国・思想や価値観の激変、まさに激動です。
この大激動の時代を、今のお年寄りは生きてきたわけで、それだけでも尊敬せざるを得ません。

話は変わりますが、たとえばキツネやタヌキなら、30年も生きれば尻尾が何本もある妖怪のようになるんだとか。そんな話を聞きます。
だから人間だって、30年も生きれば、もう立派に妖怪・化け物の仲間入りなんじゃないかと思ったりします。
つまり、人間社会は妖怪・化け物の世界で、みんなで化かしあったり・だましあったりして生きているんじゃないかと・・・そう考えればガテンがゆくかもしれません。
でも、妖怪・化け物になるよりは、仙人になりたいよな。どうせなるならネ。


はてさて 投稿者:通りすがり  投稿日:2004年 1月22日(木)23時56分18秒

人生はすばらしい。
生きてることは、すばらしい。
そう思ってみましょう。
口に出して、そういってみましょう。
催眠術といわれようとかまいません。
「最高です!」と言ってみましょう。
とにもかくにも、今、ここで私は生きているんだと、そのこと自体が奇跡なんだと、そう思いましょう。
解脱なんか糞食らえ。

にっこり笑って生きるのが、人間なんです。
苦しい時・逆境の時に、にっこり笑って穏やかに物事を処理できるのが、オトナなんです。

もっとも俺にはできないけどね。
いつまでたってもオコサマなんだよね。自分のことしか見えていない。反省。深く深く反省。


無題 投稿者:風天  投稿日:2004年 5月 9日(日)23時45分51秒

ここのところの掲示板のやり取りを読んでいて、イエスの言葉を思い出しました。
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< マタイ10章のイエスの言葉 >
地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。
平和ではなく、剣を投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
-----
かなり強烈な内容です。
キリスト教に限らず、宗教には本質的にこのような部分があるのだと思います。

宗教は、まだまだ未開のジャングルのようなもので、危険がいっぱいなのは事実です。
魅力はあります。しかしそこに幸せがあるかというと、世間で言うところの幸せはあまり期待できないような気がします。
だから、おいそれと他人に勧めることはできません。

それでも、恐る恐る足を踏み入れるのは、やはり魅力があるからです。
あとはいわゆる「自己責任」だと思います。
もちろん、わたしが言っているのは、宗教全般についての一般論です。

無題

2007-08-03 23:19:58 | サイ・フォーラムへの書込み
無題 投稿者:風天  投稿日:2003年11月10日

>他力本願無為徒食さんへ
「神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り」
のもともとの出所は、たぶん臨済録の
「仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺し、羅漢に逢っては羅漢を殺し、父母に逢っては父母を殺し、親眷に逢っては親眷を殺し、初めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」

>がががさんへ
「あなた方が量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
とイエスは言っています。

ジッドゥ・クリシュナムルティ 投稿者:の言葉より  投稿日:2003年11月19日

 「生は単純にして荘厳であり、麗しく、神聖なものだ。が、諸君は夜明けや静かな夜のあらゆる美しさを、自分たちが崇拝できるように狭い円の中に閉じこめようとする。夕暮れに浜辺に降りてみると、さわやかなそよ風が吹き、草の葉という葉がそよいでいる。砂粒が舞い、木々の梢が揺れ、そして波と波がぶつかりあっている。が、諸君はそれら全ての美を狭い寺院の中に閉じこめようと願うのだ。気高く生きるには、いかなる信念も不要である。にもかかわらず、諸君は言う。「私は神々を崇拝しなければならない。儀式をとり行わなければならない,寺院に参詣しなければならない。これに従い、それをしなければならない。永劫の「ねばならない」である!そのような生き方は、少しも生とはいえないのだ。」 そして最後に、彼は団員にこう訴える。「私のまわりに寺院を建立する事だけはやめてほしい。私はそのなかに閉じこめられることはないだろう。私は諸君にとって,爽やかなそよ風のような友でありたいと思う。私は諸君を諸々の制約から自由にし、かくして諸君自身の内部の個的創造性,完全性,独自性を鼓舞したいのだ。自己というものは・・・伝統や形式、いっさいの不要物・・・によって縛られておらず、その個的独自性を完全に伸ばしきったときにのみ浄化され、真に超越されうるのだ。」

**コメント**
この投稿は私のものではありません。
の言葉よりさんの投稿です。


シュミレーション 投稿者:風天  投稿日:2003年12月10日

つまり、考えるということは、シュミレーションだということ。
朝起きたら、今日一日の予定をシュミレーションしておきましょう。
いろいろと突発的な出来事があって、なかなかシュミレーションどおりにはならないものですけれど・・・
まあ、結果よければOKということでw


