如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

無題

2006-08-28 23:11:01 | Weblog
科学読み物の類の本が好きで、若い頃からいろいろ読んできた。
しかし、結局のところわかった事は、何もわからないということだった。
ビッグバン宇宙論が正しいのか、定常宇宙論が正しいのか・・・今のところビッグバン宇宙論に分がありそうだが・・・
ビッグバン宇宙論というのも、めちゃくちゃな考えである。時間も空間も何もなかったところに、この宇宙全体を作るだけのエネルギーがポンっと生じてしまったなんて・・・
サイババの物質化どころの話ではない。
この宇宙が存在するのだから、サイババの物質化があっても不思議ではない・・・ともいえる??

そもそも時間というのが何なのか・・・時間とはこうこうこうゆうものですっていうわかりやすく納得できる説明を読んだ事がない。
空間にしても、なぜこの世界が3次元であって2次元でもなく4次元でもないのか・・・・実はこの世界は11次元だという理論もあったようだが???
宇宙が始まる前には時間も空間もなかったって・・・イメージできるわけがない。
特殊相対性理論のおおもとは光速不変ですが、なぜ不変なのか、その理由はわからない。そうらしいというだけの話。いちおう実験で確かめられているし、理論どおり原爆は爆発したし・・・

結局本質的なことは何もわかってはいない。少しずついろいろな事がわかってきているのは事実だけれど・・・それ以上にわからない事が増えているのではないかと思える。

物理学の終焉という話を聞いた事がある。物理学でのあたらしい発見がだんだん減ってきたという話だ。なんにでも限界というものはあるのかもしれない。
もちろんその限界を一歩乗り越えたときに、全く新しい世界が開ける可能性はあるわけだが・・・

物理学に限らず、人類に全く新しい世界が開けるとしたら、それはどんな状況においてそうなるか・・・イメージとしては・・・個々の意識の変化が集団的無意識を変化させ、その変化がある臨界点を超えたとき人類全体の意識の変容となって、人類は目の前に新しい世界が開けている事に気づく・・・こんな感じ。
まあ、そうならない限り、人類に明るい未来はないような気がする・・・これは少し悲観論ですが。

しかし、天然資源を食いつぶしている現在の繁栄が長く続くはずがないことは誰にでもわかっている事だし、エネルギーの使用量を抑えない事には自然のバランスを保つ事が出来ない事もわかっている事だし・・・すぐそこに危機が迫っているのはやっぱり事実だろうし・・・未来の人類の皆さんは、資源を食いつぶし地球をめちゃめちゃにした大悪党である我々を悪魔のように言う事でありましょうし・・・さてどうします???

祝100回

2006-08-24 23:42:58 | Weblog
なにはともあれ100回目であります。
ここのところ少しペースが落ちているとは思うが、たしかにそう書くことがあるわけでもない。

私の体験した珍しい事などは、はじめの方でまとめて書いたと思うが、すでに本人もいつごろ何を書いたのか覚えているわけではない。

途中で、カテゴリーを分けるということも考えたが、どうもカテゴリーに分けて書くほど内容がまとまっているわけではない。

前回、物質化についての科学的な解説書があると言ったが、それが出てきた。
ジョン・デビッドソン著「空間からの物質化」。
題名からは、あたかもサイババの物質化についての説明でもあるように感じられるが、本当の題名は「THE SECRET OF THE CREATIVE VACUUM」という。
「創造的な真空についての秘密」というのが正しい。
日本名は、営業的な考えで付けたものでしょう。私はついそれに引っかかった??
この本は、いわゆるニューサイエンスに分類される本であるが、読み応えはある。しかし、サイババの物質化についての答えを探すことは出来そうもない。
それはともかく、ケンブリッジで生物学を専攻し、同大学でコンピューター技師として働き、東洋哲学を研究したという著者の考え方には共感するところがある。
Amazonである程度内容が読めるようなので、興味のある方はAmazonで見てください。

