如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

「月光」

2006-04-30 22:32:13 | Weblog
鬼束ちひろの歌が好きである。
「月光」が発売されたときはテレビCMがずいぶん流れていたから、相当期待されていたのだろう。
それがここのところ、理由は知らないが、活動があまりできていないようである。

「月光」「イノセンス」「infection」どれも恐ろしいくらいの切れ味だと思う。

I am GOD'S CHILD
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない
・・・・・   「月光」


君の暴言は
綺麗すぎて背中が凍る
腫れ上がった部屋で
僕はバランスを取り戻すけど
・・・・・   「イノセンス」


「何とか上手く答えなくちゃ」
そしてこの舌に雑草が増えて行く

鼓動を横切る影が
また誰かの仮面を剥ぎ取ってしまう

In the night
I sit down as if I'm dead

爆破して飛び散った
心の破片が
そこら中できらきら光っているけど
いつの間に私は
こんなに弱くなったのだろう
・・・・・  「infection」

3点とも鬼束ちひろの詞と曲でした。

ぜひ、今後また、さらなる進化を遂げて、表舞台に登場して欲しいものです。
ところで、なぜ「月光」という曲名なのか?
雰囲気は伝わりますが・・・もっと何か意味があるのでしょうか・・・

猫のこと

2006-04-29 23:40:22 | Weblog
夕方、庭で虫が鳴いている。はやいものである。
虫について詳しくないので、なんという虫が鳴いているのかわからないが、これから秋の終わりまでずっと、さまざまな虫の声を聞く事になる。

4月のはじめに飛来したツバメもこの2~3週間でだいぶんふっくらとつややかになってきたと思う。
えさが増えてきたので、5月になれば卵を抱くだろう。
ウグイスの声もよく聞かれる。
全体に野鳥は増えているのかもしれないと思う。

そういえば、我が家の猫は、たまにすずめを捕ってくる。ねずみやもぐらも捕ってくる。
一度小さな蛇を捕ってきたのには困ったが、猫を飼っていれば、そのくらいは仕方のないことかもしれない。

現在一般に飼われている猫は、もともと北アフリカで野生の猫を飼い始めたのが起源らしい。
なぜ飼い始めたのかは不明だが、ねずみを求めて人の周りで暮らすようになった猫に、かわいいので餌を与えたのだろう。
人間の周りにねずみが増えたのは、定住して農耕を始めたからだから、1万年くらい前からは人間と暮らしていることになる。
猫は人によくなつくし、賢い。ねずみ対策としては、すばらしい効果を発揮する。
しかもとても魅力がある。
古代エジプトで愛され、シルクロードを伝わって、仏教の経典とともに日本に来たといわれている。
小動物を捕ってくるのは猫の最も基本的な行動であるから、しかるわけにはいかない。

VISION

2006-04-29 14:13:02 | Weblog
昨日は、私の見たサイババのビジョンについて書いた。
このビジョンについては、私自身の予知によって生まれたビジョンなのか、それともサイババの遍在に由来するものなのか、考えた事がある。

私自身の予知によるとすれば、時空にループが生じる。因果関係が輪になってしまうのだ。
予知したことをきっかけとしてサイババに会い、サイババにあったことによって時間をさかのっぼった時点での「予知」がある。
だとすれば、このループのそもそものスタートはどこなのか?
それともはじめからスタート地点など存在しないのか?
多少のループがあったとしても、それで時空が混乱するわけではないとは思うのだが・・・

サイババが持つ「遍在する能力」によって起こった現象であれば、ループは生じない。
私の祈りに答えて、数千キロの彼方から、私の前に姿を現したと考えればよい。
たぶん、こちらの考えのほうが、真実に近いと思う。
なぜなら、その時私の見たサイババは、若かったように思うからだ。
予知によるビジョンであれば70歳のサイババのはずだが、あのときのサイババは壮年の力強さと軽快さがあったように思う。
それに、サイババの遍在の事例はほかにたくさんあるのだから、サイババの能力によるものと考えるのが妥当だ。

サイババを見た事以外にも私の体験の中でビジョンと呼べるようなものがあるだろうかと、思い出してみたがそれらしいものはほとんど見当たらない。
なお、ここでビジョンと私が呼んでいるものは、自分で思い描くのではなく勝手に向こうから来て視覚に作用する具体的な映像のことである。

