如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

今日の夢

2006-05-27 18:09:47 | Weblog
疲れは溜まっているし天気も悪いので、昼寝を決め込む。
猫もずっととなりで寝ている。
猫は一日15時間以上眠るらしい。うちのは、もっと寝ているかもしれない。

夢を見た。
昼休み、家に帰ってみると、家の庭の東と西のそれぞれの木に大きな蛇が2匹ずつ出てきている。人も飲み込めるくらいの大きな蛇だ。
最近蛇は少なくなってきているのに、めずらしい。たぶん交尾の季節なのだと思う。郵便配達の人も通りかかって少し怖がりながら珍しそうに見てゆく。
場面が変わって、高速道路のような工事現場に来ている。歩いているうちに道に迷って川の反対側に来てしまったらしい。時計を見るともうすぐ昼休みが終わる時刻なので、少し遅れると会社に電話する。川の向こう側に戻りたいのだが、どう行ったらよいものかと思案する。

ふと、夢を思い出したので、書き留めてみた。蛇の夢は縁起が良いって言うから・・・それも大きくてツヤの美しいのが4匹・・・

今、野良猫が、ゴミ箱を漁りに来ている。うちの猫はあまり気にしていない。来ているのはオス猫なので、テリトリーが重なっても問題ないのかもしれない。
ただオス猫は、あちこちに匂い付けのオシッコをしてゆくので困る。私は慣れてしまったが、たまに来た人は臭いと思うだろうね。ファブリーズしときますか。

宗教者の望み

2006-05-26 20:53:20 | Weblog
昨日、「福音書を読むことにより、イエスの人格そのものに触れる」というような表現をしたが、これは私の言葉ではない。
出所は、イエスの方舟を主催していた千石イエスの言葉である。言葉は多少違ったかもしれないが。
イエスの方舟は、千石イエスと呼ばれる人物が主催する聖書研究会が母体となって、共同生活を始めた「事件」である。
実際には事件というほどのことはなかったと記憶しているが、マスコミが大きく取り上げて話題になった。
この件についての詳しい本も出版されたし、ビートたけし主演でドラマにもなった。
ちなみに、このドラマでビートたけしは俳優としての評価を上げたと思う。

イエスの方舟と××真理教との間にある大きなギャップはいったいどうして生まれてしまったのだろうと、再び思ったりする。
いまだに、松本某という人物に組織を維持運営管理発展させる力がそれほどあったとはどうも思えない。しかし、現実にとてつもない事件を起こしている。
いったい誰が本当に采配を振るっていたのか、単に「集団の狂気の成せるわざ」だけなのだろうか。
あの事件で悲しいと感ずるのは、あの宗教団体に参加した優秀な技術者達が、宗教者として生きる道を選んだはずなのに、それでもまだ優秀な技術者であり続けようとしたバカバカしさだ。
優秀な技術者である事が教団のヒエラルヒーで上に上る手段であるとしても、だいたい宗教者にとってヒエラルヒーの上下なんて意味ないじゃん。
毀誉褒貶を離れて、神と一対一で向き合う事だけが、宗教者の望みだと思うのだけれど。
まあ、いいや。俺も俗物だし。彼らの気持ちもわからないわけじゃない。
ただ、倫理観の欠如は全く理解できない。たぶんそういう集団に入ってしまうと、そうなってしまうのだろうけど。
集団の価値観が優先するために、他の選択肢が見えなってしまうという事。

そういえば、こんな話がどこかに載っていた。
自分の属する集団でその行為が評価されるなら、人を傷つける事さえも人間は平気でやる事が出来る、という実験の話。
電気ショックを与えてそれによる人間の生理的な反応を調べる純粋に学術的な研究という触れ込みで、電圧を上げる装置を被験者に操作させたところ、電気ショックで苦痛を訴えている人を目の前にしながら、それでも多くの人が電圧を上げる操作を自らの意志で続けたそうだ。
目の前の人間の苦痛よりも、学問的な実験という大義のほうが優先してしまうらしい。
自分もそうしてしまいそうな気がするから、怖い。

今日の写真は、みかんの花です。とてもよい香りがします。
このみかんも昨日のピラカンサと同様、ほとんど野鳥の冬場の餌になります。
人間も少しは食べますが、関東北部ではあまりおいしいみかんは出来ません。