無題 投稿者:風天  投稿日:2003年12月13日

もものこさんへ
「のめりこみすぎる」と、確かに危険な世界でしょうね。そのように感じたもものこさんの感覚は正解だと思います。
しかし、どもみち未熟であることに変わりはなく、未熟であるからこそ、いろいろなことに興味も持つし、新しい発見もあるものだとは思いました。

たとえば、旅をしていても、思いつきで寄り道をしたり、道に迷ったりしたときの方が後々印象に残る経験ができたりしますが。
もちろん、リスクはいつでも自分持ちです。
それに実生活は、旅とは違うわけで・・・やはり明るく広い道を行くべきだとは思います。


無題 投稿者:風天  投稿日:2003年12月22日

がががさんへ
>「わかる」と「わからない」のあいだに「まったく完全な真理」がある。
そうですね。
「神はいる」と「神はいない」のあいだに「全く完全な真理」があるとかネ

少し話は違いますが、たとえば、言葉というものはデジタル表現なので、YESとNOしかない。そのために、言葉で真理を正確に表現することはどうもできそうにないw
少しでもより正確に表現しようとすれば、YESの中にNOを入れ、そのNOの中にYESを入れるというふうに、非常にわかりづらい表現をとらなければならないが、その結果できあがった文章は、結局わけがわからないw
それを避けるために、たとえ話を使ってイメージを伝えたり、反語や逆説を使うのでしょうが、それがかえって誤解を招くこともあって・・・

ラッキョウ的世界観

2007-08-01 03:33:50 | サイ・フォーラムへの書込み
ラッキョウ的世界観 投稿者:風天  投稿日:2003年11月 3日

ラッキョウの皮をむくように、怪しげな意味の皮を、どんどんむいていったら、なにもなくなってしまった。
いったいラッキョウというものは何だったのだろう。
怪しげな意味の皮の中心に真理と呼べるものがあるか知れないと、思ったこともあったのだが。

考えてみればその怪しげな意味の皮が大切だったのですね。
怪しげな意味の皮に精気を与えるのも自分自身だし、色あせさせるのも自分自身なのです。
ポイントはバランス感覚です。
変なものに精気を与えすぎると混乱を招きますし、かといって、意味をどんどんどんどん剥ぎ取ってゆくと、さみしくなってきますからね。

真理というものは精妙で、実験室で手順通りに行えば追試できますってもんでもないようで・・・大切なのは観測者の心理状態ってことかな。



実地体験 投稿者:風天  投稿日:2003年11月 9日

個人的な神秘体験は、その人にとって非常に貴重で重要なものです。
その内容については、体験した本人が充分に検討し、その出来事の意味を考え、とても大切にしているものなのです。

だから、個人的な神秘体験を語るには、とても勇気が必要です。
なぜなら、本人にとってはかけがえのない貴重な体験も、ほかの人から見ればいろいろな「お話」のひとつに格下げされてしまいます。
さらに、その個人的体験による「気づき」・意識の変容、体験の意味こそが、本質であり大切なものなのですが、「現象としての奇跡」に気を取られている他人にはそのことがなかなかわからないのです。

現在の物理学では説明できない現象を、私も多少は体験していますし、サイババの周辺でそれが多いことも事実のようです。
それを宗教に関連付けるのか、科学の対象にするのか、心理学の対象にするのか・・・
いろいろやってみることをお勧めしますネ。

しかし、とにかく一番重要なことは、自分の体験を基礎に置くことです。
この人生は、とてつもなく貴重な実地体験の場なのですから。

本当に、ささいな感じのつまらない日常生活が、実はとてつもなく貴重な体験なんです。

**コメント**
果物の皮をむいて食べる事を覚えた猿にラッキョウを与えると、ラッキョウの皮をどんどんむいてしまい、皮の中に何もなかったことに怒り出すという話があって、それがラッキョウ的世界観の元になっています。本当に猿がそうするかどうかは知りません。
なお、この頃のハンドルネームは風天でした。

ババジ!!!!!