ただ、子供の頃、寝室の暗い天井に何人もの人が浮かぶように出てきて怖かったのは覚えている。
天井は真っ暗で、木目などは見えない。
その暗闇に、ほぼ等身大くらいの人物が複数並んで、こちらを見たりしているのである。
あまりにも昔の記憶で、姿かたちはもうあまり定かではないが、容貌は伎楽面のような顔立ちで、服装はまちまちだったが、どれも見た事のない衣装だった。
服装は今にして思えば、宗教的な雰囲気のものだったようにも思える。
眠っていたわけではなく、寝つけない夜の怖い思い出として残っている。
たぶんこれもビジョンだと思う。しかしこれがどのような意味なのかはいまだにわからない。

サイババのビジョンでさえ、テレビでサイババを見るまでは、ビジョンを見たという自覚がほとんどなかったわけである。
結局、見ても見えない。聞いても聞こえない。
それでも、こちらの理解力におかまいなく、いろいろなものが来ているのかもしれません。

祈り AUM SRI SAI RAM

2006-04-29 00:58:48 | Weblog
昨日の続きである。
水滸伝や三国志を読んでいた頃は、あまり宗教には関心がなかった。
クラスにはキリスト教の信者もいたようだが、無宗教である事、無神論者であることの方が、一般的だった。
超能力などはすべてまやかしだと思っていたわけだ。

しかし、無神論者というほど、神についての知識があったはずもなく、ただ何も知らなかっただけというのが正しい。
知らないという事と、否定するという事は、全く違う。
十分に理解してから神・宗教を否定するなら立派な無神論であるが、知らないで否定しても、それはほとんど意味を成さない。

私が超能力とか宗教に興味を抱いたのは前にお話したように予知夢をたくさん見たからであるが、サイババに関心を持った理由についてはまだ話していなかった。
わざわざインドまで出かけてゆくには、それなりの理由がなければならない。

表向きの理由と、もっと本質的な理由。
いつも表向きの理由ばかり口にしているといつの間にかそれが本当の理由であったように自分でも思ってしまうようになる。
セルフマインドコントロールってやつでしょうか?

表向きの理由は、「イエスのような人がこの地上に今現在いるというなら、しかも会う事ができるというなら、とりあえず行ってみる価値がある」。

しかし、実のところもっともっと強い理由がありました。
これから話す話は、サイババの周囲ではよくある話なのですが・・・それでも自分の経験でなければ自分でも信じないかもしれません。

一言で言えば、私は1970年頃にサイババを見ている、そういうことです。
1970年といえば大阪万博のあった頃です。
サイババは1926年生まれですから、まだ40代半ば。私は10代半ばです。
インドでサイババを見たのなら当たり前の話ですが、もちろん日本でサイババを見たわけです。

そのとき私は切羽詰った状況に追い詰められておりました。
あることに相当悩み、誰に相談できるわけでもなく、学校帰りの道を悶々として歩いておりました。
あとは祈るしかないというのが、私の結論でした。
わらにもすがる思いで、それこそありとあらゆる思いつく限りの「力あるもの」に祈りました。
神だけが力あるものではありません。
ありとあらゆる力あるものに、それこそ自分の魂と引き換えでもよいからと祈りました。
そのときに、私の頭の中に浮かんできたのがサイババの姿でした。
頭の中に浮かんだといっても、視覚としては、数百メートル離れた里山の上のほうから、オレンジ色の服を着たアフロヘアの男が軽やかな足取りでこちらに降りてくるビジョンです。
後で思い返すからビジョンなどともっともらしく言えるわけですが、そのときは、何でこんな姿が思い浮かぶのだろうと不思議に思いました。
サイババなど知るはずもありません。
その姿は、神様とは程遠い、ロック歌手みたいな派手な衣装にヘアスタイル。

しかし、その後どうしようもないと思われたその問題は、思いのほかスムーズにクリアできました。

そして、今度は別の悩みが出来ました。
「何かに自分の魂を売り渡したのではないか」という悩みです。
実際、私はありとあらゆるものに祈ったわけです。
目的を達成するために、私のすべてを差し出して祈ったわけです。
ですから、魂を売り渡したとしても、それはいたしかたのないことなのです。