宗教に接近する理由

2006-05-25 23:36:10 | Weblog
私の若い頃には、まだ本屋さんに大衆向けの宗教書というのは、そうたくさんは置いてなかったように思う。
数が増えてきたのは、大川隆法の三部作が出た頃からかもしれない。
大川隆法の三部作は、かなり面白かったと記憶している。とにかくあの当時はとても新鮮に感じた。
といって幸福の科学に入ろうとは思わなかったが。
そういえば、幸福の科学の会員だった会社の先輩に、大川隆法はどんな人かと尋ねたら、「ちょうどお前みたいな感じの人」だと言っていた。

それ以前、宗教関係で何を読んでいたかといえば、キリスト教の新約聖書くらいしかなかったと思う。
それも、どこかの伝道団体が配っていた、赤いビニールの表紙で英文と和訳が見開きの左右に印刷されているような本である。
その本には、知りたい内容毎に、こういった事柄を知りたければここを読みなさいというような索引が付いていたように思う。

以前書いたように、私はいちおう無宗教を装っていたが、つねに悩みや不安を抱えていたわけで、それを解決できる手段が聖書にあるのではないかと思ったりしていたようである。
宗教に接近する理由を考えると、やはり一般的には、悩みや不安を解決したいという事がきっかけなんだと思う。
私にしても、今は「真理をめざして」などと言っているが、最初は少なくともそうだったし、今でも本音はそんなところかもしれない。
しかし、もちろん聖書を読んだところで、不安や悩みを解決してくれるような便利で効果的な御言葉が書かれているわけではない。

では何が福音書に書かれているかといえば、苦悩するナザレのイエスである。
実のところ私が聖書に惹かれるのは、イエスの言葉というよりも、自分の置かれた立場に悩み、周囲の無理解に苦しみ孤独の真っ只中にいて、それでも人を愛し、時に抑えきれない感情をあらわにするイエスという人格である。イエスの教えを追いかけるのもよいが、イエスという人格そのものに触れる事にこそ意味があったように思う。
しかも、新約聖書には、福音書が四つ並んでいる。少しずつ違う四つの福音書を読むことによって、イエスという人物が立体的に見えてくるような気がするところが、それを意図して四つ並べたわけではないのだろうが、効果的に思える。

きょうの写真はピラカンサの花です。秋には赤い実をたくさんつけて、野鳥の餌になります。

その日の三冬

2006-05-24 22:07:38 | Weblog
先日久しぶりにレンタルショップへ行った。
ナナムジカのユバナを借りに行ったのだが、見当たらなかった。全部貸し出し中なのか、置いてないのか。
後でまた行ってみようと思う。
ちなみにユバナはオリコン30位に入っていない。これだと店に置かないつもりかな?

もうひとつレンタルしたいものがあった。
「剣客商売 第5シリーズ 第6話 その日の三冬」。たぶん、この題名だけでは、ほとんどの方はイメージが湧いてこないかもしれない。
フジテレビで2年位前にオンエアした時代劇だ。
「剣客商売」は第4シリーズから配役が変わり、さらに第5シリーズになってからはだんだん興味が薄れてきて、見たり見なかったりになっていた。
だから、第6話「その日の三冬」も途中からしか見ていない。しかし、これが名作に思えてならないのだ。
ストーリーはフジテレビにあらすじがあるので見ていただければと思うが、
 その日の三冬 あらすじ
とにかく、この回のゲストの本田博太郎の迫真の演技がすばらしかったように思うのだ。
三冬役の寺島しのぶの演技もこのときは良かった。
あいにくこれもショップには置いてなかったけれど、何とかもう一度見ておきたいと思う。
今は、オンラインレンタルショップもあって、TSUTAYA DISCAS なら1枚単位で借りられるみたいだから、そういう手もあるわけだ。
なお、このDVDをAMAZONで調べると、第6話の入ったDVDだけ納期がとても長くかかる。
やはり、みんな欲しいものは欲しいということなんだろうね。
私は買いませんけど。

それから、鬼束ちひろについて。
彼女の3作目のアルバムに続いて、SINGLES 2000-2003 ライヴDVD付初回限定版を買ってしまいました。
これでとりあえず東芝EMIにいたときの曲はほとんど揃ったので、ひと安心という感じ。
このあと彼女は、ピアニストでアレンジとプロデュースを担当していた羽毛田氏と離れたので、だいぶんイメージが変わったらしい。
東芝EMI時代の彼女の曲は羽毛田氏のカラーであったわけで、実はそれが好きだったのだが、今後羽毛田氏から離れてどう変わってゆくかにも期待してみたい。