2007-07-31 06:40:19 | サイ・フォーラムへの書込み
反省も時には必要でしょうけど 投稿者:通りすがり  投稿日:2003年7月 6日

<名無しさんへ>
反省も時には必要でしょうけど、
もっと自分に自信を持ってもよろしいのではないかと、思います。

大切なのは、過程であって結果ではないのです。
完璧なものを、誰も求めてはおりません。
完璧なものに至ろうとする姿を愛することはありますが・・・

結局、人は、自分の見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞いてしまうのです。
もちろん見たくないものばかりが見え、聞きたくないものばかりが聞こえることもありますが、それはそこに意識が集中してしまっているからに過ぎません。

客観的な真実など語ろうとする必要はないのです。そのときそのときにあなたが感じた、あなたにとっての真実を語ればそれで十分なのです。
あとは神にお任せしましょう。


ババジ!!!!! 投稿者:通りすがり  投稿日:2003年8月17日

ババジ様と交流のあるちゃんどらさん、正直言ってうらやましいです。
ババジは、どのような存在なのでしょう?
「あるヨギの自叙伝」は魅力的ですが、現実離れしたところがあって、心象風景のように感じていました。
やはりちゃんどらさんは、クリヤヨガをやってるんでしょうか?
ババジに会うには、霊性を磨くしかないのでしょうね。
「うらやましい」なんて言ってるうちはだめでしょうね。
しかし、日本にいてもババジと交流できるというのは、とてもよい話でした。
ほんとに、とてもよい話でした。ありがとう!!


ババジは意識の集合体 投稿者:通りすがり  投稿日:2003年 8月20日

<ちゃんどらさんへ>
ババジはそのように、言ってましたか。
ちゃんどらさんのレスを呼んでいて、私はユングを思い浮かべてしまいました。
瞑想の方法とか「意識の集合体」とか、なんとなくユングを連想してしまいました。

あと気になったのは、「マインドを投入する」ということです。
これは、気をつけないと、精神を害するのではないかと思います。
「心・精神・魂」は、基本的には「今・この場所」にしっかりと保っておくべきです。
そのほうが気力も充実して、実生活ではよい結果が得られるはずです。
釈迦に説法でしょうけれど・・・


無題 投稿者:風  投稿日:2003年 9月11日

<雪さんへ>
雪さんのお話は、久しぶりにホッとするお話でした。
ありがとうございます。
「月のような光」は、私もそんな光を感じたことがあります。
月の光でも差し込んでるのかな、と思って目を開けたら、真っ暗だったとかネ。

<名無しさんの苦痛のお話について>
苦痛を感じない生き物は、気づかないうちに致命的な傷を負ってしまうのです。
それゆえ、苦痛を感じない生き物は、長い進化の歴史の中で生き残ることはできないのです。
「死」そのものは苦痛ではないと思います。
「死」に至る過程は、一般的に苦痛を伴うものですけれど。
「臨死体験」関連の本などを読むと、苦痛のことはあまり書いてありませんよね。


**コメント**
このあたりの書込みにはいろんなハンドルネームを使ってます。

カルトの見分け方

2007-07-29 14:52:22 | サイ・フォーラムへの書込み
カルトの見分け方  投稿者:だるまばらむ  投稿日:2003年2月11日

カルトの見分け方 (某ホームページよりのコピー)

必ずしもカルトが以下のすべての特徴を有しているわけではありませんが、その大部分が当てはまるなら、カルトと考えて差し支えないと思います。
1.真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
2.組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない
3.自分の頭で考えることをしないように指導する
4.世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ
5.白黒を常にはっきりさせる傾向が強い
6.外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
7.信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
8.組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
9.家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている
10.社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする
11.外部に対して正体を隠す傾向がある
12.生活が細部にわたって規定される
13.組織が信者の生活のすべてになっている
14.共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
15.組織からの離脱について極度の恐怖心を与える

ということらしいです。参考までに。

**コメント**
4年前のこの頃はオウム真理教の残像がまだはっきり残っていた事もあり、カルトに対する警戒感が今よりもあった。
この表の12~15は、出家という形態をとる宗教であればカルトでなくとも程度の差はあっても共通している内容だと思う。
なお、私ははずかしながらかなり人間嫌いの傾向があるので、カルト以前に集団活動に対して拒否反応を起こしてしまうため、カルトに接近してしまう人の気持ちはよくわかりません。

予知夢のお話

2007-07-29 01:38:32 | サイ・フォーラムへの書込み
予知夢のお話 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2003年 1月17日

私は、十数年前、かなり頻繁に予知夢を見ました。たわいない日常の出来事、たとえば翌日見て感動するテレビ番組の場面や、半年後に建つ工場の様子、そんなものを夢に見るわけです。夢の1/3くらいは予知夢なのではないかと思ったほどです。かなり頻繁にデジャビュを感じていました。
しかし、もちろんコントロールはできません。勝ち馬投票券を当てることはできないわけです。残念!!
それでも、正直なところ少し舞い上がりました。

