如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

破綻

2007-12-29 14:51:05 | Weblog
この前、埋蔵金の話をした。
国にも、埋蔵金と呼ばれる別会計の隠れた資金が多少あるらしい。
しかし、その金額は、全体の借金と比較して、あまりにも小額?である。

というより借金が多すぎる。借金千兆円。イメージできない。
それを無理やりイメージしてみる。
100万円の札束が1cm。1億円だと、その百倍で1m。1000億円で1km。
1兆円で10km。1千兆円で1万km。
地球の円周が4万kmだから、その4分の1の高さの札束が必要になる。
札束を並べるわけではない。積み上げて1万kmである。
金塊にしたら・・・
1万円で3gとして1億円で30kg、1兆円で300トン、1千兆円で30万トン。桁があってるかどうか、自信がなくなる。

こんな状況であるにもかかわらず、平気でいる感覚が全く理解できない。
赤字予算を毎年組み続ける政治家と官僚。それを放置している国民。借金はいつか返すものであるが、どうすれば返せるか、というあては全くない。本当のところ、まともに返す気がないのかもしれない。
政治家も官僚も、数年の任期で替わってゆくから、自分のときに破綻が明確にならなければ、それでよいとたかをくくっている。
とりあえず、債券を発行すれば買ってくれる人がいる。今のところは・・・
しかし、そういえば郵政公社は、民間の株式会社に変わったことだし・・・

それに、財政を立て直すために、システムの改革を進めようとすれば、既得権益を守ろうとする反対勢力がつぶしにかかる。
そして増税しようとすれば国民の支持が得られず選挙で負ける。少なくとも今まではそうだった。
国民が目先の恩恵を求めるのは致し方ないかもしれない。
やはり、政治家や官僚が、国民に向けて充分に説明をし理解を求め続けなければいけないにもかかわらず、それをあまりしていないことに大きな問題があるのだろうと思う。

私は、どちらかといえば自民党よりの人間なのであるが、衆参ねじれ国会による政治の停滞を打破するためならば、次の衆議院選挙では民主党を勝たせるしかないのでは、とさえ思う。
なにも改革をしないことは今までどおりということであり、借金はどんどん増えてゆく。
それよりは、一度民主党に政権を取っていただいて、結果を見た方がよいのではないだろうか。
それで民主党に能力がないということになれば、再び自民党に政権は戻ってくるだろう。

私は、経済や政治には疎いので、情報はわずかです。
そのためにこの見解は偏っている可能性があります。
しかし、小市民としては、借金を放置し続けて、さらに借金を重ねてゆく感覚が理解できないもので・・・

そういえば、政府は、いまだにデフレ体質の克服みたいな事を言っているが、これも全く理解できない。
民間は、新技術の開発にしのぎを削り、改善に次ぐ改善による生産性の向上と品質の改善、雇用の見直し、人員整理、生産拠点の移動、流通コストの削減・・・で競争をし、その結果として価格を下げることができたわけだ。そういう努力を考慮せずに、デフレ体質というのはおかしい。

技術の進歩が、コストを下げ、重労働を減らし、労働時間を短縮し、生活をより人間らしいものに変えてゆくはずだった。
一方で、価格は需要と供給で決まる、現代は、投機筋の動きによっても価格が変わるのかもしれないが・・・
とにかく、政府がデフレやインフレのコントロールをしようとすることに無理があるように思う。たぶんできないだろう。

それでも政府は適度なインフレをもくろんでいるのかもしれない。インフレは借金を実質的に小さくするから。
しかし、インフレは、借金を小さくするのと同時に預貯金や年金を実質的に小さくする。このために、労働収入のない高齢者の生活は厳しくなるだろう。

なにはともあれ、まず、コスト意識の低い、あるいはコスト意識のない人々の数を少なくする事が先決だと思うのだが。

ケータイ

2007-12-24 21:04:30 | Weblog
一昨日の晩は雪になるかもしれないという天気予報だったが、結局雨であった。気温がもう2~3度下がらないと雪にはならないのだろう。今日は満月で、きれいな月が昇っている。月の近くに火星が明るく輝いている。

