ビブーティー
インドに入ってから5日目、バンガロールに着いてから4日目である。
ゲート前の店で背もたれと座布団を買う。これで今日は足や腰の痛みを気にする事なく、サイババに集中する事ができるはずである。
アシュラムの敷地内はいつもきれいに掃除されていてゴミひとつ落ちていない。これはボランティアの人達が掃除しているらしく、会場に集まってくる人々を整理する仕事をしているのもボランティアの人達らしい。
サイババの周囲にも取り巻きの人はいるのだろうが、出家をした僧侶のような人はいないのではないかと思う。そういう職業的な宗教の匂いは感じられない。
サイババを待つ間、前庭の列に並んで座わり本を読んでいると、とてもよい気持ちになってくる。ダルシャンの行われる会場に入ってからもやはり本を読んだり、瞑想?をしたり、待つ時間を楽しむようになってくる。それによって、サイババに会うための準備ができてくるようである。
ダルシャンの会場に最後に入ってくるのは、いつも学生達である。高校生か大学生かわからないが、服装は白で統一されている。その学生達が200人くらい小走りに入ってきて舞台の正面に用意された場所に座る。学生が入り終わるのを待ちかねたように、会場にインド音楽が流れ、ダルシャンが始まる。サイババはふたりをしたがえてゆっくりと歩いて来た。
ホワイトフィールドの会場は、三方が壁のない吹き抜けで、屋根は光が透けるプラスチックの材質のものである。屋根の高さも充分にあって、木陰にいるような開放感がある。その会場の外から、サイババはいつものように会場の外にいる人に手を振って答えたり言葉をかけたりしながらゆっくりと入ってくる。
集まった数千人の視線が全てサイババに向けられる。拍手も歓声もない。会場は静かである。熱狂した感じは全くない。ただみんなの目と心がサイババに注がれている。サイババの移動に合わせてみんなが自然と向きを変える。少しでも長い間、少しでも近くでサイババを感じていたいと、誰もが思っているのだ。
ゆっくり歩いているはずのサイババは、しかしあっというまに会場をくまなく歩き、手紙を受け取ったりビブーティーを出したりする。
ある人は「サイババのいる周囲の空間だけ異次元のような感じがする。」と言い、ある人は「サイババのオーラで会場が満たされている。」と言う。確かにそうかもしれない。二日前に初めてここに来た時は感じなかった何かに、いつのまにか包まれてしまったような気がした。
人によっては「そこに集まっている数千人の人々の欲望で背筋がゾッとするようだ。」と言うが、そんな風な感じはなかった。サイババの信者は「誰でもサイババに呼ばれた者でなけサイババの元に来る事はできない。」と言うが、まあ、広い意味ではそうなのかもしれない。イスカリオテのユダはイエスに呼ばれたのである。
バジャンという神をたたえる歌を歌い終わりサイババが会場を出ていくと、それをもってダルシャンは即終了する。このようなダルシャンが毎日毎日だぶん365日朝夕に行われているはずである。これはすごい事だと思う。もし仮に、彼が神の化身を演じているとすれば、この毎日毎日の興行はとてもやりきれないものなのではないかと思う。
サイババは1926年11月に生まれたというから70才になるわけだが、その年齢に比べればずいぶん若く見える。肌のつやもいいし、精悍な感じさえ受ける。老人には見えないし、魅力的である。
インドには有名な神様がたくさんいる。男神ではシバ、ヴィシュヌ、クリシュナなどが有名だ。女性の神様もたくさんいる。しかしサイババがそういった神の生まれ変わりかというとそうでもない。「そうでもない。」というのは、「一面においてはそうでもある。」ということである。神をどう説明しても一面的な説明にしかならないのである。「すべての宗教の神はひとつである。」とサイババは言う。
ただ、彼はインド人であり、ヒンドゥー教の世界の人である。それでアシュラムにはクリシュナやガネーシャやサラスヴァティーの像が置かれている。その中でもクリシュナは別格らしく、マンディールの祭壇に置かれていたのはクリシュナであった。
アシュラムの近所に、サイババや仏陀の写真の表面にビブーティーなどの粉が吹き出す民家があるというので、高山さんに連れていってもらった。行って見るとごく普通の家なのだが、確かにサイババの写真に白い粉が厚く付着してる。サイババの写真の隣のシルディーのサイババの肖像画には赤い粉がやはり厚く付着している。また、部屋の奥の方には仏陀の絵があって、それには白い粉が付いていた。この場所以外でも同じような現象が起きているという話を聞いている。付着した粉を削り落としても、また数日で元の通りになってしまうという。真偽のほどはわからないが、不思議なものを見せてもらったという感じはした。
私がブッディストだと言うと、その家の主人は仏陀の絵に付いた粉をかき落として紙袋に入れてくれた。粉の下から現われたのは、まるで女性のように美しい色白のヒンドゥーの神様である。「これが仏陀ですか。」と私は主人に聞き返してしまった。しかし、それからついまた手を合わせてしまった。