しかし、しばらくして、とても怖い体験をして、それから夢を思い出すのはやめてしまいました。

ある日交通事故の夢を見たのです。あまり明瞭な夢ではないのですが、人を車ではねそうな、あるいははねてしまったような、そんな感じの夢でした。
夢の事と笑うわけにはゆかない状況でした。私の夢のおよそ1/3は現実になるわけですから・・・

そして、それから1ヶ月くらいして、ついにその夢は現実になりました。
濃霧の夜に人をはねそうになったのです。しかし、さいわいあとほんの少しのところで車が止まってくれました。
その時はものすごいデジャビュで、総毛立ちました。

今になって考えれば、予知夢を見ていたから、普段以上に安全運転であったので、事故にならなかったともいえるわけで・・・まったく、いちど因果関係が崩れてしまうと、もうわけが分かりませんネ。

今でも見ようと思えばある程度予知夢を見ることはできます。実際こんな文章を書いていると、今晩見てしまう可能性は高まります。
しかし、夢を見たとしても思い出さなければそれでいいわけですし、仮に思い出したとしても、ほっておけば30分もしないうちに忘れてしまいます。夢ってそんなものです。

予知夢は、現象としては興味深いです。何とか科学的に説明できないものかとも思いますし、私なりにいろいろな仮説を考えてもみました。
これから、科学が進歩して、誰かがこういった現象を科学的に?説明してくれる日が来るのかなぁ??

**コメント**
未来を予知する事例はさまざまな本にたくさん紹介されているし、その中には予知夢の話も多い。現象としてはほぼ間違いなく存在すると言ってよいと思われる。
それを糸口に時間と意識の関係をもっと考えてみる必要を感じる。
イメージとしては、過去・現在・未来が時空としてはすでにあると考えるのが一番わかりやすい。
すでにある時空の中を、現在という衝撃波のようなものが移動している。
私は、現在の状況に悲しんだり喜んだり、過去を悔やんだり、未来に不安を感じたりするけれど、もっと深いところには単に見ている自分がいることも感じる。

さて、このように考えてゆくときに不思議に思うのは、私のいる空間上の座標は、私がじっとパソコンの前に座っているにもかかわらず地球の自転によってものすごいスピードで移動しているし、地球は太陽の周りをもっとものすごいスピードで公転しているし、太陽は銀河の周囲をさらに想像を絶するスピードでまわっているだろうし、その銀河もまたさらに速いスピードでどこかに向かって移動しているかもしれない・・・つまり過去や未来は時間的にだけでなく空間的にもはるかに遠いところにあるように思われることだ。
「遠い」ということは、4次元時空上では「長い」ということで、われわれはとてつもなく長い存在だということ。しかも、4次元時空といったところで、絶対的な時間もなければ、絶対的な空間もありはしないらしい。

こんな事をあまり理詰めで考えても、結局何もわからない事を再確認するだけなのだが、それでもたまに考えてみたくなるわけです。しかしやっぱり、この世界はマーヤーなんでしょうかね。
その一方で、この宇宙そのものがまさに奇蹟であり歓喜であると・・・そう思ってみたりもする。

アートマン

2007-07-22 21:56:29 | サイ・フォーラムへの書込み
アートマン 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2003年 1月12日

アートマンの話がしばらく続いていましたので、某HPから、COPYしてきました。
少し長文ですが、わかりやすいかなと思いました。

-------------------
「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6

彼はいった。
ああ、実に良人に対する愛のために良人がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために良人はいとしいのだ。
ああ、実に妻に対する愛のために妻がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために妻はいとしいのだ。
(中略)
ああ、実に生き物に対する愛のために生き物がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために生き物はいとしいのだ。
ああ、実に万物に対する愛のために万物がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために万物はいとしいのだ。
実に、アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。
マイトレーイーよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。

いわば二元対立というものがあるならば、
その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。

しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。

この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。

これで、マイトレーイーよ。お前は教えを受けた。
ああ、実に不死の本質とはこれだけのことだ、と語り終えると、
ヤージュニャヴァルキヤは、遍歴行者の生活に入った。

すべてのこだわりから無縁のお方

2007-07-22 21:42:26 | サイ・フォーラムへの書込み
すべてのこだわりから無縁のお方(Thought K322-1)   投稿者:ババ  投稿日:2002年12月31日

