如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

イタチ

2006-07-30 23:41:57 | Weblog
昨日は、ほとんど何もしなかったので、今日は朝から畑の草取り、ねぎの植え替え、草刈とほぼ丸一日外で働いた。
気象庁は梅雨が明けたと言っているけれど、関東はまだ太平洋高気圧に覆われたわけではなさそう。
その証拠に、空気は乾いており、最低気温が低い。今も結構涼しい風が吹いている。本当に暑くなるのは週の後半あたりからか。

今日畑でイタチを見た。大きな野鼠かと思ったが、色が茶色かったし、尻尾が長くしかも茶色い毛が生えていたように思う。
イタチの死骸は見たことがあるが、生きているのを見たのは初めてだ。畑を草にしておくのも悪くないかもしれない。
うちの畑の草むらにはキジがつがいで住んでいるらしいし、イタチも住みついたわけだ。
木の枝を切ったものが山積みになっているので、そのあたりをねぐらにしているのかもしれない。

あとはタヌキだが・・・タヌキが住むにはたぶん林が必要なんだと思う。
しかし、タヌキは、河川敷の林伝いにずいぶん町の方まで進出しているらしく、たまに道路で轢かれている。だからいなくなったわけではないんだね。
それからキツネだが・・・キツネは私の住むあたりではもう全く話を聞かない。
子供の頃に、キツネの巣が土手にあるという話を聞いた事があったが、実物は見ていない。

そういえば、2年ほど前、別の草むらでハクビシンらしきものを見たことがある。
逃げ出したペットだと思うが、一匹だけなら繁殖しないからよいけれど・・・
あんまり変なものが増えると生態系が崩れます。

無意識

2006-07-29 13:33:58 | Weblog
今日は、朝晴れていたから暑くなるのかと思ったが、雨が降り出した。
goo天気を見ると、明日の夜、雨がもう一度降ってから関東北部も梅雨明けになる感じ。
さて、今日は第四土曜でもないのに、会社のカレンダーは休み。
経験的には、この時期は毎年仕事が薄くなるという事らしい。

先日の「全託」の文章の「神」にあたる部分を「無意識」に置き換えたらどうなるかと思った。
わたし的にはある程度意味が通じる。
ただ、無意識には「神」以外にもいろいろな者たちが住んでいるようなので、全託するなら神に限定しないと絶対にいけません。
”絶対に”です。

無意識を無防備に開放するのはかなり危険な事なのだと思います。
もっとも、無意識を開放するにしてもしないにしても、コントロールするテクニックがまるっきりわからないので、「触らぬ神(無意識)にたたりなし」が一般的な正解ではあります。
なお、わたしが「無意識」といっているのは、ユングに近い解釈での「無意識」のことです。

そうは言っても、意識の領域に近いところの無意識は役に立つ情報をたくさん持っていて、しかもそれを意識にあげようとしてひっきりなしにサインを送ってくるわけです。
ですから、無意識の声に耳を傾けることは日常生活で役に立ちます。
こんなことをわざわざ言わなくとも、誰しも自然にやっている事ですが・・・

無意識の声は「言葉」以前のものです。少なくとも私の場合「言葉」は意識の領域と感じられます。
言葉以前の声は、具体的には胸騒ぎ、引っかかる感じ、急に沸いてくるイメージ・・・など。
これを意識の入り口で門前払いしてしまわずに、とりあえず意識にあげてみる。
役に立つか立たないかはそれから判断すればよい。
たぶんそれを繰り返していると、意識が広がってゆくと思う。

これは結構実生活でも役に立ちます。
たとえば、どっさり溜まった雑用みたいな仕事に埋もれて、大切な事が見えなくなっているときなど、無意識のレベルから警告があがってきます。
そんな感じのときは、一歩踏みとどまって、考えるともなしにぼんやりと考えてみる。いろんな情報を見直してみる。
そうすると警告の意味が浮かび上がってくる。そんな感じです。
再度繰り返しますが、誰でも自然にやっている事ではあります。

今日の写真はむくげ。
花びらが多い種類なので、豪華に見えます。
今年の春、日のあたる場所に植え替えたのですが、枯れずに花をつけました。
今度挿し木で増やそうかと思います。