先日携帯電話を失くした。一週間ほどして出てきたが、もちろん機種変更したあとであった。
失くしたケータイは2年以上使っていたもので、それなりに痛んでいたので、機種変更にそれほど抵抗はなかったが、携帯電話をなくすというのは、やはり気分の悪いものだった。
悪用されては困ると、いろいろ悪い方に想像したりもした。

今度の機種は、カシオW53CA カメラ機能に力を入れたケータイという触れ込みの機種である。
確かに、カメラの機能は豊富である。しかし、写りは、コンパクトデジカメに遠く及ばないように思う。補助のカメラとして、記録用として使うには充分だと思うが、色の再現性に疑問を感じる。キャノンのPowerShotと比較しての話だが・・・ 
こういう違いは、レンズの違いというよりも、デジタル処理の違いなのかもしれない。
それでも、ケータイにオマケで付いているカメラとしては、良い方なのかもしれない。
ケータイはどんどん変わってゆくので、新しい機種にすると、とりあえず使えるようになるまでにずいぶん時間がかかる。
今度のは、ICカードが入っているので、コードの変更もしなければいけないし、その他にも、セキュリティー用のコードも変更しなければならない。
変更しなくても、失くさなければ初期値のままでかまわないのだろうが、前のを失くした直後では、そういうわけにもいかない。
そんなわけで、昨日は終日、携帯電話をいじくりまわしてしまった。
ケータイのデータのパソコンでの管理は、以前から使っているMysync Suite というソフトが、新しい機種でも使えたので助かった。アドレスや写真をパソコンとやり取りするのは、このソフトで十分だと思う。

話は変わるが、先日テレビで、車載カメラを積んだ車が自動車事故を起こした時の、その車載カメラの映像を放送していた。タクシーには車載カメラを積んだものがあるのだそうである。
それを見ると、右折する時、対向車の陰から出てくるオートバイとか、夜間に対向車のヘッドライトの光に包まれて見えないセンターライン上の人とか、とにかく視界に急に飛び出してくるものに衝突する事故が多い事がわかる。こういう映像をたまに見ることは、事故防止にだいぶん有効なのだろうと思った。いちばん怖いのは、慣れによる心の緩みなのだと思う。注意していても、それでも事故は起きるのだが、避けられる可能性があるなら、避ける努力をした方がよい。

久しぶりに、レンタルビデオを借りに出かけた。前に何時借りたか記憶にないくらい長い間借りていないので、たまには行ってみようと思った。
しかし、行ってはみたものの、これを観たいというものが見当たらない。好奇心が弱くなっているという事だろうか。
それでも何か借りようと思って、結局選んだのは、パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト 。
この映画の一作目をテレビで見ていたので、続き物の感覚で見てみたくなった。
一作目で感じたのは、この映画には通常の善悪の観念が通用しないという事。海賊の話だから当然なのかもしれない。
通常の善悪の向こう側ではあるが、登場人物はそれぞれの価値観や美意識によって行動してゆくわけで、それが結構新鮮だった。
この二作目は、一作目のような完結した終わり方ではなく、明らかに三作目に続く事を意識した内容だった。
それにしても、この作品全体に漂っている北の海のような暗さは何なのだろうかと思う。作品は南の海の話なのだが・・・
映像が全体に暗いこと。パイプオルガンを使った哀愁を感じさせる音楽を使っていること。登場人物がグロテスクで、衣服もきたならしいこと。よく言えばリアリティーがあるといえるわけだが・・・

レンタルビデオ屋の棚を見ても、日本映画に借りたいと思うものが見当たらない。よく探せば、良い作品はあるはずなのだが・・・

それから、昨日テレビで見た映画は、ナショナル トレジャー。
この映画で新しいと感じたのは、アメリカ国内に宝探しの場所を設定していたところ。今まで宝探しといえば、インディージョーンズのような設定が一般的だった。
さすがに、宝自体はアメリカ製ではなく古代エジプトの物だったが、それはいたしかたのないこと。
前述のパイレーツ・・・に比べれば、こちらは、お茶の間で家族でお菓子を食べながらでも楽しめる内容だった。
ちなみに、パイレーツ・・・もナショナル・・・もディズニーの作品。