ある詩人がこう詠っている。

 クリシュナよ、ゴーパーラよ。
 わたしはあなたにやさしくしてもらうつもりはない。
 あなたが慈悲を請うわたしの声に動かされるとも思っていない。
 あなたが実の母親の兄上、カンサ王をその手で殺めたことを、
 わたしが知らないとでもお思いか?
 あなたはその胸にやさしくあなたを抱いて授乳した乳母プータナーの命も奪った。
 眉一つ動かすことなく、最愛の信者プラフラーダの父親を、
 目の前で苦しめたすえに打ち倒した。
 バリ王に施しをうけるふりをして近づいたあなたは、
 バリ王が喜んであなたの御足の前に頭を垂れるやいなや、
 その頭を踏みつけて地底の国に押し込めてしまった。
 そのような厳しいこころをもつあなたが、
 わたしごときの不幸に情けをかけるはずがない。
 まことに、まことに、主はすべてのこだわりから無縁のお方。
 愛するものも憎むべきものも神には存在しない。


「すべてのこだわりから無縁のお方」について思うこと 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年12月31日

厳しい御言葉です。
この御言葉のミソは、ある詩人に詠わせたって事かもしれませんね。
自分で言えば角が立つ。こういったところにスワミの人間らしさをかいま見たりする。

>愛するものも憎むべきものも神には存在しない。
でこの御言葉は終わっていますが、バガヴァッド・ギーターでは次のようになっています。

『私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし、親愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。』(バガヴァッド・ギーター9章29)

**コメント**
正直なところ、このある詩人の詩をなぜババの御言葉として掲示したのか、いまいち理解できない。
それなのにわかったような顔をして余分な事を書いて、それでBBS上ではどなたかに迷惑をお掛けしたようです。

自覚

2007-07-21 22:27:09 | サイ・フォーラムへの書込み
自覚 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年12月10日

スワミは普通の人です。
ナザレのイエスも、ゴータマさんも、空海さんも、ダビンチも、ベートーベンも、マツモトチズオもみんな普通の人です。
そんなの当たり前です。同じ人類なのですから。
ところが、スワミはなぜか「自身が神の化身であること」を明確に自覚している。たぶんそこのところが他の人と非常に違うのではないでしょうか。(イエスはその点スワミと似ているかもしれません)

人は、祈る動物です。理由は知りませんがそういう動物らしいのです。たぶん無神論者でも我知らず祈っている時があるのではないでしょうか。
そして、かつて私の祈りに答えてやって来てくれたのは、スワミでした。もしスワミにその「神の化身としての明確な自覚」がなければ、やっては来なかったでしょう。

というわけで、
すでに高齢のスワミが、たとえば将来老いのためにあの鋭いまなざしを失い、ビヴティーを指の間からポトポト落としながらダルシャンの会場をヨボヨボと歩いたとしても、私はその足下にひれ伏したいと思います。


ファン 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年12月13日

大庭さんの「個人崇拝」を読ませていただいて、私がはじめてホワイトフィールドでダルシャンを受けたときのことを思い出しました。
周囲の人がババに酔いしれるように手を合わせるのを見ながら、場違いな感じがして「人の上に人をつくらず」とか思い浮かんだりして、少し斜めの視線でババを見ていました。この時の写真がなぜかあります。スワミと私がいっしょに写った写真は残念ながらその時の2枚しか持っていません。
しかし、郷に入っては郷に従えと、手を合わせたりしてババに集中してみると、これがなかなか気分の良いものなのですね。これって一種のマインドコントロール?
ダルシャンの前にたっふり待たせるのも、かなりマインドコントロールになるでしょう。
まあ、そういったことを考えながらでも、結局早起きして、あるいは炎天下に並んででも出てしまうだけの魅力がダルシャンにはありました。

まあ、信者の末席にも並べないような私は、スワミの「ファン」なのだと思います。その証拠に、ダルシャンの時スワミに手を拭いてもらったハンカチを数枚大切に持ってます。これってエルビスが汗を拭いたタオルを大切にしているオバサンと同じことです。まったくそのとおりなのです!!!