コガネグモ

2006-07-27 23:59:14 | Weblog
久しぶりに写真を撮ってみた。
庭に大きな巣を張っていたコガネグモです。
金色の横じまが立派で、日本のクモの王様と言った感じです。
しかしこれは実はメスの写真で、オスはメスに比べてはるかに小さく、地味だそうです。
クモの仲間は、メスが大きくオスは小さく地味なのが多いらしい。
もちろんこういった知識は、写真を撮ってから調べた知識で、写真を撮ったときにはこのクモの名前すらわかりませんでした。
だから、クモは昆虫ではないと言う事も、もうすっかり昔に忘れていたし・・・
つまり、私の中ではいつの間にか、クモも昆虫の一種になっていました。
子供の頃に昆虫とクモの違いは習ったんだけどね。足の数が違うとか・・・

ここのところ、新聞には暗い話が多い。
殺人事件やら、不祥事を起こした公務員さんやら芸人さんやら。
新聞にはもう少し明るい前向きな話を載せるような努力が必要だと思ったりする。

ちなみに、我が家はずっと産経新聞。
そのせいかだんだん右よりな考えになってきた?
しかし、もう産経新聞やめられないですね。
産経新聞のスタンスは結構気持ちがよいのかもしれない。

テレビはフジテレビだし・・・めざましテレビ・・笑っていいとも・・ドラマもフジテレビが多かった。
多かったというのは、最近見てないから・・・
7月に始まったドラマで興味があるのはテレ朝の下北サンデーズくらいかな。

無題

2006-07-25 23:22:33 | Weblog
もうすぐ梅雨が明けそうです。
曇りの生活に慣れると、強い日差しが怖くなりませんか?
チリチリっと肌が焼けるような、オゾン層大丈夫なの?ってくらいの刺激的な紫外線。
しかし、そういう暑さもあと一ヶ月なんでしょうね。
8月に入れば立秋が来て、お盆が明ければ秋の花が咲き始める。

朝まだ暗い頃、枕元で猫が何かを食べる音にぼんやり目が覚めた。
バリバリしているから、たぶんすずめだと思う。
猫にしてみれば私の枕元が一番安全という事か。
蛇でなければよいがとぼんやり思いながら、また眠りに落ちた。

日曜日は、庭の草むしり。芝に雑草がたくさん生えている。
たぶん本当は、砂を入れて芝を起こしてやらなければいけないのだろうが、そんな暇もないから、雑草がどんどん増えてしまっている。
草をむしると、15cmくらいの大きなミミズがごろごろ出てくる。これでは芝生は育たない。
そのうち、草をむしる振動に驚いたミミズが砂の敷いてある方に逃げ出してゆく。
しかし、そちらはミミズにとってはかなり危険な場所だ。
案の定、そのうちの数匹は砂に水分を取られ動けなくなり、蟻に囲まれてしまった。

草取りをしていると、蝉がジッジと鳴くのが聞こえた。見るとヒヨドリがくわえた蝉を桜の枝に打ちつけている。
羽をばたつかせていては食べづらいのだろう。

草取りをしていると、ものみの塔のチラシ配りが来た。
2~3ヶ月に一度くらい来るようだ。
このあたりの田舎に来るのは、ものみの塔だけだ。
あたりまえだが、人柄のよさそうな人達だし、単にチラシを置いてゆくだけだ。
わたしはユダヤキリスト教の終末観みたいなものには限界を感じているのだが、チラシはありがたくいただいておく。
しかし、ご苦労な事だと思う。

あちらこちらに当たり前のように死がある。
それでも、何はともあれみんな一生懸命生きようとしている。
そしてとりあえず、私は生かしていただいている。感謝。感謝。

無題

2006-07-22 23:23:59 | Weblog
わたしは、私の心しか見えない。
わたしが見ているものは、結局すべて私の心。
わたしが見ているあなたは、私の心の中のあなた。
わたしが見ている風景は、私の心の中の風景。
わたしがあなたの事を語っているように見えても、それは私の心の中のあなたの事。