そして、私は無神論者になりました。
神もいなければ悪魔もいない。
心の平安を保つためには、そう思うしかなかったのです。
宗教には興味を持たず、信仰心もなく、わかるはずもないサルトルなど読んでみたりしていました。

さて、それから20年近くが過ぎたある日、テレビで別所哲也さんがサイババにあったときの映像を見て、驚きました。
何者なのかはわからないけれど、あの時に見た人らしいのがインドにいるようだ。
しかも、そう悪い人でもなさそうだ。
それは私にとっては、かなりの慶事でありました。

水滸伝のこと

2006-04-27 22:42:54 | Weblog

昨日、佐藤春夫の水滸伝を探していた話をした。
この本は十代の後半に学校の図書館にあって、2回くらい読んだと思う。
佐藤春夫の本は難しいというイメージがあるが、この水滸伝は読み本風に書かれていてサクサク読める。
水滸伝は、いろいろな人が訳しているから、わざわざ佐藤春夫にこだわる必要はないと考えても、やはり欲しいものは欲しいのである。
佐藤春夫独特の良さがあるのだと思う。

《 追記 》 実はこの『佐藤春夫訳 新譯水滸伝』は佐藤春夫本人が訳したものではないらしいということをあとになって知りました。Wikipediaによれば協力者として名前の出ている村上知行の訳です。しかし、佐藤春夫が名前を貸すくらいですから、それなりに名文です。ちなみに、村上知行は中国文学の翻訳家で、amazonを検索するとたくさん出てきます。

水滸伝に似た物語は、子供の頃から読んでいる。
最初に読んだのはたぶん小学校の低学年で、絵本である。
このタイプのお話のポイントは、こうである。
旅の途中で、あるいは人生の途中で、仲間が出来る。仲間はそれぞれ個性的な特徴を持った人たちである。
その仲間たちが、それぞれの特徴を発揮する事によって、旅の困難を克服する事が出来て、ついに目的を達する。めでたしめでたし。

最初に読んだ絵本は、西洋風なお話だったと思う。
その後、里見八犬伝。
八犬伝はもともと水滸伝を下敷きにして滝沢馬琴が書いたものだから、話の内容は似ている。
里見八犬伝も絵本から始まって、だんだん小学校の図書館にある絵の少ない本に移っていったと思う。
子供の読む本には、あのおどろおどろしい「たまずさ」は出てこなかったように記憶している。

水滸伝の持つ雰囲気は、私の中ではこんな感じ。
季節は夏。人気のない街道のわき道を旅していると、遠くに茶屋の旗が風になびいている。
近くまで来てみれば、川辺の木立の中に、人里離れた場所にしてはこぎれいな店構えの、お酒も飲めれば食事も出来るような店がある。
肉を煮ているのだろう、よいにおいがしている。
愛想のよいおかみさんが奥から出て来る。
とりあえずのどが渇いたので冷やした濁り酒を一杯。
ところがこの濁り酒には痺れ薬が入っている。
実はこの店、店に出す肉がなくなると、しびれた客を肉にしてしまうという、とんでもないやつらの店。
そして、このとんでもないやつらが、水滸伝の108人のメンバーになってゆくわけだから、話はめちゃくちゃである。

学校を卒業したら図書館の水滸伝が読めなくなったので、その代わりに吉川英治の三国志にはまった。
こちらは、水滸伝ほどめちゃくちゃではなく、よく出来た読み物に作られていた。
水滸伝も三国志も登場人物が多いので、いまだに名前がよく覚えられないでいる。
たぶんもうこれから覚える事は出来ないだろう。


nanamusica

2006-04-26 23:16:35 | Weblog
本屋さんによったら、とてもよく聞こえる女性ボーカルが流れていた。
店員さんに聞いたら、ナナムジカの「ユバナ」というCD。発売日は今日だ。
買ってしまおうかと思ったが、思いとどまった。衝動買いすることもない。
声質もよいし、楽曲もよい。ただHPで試聴してみると、曲のイメージがアルバム全体に似ているように感じた。
似ているからといって、悪いというわけではない。ただそう感じた。
詞には「時空」という言葉もあったようだし、輪廻転生を扱った内容のものもあった。
私の趣味にはあっているわけだ。しかし、まああわてる事はない。何せ今日発売されたばかりだ。

