如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

秋の旅(9)

2007-09-29 18:05:34 | インド旅行記
インタビュー
今朝はいちばんくじの列に並ぶことができた。すごくついていると思う。ここ数日、ほとんど毎回のダルシャンで会場の最前列に並んでいる。何か、偶然以外の法則が働いているのではないかとさえ感じてしまう。
朝のダルシャンが終わってから、日本人のグループに加わることにして、事務所に行った。
それから、はじめてのミーティングに出た。最初にアサトママントラを唱える。それから、今日の言葉、これはサイババの言葉が毎日掲示板に書かれるものを訳しているらしい。それから、今日の実践、これは世話人がサイババの本から選んでいるらしい。それから、連絡事項。それと、人数確認。人数は、重要なポイントで、スワミにダルシャンの時,「HOW MANY?」と聞かれたら即答えられないとインタビューを逃してしまうかもしれない。最後に、ガヤトリマントラを唱えて終わりである。人数は、男性女性併せて20人前後である。メンバーの人数は女性の方が少し多いらしい。
私と同じ宿に泊まっている例の女性達も話を聞きに来ていたが、彼女たちは結局グループには入らなかった。「私たちは、インタビューが目的で来ているわけではありませんから。」と、妙に突き放すように言ったのが印象的だった。

午後のダルシャンでも、いちばん前の列に座ることができた。私はついている。そう云うツキが、グループに入ることによって逃げてしまうのではないかと少し心配していたが、そんなことはないようだった。座った場所は、スワミの入ってくる入り口の正面いちばん奥である。
スワミの歩くスピードはいつもずいぶん速い。ひとつひとつの動作を見ていると、ゆっくり歩いているように思えるし、けっして小走りなどしないのであるが、しかしスイッと行ってしまわれるのである。
そのスワミが今日は私の前に近づいてきて、私に!!「どこから来たのか。」と尋ねた。「日本。」、「インタビューをお願いします。」私の後ろにいたグループの人がインタビューを依頼する。私もインタビューをお願いした。「何人だね。」「19人。」。しかし、話はそれだけで、スワミはもう次に移動している。
インタビュールームに入れる人数はおよそ25人までなのだそうで、そのためにスワミは人数を聞くのである。インタビューを依頼した場合、だめなときには「ウエイト」と言ったり、手で待ての仕草をしたりするのだそうである。やはりだめか、そう思った次の瞬間、先の角を曲がったスワミがこちらを見て合図をした。私にはよく分からなかったが、それがインタビューOKの合図であったらしい。持ち物の座布団や本を抱えて、ダルシャンのじゃまにならないよう気を付けながら、マンディールの建物のインタビュールームの前に向かう。同じグループの女性達も広場の向こう側から集まってきた。
マンディールの建物の前の辺りは学生の座る場所で、信者さん達が座る床の高さよりは1メートルくらい高くなっている。インタビューに呼ばれた人は、男女別々にインタビュールームの前に座って、サイババがダルシャンを終えて戻ってくるのを待つのである。

戻ってきたスワミはそこにいる私たちにとても親しげに接してくれた。最初に女性達が同じグループなのかどうか確認をした。そして、待望のインタビュールームへ。
聞いていたとおり、6畳くらいの部屋である。先に入っていたインドの男性2人と我々のグループで20人くらいであるが、それで部屋はいっぱいになってしまった。部屋の隅にスワミの座るイスがひとつあって、我々は、床に詰めて座っている。私は部屋の入り口に近い、スワミから離れた場所に座った。とても、前の方に座る気持ちにはならなかった。この部屋に入れるだけで十分と思った。傍観者には傍観者の位置がある。
まずインド人のふたりに言葉をかけて、何が欲しいかと尋ね、指輪をひとつ取り出して与えた。ごく自然に、しかしこれから出すぞという雰囲気のうちに、あっと言う間に出してしまう。
そのインド人のふたりが部屋を出たあとは、我々のグループだけである。インタビュールームのドアの開け閉めは、スワミが自ら当然のことのように行う。部屋の天井のファンのスイッチも自分で入れる。
私はもう何も考えていない。部屋に入る前には、何を聞こうかなどとあれこれ考えたりしたのだが、この部屋の中では、まさにこの時を至上の時として味わい尽くすしかなかった。以前どうだったとか、今後どうなるとか、そう云ったことは、つまらない事であった。大切なのはこの今であって、いかに密度高くこの時を味わい尽くすかであった。スワミは「How are you?」と一人一人に、声をかけられた。ある女性は夫が信仰を持たず肉食を続けていることを改められないか尋ねた。しかし、明確な回答はなかった。ほかの女性には結婚して家庭に入ることを奨めたりもしていた。そう云われた人の中には、「私にはスワミがいる。私が愛しているのはスワミだけである。」と言う人もいた。もちろんそれは笑顔での会話であるが。
髪を少し染めた若者が指輪を出してもらった。私はそれをできる限り集中して見たつもりであったが、気づいたときにはもう指輪がスワミの手にあった。右の手の平を下にして少し動かしたのはいつものやり方である。ビブーティを出すときと同じである。物質化しているとき、サイババがその手のひらに集中していることは確かである。しかし、それ以上の事は何も分からない。それより驚いたことは、出て来た指輪がいかにも出来たてと云った感じに虹色に光を放っていたことである。どんなすばらしい宝石でもあんなには輝かないだろうほど輝いていた。もちろん、宝石を輝かせるためのスポットライトのようなものはこの部屋にはない。
仕事のことを尋ねた男性もいた。スワミは大丈夫と答えていた。
私はといえば、口に出す言葉が見つからなかった。インタビューに呼ばれたら質問しようと考えていた事がなかったわけではないのに、スワミをを前にするとどの質問もつまらない事に思えてしまった。そして私は、「風邪を引いています。」と言った。確かにこの旅で私の困っていることは風邪のことであった。しかし、その事を言うためにわざわざ日本から来たはずはないし、スワミにしても、私の心の中の混沌を感じていたに違いない。しかしまた、今になって考えてみれば、そのときの「風邪」というのは、案外私にとって本当に最大の問題であったかもしれない。アシュラムには世界中の風邪が集まってきていたし、私はバラナシ以来ずっと風邪気味であった。そのために体力を落とし、マドラスでは休息しなければならなかった。風邪は万病の元、健康でなければ何も始まらないのである。
それから、スワミは、女性全員にビブーティを出した。8人くらいの一人一人にビブーティを出し続けたのである。しかし、男性には回ってこなかったため、てっきり男性の方にも回ってくると思って準備をしていた私はちょっとがっかりした。それから、年輩の女性にスワミの着ているのと同じオレンジ色のローブを与えた。それをポイっと放り投げて与えたのもフランクな感じで悪くはなかった。
それから、もうすぐに日本に帰るという夫婦を奥にある別室に連れていって祝福した。聞いた話では、別室ではスワミはもっと個人的に祝福し、抱きしめてくれたりするそうである。
最後に、スワミは袋詰めのビブーティを全員に手渡した。人の間をスワミが歩いて一人一人に手渡してくれるのである。手渡しながら、声をかけてくれる。私に「風邪?」と問いかけてくれた。「はい、でも、問題ない。」「そう、問題ない。」そう言ってくれた。それは、私の中の混沌に対する答えでもあったように思われた。
私は最高に幸せな気持ちだったし、あらゆる質問に対して、スワミの答えが聞こえてくるような感じだった。

全部で30分くらいのインタビューが終わって、部屋から出ても余韻が全身を包み込んでいるのが分かる。インタビュールームは異次元空間につながってるんじゃないかとさえ思えた。部屋に入ってスワミがドアを閉めた瞬間から、インタビュールームは部屋ごと4次元空間を旅して、スワミがドアを開けた瞬間にアシュラムに帰ってきたような感じだ。ものすごく密度の高い空間、あるいは空飛ぶ円盤に乗せてもらった感じである。
インタビューが終わって、広間に戻ってから、バジャンが始まった。もちろんいつもと同じバジャンなのであるが、インタビューを終えた後でのバジャンは全く違っていた。感動がこみ上げてくるのである。スワミに向けて合わせた手を離すことができないような感じ、高揚して歓喜によって目が異様に輝いているのが自分でも分かる。インタビュールームは暑くなかったのに、気が付くと全身にだいぶん汗をかいている。異常なほど大きな感動の波に飲み込まれて、充実した感じに酔っている自分を感じながら、バジャンが終わってからもしばらく広間に座っていた。
宿に戻る頃には、それでも落ち着いてきたが、幸せな気分はずっと続いていた。

インタビューの翌日。グループのミーティングでは、みんな昨日の余韻をまだ楽しんでいるようであった。昨日指輪をもらった人に、その指輪を見せてもらった。リングは黄銅色でそれに白色透明の3ミリくらいの石が載っている。昼間の明るい日差しの中で見せてもらっているためか、昨日インタビュールームではじめて出てきた時のようなきらめきは感じられない。もらった人はサイズが少し大きくて緩いと言っていた。これから太るので大きめのものを出してくれたのだろうかとか、次に呼ばれたときに調整してもらえばよいとか、いろいろな事を言われていた。スワミにもらった指輪は死ぬまではずすべきではないという人もいた。だとすればなかなかたいへんである。グループには以前に指輪をもらっている人がいて、それも見せてもらった。リングは同じような材質だが、石は透明なグリーンだった。

秋の旅(8)

2007-09-29 12:15:05 | インド旅行記
グループ
プッタパルティに入って1週間目である。日本から持ってきた本もだいたい読み終わった。
気温は高め。窓を開けて天井ファンをゆっくり回しておいて、クルタ・ピジャマでちょうどいい感じ。日本から持ってきて、ここまで着てきた長袖のポロシャツは暑くて着る気にならない。日本で考えていたときは、日焼けとか蚊に刺されるとか考えて長袖を選んだけれど、インドにしろ、バンコクにしろ、カトマンドゥにしろ、風通しの良い半袖シャツがよい。それから帽子は必要だ。気温は暑くても何とかなるが、直射日光に頭をさらしていると、どうも頭が痛くなったりするし、疲れるのが早い。

メディテーションツリーに行ってみた。2月にはオレンジ色の実が付いていて鳥が集まっていたが、秋のこの時期は静かだった。メディテーションツリーはアシュラムの南の丘の中腹にあって、気根を持った大木が良い木陰を作っていて、名前の通り瞑想したり本を読んだりするのに適した場所だ。
ところで、私は瞑想というのがどうもよく分からない。私は体が固くてあぐらをかく事すら苦手であるから、座禅などできるはずもない。したがってそう云った指導を受けた経験がない。基本的には、良い姿勢を保ち、余分な力を抜き、腹式呼吸をし、何かに集中すればよいのだろうけれど、その何かがいまいちよく分からない。呼吸自体に集中してみることもあれば、身体を包む光を思い浮かべてみることもあるが、たいがいそのうちに眠くなってしまう。メディテーションツリーの下で居眠りをしたことはないが、ダルシャンの会場でスワミを待ちながら船を漕いだことはあった。