わたしが語っているのは、あなたという鏡に映る私。
わたしが見ているのは、風景という鏡に映る私。
わたしが見ているのは、あなたという鏡に映る私。
わたしが見ているすべてのものは、結局どれも外界という鏡に映る私自身。

・・・ということなんだよね。
それを時々忘れる。

全託

2006-07-19 23:35:04 | Weblog

ここのところ、わき道にそれてしまったようです。
自分でもあまりよくわかっていないことを、いろいろ並べてみたのですが、だんだん迷路に迷い込みそうです。
それも悪くはないのですが、一度出発点を確認したほうがよいかと思うわけです。

そこで、今日は「全託」というサイババの言葉をコピーします。
サイフォーラムに出ていた言葉です。
迷ったときはここに戻ります。

-------  全託  -------
 なぜ動揺するのですか?あなたの心配事をすべて私に任せなさい。私が代わりにそれらのことを考えましょう。私が待っているのはあなたの全託以外の何ものでもありません。私はあなたが私にどうすべてを託すかを知っている時にだけ介入します。全託すればそれ以上もう何も心配しなくていいのです。すべての恐れや落胆に別れを告げなさい。そうできないのであれば、それはあなたが私を信頼していない証拠です。そうではなく、あなたは私を無条件に頼らなくてはなりません。
 託すというのはあなたが抱えている心配ごとや出逢う困難やすべての問題からあなたの想いをそらせることです。すべてを私の手に委ねてこう言いなさい。
 「神よ、あなたのご意志のままに」
 つまり、それはこう言うことでもあります。
 「神よ、私はあなたがすべてをご自分の手のひらに乗せ、私にとって最善の結果になるように解決してくださることを感謝します。」
 覚えておきなさい。ものごとの結果について考えることは託すこととは逆のことです。つまり、あなたが結果が望みどおりにならないのではないかと心配するとき、あなたは私の愛を信用していないことを証明しているのです。それはまた、あなたの人生が私の統制下にあると、あなたが考えていないことの証でもあります。
 「これは結局どうなるのだろう?」「何が起こるのだろう?」などと考えてはなりません。こういったことを考えたくなる誘惑に負けてしまうのならば、それはあなたが私を信頼していない証拠です。あなたは私に面倒をみてもらいたいのではないのですか?それならば、どんなことについても不安に思うことを止めなければなりません。私はあなたがすべてを託した時にのみあなたを導きます。私があなたの予測した道と違う道へ導いた時は私はあなたを私の腕に抱えているのです。
 あなたが混乱するのは、あなたが理由を探したり心配したりどんな犠牲を払ってでも自分で自分の面倒をみなくてはいけないと思いこんだりするからです。私は物質的なことも霊的なことも含め本当に多くのことをしてあげられますが、それはあなたが私に向かって「お任せします」と言った時だけなのです。そうすればその後は保証されます。
 あなたは私に全面的に頼るだけですべてのものを手に入れます。あなたは苦痛を感じた時私に祈り私に介入するよう頼みますが、その介入方法は自分の思い通りにしてほしいと願っています。それではあなたは私を頼っていることにはなりません。それではあなたは私に注文に応じてもらいたいだけではありませんか。
 医者にかかっておいて医者に自分の病気の治療方法を指示する患者のように振る舞うべきではありません。かわりにすべての状況においてこう言いなさい。
「神よ、このような困難が与えられたことを感謝します。あなたが望まれるように解決してください。私にとって何が最善かは、あなたがご存じなのですから」
 ときどきあなたは惨事が減るかわりに増え続けるように感じるかもしれません。動揺してはなりません。目を閉じて、信念をもって私にこう言いなさい。
「あなたのご意志のままに。あなたのなさるままに。」
 あなたがこのように言うとき、私は必要であれば奇跡すら起こします。私はいつもあなたと共にいます。しかし私があなたを助けることができるのはあなたが私に完全に任せた時だけなのです。
------- サイババ -------


##############################

《 追記 》

上の『全託』はサイフォーラムにあった文章ですが、『全託』についてはヒスロップの書いた「サティアサイババとの対話」に別の時にサイババが話した言葉があるのでここに載せておきます。