ここのところ、古いレコードのCDになっているものを数枚買った。
一枚は「THE BEST OF BETSY & CHRIS」。これを知っている人はそれなりの年齢である。
その前には「藍より青く」が聞きたくて本田路津子のBEST物を買った。
同じように「朝陽のまえに」が聞きたくてはしだのりひことシューベルツの入ったBEST物を買った。
今買っておかないと、もう手に入らなくなってしまいそうな、そんな感じがするのである。
これらの曲の入ったCDは、このあたりではもうレンタルされていないし、amazonでさえ古いものは在庫限りで姿を消してしまうものが多い。
しかし、ナナムジカのように新しいものにはその心配はない。

ほかに最近買ったCDは、リベラの「彼方の光」。これは衝動買い。
NHKのドラマ「氷壁」のテーマの入ったCDだ。
K2の映像とこの音楽が作り出すイメージはすばらしいものだった。

以前と違い、最近ではCDを買ったからといって、そう聞くわけでもない。
ただ持っているといつでも聞けるという安心感がある。

本についても同じことが言える。
今の時代、書店に行けば本はあふれかえっているが、仮によい本があったとしても、しばらく並べて売れないと、さっさと別のものに入れ替えられてしまう。
だから、本については、欲しいと思ったら躊躇せずに買う事にしている。
また、古典に入るような本以外は、たとえ文庫本でもしばらくすると在庫がなくなり、いつの間にか廃刊になってしまう。
だから気に入った本は、ついついもう一冊買っておく事になる。もちろん高い本はそんな事はしないが、文庫本の場合はそういうことをする。

今はインターネットでCDや本を探せるのでとても助かる。
実際、20年以上探していた本も数年前インターネットで見つけた。
「新訳 水滸伝 (佐藤春夫訳)」という本である。
古書店の場合、値段の高い本は管理されていて探せるのだが、市場価格の安い本は探しても出てこないようだ。
その点、インターネットの方が見つかるチャンスは大きい。
とりあえず全てデータになっているので検索すれば、あれば引っかかってくる。

記憶のある場所

2006-04-25 23:34:19 | Weblog
いったい記憶はどこにあるのだろうと考える事がある。
普通には、脳にあると考えるのだろう。
脳の病気になれば、記憶障害が起こり、物忘れがひどくなり、たとえば庭先から歩き出したのに家に帰れなくなってしまう。

しかし、以前「前世療法」で見たように、自分以外の他人の記憶を自分の記憶と感じてしまう事もあるらしい。
また催眠状態では、たとえば子供の頃の通学路の電柱に張られていた張り紙さえ思い出すことが出来るらしい。

さて、脳をコンピューターにたとえるのはあまりよろしくないと思ってはいるが、それでもあえてコンピューターふうにいえば、私は記憶として脳にあるのは、ごく短期の記憶と記憶のアドレス(索引・目次)であるように思える事がある。
仮にそうだとすれば、記憶の本体のデータはどこにあるのか?

ひとつの考えとしては、記憶のデータは、この時空そのものだと考えてはどうだろうか。
ここで時空とは、単なる3次元プラス時間の時空ではなく、さらに意識が加わった「意味のある時空」である。
そして「意味のある時空」には、それにかかわった人のアドレス(あるいは刻印)が付いていて、脳のアドレスから呼び出す事が出来る。
われわれが考えた事や思った事感じた事は、そのときの時空に記録されて「意味のある時空」として永久に存在するわけである。
この「意味のある時空」は一種の「アーカシックレコード」といえるかもしれない。
「アーカシックレコード」と言うとつかみどころのない空想的なものに感じられるが、実際の時空に意識が刻み込まれてアーカシックレコードになってゆくと考えれば、ずいぶんはっきりしてくるように思える。

この考え方を使えば、霊能力者による物体透視?を説明する事も出来る。
物体透視?と言うのは、ある人の持ち物だった品物から、今その人がどこでどうしているかを霊視するテクニックのことだ。本当に出来るかどうかは知らないが、かつてテレビでやっていたのを見た事がある。
時空というのは、そこにある物体によってはじめて時空として意味を成すわけで、物体にはそれに深くかかわった人の意識が刻み込まれているはずである。
能力者なら刻み込まれた意識から逆にその人物をたどる事が出来るかもしれない。