宿に、日本人5人のグループが入った。男2人に女3人。年齢はまちまちである。リーダー格の男は私と同じくらいの年齢。インドに長くいて、フリーマーケットを巡って日本に輸出するような仕事をしているらしい。彼は普段プーナにいるのだが、4人に頼まれてインドの案内をしていると云う。彼は何度かプッタパルティーに来たことがあり、他の人は初めてらしい。もうひとりの男性は頭を丸坊主にしているが、音楽関係の仕事だという。女性達の方は、エジプトに行きたい人とか、イスタンブールに行きたい人とか、日本の両親から病気が重いので帰って来いと言われて里心が付いてしまった人とか、いろいろである。彼らのインドでの旅の主題はアシュラム巡りだそうである。他にもそう云った「アシュラム巡り」の人は結構いるらしい。リーダーはプッタパルティーよりプーナの方がずっと良いから、ぜひ行ってみてはどうかという。ヨガの修行の設備だとか、周辺のレストランとかお酒を飲む場所とか環境が整っていて、自由な雰囲気であるらしい。
しかし、現在のプーナには『和尚』はいない。
そのリーダーも「もしインタビューを望むなら、例の日本人グループに属するのがよい。」と言ってくれた。

午後に、例の日本人のいる事務所に話を聞くために行ってみた。場所は、ウエスタンキャンティーンの前の道を、まっすぐ北に行った突き当たりである。事務所の開いている時間は午前10時から午後2時までと、午後6時から8時までらしい。その時間、メンバーが交代で事務所を開けている。
説明に当たってくれた人は、とても親切で、好感が持てる。
この日本人グループは、バラバラにアシュラムにやって来てバラバラにインタビューを希望する日本人が多いので、「日本人は、まとまりなさい」とスワミが言われて、それでできたのだそうである。その事もあり、グループのリーダーはスワミ自身であり、実際のまとめ役の人は世話人と呼ばれているらしい。インタビューを主な目的としているグループであるから、活動の方は自由参加が基本らしい。主な活動は、毎日午前11時から、ミーティングを30分くらい行う事と、午前午後のダルシャンにグループで参加することである。その他に、セバのできる人は各自の許す範囲で奉仕活動に参加してもらう。そんなところである。
このグループは個人でアシュラムに来た日本人が集まったものなので、直接オーガニゼイションとは関係がないようである。だから、日本にあるオーガニゼイションで活動している人もいるし、参加していない人もいる。
話を聞いたものの、私はまだ決めかねていた。ひとりでいた方がよいのではないかという思いが、まだあった。

彼らの話を聞くかぎりでは、サイババの日本人に対する期待はずいぶん大きいらしい。期待と言うよりも預言的な言葉であるらしい。しかし、あるいは、この言葉はどの国の若者にも同様に言っているのかもしれない。スワミにビジョンを見せてもらえば、それにむかってがんばろうという気持ちになるものである。
確かにサイババのアシュラムの中でも、日本人の行動は他の国の人々に比べて多少特異な感じではある。簡単に言えば、楽しむと云う意識に欠けているというのか、堅いというのか、要するにしたむきでまじめな感じである。しかし、それらは欠点ではなく美点だとは思う。

 「サイババに呼ばれた人以外、アシュラムに来ることはない。」「あなたがアシュラムに来たのは、サイババがあなたを呼んだからである。サイババが呼ばなければ、サイババに会いに来ることはできない。」そんなことをスワミが言ったと云われている。それに対していつも私の心に浮かぶのは「イスカリオテのユダもイエスが自らの使徒にしたのだ。」ということである。神の価値観は人間のそれと必ずしも一致しないのである。その事を承知していなければならない。
 スワミに呼ばれたという表現は少しばかり優越感を与えるのだけれど、別に優れているから呼んだのではないのである。心貧しい人だから呼んだのかもしれない。私も心貧しい人である。心が飢えているから、神のような存在を求めるのだと思う。現実の人間社会の疎外感にうんざりして、何かに生きている意味や自分の存在価値を見いだしたい、そんな人が心貧しい人である。まあ、それでも、サイババが呼んでくれたことに、その人は意味を見いだしたわけで、間違いなく呼ばれたのである。それは間違いない。

秋の旅(7)

2007-09-29 08:12:32 | インド旅行記
手紙
宿の一階の道路に面した部分のふた部屋は食堂と雑貨屋さんになっている。食堂はメニューもない、詰めて座っても10人くらいのものだが、イタリア風の食事ができるので、適当に繁盛している。しかし、値段は少し高い。インドで150円のスパゲッティは高級料理に属する。
愛想のないおじさんとおばさんでやっている雑貨屋さんには、日用品なら何でも揃っている。ここで手に入れた粉末の洗濯用洗剤はすぐれものだった。それまでは入浴用の固形せっけんを洗濯にも使っていたが、洗濯用洗剤はやはり全く違うのだ。その粉末洗剤を少しの水でバケツに溶いて、それに衣類を浸して30分待ってから、少し洗えばあら不思議、汚れがきれいに落ちてしまうのである。旅で汚れた鞄も靴もみんな洗ってしまって、すっきりする。
 
だいぶん体力が回復してきたようだ。ダルシャンの雰囲気にも慣れてきたし、手紙を書いてみようと思う。春に来た時には受け取ってもらえなかった。受け取ってもらえなかった理由は、自分で考えてみて何となく分かった気がする。今回はどうだろうか。今回は、日本語で書くことにした。拙い英語で書いたところで心が伝わるわけはないだろし、サイババは日本語も理解するという話だから問題はないだろう。何よりも大切なのは、手紙を書く時の私の気持ちであり、手紙を渡すときの私の心の持ちようなのである。
 
翌日のダルシャンで、サイババは、私の手紙を受け取ってくれた。幸せな気持ちでいっぱいになった。こんなにうれしい気持ちになったことは久しくなかったように思う。とにかく手紙を受け取ってもらえたのであるから、春に来た時に比べれば大進歩である。知り合いになった日本の人に「まるで子供のように喜んでいる」と言われたが確かにそんな気分であった。

アシュラム内には二階建ての立派な売店があって、アシュラムの生活に必要なモノから、みやげ物までひととおり揃えることができる。その一階にあるパン屋さんとアイスクリーム屋さんには、いつも列ができている。
それから人気があるのはココナツ売場である。1個5Rsのココナツが飛ぶように売れている。

アシュラムには、日本人のグループがある。春に来た時、ホワイトフィールドからプッタパルティーに移動するのに同乗させてもらったバスを仕立てたグループだ。他にも日本人のグループはあるようだし、私のように個人的に動いている人間もいる。
そのグループの人と知り合いになったので、アシュラムの事など教えてもらうついでに、そのグループの人のいる宿舎に案内してもらった。場所はアシュラムでもいちばん北側に並んだ建物の一階であった。そこは、寝泊まりする場所ではなく事務所風になっていたので、日本人グループが事務所を構えているのかと思ったが、そうではなく、そのあたりの建物の管理の取り次ぎを彼らがまかされていて、そのための事務所なのだそうだ。しかし、出入りするのはやはり日本人が多い。奥の部屋には布団や座布団、折りたたみの座椅子などの中古品のストックが保管してあり、薬や日本語のサイババ関係の本もあった。
ほとんどの日本人は普通の観光ビザでインドに入国しているから、半年しか滞在できないわけだが、私が春に来た時に見かけた人も何人かいた。インドの夏はさすがに暑いので、秋から春にかけてやって来る人が多いのかもしれない。
この時期のプッタパルティの気候は、軽井沢の夏の感じである。アシュラム内は良く整備されていて、緑も多い。その木立が野鳥の住処になっていて、朝晩はうるさいくらいである。

手紙を受け取ってもらったこともあって、順調な感じである。生活のリズムも安定してきた。ラジオもテレビも新聞もない生活も悪くない。
インタビューに呼ばれたいと思う。サイババの所に来るからには、誰しも思うことではある。しかし、現実にはそれほど簡単のことではない。1週間も経つとそのへんの状況はだんだん分かってくる。私が個人でインタビューに呼ばれる可能性はほとんどないだろう。それは、私の気持ちの問題でもある。私が、インタビューに呼ばれることを確信しており、それが、自身のおごりや傲慢によるものでなく、私心がなければ、スワミは私をインタビューに呼ぶだろうが、自らを振り返れば、私はほど遠いところにいるのである。
たとえば、会場に集まる3000人の信者から毎日30人をインタビューに呼ぶとして100日かかるわけだ。もちろん、誰でもかまわず均等に呼ぶわけではないから、連続して何回も呼ばれるグループもあれば、何年通っても呼ばれない人もいる。しかし、外国人の場合には、グループ単位でインタビューに呼ばれることが多いのは事実のようである。
この日本人グループの場合にも、ある程度の間隔でインタビューを受けているらしい。しかし、3ヶ月呼ばれないこともあるという。
スワミの生誕祭が近づくと催し物があったり有力な信者が来たりして、一般のインタビューの機会が少なくなると云う話も聞いた。

私がインタビューの機会を得るためには、この日本人グループに入れてもらうのがベストであろうと思う。それでも私がグループに入ることを躊躇しているのは、やはり、自分がサイババの信者であるという自覚がないためなのかもしれない。
私の場合、信仰というのは、純粋に個人的なものだと云う気持ちが強い。それを、何教の信者であるとか、誰それの信者であるとか、宣言することには無理を感じる。神はただ神であって名前もなければ姿もない。私は、神前で柏手を打ち、道端のお地蔵さんに手お合わせるが、それは、そういった具体的なモノをヨリシロにして自分の内にある何かと交流しているように感じる。
しかし、サイババは生きている人間である。正直なところ、最初は、サイババに向かい手を合わせる事にさえ抵抗を感じたのである。人は全て平等という考えからすれば、手を合わせて人を拝むという行為をして良いものだろうかと不安になったのである。
しかし、手を合わせてみると、それは相手に対して自分の意識を集中させるために適した姿勢であった。そして、サイババに対して手のひらをかざすという、あまり行儀の良くない行為までするようになった。太陽に手をかざすように、サイババに手をかざすとパワーをもらえるような気がするのだ。サイババは確かに特別な人のようである。

「ヨブへの答え」

2007-09-29 04:27:03 | Weblog

何か違った傾向の本を読みたくなって、本棚から「ヨブへの答え」(C.G.ユング みすず書房)を出してきた。
この本の冒頭に「好意的な読者へ」というユングの書いた前書きがあって、共感するところの多い文章でしたので、コピーしてみました。
ちなみに、この本を書いたとき、ユングは70歳台の半ばでありました。
この本では、なぜイエスが生まれたかと言う問題・旧約から新約への神と人間のドラマを描いています。