★☆★ ヒスロップ著「サティアサイババとの対話」より ★☆★
① 神に全託するというのは、すべての想いと行動を全託することであり、行動の結果を望まないことです。また、結果を得るために行動するのではなく、それが自分の義務だから行うことです。その行為が神にささげられるので、その成果は神が受けることになります。このように行われた行為、つまり行為を行ったときにその成果が放棄された行為は、カルマに束縛されません。【P25】

② アートマが真実であることに気づいたときに、すべてがスムーズに働くようになります。一切をアートマに全託するかどうかの問題です。
これは、誰か他人に全託したり、渡したりするという意味ではありません。私たちは自分自身に全託するのです。アートマこそが自分自身であることを認識することが全託です。
全託の本当の意味は、すべてが神であると認識すること、全託をする主体は存在せず、全託されるべきものも存在せず、また全託を受け取るものも存在しないことを認識することです。すべてが神です。神のみが存在するのです。【P165】


般若心経 その2

2006-07-16 21:28:29 | Weblog
暑さには強いなどと強がりを言っていたが、日曜日になったらどっと疲れが出た。
気持ちが緩むんですね。
天気がはっきりせず、朝から雨が降ったりしていることも、影響している。
こういうときは、身体をいたわってゴロゴロする。
私に付き合って猫もゴロゴロしている。

さて、前回般若心経のひろさちや氏訳をコピーしたので、今日は、般若心経のサンスクリット文の和訳をコピーしておきます。
訳者は明記されていませんが、中村元氏ほかの本に掲載されていたものです。
同じ訳文は、googleを検索しても出てきます。
この訳文は、サンスクリットの原文を忠実に翻訳したものです。

般若心経は、出家教団による小乗仏教の勢力がまだまだ強い時代に、大乗仏教の「空」の理論を説いたものなので、その時代背景を理解していないとわかりづらいのかもしれません。
仏教でいう「空」については、ネット上にかなり詳しい解説を探すことが出来ます。

私としては、「マーヤー」からのつながりで般若心経の「空」を取り上げてみたかったのですが・・・
「マーヤー」と「空」。少し似ているかと漠然と感じていたのですが、そうでもないようです。
般若心経では「空」という概念をもっと肯定的にとらえているようです。

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《 般若心経(サンスクリット文) 和訳 》
全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリプトラよ、
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ、
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、識別もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平和に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)
ここに、智慧の完成の心を終る。
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般若心経

2006-07-14 23:36:06 | Weblog
ここのところ、仕事が忙しい。
それは悪いことではない。
たぶん良い事だ。
今日あたりは36℃くらいまで気温が上がったらしいが、あまりそういう実感はない。
屋外で働いたりもするのだが、私は割りと暑さには強いようだ。

さて今日は、般若心経の和訳をコピーしておく。
ただし、かなりの意訳かもしれない。
ひろさちや氏の訳である。

般若心経は日本で一番よく読まれているお経であり、
大乗仏教の立場から小乗仏教を批判し、「空」を説いている。
「空」とは「実体がない」という意味だそうである。
しかし、「実体がない」といわれてもまだわからない。
「空」がわかれば般若心経がわかった事になるのでしょう・・・たぶん。
それでも、こういう口語訳が出てきて、だいぶんわかりやすくなってきたと思う。
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《 般若心経 ひろさちや訳 》
 観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、
肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。

 舎利子よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。
存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、
意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。

 舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空でありますから、
生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。

 そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界
といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、
そんなものはいっさいありません。また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった
煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。
そしてまた、分別もなければ悟りもありません。大乗仏教では、悟りを開いても、
その悟りにこだわらないからです。

 大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、その心にはこだわりが
なく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、事物をさかさに捉えることなく、
妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。また、三世の諸仏は、
ほとけの智慧を完成することによって、この上ない正しい完全な悟りを開かれました。

 それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、すぐれた
真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。
それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。真実にして虚妄ならざるものです。

 そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。

 すなわち、これが真言です。

「わかった、わかった、ほとけのこころ。
 すっかりわかった、ほとけのこころ。
 ほとけさま、ありがとう」
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田川寿美[喝采」