これらは、仮説のひとつである。一見非科学的に見えるかもしれないが、案外そうでもないかもしれない。

今日の写真は、カジュラホの寺院の、内から外を見たところです。

モズの高鳴き

2006-04-24 00:32:46 | Weblog
昨日からモズがしきりに鳴いている。
先日「ひばりの高なき」について書いたが、「モズの高鳴き」という言葉もある。
「モズの高鳴き」は普通秋から冬に縄張りを宣言して高い梢などでモズが鳴く事をいうらしいが、昨日今日の鳴き方もそれと似た感じだった。
モズはすずめより一回り大きくて、わりときれいな鳥である。
もともと野鳥観察に興味があったわけではないが、なんとなく少し興味を持つようになったらしい。
さいわい双眼鏡は星を見るために持っていたし、電子辞書の広辞苑にはカラー写真のほかに鳴声も入っているので、少し手がかりがあれば調べる事も出来た。
もっとも、持っている本は学研の小学生向けの「鳥」という図鑑だけである。

そういえば、インドを旅したときにカジュラホのホテルで「COLLINS BIRDS OF INDIA」というインドに生息する鳥の図鑑を買った。
この本は、その後BHARATPURの自然公園に行ったりしたのでずいぶん役に立った。

なぜ本屋のあるようなホテルに泊まったかというと、飛行機が運休したからである。
インドの場合飛行機が運休すると、外国人にはホテルが用意される場合がある。
安宿を使って旅している私にとっては驚くような立派なホテルである。
とにかく出される食事に普段インドでは食べられないものが出るので、すごく得した気分になってしまう。
スケジュールで旅行している人にとっては迷惑な話だが、行き当たりばったりの旅行だからそんな気になってしまうわけである。
ちなみに、そのとき私が使った便はインディアンエアラインIC408便だが、この便の名前のついた曲があることをしばらく前に知った。
「ANOKHA SOUNDZ OF THE ASIAN UNDERGROUND」というCDの2曲目である。
このCDは、確か宇多田ヒカルがよく聞いていたとラジオで言っていた。
パーカッションの効いた電子音楽にインド音楽を少しだけ味付けしたみたいなCDである。

たいした理由があってブログをはじめたわけではない。
それでも、もう1ヵ月は続いている。
このブログがだんだん私の備忘録になってきているのだか、それも悪くないと思っている。
自分の経験した事や考えた事、読んだ本の事、そういったものを思い出し思い出し書いておきたくなる年齢になったわけだ。

予知夢について その3

2006-04-22 22:38:08 | Weblog
前回の続きです。
私の見た危険を予知した夢について、お話しておきます。

予知夢は、目が覚める直前に見る、ストーリーのないイメージだけの夢であることが多い。
そのときの夢は、私が車を運転していて、誰かを轢くような夢でした。
周囲の情景も何もなく、相手がどのような人かも全くわからず、ただ轢きそうになる時の緊迫したどうしようもない感じだけの夢でした。

予知夢に気づいていなければ「いやな夢を見た」で片付けられたでしょうが、私の場合にはそうはいきませんでした。
予知夢の可能性が高い以上、運転には普段以上に注意を払わざるを得ません。
しかし、1週間経ち、2週間経ち、ひと月も経てば、だんだん緊張感がなくなって、そのうちに夢の事は頭から消えてしまうようになってきます。

さて、夢を見てから1ヵ月半くらい経った晩秋の深夜、私は夜勤のために会社に向かって車を走らせていました。
走り慣れたいつもの道です。
田舎の道で、対向車もほとんど来ない。もちろん歩く人など全く見かけない。そういう道でした。

ただその日は、川を渡るあたりで急に霧が濃くなって、視界が一気に悪くなってきた。
それで、速度を落として車を走らせていると、前方の霧の中にうっすら白っぽく足だけが動くが見えた。
その足が対向車線側から私の車の前へゆっくりと横断している。
私はフルブレーキを踏み、祈るような気持ちで車が止まってくれるのを待った。
濡れてすべる路面でリヤを少し滑らせて、車は人にぶつかる20cmくらい前で止まりました。
そのときに、ものすごいデジャヴがあったのはいうまでもありません。