----- 「ヨブへの答え」(C.G.ユング みすず書房)より ------
 本書では、宗教的信仰の神聖な対象を俎上に載せることになるが、そのような者は誰であれ、まさにそのような対象をめぐって相い争っている両派のあいだでずたずたに引き裂かれる危険にさらされるものである。この争いは独特の前提に、すなわちあることが物理的事実として示される・あるいは示された・ときにのみ「真実」であるという前提に基づいている。たとえばキリストが処女から生まれたという事実を、ある人は物理的に真実であると信じるが、他の人は物理的に不可能であると反論する。誰でも明らかなように、こうした対立は論理的には決着の付けられないものであり、それゆえこうした不毛な論争は止めるのが賢明というものであろう。つまりどちらも正しいしどちらも間違っているのであって、双方が「物理的に」という言葉を捨てようと思いさえすれば、簡単に和解できるであろう。「物理的に」ということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。--中略--
 宗教的な発言はまさにこの部類に入るのである。それは例外なく、物理的には確かめようのない対象に関わっている。そうでなければ、それは有無を言わさず自然科学の分野に入れられてしまい、自然科学によって経験不可能なものとして無効とされてしまうであろう。物理的な事柄については宗教的発言は何の意味も持たない。その世界では宗教的発言はただの不思議であり、それだけで疑いの眼を向けられるであろうし、また一つの精神・すなわち一つの意味・の実在さえ証明できないであろう。なぜなら意味はつねにおのずから示されるものだからである。キリストの意味や精神はわれわれのうちにあり、奇跡によらずとも感じ取ることができる。奇跡は意味を掴み取ることのできない人々の知力に訴えるだけである。奇蹟は精神の実在を理解できないときの代用品にすぎないのである。こう言ったからといって、精神が生き生きとして現われているときにたまたま不思議な物理的出来事を伴うことがあるということを否定するものではなく、ただそうした出来事があったからといって精神を本質的に認識する代わりを務めることもできなければ、精神を認識させることもできないということを主張しているにすぎない。
 宗教的な発言が物理的に証明されている現象としばしば対立することさえあるという事実は、精神が物理的知覚から独立していることを、また心的経験が物理的事実からある程度独立していることを証明している。心は自律的な要因であり、宗教的発言はこころ(ゼーレ)の告白であって、それは最終的には無意識的な・つまり先験的な・働きに基づいている。この働きは物理的に知覚することはできないが、しかしその存在はそれに対応したこころ(ゼーレ)の告白によって証明される。こころ(ゼーレ)の発言は人間の意識を通して伝達される、すなわち具象的な形式を与えられるが、この形式はこれはこれでまた外的内的な雑多な影響に曝されている。それゆえ、宗教的内容について語るとき、われわれは言葉では表現しえないものを指し示すイメージの世界とかかわりあっているのである。--後略--

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秋の旅(6)

2007-09-28 06:45:22 | インド旅行記
ダルシャン
翌日からダルシャンに通い始めた。ダルシャンに使っている会場は拡張工事をしていて、その工事の騒音があり、会場はほこりっぽい。ダルシャンに集中するにはあまり良い環境ではない。気温も2月の時より高いような気がする。あるいは、湿度が高いのかもしれない。朝のダルシャンでは涼しいのだが、午後のダルシャンは暑い。人混みの中に座るとむっとしてくる。その中で2時間以上もあぐらをかいているのは疲れる。
春に来たときには気づかなかったが、プッタパルティーのアシュラムの北側には大きな湖が広がっている。

春に来た時に比べて、サイババはずいぶん痩せて見える。指など非常に細い。あまりヴィブーティを出さない。両手に手紙を持ったりしている。両手に手紙を持っていてはヴィブーティを出せないのだが、ヴィブーティを出すのがたいへんで両手で手紙を持っているのだろうか。サイババは少し猫背にみえる。老いと体力の衰えのようなものを感じてしまった。
しかし、その数日後には見違えるほど元気になっていたから、あるいは、私の心の持ち方でそのように見えただけなのかもしれない。

プッタパルティに来て4日目に宿を移った。今度の宿は、路地を少し入ったところにあり、3階の部屋は、風通しも日当たりも良い。眺めも悪くない。
アシュラム内の宿泊設備は良く整備されており、収容人数も大きいから、アシュラムの外にあるホテルの数はそれほど多くない。アシュラムの外は修行には適さない場所であるというのが基本的な考え方である。せっかくアシュラムまで来ながら、外に宿泊する事はない。それに、アシュラムの外は良くない想念の波動が多いといわれる。
良くない想念の波動と云われてもピンとこないが、たぶん、霊的な場を波動と呼んでいるのだろう。確かに、経験的にそれはある程度事実である。環境に影響されない人はいない。

しかし、サイババと一対一で向き合おうとした時に、アシュラム内の人間関係が重荷になる場合もあるかもしれないと考えたりもする。
もっとも私の場合は、タバコ好きで、しかも人間嫌いだから、なかなかアシュラムの中では暮らせないのだが。

サイババの発する霊的なエネルギーは非常に強力であるが、受け取る側に心の準備ができていない場合には、何も感じられないかもしれない。また、エネルギーを受け取ったにしても、その後でおしゃべりなどしてしまうと、定着する前に蒸発してしまうかもしれない。それゆえダルシャンの前には、心を静かに整えておくべきだし、ダルシャンの後には、静かな場所で余韻を味わうことが大切だといわれる。
 
サイババの起こす奇跡の特徴は、ヴィブーティや指輪を空中から取り出す物質化現象である。
それにしても、このような物質化と呼ばれる奇跡は理解しがたい。霊的な事柄や、精神的な事柄は、自身の過去の経験からある程度類推できても、そういった物理的なエネルギーを持たない精神的なものと、それこそ物理的エネルギーの固まりである物質とでは、全く別物に思えるのである。
たとえば、光を見たり音を聞いたりすると判断するのは脳であるから、光や音はそこに電磁波や音波がなくても脳がそのように機能すれば見えたり聞こえたりするかもしれない。しかし、物質そのものはもっと客観的な存在であるように思われる。精神が物質を作り出すとか、瞬間移動させると云う事は、全く理解を超えた現象である。

物質世界と精神世界を比べたとき、順序としてまず先に物質世界があり、それから精神世界ができてきたように私は考えていたが、そうではないのかもしれない。あるいはもっと基本的に、精神世界対物質世界という図式が間違っているのかもしれない。

一般の人間の場合でも、まず何かしらビジョンがあって、それを物質世界で実現してゆく。つまり、まず精神があってそれが物質世界を作ってゆくわけで、これはサイババの物質化と同じ流れだ。しかし通常は、物理法則によって説明できるような過程を経て作ってゆく。その過程が省略されているように見えるから奇跡なのだが、考えてみれば物理法則とは、自分自身を納得させるための方便に過ぎないともいえる。あるいは、我々には理解できない別の原理・別の法則・別の手段を使っているのかもしれない。

超能力はある霊的レベルに達すると副次的に備わってくる能力だという人もいるが、そうともいえないだろう。そういった能力と霊的なレベル?には多少の相関関係があるかもしれないが、せいぜいそのくらいだと思う。ちなみに人間以外の動物にも、それに似た能力はあるらしい。

この宇宙の全ては、神の現れであるから、石もタンポポも蟻もネコも全て神の現れであり、それは、個別にそれぞれが神の現れであると同時に、全体として神の現れである。人間の作った機械ですら神の現れなのである。人間は、人工物とそれ以外の『自然』を分けて考えがちだが、両者に区別などないのである。
人類が地上最悪の生物『狂った猿』で終わらないためにも、自らが神の現れであること、そして、あらゆるものが神の現れであることを、謙虚に受け止める事が必要なのだろう。自分が何者であるかを知らないと云うことが、私たちの最大の問題かもしれないのである。

銀行で両替の順番を待っていると、白人のおばあさんがやって来た。痩せた長身で年齢は80を越えているだろうか。肌は老いて、太い血管が腕にのたくっている。鼻は高く、あざやかな口紅をつけている。少し先のとんがった麦わら帽子の先を紅のスカーフでくるんで、濃い緑色のサリーを少し引きずっている。これでホウキを持っていれば完璧に魔法使いのおばあさんであるが、あいにくホウキは持っていない。
魔女というと悪役のイメージがあるが、魔法使いのおばあさんと云えばそれほどでもない。このおばあさんも悪役ではないし、醜悪でもない。威厳を感じさせる穏やかな雰囲気を持っていた。
神、天使、魔女、悪魔、これらの言葉から浮かぶイメージは、私の場合、過去に見た映画やテレビマンガによって作られてしまっているところが大部分である。実物を見たことがない(と思い込んでいる?)のだから、致し方ない。しかし、そう云ったイメージが逆に自分の思考を制限してしまっていると思うこともある。たとえば、『悪魔』と云う言葉から連想するイメージは、洋画に出てくる恐ろしい姿をした人間に近い形の生き物である。
しかし、本来、悪魔という存在は、自分の外部にあるものではなく、自分自身の心の中に存在しているのである。それは、自分の弱い心を強調し、利己的な欲望を正当化し、そそのかす心である。そして、悪魔が自分の中に住んでいるように、神も自分の中に住んでいるらしい。では、悪魔と神が対立関係で存在しているかと考えてみるとそうでもない。なぜなら、悪魔でさえ神の創造物であるはずだから。
現代人は、『神は死んだ』と宣言したものの、悪魔の方は放置したがために、悪魔に振り回されているのかもしれない。人間の中の悪は、人間が普通に考えるよりもはるかに巧妙に、悪魔としての目的を達しようと画策する。ところが現代人は、自分のうちに住む悪魔の存在を正しく認識していないために、それをコントロールすることができないらしい。
まあ、こういった擬人化した表現をあまり使いすぎると、事実から遠ざかってゆくような感じはするが。

このプッタパルティーの町は同じ地上にありながら、ほかと違った独特の雰囲気を持っていると感じられることがある。少し誇張して表現すれば、時空にできた特異な空間とでも云いたい感じだ。もちろんこう云った感じは、微妙・精妙・わずかな雰囲気の違いである。
だから、そんなことはない、単に外国人が多く集まる新興宗教の教祖のいるインドのちっぽけな田舎町、と一言で片づけることもできるだろう。
しかし、見ようによっては、ここに集まってきている人達は、サイババという神の化身に引き寄せられて集う諸天、菩薩、天使、預言者、そして様々な神々、それについて歩く眷属達、のようでもある。
そう云った諸々の魅力的な、あるいは妖しげな人々が集まって、なにやら意味ありげに過ごしている。不思議な感じの町である。

無題

2007-09-23 23:46:57 | Weblog
秋の旅をプログに載せる作業は、やり始めると、結構はまってしまいます。今日は、お彼岸の中日で、おまけに雨模様なので、気兼ねなくやってしまいました。