ファンを個人崇拝者というなら、たぶんその通りなのでしょうけれど、大庭さんの言うほど危険なことではないのでは、と思いました。(投影という問題はあるわけですが・・・これはいずれまたの機会に)

信仰のチェックの件ですが、逆に、なぜ大庭さんがサイババを信仰するようになったのか、この点がはっきりすれば、大庭さんにとってのチェックポイントが見えてくるのではないかと、思ったりします。
信仰というのは、個人的なもの、主観的なもの、責任はすべて個人個人で取ってゆくべきものなのだと思います。
信仰して地獄に堕ちるならそれも結構・・・ってくらいの覚悟があってもいいのかもしれません。(言いすぎだとは思いますが、勢いなもので、ご容赦下さい)

そういえば、大庭さんが昔の名前の頃に、スワミが寂滅されたときに信者の方が後を追うのではないかと心配されていましたが、確かにそんなことがあってはいけないわけです。

本当のところ、人間の意識というものは、過去現在未来にわたって影響し合っているものなので、ある時点で肉体が終わったからといって、だからスワミがいなくなってしまったということではないのです。
時間に関する人間の意識というものは、(たぶん)生きるという目的のために、ずいぶん狭められていますから、そのような誤解をされるのでしょう。
実際、たとえば、今の時点でさえも、もし私が本当に望むなら((ここのところが一番難しいのですが!))ナザレのイエスと直に心を通わすことができるはずなのです。
まあ、そんなわけですから、現在のスワミと心が通じ合っている方は、全く問題ないわけです。もちろん信者の方(元信者も含む!)は少なくとも間違いなくスワミと心が通じていますから大丈夫です。
 サイラム

**コメント** 
大庭さんは、このフォーラムの管理者です。ハンドルネームを大庭に変え、この時期サイババ批判を集中して行っています。
「この時の写真」は、このプログの2006年3月19日に載せてあります。


○×△◇ さまへ 投稿者:ヴァシタ  投稿日:2002年12月17日

君が、サイババの信者かどうか知らないのですが、
もし君が信者だとすると、信者を見てその宗教の主宰者(教祖)の人格を判断するということもあるので・・・

君みたいな超肯定派が、何かちょっとしたきっかけで超否定派に変わる事って、よくあるのです。
自分の中にある否定的な考えを打ち消すために、肯定を叫び続けるのだが・・・
これパウロの回心の逆パターン。

**コメント** 
私もハンドルネームを変えて、書込みしてます。

完全ということ

2007-07-20 21:18:39 | サイ・フォーラムへの書込み
完全ということ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年11月30日

>サイババは、現れます、ただし自分がすべてを創り出したにもかかわらず、カルマによる苦しみなどは、取り除きません、この答えを出してくれる人

答えになっているかどうかわかりませんが、カルキの問答にこんなのがあります。
Q.もし神が完全であり、世界が不完全だとすると、創造主もその責任を取るべきではないでしょうか? どうなんですか?
A.世界は完全です。ただ、人間の理解がまちがっているだけです。

かなり危険な解答です。怒り出す人も大勢いるでしょう。
仮にこの世界が「完全」だとすると、「完全」な神の、その「完全」というのはどういうことなのか?このあたりがポイントなのかもしれません。

この件についてババが、なんと言っているか知りたいですね。


完全ということ(つづき) 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年12月 1日

ババの御言葉にこんなのがありました。
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人間が天地万物を神と見るならば、喜びや悲しみという二重の経験を与える力は消え去ります。その時、人は真理を知り、泰平の心を知るのです。神はひとつ、ただひとつです。「ただひとつ。ふたつ目はない。それがブラフマンである」 それは世界に内在するすべてを超越した原理です。人間は神を知るために全力を尽くさなければなりません。神こそ真理なのです。
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さて、神=完全として、この文章の「神」を「完全」に置き換えると、
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人間が天地万物を「完全」と見るならば、喜びや悲しみという二重の経験を与える力は消え去ります。その時、人は真理を知り、泰平の心を知るのです。「完全」はひとつ、ただひとつです。「ただひとつ。ふたつ目はない。それが「完全」である」 それは世界に内在するすべてを超越した原理です。人間は「完全」を知るために全力を尽くさなければなりません。「完全」こそ真理なのです。
--------
まあ、言葉の遊びといえばそれまでですが、何か見えてくるものがあるかなあと思いまして・・・

帰依しているという気持ち

2007-07-20 21:03:02 | サイ・フォーラムへの書込み
帰依しているという気持ちを捨てる 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年11月20日