2006-07-11 23:23:53 | Weblog
今日の午後、仕事をしながらなぜか「喝采」を口ずさんでいた。
ちあきなおみの「いつものように幕が開き・・・」である。
職場は機械の音でやかましいので、鼻歌を歌っていたところで、とがめられる事はない。
鼻歌を歌っているくらいのときのほうが、たいてい仕事もはかどっている。
「喝采」が、なぜその時口から出てきたのかはわからなかったが、いつも鼻歌はそんな感じである。
私の場合鼻歌に何を歌うかは、全く無意識に左右されているといってもいい。
だから、喝采を歌った事すらすぐに忘れてしまっていた。

そして今夜、見たいテレビ番組もなく、なんとなくNHKにしたら「歌謡オンステージ」。
普段はあまり見ない番組。
そこで田川寿美が「喝采」を歌った。
これもある種の予知?・・かもしれない。

もちろん、合理的に説明することもできなくはない。
今朝番組表を見たとき、記憶にはないけれど、必ず「歌謡オンステージ」の欄も見ているはずである。
視野には入っていたはずだ。
私は、その日の番組表を一通り見て、録画する番組があるかどうか調べる習慣があるので、番組表はかなりしっかり見ているのである。
そして、いまだかつて歌謡オンステージを録画した事はないから、チラッと見てパスしたはずである。
しかし、その欄には「喝采」と書かれていたから、それが無意識の領域で保管され、午後のぼんやりした意識の中で、無意識がここぞとばかり「喝采」を口ずさませたのかもしれない。

でも、私はなんとなく予知の感じがする。
私は結構田川寿美のファンだし、今日の彼女の歌う「喝采」はすごくよかった。
そういう感じを、無意識は勝手に、因果律を無視して、7時間ほど前に持ってきてしまったのではないかと・・・
それに、番組表に「喝采」の文字はあったが「田川寿美」はなかった。
私の場合、ちあきなおみでもなく小林幸子でもなく、田川寿美が歌う「喝采」に価値があるのだと思う。

さて、田川寿美にビッグヒットを当てさせてあげたいものですが、今は演歌の冬ですからねぇ。なかなかねぇ・・・

無題

2006-07-10 22:12:58 | Weblog
7月7日から、ツバメが卵を抱き始めたようだ。
約2週間で孵化するようだから順調であれば来週の週末には雛がかえることになる。

昨日の「英知」からの抜書きに「執着や愛着は解脱の妨げになる」というような事が書いてありました。
さて、私が一番愛着を持っているのは、飼い猫。
確かに猫にあまり愛情を注ぐのはよくないとは思う。
人間って愛情を注ぐ対象にだんだん似てくるんだよね。
自分では気づいていないのだが・・・たぶん私はだんだん猫に似てきていると思う。

そういう意味でも、神様を愛するのが一番よいわけだ。
神様を愛する事によって、自然と神様に似てくるから・・・

まあ、愛情を注がなくても、近くにいる人同士だんだん似てくるからね。
よい仲間と付き合いなさい、というのはそういうことだよね。
もっとも自分に本当に力があって、感化されずに感化してしまえば、問題ないんだろうけど。
ただし、私に感化されるのは危険かもしれません。
まあ、現実には、誰も感化されてはいないようです・・・私には力がないんだね。
たぶんそれでいいんだろうけど。

解脱について

2006-07-09 12:26:04 | Weblog
マーヤーの話を書いていたら、このブログのタイトル「如意樹の木陰」の話に戻っている事に気づいた。
3月22日~26日のあたりで書いた内容である。
この世界はマーヤーの影響力の働いている世界であり、それが「如意樹の木陰」にほかならない。
そのことをいつも認識しながら生きていく事が、大切なのだと思う。
この世界は、自分たちの意識を反映した世界であるから、この世界は否定や肯定をするような対象ではなく、自分たちの意識(あるいは意志)で作り出してゆくものなのである。