プログに乗せた記事の元になっている記録には、もっといろいろなことが書かれていたり、逆に書かれていなかったりしています。
あるいは、事実よりも論理が優先してしまっている内容の場合もあります。つまりストーリーに整合性を持たせるために、事実の解釈や場合によっては自分自身の気持ちまで、創作していたりします。本人は事実を偽るつもりはないのですが、論理的な言語脳は事実よりも論理の美しさを愛する傾向があるようです。それで、実際に価値判断を誤ることもあります。論理というのは価値判断に適しているように思えますが、論理には全体を鳥瞰して意味を考える力はないのかもしれません。
さらにその記録の元になっている本当の旅日記には、物の値段や、駅の名前、列車の出発時刻、出来事に対するその時の正直な感じ・感情などが、書かれてあります。
記事ではなるべくあっさりと書いてありますが、実際の旅では、もっとうんざりするようなたくさんのトラブルがありました。そういうトラブルに慣れて、それが当たり前になって、それも旅の一部として意味のあることなのだとわかるようにならないと、こういった旅は続けられないんだと思います。
旅は人生の縮図のようで、普通の日常に比べて密度も変化も大きいから、それで学びも多いということなのでしょう。

それから、どんな場所でも、そこに実際に行ってみないとわからないことがあるから、それで旅をするのかもしれません。
旅を思い出すときに、具体的に何を思い出すかといえば、結局その場の雰囲気です。空気感、風の匂い、その土地の人々の出す心の波動、その土地の神々の霊気。そういったものを求めて、旅をしているのかもしれません。

話は変わります。
最近の腕時計の夜光はずいぶん明るく光ります。しかも文字盤全面が光っている。これはあたらしく開発された(といってももうだいぶん前らしいが)夜光塗料のおかげらしい。現在は、夜光塗料とは言わずルミブライトと呼ぶらしい。
昔の夜光塗料には放射性物質が若干含まれていたという話も聞きます。それと区別する意味も含めてルミブライトと呼ぶらしい。
その、昼間でも薄暗い場所であれば光る腕時計をぼんやり見ていたら、子供の頃、駄菓子屋さんに、夜光で光るガイコツのオモチャが売られていたのを思い出しました。手のひらサイズでプラスチックで出来ていて、それほど高いものでもなく、何度か買った記憶があります。単に夜の暗闇でガイコツが青白く光って見えるだけのものなのですが、子供の頃にはそんなものになぜか惹かれました。
そのガイコツを思い出したら、それに続いて、やはり子供の頃に遊んだへび花火のことが思い出されてきました。へび花火というのは火をつけるとニュルニュルニュルと長くのびる花火です。花火といっても昼間に遊ぶものですね。
夜光のガイコツからへび花火へという連想がなぜ起きるのかわからないのですが、あるいは、それらが夏の玩具であって、同じ季節に遊んだためかもしれません。
へび花火から続いて思い出されたのは、ねずみ花火、ロケット花火、2B弾。どれも、結構刺激的なものだし、花火の分類からは外れたもののようですが、こういったものが記憶には強く残っているようです。
それから、どんどんどんどん子供の頃の記憶が芋づる式に出てきます。おもしろいですね。そういった記憶は、いつでも思い出せるというわけではないのですが、何かのきっかけで連鎖反応を起こすとよみがえってくるのですね。

秋の旅(5)

2007-09-23 19:51:30 | インド旅行記
プッタパルティ
列車の予約をしなかったため、マドラスからバンガロールまでの6時間は立ち通しだった。それだけに、バンガロールの駅のホームのベンチに腰掛けたときには、とうとうまた帰ってきたという安堵感のようなものが湧いてきた。
そして翌日の10月24日にバスでプッタパルティに入った。
とりあえず前回と同じ宿に入る。ガーネーシャゲートの正面にあるホテルだ。この宿、春に来たときよりもホテルらしくなっていたが、値段の方も高くなっていて、その値段でさえ風通しの悪い部屋にしか入れなかった。

私が来ることをサイババは快く思ってくれているのだろうか。旅の途中、そんな不安が何回か頭をもたげた。合理的に考えれば、そんなことを考えること自体が無意味なはずである。前回サイババに会いに来た時、一度手紙を渡そうとしてサイババに拒否されているが、サイババと意識の交流があったのはたぶんその時一度だけである。サイババにとって私は、イナゴの大群のように周りに集まってくるただの信者のひとりに過ぎないのだ。
しかし一方で、サイババは全てを見通しているという感じがしている。サイババも肉体を持った人間として生きているのだから、表面的な部分は我々と大差ないのだろうが、意識状態については、全く違うのかもしれない。

早々にアシュラムに入ってみると、ちょうどスワミ(サイババのこと)が講演をしていた。今日は何かの記念日だったろうか。スワミの隣には、英語に翻訳する人がいて、ふたりの声だけ聞いていると掛け合い漫才のように聞こえる。声の高い方がサイババらしいのだが、2人ともテンションが高いから、どちらが話して、どちらが訳しているのか、ちょっと聞いただけでは分からないようだ。もちろん英語で話している方が訳している声なのだが。
クルタ・ピジャマを着てみる。アシュラムではこれを着ている方が目立たない。2着で250ルピーとずいぶん安いが、案外丈夫だし、涼しい。これに馴染んでしまうと、日本から着てきたものは暑苦しく感じてしまう。もっとも、クルタ・ピジャマは、A真理教の服装のイメージが強く残っているので、はじめは少しばかり抵抗を感じたが。
さて、8ヶ月ぶりに再びここに来てみると、やはりなんとなく、違和感がある。それは、春に来た時にも感じたものだ。
アシュラムは信者の集まりである。それに対して、まだ私の立場は曖昧である。私の旅の目的地はサイババなのだが、じゃあ、信者だと胸を張って言えるかと云えば、あやしいものだ。私は、まだ観察者、傍観者、客観的に見たいとそんな思いを残していた。
いったい、自分は何のために、再び来たのだろうかと、思う。
 
30歳を過ぎる頃まで、私は奇跡のようなものはほとんど信じてはいなかった。ほとんど、というのは、多少は霊的なものを感じていたのではあるが。しかし、それは、身近な人が亡くなった時に、その人から何かしらパワーをもらったような、そんな感じがすると云った程度の事であった。
30歳を過ぎた頃、予知夢を幾つも見て、考え方を根本的に変えざるを得なくなった。
自分の体験を理解するために、何冊か本を読んでみた。ニューサイエンスと分類された本が多かったと思う。そして、予知夢はそれほど珍しい出来事ではなさそうだと分かった。

予知夢と預言ではだいぶんスケールが違うが、原理はそう違うわけではあるまい。とすれば、ノストラダムスもスウェーデンボルグもエドガーケーシーも、ある程度真実を語っているかもしれない。さらに、福音書に書かれたイエスの事も、ヨハネの黙示録もそのままに読んでみるべきなのかもしれない。しかし残念ながら、かれらは全て過去の人物である。もちろん精神の世界での時空は、その前後関係も距離感も曖昧な部分があるから、その人達を全く過去の人とは言い切れないのではあるが、現在肉体を持って存在しているわけではない。

では、現在の世の中にそう云った人物が全くいないかというと、もちろん、そんなことはない。日本にも、自動書記をするような人は結構いるらしいし、霊能者としてテレビを賑わせている人たちもいる。さらに教祖として活動している人もいる。しかし、いろいろなレベルの人がいるようだし、営業として誇張してやっている人もかなり多くいるだろう。また、レベルについては、その人本人でさえわからない場合がほとんどなのではないかと思う。ここでレベルといっているのは、たとえば霊能者の場合であれば、憑いている霊が低級か高級か、あるいは霊に踊らされているのか、霊をコントロールしているのか、そういった意味もある。

なんでサイババに興味があるかと云えば、サイババが何者であるのか、もっと知りたいという思いが強いからである。
サイババに強い力があることはわかっている。しかしわかっているのはそれだけである。さらに知るにはこの目でよく見、肌で感じなければならない。

秋の旅(4)

2007-09-23 12:46:54 | インド旅行記
マドラス
10月16日にカトマンドゥからインドのバラナシに戻った。再びインドの雑踏に戻ったわけである。
雨季の後のためだろう。ガンジス川の水量は、春に比べて多い。アッシーガートではガンジス川が溢れたという。春には川原にあったマリーゴールドの畑はもちろんなくなっている。
それにしても、バラナシの街頭の排気ガスはものすごい。すぐにのどを痛めた。
それで、すぐにバラナシを離れて南に行くことにした。
とりあえず、マドラスに行ってみることにする。海が見たくなったのと、気が向けば、さらにもう少し南に行ってもよいと思った。

バラナシからマドラスへは寝台列車を使った。
しかし、この列車の旅は、予想に反してハードな旅になった。まず、ファーストクラスを予約していたにもかかわらず、ファーストクラス用の車両のやりくりがつかなかったらしく、スリーパークラスの寝台を使うことになった。しかも、台風の影響が残っていて、線路が冠水しており、通常の路線とは違う線路に迂回して、だいぶん海岸から離れたルートを走ることになったらしい。そのためか、列車のスピードは、とても遅く、結局マドラスまで50時間以上かかった。
同じ車両には、スペインの男性と、イギリスの女性、オーストラリアの女性がいた。一応外国人は一カ所にまとめてあるのかもしれない。彼らは20代後半の感じだ。女性ふたりはがっしりしたりっぱな体格をしている。4人の共通点はタバコを吸う事くらいである。ただ、4人には、列車は今どのあたりを走っているか、と云う共通の話題があるので、たまに情報交換をする。しかし、あまり会話が弾むわけもないから、思い思いにガイドブックを読んだりして時間を潰している。
バラナシで乗り込んだ大勢の軍人さん達は途中で降りて、それ以降、この列車に乗り降りする人はまばらである。たぶん、通常のルートから外れているので、乗り降りする人が少ないのだと思う。
この列車には当たり前だが食堂車は付いていないし、車内販売もインドのそれだから、たまにホームに売店でもあればスナック菓子と飲料水を補給して、二日三晩冷房のない2等寝台に缶詰になった。

マドラスに近づくにつれて、線路の周りの植物も南国らしくなり、椰子の林が目立つようになってくる。少し蒸し暑くは感じるが、驚くほど暑いわけではない。
やっとのことでマドラスに着いたときには、そうとうに体力を消耗していた。しかも口の中が苦くて、何を食べてもおいしくない。この味覚の異常は、その後しばらくのあいだ続いた。
病気というほどではないと思うのだが、弱っていることは確かで、無理はできないと思い、マドラスで少し体力の回復を待つことにする。

宿は、サン・トメ聖堂に近い、路地の奥にある貸部屋を借りた。サン・トメ聖堂あたりは、繁華街から少し離れた場所で、海岸に近く静かである。借りた部屋の窓の外には大型のカワセミの留まる木があって、1日に何度かカワセミがやって来る。その木の根元は塀に囲まれていて、こちらからはそこに何があるのかわからないのだが、たぶん池でもあるのだろうと思う。
サン・トメ聖堂は12使徒のひとり聖トーマスの墓の上に建てられた教会だという。そして実際、聖堂の中に入ってみると、祭壇の地下にそれらしい墓所のようなものを見ることができた。その墓が本当に聖トーマスの墓であるかどうかは私の知るところではないが、聖なる雰囲気のただよう場所であった。