10月10日のダラサ祭の講話(2回目)はすばらしいものですが、その中に以下の文章があります。
ナインさんのお話に出てくる本の内容はこんな感じでしょうか。
ちなみに、以下の文章の「神」・「神さま」を「ババ」に置き換えて読んでみることをおすすめします。
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 肉体の目に頼ってはいけません。神の目を養いなさい。心を神の光に向けなさい。その光はすべての人の中にあります。同じことがシャンカラの有名な歌『バジャ・ゴーヴィンダム』でも説かれています。神を思い、神の栄光を歌いなさい。ほんとうは、神はみなさんとかけ離れたものではありません。みなさん自身が神です。みなさんとわたしは、ひとつです。神さまは自分とは違ったものであり、自分は神さまに帰依しているという気持ちを捨てなさい。



帰依しているという気持ちを捨てないゾ! 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年11月23日

前出したダラサ祭の講話(2回目)の「自分は神さまに帰依しているという気持ちを捨てなさい」が、どうも気になってしかたがないのです。
それで考えました。

「帰依しているという気持ちを捨てなさい」というのは、「それぞれの立場でババのように考え、ババのように行動しなさい。」ということなのでしょう。
しかし、これではまだ不十分です。
さらに、「ババのように」と意識しなくとも自然にそうならなければ,「帰依しているという気持ち」は捨てられないのです。

そうこういろいろ考えると結局、この言葉は究極の言葉であって、私のような市井の徒には歯が立たないということがわかりました。

結論として、私はこれからもとうぶんバクティーとサンニヤーサでいくことになりました。
ただし、努力目標として「スワミだったらどう考えるか」を掲げておくことにします

神の化身 

2007-07-16 18:17:52 | サイ・フォーラムへの書込み
 神の信者さんへ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月26日

サイババのことをいつも考えていらっしゃるあなたのことをスワミが知らないはずはありません。
スワミについて全く知らない者のところにさえ、必要とあらば現れるのですから。

---御言葉です---
肉体をまとって生まれて来たものはすべてアヴァター(神の化身)です。つまり神の降臨であり神の顕現であるのです。ではラーマ、クリシュナ、ブッダ、キリストの抜きん出ていた点は・・・(中略)・・・こうです。彼らは真理であるアートマンを悟ったのであり、あなた方はそれを悟っていないということなのです。悟りは恩寵、栄光、威厳、力、光輝を授けてくれます。悟りは執着からの解放、時間、空間、因果の法則、眠りと夢と現実から解脱させてくれるのです。アヴァターたちはつねに目を光らせ、物事を覚知し、光輝に満ちているのです。
------  
あなた自身が「自分自身も神の化身である」と多少でも感じられる時、スワミが自分よりもっともっとはるかにすごい「神の化身」なのだと実感できるのではないでしょうか。


(無題) 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年11月15日

>現に、悪魔はあります。
匿名希望さんのこの言葉、とてもいいです。
私だったらつい、「悪魔はいます」と書いてしまうでしょう。でも、仮に悪魔が存在するとしても「います」ではなく、「あります」なんですね。
「神」も「あります」なのだと思いました。

>地球人は殆ど広義には、闇の住人に見える
闇の使者さんのこの言葉も、意味が深そうです。チンパンジーに毛の生えた程度の?意識しか持たない人類は、まだ文化を始めたばかりなのです。
意識には、闇の部分が多いのでしょう。あるいはほとんどが闇だったりして・・・(特に私の場合は)
でも、闇の中にあるもののすべてが悪いものであるということではないはずです。

ところで、「ほんの通りすがり」さんと、「闇の使者」さんは、目が読みたいと感じたり、書籍にビビッと感じたりするそうですが、具体的な書名があげられたらぜひお願いします。


匿名希望さんへ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/11月17日

匿名希望さんありがとうございます。

悪魔については、わからないことだらけです。
この日本の無神論的な雰囲気の中を、悪魔がこれ幸いと大手を振って歩いているのではないかと考えたこともあります(これは、もちろん擬人化した表現ですけど)。
また、悪魔は神の属性のひとつではないかと考えたこともあります。
でも今はあまり悪魔のことを考えたくはありません。(これもサタンの仕業だったりして)


闇の使者さんへ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年11月19日

お礼が遅くなりましたが、「サイババから感じるエネルギーについて」ありがとうございました。

「独特の感じや匂い」という言葉に共感します。
私は1年の3分の1くらいの期間、どちらかの鼻がつまっているような人間なのですが、霊的なものに対しては嗅覚で感じるような気がします。めったにありませんけどね。
また、生命エネルギーのようなものは視覚で、つまり光で感じるようです。これも経験が少ないので明確ではありませんが。