しばらく前までは、田舎の本屋さんにもニューサイエンスの本がたくさん並んでいた。
その中には、よい本がたくさんあったのだが、あまり売れなくなったのか、近頃はめっきり減ってしまったように思う。
今は、インターネットで本を選ぶようになったので、数の動かない高い本は置かなくなったのかもしれない。
そういうわけで本屋さんで本を探す楽しみ(苦しみ?)はなくなりました。
ニューサイエンスでは工作舎の本が多かったように思う。たいていどれも厚い本でした。
その中でおすすめするとすれば「植物の神秘生活」。あまり新しい内容の本ではないが、植物に興味のある方にはおもしろいと思う。
これもAmazonで手に入ります・・・でも少し高いです。500ページ以上ありますから仕方ないですけど。

物質化について

2006-08-20 23:33:29 | Weblog
iTunesをダウンロードして使い始めた。とりあえずサイ・グローバル・ハーモニー専用。

いくつかサイババ関連のホームページを見たが、どこでもサイババのお写真は最近のもので、若い頃の写真があまりないようだ。
それで、私の持っている写真では一番若い頃の一枚を、今日は載せておきます。
30歳代のころでしょうかねぇ。この写真の頃は、川の砂地などでクリシュナの像などをよく物質化していたらしい。この写真もそんなときの一枚だと思う。

さて、正直なところ「物質化」については、全く理解不能である。
サイババ以外でも物質化の話はある。以前紹介したヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」にもそういう話はあった。
私は「物質化」についての科学的?な解説書を一冊持っているのだが、探しても出てこないほど奥に入ってしまったらしい。

催眠術でも、物質化現象に似た経験を起こすことはいくらでも出来るのだが、それは一時的なものであり、そのうちに錯覚だとわかる。
もちろん手品を使えばいくらでも可能だ。
サイババにしても、ある程度手品を使っているのかもしれない。しかし、サイババの起こす物質化が100パーセント手品だと断定する事は出来ない。
サイババの若い頃の物質化現象についての調査結果は、ハラルドソンの「サイ・ババの奇蹟」に詳しい。
この調査を読むと、その当時の物質化のすべてが手品だとは、どうも考えられない。
ただ、サイババの「物質化」は、本人も言っているように「名刺代わり」である。それの真偽を検証する事にたいした意味はない。

サイババがダルシャンの時に出すビブーティにしても、それを疑いながらいただいたのでは意味がない。ありがたくいただく事で心がスワミに通じるのだと思う。
まあ、ダルシャンの場合、余分なつまらぬことを考えないで、ダルシャンを楽しむのがよい。
ダルシャンの場にいる事が出来て、しかもスワミがすぐ傍を歩かれるのである。
理屈ではわからない事を、体験で学ぶのがダルシャンの場である。
ダルシャンの時に出してもらったビブーティを三つ今でも持っている。
もっともそのうちのひとつは、ビブーティを出した後のスワミにハンカチを渡して手を拭いてもらったものだが・・・手を拭いてからスワミはハンカチを投げ返してくれるんですね。
どれも、もらったときにハンカチに包み、それをビニールの袋に入れてそのまま保管している。

話は変わるが、なくなったと思っていたサイ・フォーラムが、「サイババ批判」という名前で残っていた。
あまり読む気もしないが、数年前に何を考えていたかをちょっと思い出してみることも必要かなと思ったり・・・

抜粋ラーマクリシュナの福音

2006-08-16 23:55:53 | Weblog
今日まで休みなので、市役所に行ったり銀行に行ったり、精霊棚の片づけをしたり、ごろごろテレビを見たりしてすごした。
少し夏休み気分になった。

昨日今日と「抜粋ラーマクリシュナの福音」をひろい読みしている。
ラーマクリシュナは奇蹟を起こすわけでもないし、それほど独創的な宗教理論を述べるわけでもない。
ただ彼はどこでもサマーディに入る人だった。そして神に近い視点で物を見ることが出来る人だった。

ラーマクリシュナの言葉にこんなのがあった。
「愛をもって主の御名を唱えるのが唯一の必要なこと、他のすべてのことにはほとんど値打ちがない!バクティが実在、他のすべては非実在だ!」
この言葉は、昨日の法然の言葉に通ずるところがあると思う。
他のところではこう言っている。
「--前略--バクティ(神への愛)をあたえたまえと祈りなさい。仮にお前が幸いにして神を見奉ったとする。--中略--ひとたび神のビジョンと向き合ってごらん、--中略--もうその時にはわれわれは、もっと光を、もっと最高の意味の知識を、もっと神への愛を、われわれを人から神へと高めあげる愛を、自分たちは本当に最高実在の息子なのだ、とわれわれに悟らせる愛を、あたえたまえとおねがいするだろう。--後略--」