ローマ帝国の時代、ローマと南インドの間に交易があったことは事実らしいから、聖トーマスの話も本当なのかもしれない。
それに、イエス・キリストがガラリヤで伝道を始める以前にカシミール、チベットなどで修行生活をしていたという話さえある。
イエスの活動した時代は、釈尊が滅してすでに数百年が経った頃である。イエスの説いた教えが、旧約聖書から大きく飛躍していることを考えれば、そこに東洋の思想の影響を考えることもできるといわれる。

マドラスで、帰国の飛行機の予約をした。便は12月11日、一月半も先である。これからサイババのアシュラムに行くわけだが、それにしても少し長すぎるような気がした。
体力も少し戻ってきたので、マドラスからさらに南に旅することを再び考えたが、それよりもサイババに会うことの方に心が向いていた。博物館にも飽きたし、寺院巡りも充分したと思った。寺院に飾られた神様よりも、本物の神様に早く会いたいと云う思いが強くなっていた。

秋の旅(3)

2007-09-23 00:16:48 | インド旅行記
ナガルコット
さて、ネパールと云えばポカラである。ポカラへ行くかどうか、だいぶん迷った。しかし、バスで片道8時間かかると云うし、天候によってはお目当てのヒマラヤも見えないかもしれない。のんびりするには、カトマンドゥ近郊だけにした方がよいように思われたので、ポカラはやめにした。
そういえば、日本で計画を作っているときはチトワン国立公園も考えていたのだが、カルカッタでカトマンドゥからバラナシへの航空券を買った瞬間にそれも消えた。結局行き当たりばったりの旅なのである。まあ、旅というのはそれでよいのではあるが。
それで、明日から、ナガルコットに行くことにした。ヒマラヤが見える丘と云ううたい文句で標高は2000mくらいあると云う。運が良ければエヴェレストも見えるらしい。ポカラが標高800mくらいらしいから、ナガルコットの方が涼しいし、山らしい雰囲気も味わえるかもしれない。

カトマンドゥからナガルコットへは、まずトロリーバスでバクタプルと云う古い都まで行き、そこからバスを使う。
乗ったトロリーバスは中国製の新車であった。いすはプラスチック製の固いモノである。社内はすいている。1時間乗って4NRsだから、旅行者には便利である。もっとも、バスの方がさらに安くて速いのか、トロリーバスと平行して走っているバスは混んでいた。
さて、トロリーバスの終点からバクタプルの町に入る道の途中にある橋の手前に、通行税?を取る所があって、なんと300NRsも取るのである。
一度払えば何回も通れるのであるが、それにしてもずいぶん高いと思った。それにどうも料金を取っているのはこの道だけのように思うのである。裏道を通って町に入れば300NRs浮かせるわけだ。しかし、まあ、愛想の良いお嬢さんがいて、ナガルコットに行くバス停を地図で教えてくれた。

ナガルコットに行くバスは小型のミニバスである。このバスには人だけでなく大きな荷物やヤギまで積まれる。土地の人にとっては、このミニバスが唯一の公共交通機関なのだろう。
したがって、みんなで助け合って大きい荷物もヤギも、とにかく運ぶ。また、車掌さんはバス停で土地の人と両替をしている。車掌が集めた小銭を高額紙幣と両替しているのだ。ネパールでは、コインをほとんど見かけない。すべて紙幣である。しかも、小額紙幣は不足しているようだった。
バスの走る道は舗装された良い道で、まずまず快適な旅である。標高差は約700m、日本の山間部を秋に旅行しているような、穏やかな田んぼの風景である。もっとも現在の日本では、もうこういった風景を見つける事はできないのかもしれない。
段々畑の見える曲がりくねった坂道をしばらく登りつめた先にナガルコットのバス停があった。このバスはもう少し先まで行くらしいが、車掌がここだというので降りた。
降りた場所は、店が数軒並んでいる尾根の三辻である。降りてガイドブックの地図と見比べていると、若い男が例によって客引きに来た。適当に相手をしながらついて行ってみる事にする。どのみち同じ方向に歩くのだが、少し一緒に歩いただけでも情が移るので、気を使う。
歩いて行くと、なるほど地図に載っている宿もある。地図には起伏が書かれていないので分からなかったが、このあたりの宿はバス停から眺めの良い尾根伝いに点々と並んでいるのである。
その客引きの宿でも良いかなと思いはじめたが、しばらく行くといかにも眺めの良さそうな宿が目にとまった。それで、「すまないが、あの宿がよさそうに見えるから。」と客引きの男に謝って別れた。

確かにその宿からの眺めはすばらしかった。部屋から朝日と共にヒマラヤが見えるのである。贅沢である。しかし、その日の夕方はヒマラヤの方角に雲がかかっていて、残念ながら見ることは出来なかった。本当にヒマラヤを見ることができるのか少し不安になる。見えなければここまで来た意味がない。
夕暮れになると、このあたりは本当に静かになる。宿の食堂もほとんど電気照明を使わずにろうそくで雰囲気を出している。一度はこういう高原の宿で夜を過ごしたいと、以前から思っていたが、それがはからずも実現したわけだ。
外に出れば夜空は満天の星。今日明日あたりが新月だと思う。
東の方角からスバルが上り始め、天頂近くには白鳥座がある。白鳥座の尾羽のあたりで銀河が切れているのがはっきり分かる。まるでそこに黒いホウキ星があるようだ。アンドロメダ星雲ももちろんよく見えている。こんな星空を見るのは久しぶりだ。この星空を見れただけでも来た甲斐があったと思う。
しかし、夜になるとだいぶん寒くなる。内陸だし、標高2100mあるわけだから、寒くて当たり前なのだろう。

翌朝、ヒマラヤは日の出から10時くらいまで見る事ができた。アンナプルナ、マナスル、ランタン、私の聞いたことのある名前の山はそれくらい。宿の人はエヴェレストが見えていると言い、確かに日の出の頃には東の果てまで、ヒマラヤの山並みが連なって見えていたのだが、結局どれがエヴェレストだか分からず仕舞いだった。
カトマンドゥの方角を見ると、朝の内、盆地は朝霧に覆われている。カトマンドゥのホテルに泊まっていたとき、朝、曇ったように見えたのはこの霧のためらしい。

バクタプル
バクタプルはパタンと似た雰囲気の古い都である。泊まった宿はダンバール広場とタウマディ広場の間にある古い民家を改造したような所。
この宿はダンバール広場からでも見えるのであるが、それでも外に出ると方向がわからなくなり、宿の位置がわからなくなってしまう。あるいは、方向感覚がつかめなくなるのが古い都の特徴なのかもしれないと思ったりする。

パタンよりもバクタプルの方がいっそう落ち着いているし、見るところも多い。
木彫博物館は、元は僧院だったというこじんまりした建物で、昔の雰囲気を良く伝えている。全体に部屋は小さくて天井も低い。あまり照明を使っていない自然な光の中で、手のこんだ木彫を至る所で見ることができる。
こういった彫刻の感覚は日本人と似ているように感じる。というか、木彫を多用する文化が、日本と似ているということなのだろう。

バクタプルの旧王宮はすばらしい。彫刻もよくできているし、色彩も良く残っている。ただし、一番奥の寺院部分はヒンドゥ教徒以外立入禁止で、兵隊さんが立っていて入れてもらえない。それでも、一応聴いては見たのだが、「私はヒンドゥ教徒だ」と言い張ることもできない? まあ、出来るかもしれないのだが、なぜか正直になってしまって、うそを付く気にはなれなかった。

土産物屋を見て回る。タンカを売っている。しかし、あまり良いものはない。どこかで大量に作っていると云った感じだ。それに、日本人の感覚とはどことなく違っている。値段も高い。
そこで、ネパールの青年から声をかけられる。これから京都に行って、タンカを描くのだという。ホントの話かどうかはわからない。あるいは、そう言ってから、自分の店の品物を売ろうとしているのかもしれない。事実、店に来ないかと誘っている。あまり警戒してもつまらない旅になるのだが、ついつい警戒してしまう。まだお土産を買うわけにはいかないのだ。

部屋に洗濯をする場所がないので、宿の屋上で洗濯させてもらう。よく晴れていて気分が良い。
バクタプルは古い町で、建物が隙間なく詰めて建ててあるためか、みんな屋上を有効に利用している。屋上に鳥が食べるように穀物を供える習慣があるらしく、この屋上にもそんな場所があるし、他の屋上にもそれらしいものが見られた。よく澄んだ青空に菱形の小型の凧がいくつも揚がっている。

翌朝、まだ暗い4時頃から、宿の外で祈りの歌のようなものが聞こえて騒がしい。元々静かな町だから人の声が響くのである。その声に誘われて、私も宿を抜け出し通りに出て、まだ暗いダンバール広場まで行ってみた。
眺めていると、みんながみんな同じ動きをしているわけでもなく、数人のグループ毎に思い思いに、小さな祠や寺院を巡ってお参りしているようである。しかし先ほどまで聞こえていた歌声はもう聞こえなくなっていた。後で聞いたところでは、この日はダイサンという祭りの初日とのこと。ダイサンは日本の正月のような雰囲気の秋祭りらしい。
春の旅ではいくつかの祭りに偶然遭遇したが、今回も再び祭りに出会ってしまったわけだ。しかし、残念ながら、春と同じく今回も事前の調べができていないから、私には心の準備が出来ていない。そして、こういうことは私の人生全般においても同じように思える。なんに付け、心の準備ができていない。つまり出来事の意味や趣旨というものの理解が足りない。 

タメル地区
カトマンドゥの戻った。
多めにネパールルピーに両替してしまっていたので、少し良い部屋に泊まることにした。良い部屋と云っても、為替レートがとんでもないので日本円に換算すると驚くほど安い。得したと云う感じを通り越して、申し訳なく思ってしまう。
カトマンドゥのタメル地区は、外国人向けの安宿の並ぶ場所で、何でも揃っているスーパーマーケットもあれば、手ごろな価格で日本の家庭料理を食べさせてくれる食堂もあって、住み心地はすこぶる良い。
その夜、ダイサンの初日のカトマンドゥのダルバール広場はどうだろうかと町に出てみた。ところが道に迷ってしまい、1時間もぐるぐる歩いたあげくに、気が付くと宿の近くまで戻ってきてしまっていた。私は何人かに道を尋ねたのだが、質問の仕方が悪かったために、私の行きたい場所が相手に正しく伝わらなかったようだ。それで結局行ったり来たりして元の場所に戻ってしまったらしい。まあ、知らない土地で、夜に道に迷って街をさまようというのも、貴重な経験ではある。
夜の街角の寺院の前には山のように供物が積まれていて、たくさんのろうそくの明かりの中で参拝する人々が列を作っていた。

秋の旅(2)