なお、私の名前「だるまばらむ」は、ご存じの方も多いと思いますが、鉄道の駅の名前です。
「Dharmavaram Jn.」です。どんな意味かは知らないで使わせてもらっています。

サンニヤーサ・遍在

2007-07-16 11:01:49 | サイ・フォーラムへの書込み
遍在 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月20日

サイババが遍在であることの一例を私の経験からお話ししておきます。
サイババの周辺ではよくある話でしょうが、たまにはこんな話題もよいかと思います。

30年以上前に私は日本でスワミを見ています。
見ていると言っても、実体としてではなく神のビジョンとしてですが。
ビジョンに現れたスワミの姿が、その頃私のいだいていた神の姿のイメージとあまりにかけ離れており、しかもなぜかスキップを踏んでいるように見えたため、強く記憶に残りました。
もちろん、スワミが現れたのは、その時の私が危機的状況にあって必死に神(ありとあらゆる神様仏様)に祈ったからでした。
神であるスワミは、取るに足らない私の祈りを聞きつけて姿を現して下さったわけです!!!
この出来事が起こったのは、私がテレビでスワミを知るよりも15年も前のことでした。

日本でも、ほんとに多くの人が、いろいろな奇蹟を体験しているのです。
それも、インドではなく、この日本で起きているのです。
スワミは遍在します。
      AUM SRI SAI RAM


サンニヤーサ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月16日

・・・・
この御言葉に相当するバガヴァッド・ギータの文章は次の通りです。

( バガヴァッド・ギーター第9章27~29 )
    
クリシュナは告げた。
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。
  
かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。
放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。
  
私は、万物にたいして平等である。私には憎むものも好きなものもない。
しかし、親愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。」

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なお、「放擲(ほうてき)のヨーガ」という言葉はむずかしいですが、解説によれば、この場面での意味は「ありとあらゆる行為を絶対者(最高神=クリシュナ)へのささげものとして行うこと」だそうです。
もちろん、クリシュナはサイババであり、アルジュナはあなたであるわけです。

サイ・フォーラムへの書込み

2007-07-16 10:52:59 | サイ・フォーラムへの書込み
久しぶりに、サイ・フォーラムのBBSを読み返してみた。
私がこのBBSに書き込んでいたのは2002年9月から2004年6月。
この期間の途中で、BBSの管理者がサイババ批判を始めたことにより、BBSは騒然となり、しばらくして終息した。
管理者の御好意でいまだにインターネットで見られるので、今のうちに自分の書き込んだ意見くらいはコピーしておいてもよかろうと思った。
それを、このプログに少しずつ載せてゆこうかと思う。
このブログでのカテゴリー名は「サイ・フォーラムへの書込み」とした。
BBSへの書込みなので、前後の関係がわからないと、意味がよく取れないところもあるが、あまり手直しをしないでコピーしたいと思う。
必要と感じれば、多少のコメントを付けるかもしれない。

無題 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年 9月23日

最初に、幸運にもこのホームページにたどり着けたことを、スワミに感謝いたします。
スワミは、必要な時に、必要なものを与えて下さっているようにいつも感じます。
もちろん、与えて下さるものが時には試練であったりするのですが、それも、この世界の存在理由が霊性の向上であることを考えれば、当然のことなのでしょう。
しかし、では「霊性の向上とはいかなる事であるのか」ということになると、あまり明確ではないのです。
さいわい、このサイ・フォーラムはスワミの言葉で埋め尽くされていますから、これからよく読ませていただきます。特に今日の御言葉が毎日読めるのはすばらしいことです。
      AUM SRI SAI RAM


バクティ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月12日

「神への愛」は、投稿日10月11日のThought K354-1では 、「DEVOTION」あるいは「Bakthi」でした。
「DEVOTION」は英語ですから、スワミの本来持っているイメージは「Bakthi=バクティ」なのでしょう。
「バクティ」は「信愛」、もっと詳しくは「神への献身的な信仰と愛」と訳されるそうです。
スワミはクリシュナの話をよくされますから、この「バクティ」は「バガヴァッド・ギーター」で説明されている「バクティ」の意味と考えるのが妥当と思われます。
「バクティ」について詳しく知りたい方は岩波文庫の「バガヴァッド・ギーター」を読むのがよいのでしょうが、私のような門外漢には、NHK出版の「バガヴァッド・ギーターの世界」がわかりやすくて目から鱗でした。

**コメント** 
この頃は、「バガヴァタ・バヒニ」とか、上村勝彦氏の「バガヴァッド・ギーターの世界」を読んでいたようです。