この話にはおまけがあります。私が轢きそうになったその人が、本当に生きている人間だったのかどうかわからないのです。

すぐそばに自動販売機があったので、その明かりで辺りは少し明るくなっていました。
姿は老婆でした。しかも秋の終わりだというのに、素足にぞうりを履いて麦藁帽子をかぶっている。
12時をまわった深夜なのに、まるでこれから田植えにでも出かけるようなスタイルです。

急停車した車の中で私が冷や汗をかいてぐったりしていると、その老婆は何事もなかったかのように車の前を渡り、助手席側の窓から私を覗き込んだのです。
その覗き込んだ顔には全く表情のようなものがなく、珍しいものを見るようなうつろなまなざし。
私は恐ろしくなって、その場から逃げ出しました。
幽霊を轢きそうになったような、そんな感じに襲われたわけです。
今でも思い出すと怖くなります。

たぶんその老婆は今でいう認知症の方で、しかも一人暮らしか何かで、夏のような支度でも周囲に気遣ってくれる人がいなかったのだろうと、そう思うのですか、それで怖さがなくなるわけではありません。

それ以降、私は夢を思い出そうとか、夢を覚えておこうとか、そういうことはやめてしまいました。
とりあえず事故はなかったわけだし、夢は夢としてほうっておいた方が人間らしく暮らせると思ったわけです。

アガスティアの葉

2006-04-21 21:40:49 | Weblog
予言とか予知夢のことを書いていたら、「アガスティアの葉」についても少しは書かないといけないような気になった。
サイババ信者だった青山氏が「アガスティアの葉」という本を出してずいぶん有名になった。
私は、「アガスティアの葉」の存在をあまり信じていない。
100%否定するだけの根拠はないが、かなり無理がある。
とにかく、それで「アガスティアの葉の館」の営業が成立するという事が否定する一番の根拠である。
聖アガスティアが、アガスティアの葉の館の経営者のために、館を訪問する人たちの将来を記した葉を用意しておくなど考えられるはずがない。
それでも運良く、「本物」と思えるものに出会えた人は、非常に幸運な人だと思う。

それはさておき、我々が予知夢で少しは未来を知る事ができても、ほとんど知らないに等しい状態であるのは、それのほうが生存や種の発展にとって都合がよいからである。
未来に感じる可能性が人生に活力を与え、人間を偉大にするのだと思う。

では、予知した未来は絶対に変えられないのか?
わかりません。
基本的には変えられないはずです。でなければ未来を予知した事になりません。
しかし、危険を予知した事によって、最悪の事態を回避できたと感じる事はあります。
その場合、最悪の事態に至る前の危険を予知したのであって、最悪の事態を予知したわけではありませんから、未来を変えたわけではありません。
危険を予知するというのは、ある意味神の恩寵だと考えてもよいと思います。


予知夢について その2

2006-04-20 21:02:58 | Weblog
ノストラダムスの予言やヨハネの黙示録を読んでみると、このような未来予知の原理は、予知夢と基本的に同じだろうという事が推測される。
彼らは、未来の誰かが感じたイメージを受け取って、それを彼らの言葉で表現している。

予知夢の場合は、遠い未来よりは自分自身の未来を見る事のほうが一般的である。
あるいは遠い未来も見ているのかもしれないが、それはわけのわからない夢としてすぐに忘れられてしまうはずである。
夢の記憶ほどはかないものはないと思う。朝起きた時には、ぼんやりと残っていた夢のイメージも、起きて10分もすれば忘れ去られてしまうほうが普通である。
何かの偶然で覚えていた夢や、意識的に記憶にとどめようと努力した夢だけがかろうじて生き残る。

私の場合、最初に予知夢に気づいたのは、夢に見た内容とよく似たイメージのテレビ番組を、夢を見た数時間後に見たためであった。
夢は大きな白い蛇の夢であった。通常蛇の夢は怖いものだが、その夢に出てきた蛇は白い大蛇であるにもかかわらず怖さがなかったのが妙に印象に残った。
起きてしばらくして、テレビを見たら中国の川劇「白蛇伝」をやっていた。
この川劇の舞台はとてもシンプルで小道具しかないような舞台である。
その舞台が夢の中では子供の頃に毎日通った田舎道のような風景に変わっていた。
このように周囲の情景は雰囲気だけを残して変化してしまうのであるが、人間の男に恋してしまった白蛇の化身である女性主人公に感じるものが夢のそれと大変よく似ていた。
数時間前に見た夢ととてもよく似たイメージがテレビ画面で展開されるわけだから、かなり驚いたと記憶している。