2007-09-19 21:25:24 | インド旅行記
カトマンドゥ
カトマンドゥに入ったのは10月8日。
カトマンドゥの空港はさわやかに晴れていて、カルカッタの蒸し暑さに比べれば別天地、真夏から秋に移った感じである。気分も晴れ晴れとしてくる。来て良かったという感じがしてウキウキしてしまう。空港はきれいで新しい感じで、第一印象はよい。ビザを取る前に両替し、それからビザを取る。ビザは簡単に取れる。15日で15US$。
それからおもむろに空港の出口にむかう。客引きが寄ってくるがインドほどのむっとした熱気はない。みんなどこかにこやかである。プリペイドタクシーを使い、予定のゲストハウスに向かう。なぜかタクシーに同乗している客引きはしきりに別の宿を勧めるが、しかしそれほど強引ではない。
予定のHOTELは、看板も出ていないような、住宅地の中の目立たない宿である。しかし、建物や設備は立派で、静かな落ち着いた宿というなら理想的かもしれない。もちろん食事もできる。ちなみに、この宿の経営者はサイババの信者で、年に一回くらいは会いに出かけるのだと、後で従業員に聞いた。
屋上からは、川向こうの市街地の寺院をはじめ、スワヤンブナートなども良く見渡せる。ネパールに来た、そう感じさせる風景である。ただ、閑静な場所だけに、買い物には不便な感じだし、市街の観光名所からは少し遠いと思ったが、洗濯もあるのでとりあえず2日泊まることにした。
屋上から眺めるとカトマンドゥは山に囲まれた盆地で、周囲の丘の上にも町らしい建物が見えていた。夕方、日が西の山に隠れる間際には、スワヤンブナートのストーパだけに陽があたって、ネパール独特の目のある仏塔が輝いているのが印象的だった。
次の朝、歩いて街に出かける。道は舗装されていないだけでなく、ひどいでこぼこで、車などやっと走るような状態である。しかもこの道が裏道というほどでもなくガイドブック『地球の歩き方』にも載っているような道なのである。したがって人通りは多い。数少ない舗装されたメインストリートは排気ガスとほこりであるから、人が歩くにはこちらの方がよいのだろう。
宿のあるタハチャル地区と有名なクマリハウス辺りとを結ぶ道の途中には川幅50mくらいの川があって、オンボロの橋がかかっている。橋が古いのは別に良いのだが、問題はその川が悪臭を放つどぶ川になってしまっていることである。異常に汚い。水量はある程度あるのだが、ゴミは捨てられているわ、下水は垂れ流しになっているわで、駆けて橋を渡りたくなるほど臭う。実際に、夜、風がなく空気が盆地にたまる時には、その悪臭がホテルまで届いていたようだから、暑い夏などはさらにすごいかもしれない。この国は最近やっと近代化がスタートしたばかりらしいから、こう云ったことにはなかなか手が回らないのだろう。
歩いてみると、ダンバール広場は案外近かった。宿から15分もかからないかもしれない。バンコク・カルカッタ・カトマンドゥと市街地地図を見てきたが、地図によって縮尺がまちまちだから距離感がなかなかつかめないのだ。
ダンバール広場の寺院群は、どちらかと云えば中国文化の影響を感じさせる懐かしい感じの建物で、インドとは全く違う。ネパールに来たという感じがする。
しかし、どうも広場のゴミの散らかり方が半端でない。まだ朝早くで掃除の途中という事はあるが、シヴァテンプルの脇に積み上げられたゴミの山は、先ほどのどぶ川と共にカトマンドゥの印象をかなり悪くした。


パタン
インディアン・エアラインにリカンフォームに行く。その途中、インドラチョークの通りは古めかしい良い雰囲気の店が並ぶ通りである。この通りは車が入れないらしく、ぶらぶら歩くには都合がよい。道の辻には寺院があったり、市が立っていたりで、昔のままの風情が残っている。たぶん昔は日本もこうだったのだろうと思う。自動車社会になるまでは、道路はそのまま社交の場であり、市場であり、散歩の場であったのである。インドラチョークを過ぎると、車の行き交う通りに出て、排気ガスに閉口する。バスや乗り合い三輪車の排気ガスはインドと同様にすさまじい。

それから、タクシーでパタンに行く。パタンは古い都である。しかし、タクシーで行けばパタンまでほんの10分の距離。
カトマンドウはそれほど大きな町ではないのだ。
ネパールのタクシーはスズキマルチの800ccのワンボックスが多い。かなりパワーもあるし、小型で狭い道も楽に通れるし、人も荷物もたくさん積める。ほかには、日本製の1500cc前後の乗用車。これは、驚くほど古いタイプのカローラから、日本でも見かける本田の4ドアセダンまでいろいろである。韓国製の乗用車もある。しかしインドでよく見かけるアンバサダーはあまり走っていない。
パタンゲートからぶらぶら歩く。パタンの町並みは古く、土産物屋が並んでいる。しかしそれほど商売っけがあるとも思えない。静かに店を開いている感じである。
土産物で多く目に付くのはチベット風の仏像。チベット風の仏像は、顔の部分が艶消しになっている黄銅製のものである。どれも同じような優しいふくよかな顔をしている。
私の知識の中ではネパールは仏教国のはずであったが、実際にはほとんどヒンドゥ教の人々であるらしい。したがって仏教寺院というのは数少ない。その中の一つがパタンにあるゴールデンテンプル。しかし、私は、ゴールデンテンプルとは気づかずに、一度この寺院の前を通り過ぎている。寺院と云っても民家の間に入り口を持っているし、特別伽藍を構えているわけでもないので、目立たないのだ。
そのゴールデンテンプルの門を入ると例によって恰幅の良い男が出てきて、ガイドをすると言う。それで、いつものようにお断りする。それでもなかなか離れないので、ほっておく。無視することによって、お金を請求されないようにするのが、旅行で身に付いてしまったようだ。ただネパールの人がお金を要求するかどうかは分からないので、失礼なことをしているのかもしれない。何と無礼な旅行者だと、おじさんは憤慨していたかもしれない。
この仏教寺院は、ネパールのヒンドゥ教の寺院とほとんど変わらない。仏教寺院と言われなければ区別が付かないほどだ。ただよく見れば確かに仏像が祭られている。
その寺院から右手に行ったところに、パタンのダンバールスクエアがあった。強い日差しの中に広がる広場とそこに立ち並ぶ寺院は、これこそネパールと云った景色である。
そして、広場は土産物の露天でいっぱいである。しかし、並んでいるものはどれもガラクタにしか見えない。興味を引く物も中にはあったが、まだ荷物を増やすわけにはいかないと思う。

その日の帰りに、スワヤンブナートに行った。この寺院は高さ100メートル以上はある丘の上に立っているためとても目立つし、立派である。
さて、トイレに行きたくなった私は人に尋ねたりしたが要領を得ない。ネパールの人たちはどんなところで用を足しているのかと思った。こういう場所に公共のトイレがないというのは全く理解できない。
あとで、丘の上の寺院の裏手にトイレを見つけたが、そこはもう糞の山になっていてトイレではなかった。誰も管理をしていないらしい。
こういった所にお金をかける余裕などないのかもしれないが、それなら地元の観光業者が掃除をするとかすればいいのにと思う。まあ、今後観光客がたくさん来て、たくさんお金を落とすようになればよくなるのかもしれない。
それでもここからの眺めはすばらしい。寺院は何回も写真で見たチベット式のストーパ。その周囲の仏像なども雰囲気があっておもしろい。

スワヤンプナートから歩いて宿に帰ることにしたのが、歩き始めてみるとホントの田舎道である。広そうな道を歩いていても民家の庭に出てしまい、しかし、どうもそこが道なのである。結局この国ではまだ、車が道を走り初めてあまり時が経っていないのだろう。山あり谷ありで平らなところが少ない国土だから荷物の運搬は人間の背中か馬や牛の背中に頼らざるを得ない。したがって、道路は馬や牛が歩ければ十分だったのだろう。日本でも田舎に行くと今でもこんな道があって、道端にお地蔵さんがいたりしたことを思い出した。
とにかく道はまっすぐではなく、右にそれ左にそれ、人家の庭先をかすめ、何人もの人に道を尋ねて、やっとの事で宿に帰り着いた。

秋の旅(1)

2007-09-18 23:26:17 | インド旅行記
これから、秋の旅を載せてゆく事にする。
旅行した期間は、10年位前の9月の終わりから12月はじめまで。
期間は長いが、その半分くらいはプッタパルティに滞在していた。
この旅行のあとしばらくは、長期の旅行はできそうもなかったので、少し欲張った計画を立てた。
計画といっても、あってないようなものだが、航空券をカルカッタイン・デリーアウト・バンコクストップオーバーにしたので、それで一応大筋は決まってしまった。

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バンコク
彼岸を過ぎて朝晩だいぶん涼しくなってきた9月の終わりに出かけた。
南アジアはまだ暑いかもしれないし、雨季が明けていないかもしれないが、あまり出発を遅らせることもできなかった。
例によって少し風邪気味である。
春の旅を反省して、今回の旅はとにかくのんびりゆっくり動くこうと思った。しかし、それも成田にいる内だけの話で、いざ海外に出れば、たぶんそううまくはいかないのだろうが。

バンコク到着は意外に早く、明るい内に空港に着いた。時差が2時間あるから6時間くらいかかったのだが、ずいぶん早く感じた。
バンコクには1週間滞在する。1週間後のおなじ便に乗ってカルカッタに行くのである。
空港から安宿のあるというカオサン通りに行く事にして、エアポートバスを探しに外に出たが、大雨である。夕立という感じの降り方だ。
ガイドブックによると、カオサンに行くにはエアポートバスA2に乗ればよいらしいが、そのバスは見あたらない。何人かに聞くと皆59のバスに乗れという。それで、高速道路の下のバス停まで行って、59のバスに乗った。大きな荷物を抱えて雨の日にバスに乗るのは楽しいものではない。
バスの乗客の服装も顔立ちも日本と大差ない。小銭入れをカシャカシャ鳴らして乗車券を売る車掌がいなければ日本と錯覚してしまう。
成田を昼に発ったのに、まだバスの外は明るいのである。
しばらく走ると、乗っていたバスは終点になった。しかし、降ろされた場所は、まだだいぶん郊外らしい。
雨は上がったが、6時を過ぎて町は暗くなってきた。
それで、しかたなくタクシーを使いカオサン通りに到着。

しかし、私の入った宿はカオサン通りではなく、そのはす向かいの路地を入った先である。少しはずれである分静かな感じである。
カオサン通りは、旅行者にとっては便利な場所である。博物館や観光スポットの王宮に近く、水上バスの行き来するチャオプラヤー川の船着き場にも歩いて行ける。それに旅行者が多いから、独特の開放的な雰囲気がある。話をしてもしなくても、やはり旅行者は旅行者の中にいると落ち着くようである。カオサン通りの欠点は、駅まで少し遠い事くらいである。
バンコクでの1週間の内、後半の3日間はジム・トンプソンハウスの隣の路地の小さな宿に移った。こちらはエアコン付き。その分宿代は高いが、交通の便もよい。


