暑さには強いなどと強がりを言っていたが、日曜日になったらどっと疲れが出た。
気持ちが緩むんですね。
天気がはっきりせず、朝から雨が降ったりしていることも、影響している。
こういうときは、身体をいたわってゴロゴロする。
私に付き合って猫もゴロゴロしている。
さて、前回般若心経のひろさちや氏訳をコピーしたので、今日は、般若心経のサンスクリット文の和訳をコピーしておきます。
訳者は明記されていませんが、中村元氏ほかの本に掲載されていたものです。
同じ訳文は、googleを検索しても出てきます。
この訳文は、サンスクリットの原文を忠実に翻訳したものです。
般若心経は、出家教団による小乗仏教の勢力がまだまだ強い時代に、大乗仏教の「空」の理論を説いたものなので、その時代背景を理解していないとわかりづらいのかもしれません。
仏教でいう「空」については、ネット上にかなり詳しい解説を探すことが出来ます。
私としては、「マーヤー」からのつながりで般若心経の「空」を取り上げてみたかったのですが・・・
「マーヤー」と「空」。少し似ているかと漠然と感じていたのですが、そうでもないようです。
般若心経では「空」という概念をもっと肯定的にとらえているようです。
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《 般若心経(サンスクリット文) 和訳 》
全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリプトラよ、
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ、
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、識別もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平和に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)
ここに、智慧の完成の心を終る。
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気持ちが緩むんですね。
天気がはっきりせず、朝から雨が降ったりしていることも、影響している。
こういうときは、身体をいたわってゴロゴロする。
私に付き合って猫もゴロゴロしている。
さて、前回般若心経のひろさちや氏訳をコピーしたので、今日は、般若心経のサンスクリット文の和訳をコピーしておきます。
訳者は明記されていませんが、中村元氏ほかの本に掲載されていたものです。
同じ訳文は、googleを検索しても出てきます。
この訳文は、サンスクリットの原文を忠実に翻訳したものです。
般若心経は、出家教団による小乗仏教の勢力がまだまだ強い時代に、大乗仏教の「空」の理論を説いたものなので、その時代背景を理解していないとわかりづらいのかもしれません。
仏教でいう「空」については、ネット上にかなり詳しい解説を探すことが出来ます。
私としては、「マーヤー」からのつながりで般若心経の「空」を取り上げてみたかったのですが・・・
「マーヤー」と「空」。少し似ているかと漠然と感じていたのですが、そうでもないようです。
般若心経では「空」という概念をもっと肯定的にとらえているようです。
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《 般若心経(サンスクリット文) 和訳 》
全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリプトラよ、
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ、
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、識別もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平和に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)
ここに、智慧の完成の心を終る。
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空とマーヤーは全然違いますね。。。
真言は、直訳の方が正しいと思います。
なんか、私の中ではシルディババとラマナマハリシの最期の言葉「サントーシャム」(私は嬉しい)がオーバーラップしています。。。