私の予知夢の経験はこの時からスタートして、その後数年続いた。
実際には、今でも続いているのだろうが、もうそういった意識はなくなっている。

夢を覚えていたり書き留めたりする事は、思いのほか疲れることである。
しかも、それが現実に起こるとしても、数日先かもしれないし、数ヶ月先かもしれないし、数年先かもしれない。
私にはそれがいつ起こるかという事はほとんどわからなかったわけです。
ただ起こったときには、デジャヴがあるのでわかる。そのときの感じというのは、今が過去につながった感じ(当たり前ですが)。
あるいは、過去に向かって情報を送っている感じ(これも当たり前ですが)。

しかし、未来がばら色であれば予知夢も楽しいでしょうが、そうとばかりはいえないのが現実です。
利点があるとすれば、少しは心の準備ができるという事くらいでしょうか。

話は変わりますが、「白蛇伝」を下敷きにして、上田秋成は「蛇性の淫」を書きました。
「雨月物語」です。
「雨月物語」に出てくる女性たちの雰囲気が私は好きです。怖いですけどね。
何が怖いのか・・・多分まっすぐに向き合うのが怖いのかもしれません。

ヨハネの黙示録

2006-04-16 23:17:09 | Weblog
写真の花は、「花だいこん」。
とてもきれいな花だ。最近はあちこちに自生して増殖している。
満開の桜の下に花だいこんの花はよく似合う。

すこし「ヨハネの黙示録」について書こうと思う。ちなみに共同訳新約聖書では「ヨハンネスへの黙示」である。
私の持っている文字の大きな読みやすい新約聖書が共同訳なので、こちらの表現になじんでしまっている。

まず、サイババに関連したところでは、「黙示録にサイババのことが書かれている」と言われたりする。
黙示録19章に出てくる白馬の騎手のことである。確かにそう読めないこともない。
黙示録があまりに有名なため、証明は全く不可能であるが・・・

それから、黙示録には「666」という数字が出てくる。「この数字は獣の名、あるいは獣を表す数字であり、人間を指している」という。
しかも、「すべての者の右手か額にこれを刻印し、刻印がなければ買う事も売る事もできないようになった」という。
右手か額にICチップでも埋め込まれるようなイメージだ。
しかし、私はこれについて面白い解釈を見つけたので一応紹介しておこう。
私はこの「666」は、パチンコやパチスロの「模様が三つ揃う事」を言っているのではないかと考えている。
パチンコ台のダイヤルは右手で持つように右側にある。パチスロであれば絵柄を揃えるために意識を回転する絵柄に集中している。
「666」が揃えば(絵柄が揃えば)カウンターに行き玉やコインで景品を買い、交換所でその景品を売って現金を手に入れる。
揃わなければ(つまり刻印がなければ)買う事も売る事もできない。
つまり「666]はギャンブルという獣なのである。
新約聖書に書かれた事柄にしては、あまりにも日常のありふれた光景でありすぎると思うかもしれない。
しかし、現実に毎日数万人の人たちがパーラーと呼ばれる場所に集まり、意識を集中してパチンコやパチスロをしているのである。
その異常ともいえる精神エネルギーを黙示録のヨハネが心の通信機で受け取ったとすれば、彼には、それは獣の仕業として見えるだろう。

ノスタラダムス その3

2006-04-16 07:46:43 | Weblog
12日のブログに書いたように、ノストラダムスの「諸世紀」に私の送ったイメージが載っている件は、「それによく似たイメージ」が載っているのであって、完全にぴったりというわけではありません。

これについて、少し説明を加えておきます。
たとえば、「山田太郎」という言葉をイメージにして送ろうとしたとする。
さいわい、漢字の場合には文字ごとにイメージがあるので送りやすい。
「山」は、マッターホルンなどの山らしい山をイメージする。
「田」は、水を張った畑。しかし、水を張った畑をイメージしたら沼に見えてしまいそう。
さらに「太郎」の方は、もっとむずかしい。なぜなら人によっていろいろなイメージがありうる。
「太」と「郎」に分けて送ろうとする人もいるし、「太郎」をまとまったひとつのイメージとして扱う人もいるだろう。
別々に分けて送るとすれば、「太」は太い大木のイメージ。「郎」は男のイメージ。
少なくとも送った本人は何を送ったか分かっているので、それでもなんとかなるだろう。