ところで「解脱」というのは、どんな事なのだろうかと思い、やはり「英知」から書き出してみた。
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太陽が昇れば暗闇は去り、暗闇によって生じた問題もまた消失します。 同様にアートマンを認識した者にとって、もはや何の束縛もなく束縛によって生じる悲しみもありません。 迷妄を抱くのは、自分が本来何であるかを忘れた者だけです。 人が自己の基盤である真理を忘れる最大の要因は、利己心です。 利己心が一度侵入するならば、人は理想を見失い、階段のてっぺんからあっという間に一番下まで滑り落ちてしまいます。 利己心は、分裂、憎悪、執着の温床です。 執着と愛着により、さらに妬みと憎悪によってすらも、人は行動に駆り立てられ世間にどっぷり浸ります。 その結果肉体を持って転生し、利己心はさらに強められます。 歓楽と苦痛という双子の束縛から免れる為には、人は肉体意識を捨てて、自己中心の行為から離れていなければなりません。 その為にも執着と憎悪を抱いてはならないのです。 欲望は、モクシャすなわち解脱の最大の敵です。 欲望は人を生死の車輪に結び付けます。 欲望は、尽きぬ不安と苦しみをもたらします。
これらの事を熟慮する事により、知識はより明瞭に、より大きな光を放つ様になり、解脱が得られるのです。 解脱は独立の別名です。 すなわち自分以外の人または物に依存していない状態の事です。
充分にコントロールされ訓練された心は、人を解脱に導きます。 心は常に神への想念に浸っていなくてはなりません。 それは、絶対実在の本性の探求を助けます。 心が様々な引力から自由になって清らかになれば、エゴの意識そのものが消えて行きます。 いかなる意味でも世間の影響を受けぬ事、それが自己実現への道なのです。 自己実現は、天国でえられるものでもなく、またカイラサ山で得られるものでもありません。
------  サイババ 「英知」

これも宗教的な言葉です。
私たちは、生まれてから死ぬまで、自分以外の人または物に依存しながら生きています。
また、世間の影響をもろに受けているのが私の心であって、世間の影響を受けぬ私の心を想像する事さえ難しいわけです。
しかし、だからといってこのサイババの言葉が全く理解不能かといえばそうでもない。
依存している事、影響を受けている事を自覚していれば、すくなくとも「一番下まで滑り落ちる事」はないように思う。
もっとも、私の場合まだ滑り落ちるほどの高さまで上った経験はないのでありますが・・・

マーヤーについて その2

2006-07-07 23:38:20 | Weblog
マーヤーは心という姿をとる。
個我・神・物質世界は心の産物である。

この物質世界を否定的にとらえるか、肯定的にとらえるか。
宗教では一般的に、否定的にとらえる傾向にある。
物質世界が相対的な価値しか持たぬ幻想であれば、早々に解脱しブラフマンに融合する事を目指す。

肯定的にとらえるとどうなるか。
肯定的にとらえたからといって、何か悪いことが起きるわけでもない。
社会人としては、肯定的にとらえ人生を楽しむ態度を求められる事も多いように思う。

否定的にとられたからといって、それで人生を楽しまないわけではないのだが、社会的な価値観からはズレが生じるだろう。

そこで、否定でもなく、かといって全面的な肯定でもない、中道の道をさまよう事になる。
仏教で言えば、般若心経のような世界観とでも言ったらわかりやすいかもしれない。

真言密教は、般若心経よりもさらに物質世界を肯定的にとらえているらしい。
たしかにマーヤーの世界には相対的な価値しかないかもしれないが、しかし、この世界で我々は進化し成長し生きているのである。
この世界がなければ、私という意識すら存在しなかっただろう。
たとえばブッダでさえ「この世界は楽しい」と言っている(ブッダ最後の旅)。

無神論者は、意味のないこの世界に投げ出されたと感じるが、神を信じるものはこの世界のあらゆる出来事全てに何らかの意味があると感じている。
それゆえ神を信じるものには救いがある、といえるかもしれない。

無題

2006-07-06 06:39:20 | Weblog
会社の玄関に、ツバメの巣が新たにふたつできた。
この前子育てをした親がまた卵を抱くのか、別のツバメなのかはわからない。

北朝鮮が、昨日ミサイルを数発テストした。
韓国は、竹島周辺に海洋調査船を出しているらしい。
どの国も、国家として一生懸命やっている。
主張すべきところは強く主張するのが「国家」である。
広い意味で言えば、いわゆる「攻撃は最大の防御」なのだ。