日本で宝探しといえば、徳川幕府の埋蔵金なのだが・・・どうなんでしょう?
江戸城を開城するまでに外国から軍艦などを買うためにほとんど使ってしまったのか、蝦夷に運ぼうとした船が海に沈んでしまったのか、明治新政府がそっと頂戴したのか、どちらにしてもどこかに埋めて隠したりはしないように思う。
戦時に軍資金を隠すという発想はないだろう。軍資金があれば、それを使って少しでも軍を立て直さなければならない。
もし幕府に資金が残っていたという情報があったのなら、新政府がそれを放置したはずはなく、どんな手段を使っても探していただろう。

そのほかに、宝探しの対象になるようなものが日本に残っているとすれば、まだ調査されていない古墳くらいだろう。発掘されていない古墳はほとんど国の管理だと思うが、あるいは誰にも知られていない未盗掘の古墳もどこかにまだ残っているかもしれない。しかし、よほどの人物の墓でなければ、副葬品もたかが知れているわけで、宝とは呼べないものだろう。

それよりも、古い家であれば、自宅の蔵や押入れの奥を探した方がよいと思う。
それこそ、アメリカが建国する以前から続いている家が日本にはいくらでもあるわけで、そちらを探した方が見つかる可能性ははるかに高いだろう。

ふたご座の流星群

2007-12-15 12:44:53 | Weblog
昨日の夜から今朝にかけて、ふたご座の流星群が現れるという事だったが、寒くて屋外での観察はしなかった。それでも夜明け前に目が覚めたので、布団に入ったまま、窓の外を見ていたら、二つ流れ星が見えました。たぶん、降るような流星群は出現しなかったのだろうと思います。
もう7~8年前のしし座流星群の大出現の予想の時には、見逃すまいと思って外で観察していました。あの時には、ずいぶん明るい流れ星が飛んだのを思い出しました。「降るような」というほどではありませんでしたけれど。
今、ふたご座のあたりには明るい火星があって、夕方東の空に上ってきます。陽が沈む頃に東の空に上がってくるという事は、地球の軌道の外を廻っている火星が地球に近い位置にあるということです。

私に住む土地の紅葉は、12月初めが見ごろなのですが、今年は特にきれいでした。11月後半から急に寒くなったのと、この時期に雨が少なかった事が、紅葉の色の出方にはよかったのだと思います。
晩秋のこの季節には、空気の青さを感じます。紅葉の赤が、遠くにゆくにしたがって少しずつ透明な青に染まってゆく感じです。そういう景色の中に暮らしていられる事は、ほんとに幸せな事なんだと思います。

今年の冬休みは、土曜日曜がうまく組み合わされて9連休なのですが、今のところたいした予定はありません。
年末年始は行事もあって出かけづらいですし、猫の背中をなでながらのんびりしたいと思います。

薄情

2007-12-01 23:10:35 | Weblog
前回に引き続いてテレビドラマの話。
最近おもしろいと思っているのが「CSIマイアミ」。テレビ東京でお昼の時間帯に放送しているアメリカ製のテレビドラマ。しかし、後一回で終りかもしれない。
CSIというのは、警察の科学捜査班のこと。事件を科学的な調査によって解決してゆくストーリーなのだが、見ごたえがある。
ロイター通信が"世界で最も視聴者の多いアメリカの番組"と報じたそうだが、なるほどと思う。
夜のゴールデンタイムに放送すればそれなりに視聴率が稼げると思うのだが、それができない理由が何かあるのだろうか。ちなみに、私は録画で見ています。