このようなイメージは、どのように見積もってもあまり重要ではないと感じられるが、はたしてこれをノストラダムスは受け取って書き留めてくれるだろうか?
私が思うには、まじめにしっかり送れば、受け取ってくれる可能性は十分にあると思う。
ノストラダムスは結構律儀な人だと思うし、「諸世紀」の理解者を求めているはずである。
そして実際、「諸世紀」には大事件とは関係なさそうな、とらえどころのない詩もたくさん載っている。

さて、「諸世紀」よりもはるかに有名で、はるかに多くの人に読まれている予言書が他にある。
それは、新約聖書の最後にある「ヨハネの黙示録」である。
私にはなぜ、聖書の最後にこのような預言書が納まっているのか理解できない。
理解できないけれども、とにかく世界中の数億の人々が、間違いなくこの預言書を読み、なんらかの影響を受けているのである。
「ヨハネの黙示録」については、いつかまた考えてみたい。

新緑のグラデーション

2006-04-15 05:54:07 | Weblog
ここのところ、仕事に追われてごぶさた。
今朝はゆっくり寝ているつもりが、猫に起こされた。
うちの猫は早寝早起き。とても健康的な生活をしている。
しかし、「朝ごはん頂戴」と、枕元で鳴かれるのは困る。
たまには、「あけてくれ」と、窓の外から鳴く事もある。
猫の声にパッと反応してしまうのが、猫に仕える身の習性なんでしょうか?
気が付けば、母が赤ん坊に仕えるように、私は猫に仕えているわけで・・・

昨日あたり、車で走ればどこも桜が満開で、雑木の林もうっすら芽吹き始めた。
新緑の微妙なグラデーションが始まっている。
それにしても、ずいぶんたくさんの桜が植えられたものだ。
以前に較べればはるかに多い。
しかも、どの桜もほとんど同時に花が咲くのだから、みんなソメイヨシノだろう。

会社では、もうセキレイが卵を抱いている。
会社の周辺にはセキレイが多い。近くに川があるためだろう。
セキレイはどこにでも、簡単に巣を作ってしまう。
そして気づいたときにはもう卵を抱いている。

そういえばデジカメを買った。
オモチャみたいな値段の、オモチャみたいなカメラだが、なかなかよく写る。
デジカメとか、携帯電話とかの進歩は、すさまじいものがある。
小型・多機能・高性能・低価格・・・すばらしい頭脳の人たちが生存をかけて必死に努力してるんでしょうね。
使わせていただいている側にとってはありがたいが・・・もったいない気がする。


ノストラダムス その2

2006-04-12 22:55:48 | Weblog
ノストラダムスの話を続けます。
ノストラダムスの「諸世紀」の真偽を確かめる方法が、ひとつあります。
これは、基本的には誰でもできる方法です。

ノストラダムスは、「未来の誰かさん」のイメージを心の通信機で受信して、「諸世紀」に四行詩として書いたわけです。
この「未来の誰かさん」は、どの時代の誰でもよいのです。
そこで、あなたが「未来の誰さん」になります。
では、どんなイメージを送ればよいか・・・やはりわかりやすく特徴があるものがよいです。でないと、判断が難しくなります。
ではどうやって送るか・・・とにかく、そのイメージを誰かに届けようとするとても強い気持ちで送り出す事です。
イメージは視覚的に明瞭でなければいけません。
また、遊び半分行った場合にはその気持ちがノストラダムスに伝わってしまうでしょうし、イメージが崩れてしまうでしょう。
どのくらいの強さで送るか・・・時空に向かってアンドロメダ星雲までも届くような気持ちで送れば成功するかもしれません。

試してみる価値はあります。それをやってから「諸世紀」を読めば、楽しみが増えるかもしれません。

私の場合、ノストラダムスを意識してそれをしたわけではありませんが、
かつてこの方法でイメージを送った事がありまして、
それからずいぶんたってから、偶然それによく似た四行詩を見つけました。
このためもあって、「諸世紀」はかなり本物だと思っているわけです。

この方法の難点としては、客観的な証明ができない事です。
あくまでも、判断は主観的です。
個人的にはそれで十分なんですけどね。