ダヴィンチ・コード

2006-05-22 21:52:17 | Weblog
花粉症あるいは風邪のために、しばらく空けてしまった。
私の日記であれば、これで今年は終わり、で済んでしまうわけだが、ブログをそう簡単に終わりにするわけにもいかない。
かといってそう書く事があるわけではない。
平凡で退屈な毎日の繰り返しである。
サイババに呼んでいただければ、仕事を投げ出してインドへ行くことも出来るかもしれないが、私には猫も金魚もいるので、スワミは私をお呼びにはならないだろう。
金魚は3日くらい餌をやらなくても、水草を食べてつないでくれる。
しかし、猫は、丸一日が限度のように思う。
したがって、私は一泊旅行しかできない。
旅行に行く時は餌をたくさん出しておくのだが、腹を空かしたオスの野良猫が2匹出入りしているので、そいつらにあらかた食べられてしまうだろう。

ダヴィンチ・コードの映画が公開されて、カソリック教徒から反発が起こっているらしい。
キリスト教はイエス個人を非常に重要視しているし、さらに、イエスの磔による死とその後の復活にとてつもなく大きな意味を与えてしまっている。
それを考えれば、反発が起きるのは当たり前だろう。
まだ本だけであれば、そう大騒ぎにはならないはずだ。聖書を扱った大衆小説は他にもあったし、死海文書に関連した研究書で、磔後もイエスが生きていたという説を発表していたオーストラリアの学者もいた。

話は飛ぶが、イエスについての映画でしばらく前に話題になったのは「パッション」。イエスの受難を最大限残酷に描いた恐ろしい映画だった。
こちらはこちらで、当時はかなり問題になったと思う。とにかく、あまりにもすさまじいイエスの血・血・血の海の映画だった。
あの映画で、私が一番気になったのは、悪魔の描き方。
本当の悪魔はたぶんもっと善人に見えるはずだし、もっと律儀な・・・たとえば金融関係の紳士風であると思う。
あるいは、悪魔というのは、もっと美しく魅力的であるかもしれない。でなければ神が自身の傍に置いてはおかないだろう。
悪魔は、そそのかし、あおる。しかし、約束は守る男であるらしい。
まるで優秀な営業マンのようである。ただ扱う商品に問題がある・・・

さて、本の題名に誘われて、私もダヴィンチ・コードを読んだが、あまり目新しい事は書かれていなかったと思う。
イエスが磔の後も生きていて、マグダラのマリアとの間に子供をもうけたとしても、それはそれでメデタシ・メデタシなんだし。
教会が作り上げたイエスのイメージを少しは明るい方向に改善できたとすれば、それはそれでよかったのかもしれない。
キリスト教の場合、イエスの前にも、イエスの後にも、イエスような人物の存在を認めないつもりのようだが、長い?将来のことを考えればやはり無理があると思う。

眠るという事

2006-05-18 22:27:36 | Weblog
鼻水は、パブロンの鼻炎カプセルで止まった。
確かに効果がある。
ほかの鼻炎用の薬もそうだが、のどが渇くようになる。
結構強い薬なんだろうと思う。
注意書きには、車や機械の運転は出来ませんとある。
はっきり書いておかないと責任問題になるんだろう。

とりあえずきょうも早く寝ようと思う。
しかし、なぜ眠らなければならないのか。
眠るという行為は、かなり無防備な事である。
自然界の生存競争においては、眠らないほうが生き残る確率は高くなるはずだ。
それなのに、みんな眠る。
眠るといえば聞こえはよいが、ほとんど気を失っているのと同じである。
眠るのと、気を失うのとどう違うのか、医学的にみたら違いはあるのだろうけれど。

ちなみに、気を失うのと、死んでしまうのと、本人の感じ方としてはどの程度違うのだろう。
どちらも意識がなくなってしまうのだから、あまり違わないのかも。
まあ、どうでもいいことではあるが。

さて、明日はまた新しい一日が始まると信じて、本日も早寝です。
それにしても、もし毎朝毎朝生まれ変わったような感覚で生きられたら、もっと人生は新鮮な感じがするのでしょうかねぇ。

ニセアカシア

2006-05-16 21:48:10 | Weblog
鼻水が止まらない!
たぶんニセアカシアのせいだ。
会社の周辺にニセアカシアがいっぱいあって、ごっそり花を付けている。
なんか、年を追って症状がひどくなっていると思う。
症状が風邪と似ているので風邪かもしれないが、毎年今頃になると”風邪”をひく。
熱のほとんど出ない風邪で、のどの痛みが少しと、鼻水鼻づまり、やっぱり花粉症でしょうね。
風邪薬を飲むと、体温が平熱よりも低くなったりする!
それで、だるくて眠かったりするわけだ。
普段でもぼんやりしている思考力がさらに低下する。
たぶん脳に酸素がいっていないのだ。