「バクティ(神への愛)をあたえたまえと祈りなさい。」が新鮮に感じられた。
「バクティ(神への愛)をあたえたまえ」と祈り続ける事によって、神への愛はどんどん深まるわけで、その愛の力が「われわれを人から神へと高めあげる」ということ。
祈りにはいろいろなやり方がある。「全託」のところでの祈りの方法もよい方法だと思う。そしてこの方法も参考になると思う。

それからいちおう昨日の続き。
新盆見舞いに来た菩提寺の住職さんはとても忙しそうで、風のように来て風のように帰られた。数をこなすのは大変なんだろうと思う。書入れ時ですからねぇ。


サイ・グローバル・ハーモニー

2006-08-15 11:36:20 | Weblog
サイ・グローバル・ハーモニーがあることは知っていたが、今まで聴いたことはなかった。
聞いてみるとなかなかよい。
サイババの声も懐かしい。
サイババの講話とそれを英語に訳して話す人との掛け合い漫才のようなやり取りもたのしい。
あたりまえだが、音質も悪くない。ページは、
http://stream.radiosai.net:8000/listen.pls
私は古いRealPlayer Plus! で聞いている。
ただ、なぜか時々止まってしまう。バージョンアップすれば直るんでしょうけれど。
これには録音機能が付いているので、あたらしいバージョンへのアップデートはしないほうがよいように思う。

そういえば、かつてイタリアのサイトでバジャンなどの楽曲が大量に集められていたサイトがあったのだが、先日探したが見つからなかった。
どこに行ってしまったのだろうか。なくなったのかな?

新盆に来た近所のお寺の住職さんと少し話した。
そのお寺は、供養寺で檀家を持たない。
供養寺というのは、江戸時代の飢饉の時に直訴して磔になった人の菩提を弔うために建てられた寺のことである。
私が、「お経は意味不明でわかりませんね」と尋ねたところ、
法然上人の「「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず」を引用してお話されていきました。
これは「一枚起請文」という有名な言葉です。
難しい理屈などはなく、疑うことなく往生するぞという強い気持ちを持って念仏を唱える、ただそれだけのことである、ということ。
私は、「AUM SRI SAI RAM」ととなえますが、それと似ていますね。
ただ私には死に対する恐怖や、生まれ変わる事に対する不安や嫌悪はないので、意味合いは違ってきますが・・・
ちなみにこの供養寺は浄土宗のお寺でした。

今日の午後には、菩提寺の住職さんが来ると思いますが、どんな話が伺えますか・・・
まあ、あまり聞きたがってもいけませんよね。

盆休み

2006-08-14 00:05:14 | Weblog
今年は新盆なので、この盆休みはどこにも出かけられない。
新盆でなくとも、盆休みにはあまり出かけないのだが、新盆の場合は13日14日15日の間家を空けられない。
いつ誰が来るかわからないので、おちおち昼寝もしていられない。
それでも、こういうことは世間並みにしておきたいという思いがあって、12日の準備からがんばっている。
実際には準備はもっと前から、少しずつしていたわけだ。
今は通夜も葬儀も法事も、一切自宅を使わずに済ませることが出来るのだが、新盆だけはそれが出来ない。
家に大勢の人が来るのは、新盆のときだけだ。
まあ、こんな機会でもないと出来ない事も多いので、チャンスではある。
あまりお付き合いのない近所の人とも話せるし、親戚の人とゆっくり話せる機会でもある。
しかし、世間話の不得手な私だから話題に困る事も多い。
それから、来ていただいた方の名前が思い出せなくて、新盆見舞いに書かれた名前を見たりする始末だ。
ところが、最近視力が落ちてきて、遠くからでは名前が読み取れなかったりして、苦労する。

新盆のやり方は、地域によってずいぶん違うのだが、私の住むあたりは、一番簡単な方らしい。
おおかたは13日の午後から夜にかけて見舞いに来てしまうので、今はもう7割くらいは済んでしまった感じ。
ただ、これから明日明後日と、家は空けられないし、いつ人が来てもよいように待機していなければならないので、たいくつだったりする。