戦後の日本は、周囲の状況から、その点控えめにせざるを得なかった。
それは正しい選択だったと思う。
だが、もうそろそろ態度を改めてもよい頃だと思う。

猫がすずめを捕ってきた。朝はすずめをくわえてくる事が多い。
夜は、ねずみをくわえてくる事もある。
私に獲物を見せるように、自慢げに私の近くをくわえて通る。

先日サイババの「英知」から引用したが、この本の英語版「JNANA VAHINI 」が、PDFファイルで手に入る事がわかった。googleで検索すれば出てくる。
そのほかのVAHINIも手に入るのだろう。文字だけであるからファイルの大きさもあまり大きくない。
私は英語が苦手なので単語を確認するくらいだが、それでも便利である。
日本語版も、インターネット上でいろいろ読めるとよいのだが、著作権の問題があるのでしょうかね。
本よりもデータの方が、検索が使えるので拾い読みするのには都合がよいです。

「マーヤー」について

2006-07-02 21:56:21 | Weblog
前回「発酵食品」のコメントで書いた事を繰り返しておきます。
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ブラフマン・アートマンは、宇宙の根本原因にして、照覧者であります。
たしかに好きも嫌いもありません。

しかし前にもお話したように、多様性を愛する私ですから、マーヤにドップリ浸かっているわけです。
マーヤの世界に、神は人格を持って現れます。というか、マーヤを生み出している私の意識は、神に私のレベルにまで降りてきてもらって、人格神として振舞って欲しいわけです。
人間の意識がマーヤに作用し、マーヤを変化させてゆくのです。
-----
この先をどう書こうかと考えていたのですが・・・
また、たまやんの打ち込んだ「英知」から引用させていただきます。
すこし長文ですが、わかりやすいかと思います。
なお、私は「マーヤ」で覚えてしまったのですが「マーヤー」が正しいようです。
-----
マーヤーは(1)真の本性を覆い隠す力と、(2)真の上に非真を投影する力によって、唯一無二の存在であるブラフマンを、個我、神、物質世界という三者に分かれた存在であるかのような外観をとらせました。 マーヤーの力は潜在していますが、それがひとたび顕れる時には、【心】という姿をとります。 その時、物質世界という巨木の種子は芽吹きはじめ、心の衝動(ヴァサナ)という葉を繁らせ、心の意志作用という果実を付けはじめます。 したがって、外界のすべては、心の繁茂にすぎません。
個我と神は心の繁茂によって捕らえられ、物質世界の中で離れがたく絡みあっています。 したがって個我と神もまた、夢の世界に顕れる事物と同じく、心の産物なのであります。
個我と神と物質世界とを、絵に描いたものとして想像してごらんなさい。 描かれた物質世界の中に、個我と神は組み込まれています。 三者は、同じ絵の具で描かれたものでありながら、それぞれ異なる実体であるかのように見えます。 同様に、一つの思考作用が、個我と神を物質世界という背景の中で、普遍的に浸透しているかのような外観を持たせているのです。
個我と神と物質世界という幻影は、マーヤーによってつくられた、と天啓経典に記されています。 【神】と【わたし】、【これ】と【あれ】、【わたしのもの】と【神のもの】という魔法のダンスを生み出した原因は心の働きであると、『ヴァシスタムルティ』には明記されています。 この経典に書いてある【ソーハミダム】の語は、個我と神と物質世界を意味します。 【サー】は【かれ】すなわち、非顕現の至高霊、超越し卓越する力、神を指します。 【アハム】とは、【わたし】、自分を行為者であるとみなす意識に包まれている実体を指します。 【イダム】は、感覚によってとらえられる客観世界を指します。 それゆえこれら三者は心の産物であり、絶対的な価値を持たぬ事がわかります。 それらの価値は、単に相対的なものに過ぎません。
-----   サイババ  「英知」より

今日の写真は、対のアゲハです。
みんなが珍しがって見ていたので写してみましたが、シャッタースピードが遅かったようです。
ISO感度を調整してシャッタースピードを上げればよかったのですが・・・
対のアゲハは、しばらく写真のような位置関係でいたのですが、私が写真を撮るために近づいたので飛んでいってしまいました。
また余計な事をしてしまったと反省。