ニセアカシア(ハリエンジュ)は有害な外来種です。
どんどん切り倒しましょう!!
しかし、どこの川原も雑木林もほんとにニセアカシアが多くなりました。
異常に繁殖力が強くて成長が早い。
恐ろしいことです。
植物のブラックバスと呼んではどうでしょうか。

というわけで、本日は早寝します。

幽霊の話

2006-05-16 00:58:35 | Weblog
きのう、幽霊のような話を書いてしまった。
そういえば、予知夢のところで人を轢きそうになったときの話にも、そんなのが出てきた。
しかし、どちらもたぶん幽霊ではないと思う。
幽霊を見たといえるためには、もっとそれらしいものを見なければならない。

幽霊の存在を私はあまり信じていない。
しかし、存在しないという明確な理由があるわけではない。
ただ自分がまだ、明らかに幽霊だと確信を持てるものを見た事がないだけだ。

ユングの著作のどれかに、ユングが経験したイギリスの幽霊屋敷の話が書かれていたと思う。
幽霊はたいがい、特定の場所に現れるようである。
私が前に勤めていた会社の本社の、ある場所に幽霊が出るといううわさが立って、霊能力者(本職は関連の会社の会長さん)にお払いをしていただいたという話もある。
霊能力者にはその幽霊が見えたらしいと、総務課の某氏が言っていた。

私としては、あまりこういう話に深入りしたくはないので、幽霊話はこれで終わりにしたい。

話はかわるが、ある本で、チベットで密教の研究をしていた西洋の女性が、イメージを実体化する訓練をしていて、あたかも一人の僧侶と一緒に暮らしているかのような想像を続けていたところ、その僧侶がだんだん見えるようになってきたという話を読んだ事がある。
これは、もちろん幽霊ではなく、イメージが実体化するということだ。
しかし、そのうちにこのイメージの僧侶が、勝手に行動し始めたので、恐ろしくなってやめたそうである。
そういった訓練は、かなり危険なものに思えるので、よほどちゃんとした師に付いて指導を受けないと危険だ。
というか、そんな訓練にあまり意味があるとは思えない。
精神を傷つけるだけのような気がする。

無題

2006-05-14 00:37:15 | Weblog
3年前に亡くなった父がいつも座っていたところに、父がいるような気がして、ハッとした。
そこにうっすらと人影を感じたわけだ。錯覚とは思いながらも、とりあえず仏壇に線香をあげておき、夕方お菓子を供えた。
別に出てきても怖くはないのだが、親の意向に沿わぬ不肖の息子ではあったわけで・・・

父が亡くなってすぐの頃は、よく階下から父の呼ぶ声が聞こえたものだ。これは幽霊の類ではなく、単なる空耳なのだが・・・
その頃には、父が使っていた部屋にまだ父がいるような気がして、何度かふすまを開けてみたこともあった。

人の死というのは、なかなか実感できないものだと思う。
頭ではわかっているつもりでも、3年がたとうとしている今でも、そんなことなのだから。

先日蒔いたマリーゴールドの種は、たくさん発芽した。
この分なら、お盆の頃にはマリーゴールドの花でいっぱいになるだろう。

ネガフィルム19本をフジカラーCDにするよう依頼した。
デジカメが思いのほか便利で、以前の写真機はもうほとんど使いそうもないので、残しておきたいフィルムをまとめてデジタル化しようというわけだ。
200万画素で1本530円だそうだから、全部で約1万円。
自分でスキャナーを使って焼く手間を考えれば安いと思う。
それに自分で焼くとどうしても画質が甘くなってしまう。
ラボでプロが使うスキャナーと家庭用の汎用スキャナーを比べても仕方ないという事。
このCDができてきたら、ブログの写真がインドの写真ばかりになったりして・・・