今日も猫の写真。
この猫、結構臆病者。
猫や犬に対する警戒心はとても強い。
ちょっとした物音でビクッとする。
そういう点は飼い主に似てしまったのかもしれない。

言葉のちから その2

2006-08-09 22:47:36 | Weblog
前回「私は言葉に縛られて生きている」と書いた。おろかな事を書くものである。
こう書く事で、私はよりいっそう言葉に縛られる事になるわけだ。
客観的な事実のように書いた瞬間に、それが客観的な事実であるかどうかにかかわらず、私の脳の中に「客観的な事実」として定着してしまう。
一度定着してしまえば、それは既定の事実として、存在し続ける事になる。
「ほんとにそうなの?」という疑問を強く投げかけられない限り、それは居座り続ける。

こういった言葉の力を利用して、プラス方向に暗示をかける事が出来る。
たとえば朝起きたら「今日は調子がよい。気分爽快」と言葉に出して言う。
緊張する場面では「この緊張感がたまりません」と言う。
千円札を失くしたら「一万円札でなくて本当によかった」と言う。
夏の炎天下で働くときは「夏は暑くて気持ちがよい」と言う。
冬の北風の中で働くときは「冬は寒くて気持ちがよい」と言う。
自分の言葉で、自分の感覚や自分の考え方を変えてゆく事が出来るわけだ。やりすぎは危険だけれど・・・

そういえば、NHKの自然の番組で「地球上には人があふれている」と言っていた。
よくそういう表現を使うが、これはよいイメージなのか、悪いイメージなのか・・・

あふれているわけではないが・・・雰囲気的にはそうである。
想像してみてほしいのだが・・・たとえば満員電車に乗っているのが人間ではなくチンパンジーだったらどんな感じか・・・??
やっぱり、人間多すぎるんじゃないかと思ってしまう。
だから、少子化とか問題になってても、本質的にはたいした問題ではないとどこかで思っている。
数十年前の日本では「人口の爆発」が大きく取り上げられていたし、たぶん世界的に見れば今でもそれは大きな問題である。
先進国が率先して、人口の抑制に取り組んだ結果が少子化であるわけで(?)・・・それでいいんじゃない・・・という思いがある。

「花壇に花があふれている」といえば、良いイメージである。
「この森は、さまざまな野鳥であふれている」といえば、良いイメージである。
「見渡す限りの地上がイナゴであふれていた」といえば悪いイメージである。
もし、「地球上には人があふれている」と聞いて悪いイメージを感じてしまうなら・・・まあそれはそういうことなのだろう・・・

写真は今日の虹の写真です。
夕方6時10分頃でした。
あわてて携帯電話のカメラで写したのですが・・・画素数の設定が小さかった事にあとで気づいた。
まあ、雰囲気は伝わると思います。
すばらしく鮮明な虹でした。
これだけ鮮明な虹は、なかなか見られません。

言葉のちから

2006-08-06 00:52:07 | Weblog
言葉にはちからがある。
インドであればマントラについてそのような事を言う。
たとえば、ガヤトリマントラなどは特に強い力があると言われる。
日本で読まれる仏典にしても、般若心経のように読誦する事により功徳があるというお経がよく読まれている。

そういう話を別にしても、言葉には確かに力がある。
たとえば、考えるときには言葉で考える。
言葉を使わずに考えるという事は、試してみればわかるが、かなり難しい。
数式を使う場合も、数式は言葉の一種であると考えられる。
ただし、図形をイメージしたり、物理現象をイメージしたりする場合は、言葉を離れて考えている。
言葉を持たない動物の思考は、イメージの連続なのだろうか。
人間にしても、言葉はイメージの代用品のはずなのだが・・・いつの間にか言葉が独り歩きをしている事に気づく。

言葉は、アナログではなく、デジタルである。微妙な違いや、雰囲気を正確に表現するには本来不向きである。
たとえば風景を表現するなら、絵や写真や模型のほうがあるかに正確に表現できる。
言葉の持つ意味は、辞書で引けば一応決まっているが、言葉からイメージするものにはかなりの個人差や時代による差があるように思う。