今は、韓国製のドラマが数多く放送されているが、アメリカの方がレベルはかなり上だと思う。
思い出したが、私が子供の頃に見たのは、アメリカのドラマばかりでしたね。「ララミー牧場」とか「奥様は魔女」とか「名犬ラッシー」「コンバット」・・・ずいぶん見てましたね。
そういえば今度NHKBS3でペ・ヨンジュン主演の歴史物の韓国ドラマを放送するらしい。どんなもんでしょうかねぇ・・・

最近言われた言葉に「薄情」というのがある。思い当たる節は充分にある。
基本的に対人恐怖症だから、他人にかかわりたくない。しかも、私は対人恐怖症と感じているが、他人から見れば「人間嫌い」である。そして確かに人間嫌いになっていると思う。
他人に干渉される事が嫌いだから、他人に干渉する事もしない。したがって人間関係は疎である。
他人から、思いやりみたいなことをされるのが嫌いだから、他人にそういうことをしない。
さらに、無意識にあるいは意識的に人を遠ざけようとする傾向さえあると思う。
だから共同作業は苦手。大げさに言えば「俺の仕事に手を出すな、お前の仕事にも手を出さないから。」という感じ。
自分が嫌いな事は、他人も嫌いだと思っているが、どうもそうではないらしいと気づく事もある。しかし、だからといって今更どうしようという気持ちもない。
したがって、私は「薄情」であると思う。
それでずいぶん、他人を傷つけてきたのかもしれない。期待される「思いやり」が欠如しているわけだから・・・そういうことになる。
しかし、「薄情」の世界も住んでみれば悪くない。一人で山に入る時の気分がそれに近いかもしれない。
たとえばいつか、一人で山に入ったまま帰れなくなって、それで終りになるのかもしれないが、それも人生だと思う。
もうずいぶん前に知り合いから「お前が山に入るのは、死に場所を求めているようだ。」と言われた事があった。自分ではそんな事を意識した事はなかったが、少しはそういう意味もあったのかなと、今頃になって思う。
そう言ってくれた人は、すでにあちらに逝ってしまいましたけど。

ネアンデルタール

2007-12-01 16:49:15 | Weblog
プログの書込みをサボっている間に、すっかり冬になってしまった。
遠くに見える山々はもう雪で真っ白です。
10月半ばまでは暑い日もあったことを考えると、今年は秋が短かったようです。

飼っている猫は、秋に入ってからずいぶんたくさん食べるようになり、丸々と太りました。今年は寒い冬になるのかもしれません。

気候の温暖化が心配されていますが、現在は間氷期のピークがすぎたところという見方もあり、だとすればこれからは、徐々に気温が低くなる傾向かもしれません。
氷河期と間氷期という自然の周期的な変動に、人間の活動がどれほど影響を与えるか、まだよくわからようです。

インド旅行記の「秋の旅」が、載せ終わりました。
自分にとっては必然な旅だったのですが、家族や周囲の皆さんには、迷惑や心配をかけたわけです。どう説明したところで理解されたとは思えないし、必然だという事を論理的に説明する事は、今でもできそうにありません。

今日から、見られるテレビ局の数が増えました。しかし、目新しいものはありません。視聴率が取れないから、予算もそれほどないはず。

前回、この秋のテレビドラマについて書きましたが、結局ちゃんと見ているのは「医龍Ⅱ」だけになりました。このドラマはよくできていると思います。毎週新しい展開があって、個々の登場人物にスポットライトを当てて描き出して、結果としてチームのメンバーが増えてゆくというストーリーは、私の好きな水滸伝や八犬伝と似ています。来週からは揃ったメンバーで新たな事態に対処してゆく事になるのでしょう。
もうひとつ、このドラマの優れている点は音楽の使い方。音楽によってメリハリを付けてゆくやり方は、慣れるとかなり気持ちよい。

最近読んだ本は、「ネアンデルタール」。
エンターテイメントの小説を読んでみたくなり、BOOKOFFで見つけてきた。
設定にはかなり無理を感じるし、ストーリの展開にもリアリティーが不足しているが、そういったことを別にすれば、興味深い内容の本だった。
ネアンデルタール人についてはいろいろな説があって、確定的なことはほとんどないらしい。だから小説にもなりやすい。
ネアンデルタールは、われわれの祖先ではないというDNA調査の結果にしても、これからの研究でひっくり返らないとも限らない。