きょうは雨

2006-05-13 14:52:05 | Weblog
きょうは朝から雨が降っている。
それをさいわいに、本など読み返している。
お昼は、たまねぎとキャベツだけの野菜カレー。
キャベツが古くならぬうちにいためようと思ったら、たまねぎも古くなりそうだったので、そうなった。
カレールウは、ここ数年S&Bのゴールデンカレー。中辛でも辛口でもよい。
それに味の素のコンソメをつかう。
私は、ベジタリアンというわけではない。
基本的には食べたいものを食べる主義である。
また、出されたものはだいたい何でも食べる。
ただ自分で買うときは、牛肉と鶏肉は買わない。豚肉は多少使うが、最近めっきり量が減った。
卵もあまり買わなくなった。
それでも、牛乳と納豆などで、たんぱく質は充分取れるだろうから、問題はない。
問題はないというよりも、太りすぎである。
それで料理に使う油やマーガリン類もコルステロールの少ない物に替えている。
これで会社の健康診断の結果も多少改善されるかもしれない。まあ、無理か。

昨日「真理」のことを書いていたら、サイババの「英知」という本を思い出した。
「英知」は、サイババのほかの本(対話集とか、講演をまとめたもの)にくらべると、難しい印象がある。
しかし、少し読み返してみる気になった。
あの本には、「真理」のことがかなりまとまった形で書かれていたはずである。
なおWEB上にたまやんが打ち込んだ全文があるので、興味のある方は見ていただければと思う。

少し雨がやんでいたので、外の仕事をしようかと思い始めたら、また降りだした。

子供の頃には、確かに雨の匂いというものを感じられたのだが、大人になってからはそういう感受性が衰えてしまったように思う。
雨が降るとなぜか、小学校の低学年の教室の油ねんどの匂いと、窓際に咲いていたアジサイと、校庭に降る雨を思い出す。


「真理」について

2006-05-12 23:17:03 | Weblog
このブログのめざすところは「真理」ということにしてあるのだが、正直なところ、私にはこの「真理」というのがよくわからない。

辞書によれば「判断と実在が一致する事」を真理というらしい。では実在とは何かというと「客観的に存在するもの、またその在り方」とある。
ほかの辞書では「普遍妥当性をもった知識」を「真理」というとある。

ためしに、googleで検索すると、××真理教関連ばかりが出てきてしまう。これでは「真理」とは程遠い。

googleで検索した中にこういうのがあった。
国立国会図書館法の前文「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」
「真理がわれらを自由にする」 なかなか良いことばです。
図書館でたくさんの本を読むことにより「普遍妥当性をもった知識」をたくさん詰め込めば、多様な価値観を理解できるようになり、たぶん物事の本質も見えるようになる。
そうすれば視野が広がってきて、結果として多少は自由になれるかもしれない。

ただし、このことばのもともとの出所は新約聖書ヨハネによる福音書8章31節あたりらしい。
新約聖書で「真理」といえばイエスキリストの御言葉のことだ。
イエスはこう言います 「私の言葉にいつも聞き従うならば、君たちは真理を知り、真理は君たちを自由にする」

サイババの場合であれば「アートマンの知識」=「真理」といった感じだろうか。
「アートマン」とは「真実の自己」とか「自己の本質」。

どちらにしても「真理」は一筋縄でゆけるようなものではない。
したがって、真理をめざすといっても、私に出来る事は、それらしいあたりを遠巻きにしてグルグル廻りながら覗き見ることくらいである。

盲亀浮木のたとえ

2006-05-10 23:19:58 | Weblog
きのう紹介した「仏教百話」から、もうひとつお話を紹介しておきます。

「あるとき大海に、百年に一度だけ海面に浮かんできて首を出すという、一匹の年を経た大きなめくらの亀がおりました。
そしてまた、ある人がその大海に大きな穴のあいた木の板を投げ込みました。
さて、そのめくらの亀がおりよく浮かんできて、しかも板にあいたその穴から首を出すというような事があるでしょうか。」
そのように仏陀が比丘たちに問いかけました。
「あるかもしれませんが、起こるとしても、いつのことになるか見当もつきません。」
と誰かが答えました。それを受けてまた仏陀が話を続けます。
「確かにそのとおりです。
ですが、百年に一度だけ海面に浮かんで首を出すめくらの亀が偶然に、浮かんだ板にあいた穴から首を出すよりも、さらに稀有な事があります。
それは、ひとたび悪しきところに堕ちた者が、ふたたび人身を得るということです。」

このお話を盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえといいます。

人間に生まれてくるという事それだけでも稀有な、幸運なことなのですが、さらに幸運にも、この時代この世界に生まれて仏陀の教えを知る事もできた。
このように稀有な、次にいつ得られるかわからない、まことに貴重な好機を無駄にしてはならない。
そう仏陀は説いているわけです。