そして、私は言葉に縛られて生きている。
ぼんやりしたイメージも、言葉にした瞬間に明確なイメージになり、さらにそれを口から発し他人に伝えれば、その言葉は独り歩きを始め、もう消し去る事は出来なくなる。
たとえば朝の朝礼で、思いつくままに話していたら、仕事が二つ三つ増えてしまったりする。
つまり、どうしようかな・・と思っていた事も、言葉にしているうちに実施したほうがよいと思い、「××を実施したい」になる。
そして、「実施したい」と発表してしまった事で、その言葉に縛られて、「実施しなければならない」と言う気持ちになっている。
言葉は考えを加速する。そして、判断を急がせる。
だから、口に出す前に一度心の中で言葉をよく考えてから話せばよいのだが・・・それがなかなか出来ない。
それが出来るようになれば、私も一皮むけて、もっと落ち着いた大人らしい話し方ができるようになるのだろうけれど・・・

一度口から出した言葉は、どのみち完全に消去する事は出来ない。取り消す事は出来るが痕跡は残る。
仕事では朝令暮改が当たり前と思ってはいる。
言葉に出す事により、検討が深まり、問題点も出てくるわけで、どんどん変えてゆく事が民間では必要なのだと割り切っている。
しかし、人間関係においてはそうはいかない。心にいったんしみ込んだ言葉は、イメージとなって脳に定着してしまう。
自分自身の脳のイメージならまだしも、自分の言葉によって他人の脳に出来てしまったイメージをさらに言葉によって変えるなどということは、不透明水彩絵具を混ぜ合わせるようなものに思える。
人間関係は、言葉によってあっという間に悪くなってしまう事があるので、大人の会話では差しさわりのありそうなことは極力避ける。
そして、当たり障りのない世間話をしながら、仲間という雰囲気を作っているようにみえる。
しかし、そういう会話を楽しむ習慣のない私には、いかにも退屈な時間つぶしに思えてしまう。

スイカ

2006-08-02 23:10:45 | Weblog
先日畑の草取りをしたら、スイカが5個草の中から出てきた。
小玉スイカだが、まだ収穫には早いと思いそのままにしておいたら、全部野鳥に穴をあけられてしまった。
トンネルができているくらいしっかり食べられていた。
それでもあまり食べられていないものを冷蔵庫で冷やして食べてみたが、確かに皮の近くまで甘かった。
草の中にあるうちは、野鳥も手出しできなかったのだが・・・残念。思ったようにはいかないものだ。
鳥が手出しできないように、囲うしかないのだろう・・・面倒だね。
野鳥はムクドリかオナガ。
最近はオナガが集団で来ているから、そいつらかもしれない。

うちの猫が、鳥を追ってくれればよいのだけれど・・・それは無理な話。
そういうわけで、今日は猫の写真。
サイズの大きい写真をアップしてみました。
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コウモリ

2006-08-01 22:58:39 | Weblog
7月7日頃に卵を抱き始めたはずのツバメは、いまだに巣にいるが、ヒナは姿を見せない。
どうも卵はないような気がする。
人間でもそういう事はある。

ちなみに、ツバメの巣は生活する場所でも寝泊りする場所でもなく、あくまでも卵を産みヒナをかえし、ヒナを育てるためだけの場所なのだそうだ。
そう言われれば、たしかにたくさん飛んでいるツバメだが、夜巣に戻るわけではない。どこか別の場所に夜を過ごすネグラがあるわけだ。
その巣にもう3週間以上とどまっているツバメに多少哀れを感じないわけでもない。

夕方、会社の庭で数匹のコウモリが飛ぶのを見た。大きさはスズメより少し大きいくらいに見えた。
うす暗くなった空を、不安定な感じの飛び方で飛ぶのがコウモリである。
そんなに遠くないどこかにスミカがあるのだろう。

先日はイタチ、今日はコウモリ、次は何でしょうかね。
出来れば爬虫類は遠慮したいのですが・・・神様にお任せするしかありません。

今日の写真は、芙蓉(ふよう)。
葉の形が、一般の芙蓉と少し違うのですが、たぶん芙蓉です。
私が庭に除草剤を使っったため、何種類かの植物が絶えてしまいました。
この芙蓉は、その中で生き残ってくれた貴重な株ですから、大切に残したいと思っています。