とりあずいえることは、ネアンデルタールが、われわれと同じ祖先を持つ非常に近い関係にある種であったという事である。しかも両者は、しばらくの間、共存していた。共存していたといっても、仲良くしていたという意味ではないが、同じ時代に、同じ土地にいて、相手を見る機会もあっただろうという事である。
そこで一番の問題は、なぜネアンデルタールが絶えてしまい、我々サピエンス・サピエンスが生き残っているかという事になる。
ネアンデルタールは、火を利用していたし、石器も使っていたのは確からしい。体力は、サピエンス・サピエンスよりも強かったと考えられる。

簡単に結論を出しても仕方ないのだが、サピエンス・サピエンスのほうが少しずる賢く、少し繁殖力が大盛だったということかもしれない。
似たような種が、同じ土地で同じような食性で共存していた場合、ほんの少しの違いによるほんの少しの影響が、長い年月つもり積もって、一方は徐々に数を減らしついには絶滅してしまう。

サピエンス・サピエンスは、とにかく一年中繁殖期だし、何でも食べるし、冒険癖もある。
冒険癖というのは、同じサピエンス・サピエンスが、地球のどこにでも、太平洋の真ん中の孤島にまで、はるか昔から住んでいることからも明らかである。

では、サピエンス・サピエンスとネアンデルタールのどちらが優れていたかというと、それはわからない。そういう比較をすべき問題ではないように思う。人間社会の尺度で計るべき事柄ではないだろう。

考えてみれば、今の社会では、子供を持たないサピエンス・サピエンスがたくさんいる。理由はさておき子孫を残さない。
子孫を残さないという事は、小さな絶滅である。
今生きている一人一人は、サピエンス・サピエンスの何十万年も続いてきた進化?のTREEの先端の一枝なのだが、子孫を残さない事でその枝はそこでストップし、小さな絶滅をする。
絶滅も悪いことではないとは思うが・・・
今生きている人々の内の誰の遺伝子が、一万年後に残っていて地上を歩いているかという事を考えてみる・・・

秋の旅(21・おわり)

2007-12-01 12:23:52 | インド旅行記
12月09日
ニューデリー駅に着いたのは11時頃。クロークにバッグを預けて街に出た。駅のクロークはホームにあるところが多く、ニューデリー駅も1番ホームである。預けるときに切符を見せて、そのナンバーを控えている。
駅を出て、今日泊まるホテルを探してみる。どこでもよいような気もする。
ゴールデンカフェで飯を食べる。ここで会った日本の若者は飛行機から荷物が出てこなかったそうだ。航空会社に問い合わせたところ、明日また連絡してくれと云われたという。本人はあっけらかんとしているが、初めての一人旅でのっけから荷物が無くなってはたまったものではないだろう。彼は、パキスタンの方、ガンダーラ遺跡やモヘンジョダロに行くつもりだったのだそうだが、とにかく足止めをくっているのである。

それから、各州の物産店の集まっているところにお土産を買いに行った。しかし、昼飯時から2時までは店をクローズしている。それで、向かいの通りのコーヒーハウスに入った。古いビルの最上階にあるのだが、オンボロのレストランで、ウエイターはおじいさんばかり。お客の方も時間をつぶしているような感じの人が多い。

物産店は、どの店も立派な建物だが、客は少ない。そう云った店が通りに10店くらい並んでいる。州政府の店という事で店員は公務員のようなのんびりした商売をしている。
心が動く物もあるが、あまり買えない気分だ。
その帰りに、歩道の路面に並べて売っていたヒンドゥーの神様のポスターを買った。
ダラムシャラーでのトレッキングの疲れが出ているのだろうが、スリにやられてもおかしくないような不注意な格好でポスターを漁っていた、と後で思う。