(ここで、仏陀をサイババに置き換えさせていただきますが・・・)
人間やっていても、辛いことや苦しいこと、悲しいことや恐ろしいことが多くて、将来は不安だし、うんざりしてしまったりするわけですが、見方を変えれば、とりあえず人間に生まれた事だけでも最高に幸運なわけですし、しかもサイババの教えに接する事も出来た、サイババに会う事も出来たとすれば、ほかに何を望むというのでしょうか。
つまらないことに悩んでいては、せっかく人間に生まれてきた意味がないではないですか。
人生を、人間らしい目的のために有効に使いましょう。

この盲亀浮木のたとえは、そんな気持ちにさせてくれるお話です。

写真は、ブッダ・ガヤーのMahabodhi Temple の金剛座のあたりです。

「沐浴について」のつづき

2006-05-09 22:15:10 | Weblog
今朝書いた「仏陀の言葉 沐浴について」の続きをもう少し書きます。
まず、「仏陀の言葉」として扱ってますが、本当にゴータマ・シッダッタがそう言ったかどうかは定かではない、という事を断わっておきます。もちろん経典では仏陀が言った事になっていますが、後で作られた話も多いようです。

「沐浴について」は、確かに合理的な意見でもっともなのですが、私としては、心を清めるために沐浴してもよいように思います。
「心を清める」というのは、「体を清める」のとは違って具体的な行動ではあらわせない精神的なものです。
しかし、心を清めようと意識して沐浴をするなら、そして、そうしたことによって精神がよい方向に向かうなら、それは充分に有効なわけです。有効であるという事は、そこには多少なりとも真実があるということです。

合理的な考えは必要ですが、人間、形で表現する事が案外重要なのだと思います。頭で考えるより、具体的に態度で表すほうが精神の変化も起こりやすいのです。
さらに、具体的には態度で表しにくいものを儀礼として行い、それにより精神的な変容を促すということはあらゆる人間社会でよくあることです。

なお、皆さんよく御存知だと思いますが、念のために付け加えておけば、心を清める方法としては瞑想する事がとても有効です。

仏陀の言葉 沐浴について

2006-05-09 06:28:36 | Weblog
先日ヴァーラーナスィーで沐浴すれば罪が洗い流せるという事を書きました。
これについて、仏陀はどう言っているかというと、

「---前略---
うちに悪しき思いをいだける者、
また罪あやまちをおかせし者の、
悪業のふかきを、河は浄めじ。
---中略---
婆羅門よ、来たってここに浴せ。
生きとし生ける者に安穏を与えよ。
なんじもし妄語をかたらず、
生ける者を害わず、与えられぬ物をとらず、
信を植えて、貪欲ならざれば、
ガヤーに行きて何をかなさん。」(増谷文雄「仏教百話」 ちくま文庫)

この言葉の中で、「ここに浴せ」は、「仏陀の説く教えを学び実践しなさい」ということでしょう。
また「ガヤー」には、当時沐浴場があったのだと思います。

この話の前には、「心が清浄であれば、よい結果が期待できる」という仏陀の話があって、それに対して誰かが「それでは沐浴場に行きますか」と質問したので、それに仏陀が答えているわけです。

では心が清浄でない、つまり心のけがれとは何かというと、「貪り、いかり、迷い、過ちをなして隠す事、吝んで施さぬ事、心の頑ななる事、放逸なる事、驕慢」があげられています。

写真は、ガンジス川の川面から見渡したヴァーラーナスィーのガートです。

シュヴァスマン・ヴァハマン第3彗星

2006-05-07 23:31:28 | Weblog
今日は曇り時々雨のお天気で、雨が降りそうになるとカエルが鳴き出す。
カエルの姿はあまり見えないのだが、庭のあちこちから皆で声を合わせるように鳴く。
もう5月だと思う。
畑にはキジのつがいが来ている。おなかが空いているのか、あまり逃げようともしない。
うちの猫は臆病だから、キジくらい大きければ手を出さないかもしれない。

5月12日に地球に最接近する彗星があることを昨日知った。昨日の晩も今日も曇りなので、観測は出来ない。
月が明るくなってきているので、条件はよくないが、天気が回復すれば見たいものだ。

夜空のどのあたりに見えるかというと・・・
国立天文台のホームページを見てください。

国立天文台 シュヴァスマン・ヴァハマン第3彗星

今日の写真は、百武彗星。私の撮った写真です。
私の見た中でもっとも明るい彗星です。
北斗七星と比べてみれば大きさがわかります。
肉眼ではもっと大きく見えました。
この時は、とても感激しました。