インドに入ってから5日目、バンガロールに着いてから4日目である。
ゲート前の店で背もたれと座布団を買う。これで今日は足や腰の痛みを気にする事なく、サイババに集中する事ができるはずである。
アシュラムの敷地内はいつもきれいに掃除されていてゴミひとつ落ちていない。これはボランティアの人達が掃除しているらしく、会場に集まってくる人々を整理する仕事をしているのもボランティアの人達らしい。
サイババの周囲にも取り巻きの人はいるのだろうが、出家をした僧侶のような人はいないのではないかと思う。そういう職業的な宗教の匂いは感じられない。
サイババを待つ間、前庭の列に並んで座わり本を読んでいると、とてもよい気持ちになってくる。ダルシャンの行われる会場に入ってからもやはり本を読んだり、瞑想?をしたり、待つ時間を楽しむようになってくる。それによって、サイババに会うための準備ができてくるようである。
ダルシャンの会場に最後に入ってくるのは、いつも学生達である。高校生か大学生かわからないが、服装は白で統一されている。その学生達が200人くらい小走りに入ってきて舞台の正面に用意された場所に座る。学生が入り終わるのを待ちかねたように、会場にインド音楽が流れ、ダルシャンが始まる。サイババはふたりをしたがえてゆっくりと歩いて来た。
ホワイトフィールドの会場は、三方が壁のない吹き抜けで、屋根は光が透けるプラスチックの材質のものである。屋根の高さも充分にあって、木陰にいるような開放感がある。その会場の外から、サイババはいつものように会場の外にいる人に手を振って答えたり言葉をかけたりしながらゆっくりと入ってくる。
集まった数千人の視線が全てサイババに向けられる。拍手も歓声もない。会場は静かである。熱狂した感じは全くない。ただみんなの目と心がサイババに注がれている。サイババの移動に合わせてみんなが自然と向きを変える。少しでも長い間、少しでも近くでサイババを感じていたいと、誰もが思っているのだ。
ゆっくり歩いているはずのサイババは、しかしあっというまに会場をくまなく歩き、手紙を受け取ったりビブーティーを出したりする。
ある人は「サイババのいる周囲の空間だけ異次元のような感じがする。」と言い、ある人は「サイババのオーラで会場が満たされている。」と言う。確かにそうかもしれない。二日前に初めてここに来た時は感じなかった何かに、いつのまにか包まれてしまったような気がした。
人によっては「そこに集まっている数千人の人々の欲望で背筋がゾッとするようだ。」と言うが、そんな風な感じはなかった。サイババの信者は「誰でもサイババに呼ばれた者でなけサイババの元に来る事はできない。」と言うが、まあ、広い意味ではそうなのかもしれない。イスカリオテのユダはイエスに呼ばれたのである。
バジャンという神をたたえる歌を歌い終わりサイババが会場を出ていくと、それをもってダルシャンは即終了する。このようなダルシャンが毎日毎日だぶん365日朝夕に行われているはずである。これはすごい事だと思う。もし仮に、彼が神の化身を演じているとすれば、この毎日毎日の興行はとてもやりきれないものなのではないかと思う。
サイババは1926年11月に生まれたというから70才になるわけだが、その年齢に比べればずいぶん若く見える。肌のつやもいいし、精悍な感じさえ受ける。老人には見えないし、魅力的である。
インドには有名な神様がたくさんいる。男神ではシバ、ヴィシュヌ、クリシュナなどが有名だ。女性の神様もたくさんいる。しかしサイババがそういった神の生まれ変わりかというとそうでもない。「そうでもない。」というのは、「一面においてはそうでもある。」ということである。神をどう説明しても一面的な説明にしかならないのである。「すべての宗教の神はひとつである。」とサイババは言う。
ただ、彼はインド人であり、ヒンドゥー教の世界の人である。それでアシュラムにはクリシュナやガネーシャやサラスヴァティーの像が置かれている。その中でもクリシュナは別格らしく、マンディールの祭壇に置かれていたのはクリシュナであった。
アシュラムの近所に、サイババや仏陀の写真の表面にビブーティーなどの粉が吹き出す民家があるというので、高山さんに連れていってもらった。行って見るとごく普通の家なのだが、確かにサイババの写真に白い粉が厚く付着してる。サイババの写真の隣のシルディーのサイババの肖像画には赤い粉がやはり厚く付着している。また、部屋の奥の方には仏陀の絵があって、それには白い粉が付いていた。この場所以外でも同じような現象が起きているという話を聞いている。付着した粉を削り落としても、また数日で元の通りになってしまうという。真偽のほどはわからないが、不思議なものを見せてもらったという感じはした。
私がブッディストだと言うと、その家の主人は仏陀の絵に付いた粉をかき落として紙袋に入れてくれた。粉の下から現われたのは、まるで女性のように美しい色白のヒンドゥーの神様である。「これが仏陀ですか。」と私は主人に聞き返してしまった。しかし、それからついまた手を合わせてしまった。