タイの仏教
日本の仏教が大乗仏教であるのに対して、タイの仏教は上座部仏教であるという。簡単に云えば、使われている教典がより古い、釈尊の説いたものに近いということだ。
日本の仏教経典は漢文でとっつきづらいものである。その口語訳も分かりやすいとは言えない代物である場合が多い。
それに比べれば、パーリ語から直接口語に訳した上座部の教典は、ずいぶん読み易くはるかに親しみが持てる。したがって、私にとっての仏教とは、中村元先生の訳により岩波文庫に入っている上座部の教典の世界である。
私が『私は仏教徒である。』と云うときに、私がイメージしているのは上座部の経典の中にある釈尊の人格である。
それはたとえば、キリスト教徒の場合で言えば、福音書の中のイエスの人格に共感するという事である。
文化としての仏教やキリスト教は、地域や時代によって変わってしまうが、釈尊やイエスの人格は、文章にされてからは、それほど大きく変わってはいないはずである。
宗教の本質は、たぶんそのような人格に対する共感にあるはずである。釈尊のように生きる、あるいはイエスのように生きる事が、仏教徒やキリスト教徒の目的であってもよいはずだ。釈尊やイエスを現実離れした別世界の存在にしてしまったら、その宗教の意味の多くは失われてしまうのではないかと思う。

それにしても、タイの仏教寺院はハデで豪華である。そして、安置されているのは、ゴールドの仏像であったりエメラルドの仏像であったり。たぶんこう云ったものは権力の象徴であって、宗教の本質とは別物のようである。ただ、タイランドが豊かな国であり、仏教やその僧侶が大切にされているあかしではある。

上座部仏教であるから、日本のような不動明王や観音様はほとんどないようである。そのかわりに、どの寺院にも同じような形の仏陀の像がいくつも置いてあるようだった。
ワットスタットの近くを歩いていたら、仏具屋さんと花火やさんの並んだ通りがあって、等身大かそれ以上大きい黄銅色に輝く同じような仏像がたくさん置いてあった。売っていると云うことは需要があると云うことだ。つまり、タイでは、現在も新しい仏像がどんどん供給されていると云うことなのだろう。


カルカッタ
カルカッタに着いてからの計画など考えながらバンコクの空港で待っていると、同じ飛行機に乗る二人の日本人と会った。一人はカルカッタを知っているという28歳くらいの小柄な男性。もうひとりは30歳くらいでアメリカに1年くらいいたことがあるという女性。ふたりとも南インド方面へ行く予定らしい。期間もずいぶん長そうだ。半年くらいは考えている。
他に、関西の40歳くらいの女性は、これからボンベイ経由でアフリカ、ケニアのナイロビに行くのだという。この人は半年は日本、半年は外国生活だという。
さて、飛行機には、大きな同じような荷物を持ったインド人の大人数のグループが乗っていて、なかなか楽しかった。ランディングカードをリーダー格の人がまとめて書いたりしているが、観光の帰りと云った雰囲気でもない。いかにもインド人的に行動して、スチュワーデスを困らせたりしていた。しかも、私の隣に座った人はたばこが嫌いときている。自分が座っている席が喫煙席だという事が分かっていないらしい。
フライトの時間は2時間半くらいで、しかも時差が1時間半あるから、カルカッタは非常に近く感じた。しかし空港で手間取ったから、空港の外に出たときは、もう夜になっていた。

フライト時間はたかだか2時間半でもバンコクとカルカッタでは雰囲気が全く違う。東京からバンコクに入ってもほとんどカルチャーショックはないのだが、やはりインドは別の世界と云う印象が強い。
空港の外の薄暗いオレンジ色の照明に浮かぶオンボロのタクシーの群。 「また、来てしまった。」と口に出してみたが、別に来た事を後悔しているわけではない。

泊まる場所はサダルストリート。安宿街と云われる所である。飛行機で一緒だった三人もサダルストリートに行くということで、カルカッタを知っているという男性が手続きしたプリペイドタクシーでサダルストリートに向かう事になった。空港はまだそれほどでもないが、タクシーが走り出すといかにもインドらしい風景になってくる。カルカッタはすごいと聞いていたが確かにそのようだ。オンボロのバスや車、薄暗くほこりっぽい道、クラクションの音、何のために歩いているのか大勢の人たち。タクシーのヘッドライトは薄暗くて、危ないようである。

さて、タクシーは無事にサダルストリートまで来たが、ここで、お金を払った、いやお金を受け取っていないで、もめることになった。
プリペイドタクシーのシステムはいまだによく分からないのだが、少なくとも運転手は一枚運転手用の紙を持っていなければ、お金はもらえない。ところが運転手はそれを持っていないし、だいいちこの運転手達がプリペイドタクシーのシステムを知っているのかさえ疑わしくなる。さいわい同行の二人は英語ができるので、言い合っていると、通行人も話しに加わってきて、少しいやな雰囲気になる。
それでは空港のプリペイドタクシー窓口に電話してみようという事で、電話を捜して歩き始める。するとポリスマンらしき人がいるので、ちょうど良いとひとりが説明してみるが、警官も面倒には巻き込まれたくはないらしい。それで仕方なく電話をしても、電話はつながらない。
それで、私はもう充分だと思ったから、100Rsを運転手に渡して話を終わらせた。結局、中年のおじさんはそういう役回りになるのだと思う。
インドというのはこういう場所なんだと、インドが初めての人にわかってもらえれば、100Rsは安いものだ。

タクシーの一件が落着したところで、私は彼ら3人と別れた。どうも若い人と一緒ではついていけないような気がするのだ。
それで、私はひとりでホテルを探し始めたが、バンコクの時ほど簡単ではなかった。まず、ガイドブックを見て予定していた宿は見つからず、その後あたった二つのホテルは満室だと断られ、探すのが面倒になって客引きに案内してもらった宿は、サダルストリートから離れた裏町の古びた宿屋。窓はないし暑いしうるさい。しかし、一晩だけとあきらめて泊まることにする。
翌朝、その宿の周囲を歩いてみた。
昨夜は暗かったので、すごく場末の感じがしたが、実際にはそれほどでもない。場所はニューマーケットの裏手で、近くには映画館があったりする。宿の辺りは、いかにも市場と言った感じで、荷物を積んだトラックが出入りしている。
だからといって、このホテルにもう一晩泊まる気は全くないので、サダルストリートから博物館あたりに適当な宿を探して歩いた。
それで見つけたのがホテル・クリスタル。外から見るとしゃれた感じの白い外壁に緑のツタが少し掛かっていて、いい感じである。フロントも現代的なゲストハウス。しかし、よく見れば、階段の絨毯ははがされて、部屋の手入れもあまり良くない。が、なんといっても静かで、3階の部屋は風通しが良く、窓からの景色も悪くない。250Rsでここに泊まることにした。博物館まで10分以下、地下鉄の入り口までも10分以下。

さてカルカッタの博物館は、ずいぶん大きな建物である。中庭を取り巻いて2階建ての石造りの立派な建物。考古学の展示品はデリーに比べても引けを取らない。東インドらしくJAVAの遺跡から持ってきた物なども多数あった。イギリスが植民地支配していた時代にあちこちから運んできた物だろう。
博物館の中庭の噴水は盛大に水を吹き上げていて、風もあって涼しい。10月はじめのカルカッタは結構暑いから、こういった場所はのんびりするにはよい。


地下鉄
地下鉄でカーリーガート駅まで行き、カーリー寺院を見学する。地下鉄は、全線が開通しているようで,DUMDUMまで行けるらしい。しかしDUMDUMと云っても、空港からはずいぶん遠いようだ。駅には切符の自動販売機もあるが、だいたい故障しているから、窓口で切符を買う事になる。
地下鉄は、バスや路上電車に比べるとずっと空いているし、路線が一本しかないので、初心者向きで便利。

カーリー寺院は、カーリーガート駅から西に1kmほどの所にあるこじんまりした寺院だ。ヒンドゥー教の寺院というのはバラナシの有名な寺院もそうだったが、わりに小さい。権威を誇示するために巨大な寺院を建てる必要がないのだろう。土着の信仰であり、国家宗教と云った感じではない。
寺の周囲には花を売る店や、土産物の店などあってにぎわっている。寺の入り口に近づくとバラモンらしい人物がうるさい。うるさいというのは、アーしろコーしろと云って私を案内しようとするのである。その人は身なりも恰幅もよく、あるいは本当にバラモンなのかもしれないが、あとでガイド料を要求されても困るので、一切無視して、自分のペースで参拝する事にする。
まず靴を預ける場所を探すが、履物の預かり場所はあまり良い雰囲気の場所ではないので、花を売る店で5Rsの花を買って靴を預かってもらう。花屋は、外国人相手に金儲けをするバラモン氏?があまり好きではないらしく、私に好意的だったように思う。私が10Rs出したら5Rs返してくれたくらいだし、私の手を水で洗ってくれた。
それから寺院に入って他の人がするように花を投げ入れて、神様を拝んだ。バラモン氏が手首にひもを巻こうとするがそれは断った。インド人でもそんなひもをしている人は少ない。
皆が押し合うようにして拝んでいる神様の像は以外にかわいい顔をしていた。威厳とか厳めしさとか、そういったモノとはずいぶん違った雰囲気である。しかし、愛される感じはある。昔、だっこちゃん人形があったが、そんなかわいらしさである。とにかく、本来のカーリーの恐ろしい女性のイメージとは遠く離れている像であった。

それから、インディアンエアラインにいってカトマンドウのチケットを購入する。案外簡単に翌日のチケットが手に入った。
カルカッタにはあまり興味がなかった。

次にジャイナ教の寺院に行くことにした。しかし、地下鉄の駅はどこで降りたらよいのかよく分からない。適当な駅に降りて歩き始めたが、道を聞いても明確な答えは得られないし、どうもずいぶん遠回りしていたようである。それでも30分以上歩いたあげくにあきらめて、オートリクシャを頼んだら、ほんの少し走った所が目的の寺院だった。
ジャイナ教の寺院もカーリー寺院と同様、こじんまりした感じだが、なかなかお金のかかったきれいな寺院である。これはつまり信者が裕福な階層の人々だという事だろう。
寺院の入り口まで近づくと、例によってガイドらしき若者が寄ってくる。ガイドはお金を要求すると分かっているので、断りながら、適当にあしらって見学させてもらう。
よい大理石をふんだんに使った立派な寺院で、前に見たタイの寺院のような装飾感覚である。しかし、タイよりも仕事はずっと丁寧だ。銀などもふんだんに使われ、宝石も使われているという。
それにしても、像の表情の漫画的にかわいいこと。このようなかわいらしい優しい感じというのはどこから来るモノなのだろうかと思った。
ガイドの若者は断っても付いてくる。あまり悪い奴でもないらしいし、私も勝手が分からないので、適当につき合ってもらう。観光客は少なくて、はっきり観光客と分かるのは私一人くらいだから、写真を買ってくれとかいう男もつきまとうが、それほどしつこくはない。どちらかというと余裕のある穏やかな感じである。私と彼らのやりとりを聞いていて、笑っているおじさんもいて、なごやかである。カーリー寺院の周辺とはすこし土地柄が違うように感じた。
ここにはジャイナ教の寺院が四つあって、当然ながらそれぞれ少しずつ様子が違う。ガイドの青年のおかげで一人では入れそうもない所まで入ることもできたのはラッキーだった。
結局そのガイドは私を地下鉄の駅まで送ってくれて、私はいくらかの金を彼に渡すことになったが、良いガイドだったように思う。