宿を探すのも面倒なので数日前に泊まったAJAYに行ってみた。しかしAJAYには良い部屋が空いていない。それで向かいにある同じ経営者のHARE・RAMAに行ってみた。
こちらのゲストハウスでもなぜか最初は窓のない安い部屋に案内された。自分はそんなにみすぼらしい身なりをしているのかと思う。
確かに、薄汚れて少し破れたショルダーバッグひとつで、他に荷物も持っていないのだから、チベッタンの巡礼のように見えるのだろう。バックパックはまだ駅のクロークにある。
その後ふた部屋見せてもらって、最後の部屋が良さそうだったので、そこに泊まることにした。200Rsだがまあまあの部屋である。
しかし、すぐに分かったのだが、その部屋は階段の踊り場の近くで、そのすぐ上には屋上レストランがあったのである。したがって、けっこううるさい。これは失敗したと思ったが、しかたない。結局そんなに良い部屋はないのである。まあ、レストランに近いという事は便利であることは確かだし。

12月10日
今日は、わざわざデリーアウトの航空券を買った唯一の理由であるクリシュナ像に会いにラクシュミ・ナーラーヤン寺院に行った。宿から歩いて20分くらいの距離である。案外近い。
前回の時は案内のおじさんがいたが、今回は靴をおいて勝手に入ることができた。
地球に乗っている神様の像の地球の部分に今回は色が塗られていた。前回来た時は塗ってなかったような気がするのだが。
一番奥の部屋にあるお目当てのクリシュナの今回の着物はグリーンだった。春に来た時に比べ少し化粧が濃いし、マリーゴールドの首飾りは前の時より少ない。前回の方がそう云った意味でもっと良かったとは思うのだが、それでも非常に引きつけられる像である。

帰りに野菜市場を歩く。新鮮な野菜が何でも揃っている。目に付いたのは大根、日本のと同じだ。タマネギは皮の赤紫のヤツ。茄子はソフトボールくらいにまんまる。オクラやニンニク、生姜、何でも手に入りそうであった。リンゴがおいしそうだったので買った。味は良かった。

ゴールデンカフェであった学生はカルカッタイン、カルカッタアウトで、バラナシにも十日くらい滞在したと言うが、バラナシのゴールデンテンプルにもヒンドゥー大学の博物館にも行っていないと言う。
私のように名所ばかり回っている観光客的な旅とは違う旅があるのかもしれないと思った。
ガイドブックを持たずに、行く先々で得た情報だけで旅を組み立ててゆけば、そういう旅になるのかもしれない。『深夜特急』の沢木のような旅である。まあ、私にはできないが。

12月11日
今日は帰国の日。夜の便であるから、最後の観光をして、また土産物でも買おうと思う。
空港へはニューデリー駅からバスに乗ろうと思ったので、まず駅に行って、バスステーションを確認する。バスステーションは駅の反対側である。
しかし、行ってみると、案内板がない。大きなバスステーションなのだが、さっぱり分からない。ガイドブックのバス停の番号を頼りにバス停は見つけたが、そこには時刻表はおろか、行き先表示もない。これでは、ここから空港に行ける自信はない。それでこのバス停から空港に行く事は、即諦めた。

次に、サイクルリクシャでジャマーマスジドに向かう。イスラムの寺院である。オールドデリーにはサイクルリキシャが似合う。
実際のイスラム寺院は、私の中にあるイスラム寺院のイメージとだいぶん違っている。どこでそんなイメージが植え付けられたのか忘れてしまったが、イメージの中のイスラム寺院はタマネギ型のモスクにステンドグラスの窓、香の立ちこめた室内にターバンを巻いた白っぽい装束の僧侶、そんな感じである。実際の寺院がそれとはだいぶん違うと分かってからも、心の奥底にはそのイメージが生き続けているらしい。
イスラムの教えの本質は分からないが、それ自体は悪い宗教というわけではないと思う。今また、イスラムを信仰する人々が増えているという話も聞く。