無題

2007-09-18 00:24:53 | Weblog
今日は暑かった。35度を超えたと思う。湿度もあるから、真夏と同じである。
今年は太平洋高気圧が強いらしい。

廊下で音がするので行ってみると、カーテンにつかまっているムクドリを猫が下から狙っている。たぶん、くわえて家の中に持ち込んだものの、放してしまったのだろう。
ムクドリは、ハトよりも一回り小さい大きさで、これを家の中で食べられると後が大変なので、猫には申し訳ないが、逃がした。
猫にとって鳥を捕ることは本性であって、捕ったことをほめてやることはできても、とがめることはできない。

先日の密教の続きだが、真言宗の常用経典に「理趣経」というのがある。
これは、般若経の系統の経典ということで「空」を説いているらしい。
また、金剛頂経の第6番目の経典ということになっている。

たとえば、般若心経は、「空」を説くのに否定の表現を使っている。
それに対して、理趣経は「人間の生命力をそのまま使って、悟りへの道を開こうとする経典であり、人間の持っている最も根源となるバイタリティそのものを、押さえつけるのでなく、生かして、正しい方向へ引っ張っていこうとする経典」であるらしい。
しかし、どうもこの経典は、あまりにも上級者向きで、私には合わないようである。

このお経の有名な一節に「金剛手よ、もしこの理趣を聞きて受持し読誦することあらば、たとえ三界の一切の有情を害するも悪趣に堕せず」というのがある。
いろいろな経典を読んだ上でこれを読むなら、そう害はないでしょう。こういう表現もありかな、くらいに薄めて考えられるだろう。
しかし、この言葉だけを、あるいはこの経典だけを読んだとしたら、やはりまずいのではないかと思わざるをえない。
やはり言葉というのは危険なものです。言葉は心を離れて一人歩きをします。言葉はどのみち論理です。こういった危険な言葉には、もっとうんざりするほどたくさんの説明を付けなければいけないのではないでしょうか。

あるいは、この経典は、王族やクシャトリヤを対象に書かれたものかもしれません。
戦いの日々を送らざるをえなかったクシャトリヤなら、このような経典は救いになるでしょう。
たとえばバガヴァッド・ギーターでは、親しかった人々を敵として戦うことに躊躇するアルジュナにクリシュナが、クシャトリヤとしての本分を果たし戦うように言います。
そういったよその宗派に対抗して、このような過剰な表現が使われているのかもしれません。(全く根拠のない仮説です)

しかし、どう理由をつけたところで、他の命を奪うということは、あるいは犠牲者を出すことは、心に傷を刻むことなんだと思います。
先ほど見た映画「グラディエーター」の最後に「ローマは死んだ兵士に値するか?」という問いかけがあります。
これは、「ローマのために死んでいった兵士に値するローマにしなければならない。」という意味です。
振り返って、我々が多くの生命の犠牲の上に今こうしてあることを考えれば、その犠牲に値するか?を自分に問いかけることが必要なのだろうと思う。
そうでなければ、猫以下になってしまいます。なぜって、猫は捕ってきたものは、たいがいきれいに残さず食べます。たまに、ねずみの頭としっぽだけ残っていたりしますが・・・

無題

2007-09-11 23:42:10 | Weblog
ここのところ密教の本を2冊ばかり読んでいる。
どれも松長 有慶という人の本である。
高野山真言宗の座主・管長・高野山大学学長という経歴からすれば、真言宗でも最高に学識のある人物なのだろう。
一般向けの本なので、内容は難しいものではない。

私が密教に興味があるのは、真言宗の檀徒だからである。
別に好きで檀徒になったわけではなく、家が昔から檀家だったわけだが、檀徒であるにもかかわらず自分の属する宗教を知らずに、サイババやマハルシを語ったところで、足元が固まっていないような気がするのである。

こういった本を読んでみると、密教と言うのは、どうも仏教ではない別の宗教のような気がする。
まず、拠り所とする経典が違う。世界の常識では、拠り所とする経典が違えば別の宗教である。
それでも、たとえば経典の中で教えを説く中心人物が、釈迦あるいはその弟子であるなら、仏教と呼ぶこともできるかもしれないが、密教の場合明らかに違う。

発展・進化する特異な宗教として仏教をとらえれば、真言宗も仏教の範疇になんとかおさまりそうではある。
実際に、仏教はそういう特異な宗教なのかもしれない。だから、膨大な量の経典がある。
誰か一人の教えにしがみついて、そこから先に進みようがない宗教に比べれば、発展進化する宗教の方が健全かもしれない。
発展進化の方向を間違うと危険ではあるが・・・。

外国で「あなたの宗教は?」と聞かれたとき、Buddhist と答えれば無難だが、Buddhist からイメージする宗教の内容と、私の属する宗教はずいぶん違うように思う。
ではなんと言えばいいかというと、秘教的な仏教(Esoteric Buddhism)とか、タントラ仏教(Tantric Buddhism)とか、真言乗(Mantra-yana)とか、金剛乗(Vajra-yana)とかいうらしい。
ただし、プッタパルティでうっかり「Vajra-yana」などと言うと、アシュラムに入れてもらえず、バンガロールに送り返されるかもしれない。Japanese Vajra-yana という言葉が何をイメージさせるかわかりません。
Japanese Buddhism とでも答えておけば、嘘ではないし良いかもしれない。

写真は、昭和元年に火災で焼失した降三世明王立像。踏みつけているのはシヴァ神とウマ妃だそうです。
はるか昔のインドであった宗教的な勢力争いの象徴的なモチーフが、日本でこのような像になって、高野山にいらしたんですね。

ラマナ・マハルシ

2007-09-09 10:08:41 | Weblog
昨日は、一日車検の出来上がりを待つあいだ、マハルシの「あるがままに」を拾い読みした。
なぜ、サイババの本ではなくマハルシなのかと思うかもしれないが、本当のところは私にもわからない。

「あるがままに」は、サイババの本とは少し違った視点から書かれているし、言葉が平易で読みやすい。
この本は、帰依者との対話を収録したものが中心であるため、質問する人に理解できるように、同じ意味のことをいろいろな角度から説明している。
いろいろな角度からだけでなく、いろいろなレベルの相手に応じて話をされているので、全体として、マハルシの言わんとするところがだんだん明瞭になってくるような気がする。
言葉は平易だが、内容は本質的で深いように思う。
「沈黙の聖者」と呼ばれていたマハルシは、言葉による教えの限界をよくわかっていたので、それで彼の語る言葉は、簡潔でわかり易いのだと思う。
以下に少し抜粋をしておきたい。

-------
---真理を説くこととは、ただ知識を伝授することである。本当の意味においてそれがなされるのは、ただ沈黙によってのみである。---
いったいどのようにして話す言葉が起こるのだろうか?まず、そこに抽象的知識がある。そこから自我が現れ、その自我から想念が起こる。そしてその想念が話す言葉として現れるのである。つまり、言葉は本来の源泉のひ孫にあたる。言葉がいくらかの効果を生み出せるとすれば、沈黙から真理を説くことがどれだけ強力であるか、自分で判断してみるがいい。
---
真我を実現した賢者は霊的な波動を送り、それが多くの人びとを彼のもとに引き寄せるのである。---
真我を実現した賢者との接触を持てば、たとえ彼が何も話さなくとも、真理についてのより深い洞察を得る事だろう。---
グルは実在からあふれる自己知識の光を啓示して、沈黙を与える者である。グルの眼差しが弟子の瞳に出会えば、いかなる言葉もその意味を失うだろう。
-------

この文で「知識」とは単に情報のことではなくて、「さとり」のことをさしているのだと思います。
「沈黙」と言う言葉から連想するのは「捻華微笑」「以心伝心」。どちらも仏教の四文字熟語ですね。ですから、西洋人より日本人のほうが、「沈黙」について多少は理解しやすいのかもしれない。
たとえば、「あるがままに」の質問者には西洋人らしい人がいて、その人は「言葉」で何かを求めるために、マハルシとの会話がかみ合わないような状況も生まれている。

無題

2007-09-05 02:59:59 | Weblog
とりあえず、「春の旅」がおわりました。読み返してみると、昔はずいぶん、いろんなことをまじめに考えていたんだと思う。
この旅は、混乱の中で出発して、すこしずつ自分を取り戻してゆく旅だったともいえる。
実際の旅は、書いた内容よりもはるかに混乱したものでして、つまり「毒をもって毒を制す」ような自分発見の旅であったかもしれません。

この続きで「秋の旅」があるのですが、「秋の旅」はしばらくおあずけにしたい。
以前書いたものをそのままでは、使えそうもないように思う。

話は変わるがEVAの新しい劇場版が公開された。
予告編をみると、10年前のテレビ版とあまり変わっていないようにも思える。
私のような年齢でEVAでもないが、まあ御勘弁願いたい。
予告編の宇多田ヒカルの歌は、いつもながらすばらしい。Fly Me To The Moon が良い。
で、どこかで聞いたなと思って、CDをひっくり返したら出てきました。2000年の「Wait & See」 に入ってました。


こんな時間に起きているのは良くないのですが、のどが渇いて飲んだお茶がいけなかったようです。
眠れないときに無理をして寝ようとすると、悪い夢を見るので、こんな事をしています。

マンガをバカにする事はできません。その影響力はものすごいです。ですから、子供にはできるだけ良質のマンガを見てもらいたいと思うのですが・・・
EVAは子供向けのマンガではありませんね。アニメーション作品といえばいいのでしょうね。
先日書いた押井守氏の作品もそうです。

こういったマンガに共通していえる事は、「神の不在」ですかね。「神の不在」にもかかわらず、ひとは無意識に「神」を求めるので、結果として、きわめて原始的な、つまり洗練される以前の、おどろおどろしい「神の原型のようなもの」が登場する事になる。怪獣とかウルトラマンとか宇宙人とかラムちゃんとかドラエモンとか鬼太郎とかニュータイプとか、魔法使いとか、怨霊とか、ありとあらゆるものが出てくる。そういったものが出てこないと人々が納得しないらしく、そういったものが出てくれば売り上げが伸びる。
それが人々の無意識の要求なんでしょうね。
できればもっと洗練された「神」を要求すべきだと思うのですが・・・なかなかそこまでは行けていない。

結果として作品の内容は、不条理な世界に投げ込まれた少年少女が、その混乱の中で、明るい未来の展望もなく、悩みそれでも状況に迫られて必死に戦うというストーリーになってくる。
こういった設定は、案外簡単に現実と重ねる事ができる。
イラクに送られた兵士も同じかもしれないし、一般のサラリーマンにしても同じような気持ちの人が多いかもしれない。
周囲の状況はやたらにハイテクに囲まれてきているけれど、人間の中身は、ジャングルから草原に出てきた時とあまり変わってはいないのだ。