ジャマーマスジドは、階段の付いた大きな基壇の上の入り口から入ると、広い石畳の広場になっていて、メッカ側に礼拝堂が建てられていた。
広場の中央には池がある。アグラで見たイスラム寺院も同じような形式だったように思う。
広場の周囲には現代とは無関係な顔立ちの老人達がゆったりとひなたぼっこしている。
広場の祭壇側や建物の中には礼拝用にジュータンが敷かれてあるから、今でも毎日時間になるとここに集まってきてメッカに向かって礼拝する人たちがいるのだろうと思う。もちろん祭壇と行っても何もない大理石の白い壁である。
その祭壇の脇に、色とりどりに美しく装丁された本がたくさん積んであった。コーランだろうか。

ジャマーマスジドからラールキラーの入り口の方に歩き、チャンドニーチョークと呼ばれるオールドデリーのメインストリートを歩いた。商店の並ぶ立派な通りである。
想像していたよりもずっと都会的で道路も歩いて渡れないほど広い。
そこから、銀の装飾品を売る店の並ぶ路地に入った。どの店も間口の狭い小さな店である。銀の値段は毎日変わるそうで、聞くと今日は1グラムいくらと教えてくれた。どの店にもハカリが置いてあるのは、目方で売ったり買ったりするためだろう。器や装飾品に加工したものには加工費がプラスされるが、加工費自体は安いものらしい。
銀製の灰皿が欲しくなった。高価ではなかったが、結局やめてしまった。
さらに路地に入って行くと、今度は飾りものの店ばかり並んでいる。造花、ビーズ、リボン、神様に着せる衣装とか帽子、祭りに使う派手な衣装、そんなモノを扱う店がずらっと並んでいる。

コンノートプレイスのインディアンエアラインの前からエアポートバスが出るというので、チケットを買い、時刻を確認した。6時過ぎのバスに乗ることにする。

それから、タンカが欲しくなって、チベット土産の店を歩いてみるが良いものはない。あやしげなガラクタばかりである。
最後に入った店には、それでもいくつか古いタンカが掛けてあった。店員が「タンカか。タンカなら2階にもっとある。」と言う。
私はちょっと腰が引けた。なぜなら、2階に上がる階段はハシゴのようで、その先は暗闇だったからだ。
それでも先に上がっていった店員に誘われて、おっかなびっくり狭い木製の階段を上がってみた。すると、確かにそこにはタンカが驚くほどたくさんあった。新しいものもが多いが、古そうなものもたくさんあって、壁に何枚も重ねて掛けてある。棚には巻いて保管している物も相当ありそうだった。
そのひとつが気に入って値段を聞いてみると900Rs。割合に安い。それを700Rsにして買うことにした。1500Rsくらい出せば結構大きなものも買えそうであった、しかし、お土産にはあまり適当ではないような気がした。

エアポートバスは混んでいなかった。しかし、道は非常に混んでいる。それでも途中からは空港への取り付け道路になりガラガラに空いていた。今度はバスがとばすのに驚いた。
バスは、はじめに国内線のターミナルに停まるのだが、国内線と国際線の表示を見落とすと降りてしまいそうになる。

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この旅で得られた事は、ずいぶんたくさんあった。
とりあえず、やるべきことはすべてしたような満足感がある。

目的を持って現れた神の化身は、人類を、生物を、地球を、宇宙を輝かせるために、神を表現しているのかもしれない。
重要なのは、サイババにしろ、イエスにしろ、人間の肉体を持って現れたことである。かれらは、肉体という有限な物に制約されているように見える。
しかし、有限に見えるのも我々の勝手な思考パターンに過ぎないのかもしれない。
とにかく、人間でありながら、自らが「神の子」であると認識できたり、「神の化身」であると認識できたりする存在が、この世界にかつて生きていて、今も現にいる。
その人が「あなた方も私と同じ神の子・神の化身なのだ。」と言ってくれる。
それを我々が正しい意味において認識できたとき、我々はひとつ前に進めるように思われる。

言葉という不完全な未熟な道具を振り回しても、実物とは似ても似つかない像ができるだけなのであるが、それでも、何か形にしたいのが人間であるらしい。

** 以上で、秋の旅の記録を終わります。