Bフレッツの仮申し込みをしました。しかし、あくまでも「仮」なんですね。実現するとしても1年先とかじゃないかと思います。さてどうなりますことやら。
ここのところ仕事が忙しいです。世の中景気がよいのでしょうか?とりあえず、テンパッてがんばっていますが、多少疲れが・・・休みの日は、何もしたくない気分です。
先日、金柑を食べていたら、子供の頃の出来事を思い出しました。それは母方の祖父の葬儀の後の事で、私は供物の中にあるよい香りのする金柑が欲しくて・・・
小学校に上がるよりも前の事です。
その古い出来事を思い出したら、芋づる式にいろいろな事が思い出されてきます。父方の祖父の葬儀は、雪の降った翌日でした。白い割烹着のおばさんたちがにぎやかに働いていて、煮物とお酒の匂い。
どうも私の記憶は、匂いによって思い出されるらしい。
それから、今度は古い夢を思い出しました。夢などすぐに忘れてしまうものなのですが、なにかきっかけがあると、とんでもなく古い夢を思い出すようです。
その夢は、田んぼのあぜ道を歩く夢なのですが、その田んぼには花菖蒲がたくさん咲いています。あぜ道は、尾瀬の木道のように板でできていて、あぜ道の途中、田と田の境には木製のくぐり戸がありました。田んぼには綺麗な水が流れていて、水の(あるいは菖蒲の)さわやかなかおり。
澄んだ花の色、葉のみずみずしい鮮やかな緑、水の香り・・・なんでこんなのを覚えていて思い出すのでしょうか。
一生のうちに経験したり考えたことが、脳にすべて記憶されているというのは本当なのかもしれません。もちろんそれとは違った考え方もありますが・・・
話はかわります。
夜、走り慣れた道で車を運転していて、不意に「ここはどこだ?」って思ったことがあります。その時、見慣れたはずの風景が一瞬全く見知らぬ町に見えていました。ほんの数秒で、「なんだいつもの信号だ」と分かるのですが・・・それまでの数秒間、道に迷ったのと同じ感じになって、とても新鮮な気持ちで街を見ることが出来たりします。
同じような事は、他にもあります。
ある深夜、地鳴りを伴ったすさまじい音に目を覚ましました。外は強い風が吹いているようでした。
建物が崩れ落ちるような、大きな車が横転したまま道路をすべるような、ものすごい音で、しかもそのすさまじい音がしばらく続くのです。自衛隊の火薬庫の爆発、あるいは浅間山の噴火かも知れないとも思いました。何かを確かめようとして外に出てみたほどです。
そして、そのあとやっと、雷の音らしいと気づきました。
たしかに私の住む群馬では冬の雷はめずらしいのです。しかし、夏には雷の多く発生する地方なので、その音からすぐに雷が思い浮かぶのが自然だと思うのですが・・・全く思い浮かびませんでした。
脳の働きが鈍くなってきているのかと、心配になったりして・・・
しかし、それで、雷はそれを知らない人にとってはずいぶん恐ろしいものなのだと、改めてわかりました。・・・いやいや、雷は本来ほんとに怖いものなのですが、夏にはよくあることなので、私の場合雷に対しての感覚が麻痺しているのでしょう。つまり、雷という分類に入れる事で、それがどんなにすさまじい音であったとしてもそれ以上考えない・・・思考が停止するということ。
たとえば、工場の騒音についても同じことが言えるわけで、私の職場は相当にすごい騒音なのですが、それを気にしていたのでは仕事にならない。聞こえるけれども気にしないし、ある意味では聞こえない。
逆に、オーディオをチェックするときには、低音の出方がどうとか、低音の質がどうとか、わずかな違いに一喜一憂する。
意識の焦点をどこに置くかによって、ずいぶんものごとに対する感じ方が変わってくるということなのでしょう。
そして、このことは感覚についてだけでなく、思考や感情についても、同じなんでしょうね。
ここのところ仕事が忙しいです。世の中景気がよいのでしょうか?とりあえず、テンパッてがんばっていますが、多少疲れが・・・休みの日は、何もしたくない気分です。
先日、金柑を食べていたら、子供の頃の出来事を思い出しました。それは母方の祖父の葬儀の後の事で、私は供物の中にあるよい香りのする金柑が欲しくて・・・
小学校に上がるよりも前の事です。
その古い出来事を思い出したら、芋づる式にいろいろな事が思い出されてきます。父方の祖父の葬儀は、雪の降った翌日でした。白い割烹着のおばさんたちがにぎやかに働いていて、煮物とお酒の匂い。
どうも私の記憶は、匂いによって思い出されるらしい。
それから、今度は古い夢を思い出しました。夢などすぐに忘れてしまうものなのですが、なにかきっかけがあると、とんでもなく古い夢を思い出すようです。
その夢は、田んぼのあぜ道を歩く夢なのですが、その田んぼには花菖蒲がたくさん咲いています。あぜ道は、尾瀬の木道のように板でできていて、あぜ道の途中、田と田の境には木製のくぐり戸がありました。田んぼには綺麗な水が流れていて、水の(あるいは菖蒲の)さわやかなかおり。
澄んだ花の色、葉のみずみずしい鮮やかな緑、水の香り・・・なんでこんなのを覚えていて思い出すのでしょうか。
一生のうちに経験したり考えたことが、脳にすべて記憶されているというのは本当なのかもしれません。もちろんそれとは違った考え方もありますが・・・
話はかわります。
夜、走り慣れた道で車を運転していて、不意に「ここはどこだ?」って思ったことがあります。その時、見慣れたはずの風景が一瞬全く見知らぬ町に見えていました。ほんの数秒で、「なんだいつもの信号だ」と分かるのですが・・・それまでの数秒間、道に迷ったのと同じ感じになって、とても新鮮な気持ちで街を見ることが出来たりします。
同じような事は、他にもあります。
ある深夜、地鳴りを伴ったすさまじい音に目を覚ましました。外は強い風が吹いているようでした。
建物が崩れ落ちるような、大きな車が横転したまま道路をすべるような、ものすごい音で、しかもそのすさまじい音がしばらく続くのです。自衛隊の火薬庫の爆発、あるいは浅間山の噴火かも知れないとも思いました。何かを確かめようとして外に出てみたほどです。
そして、そのあとやっと、雷の音らしいと気づきました。
たしかに私の住む群馬では冬の雷はめずらしいのです。しかし、夏には雷の多く発生する地方なので、その音からすぐに雷が思い浮かぶのが自然だと思うのですが・・・全く思い浮かびませんでした。
脳の働きが鈍くなってきているのかと、心配になったりして・・・
しかし、それで、雷はそれを知らない人にとってはずいぶん恐ろしいものなのだと、改めてわかりました。・・・いやいや、雷は本来ほんとに怖いものなのですが、夏にはよくあることなので、私の場合雷に対しての感覚が麻痺しているのでしょう。つまり、雷という分類に入れる事で、それがどんなにすさまじい音であったとしてもそれ以上考えない・・・思考が停止するということ。
たとえば、工場の騒音についても同じことが言えるわけで、私の職場は相当にすごい騒音なのですが、それを気にしていたのでは仕事にならない。聞こえるけれども気にしないし、ある意味では聞こえない。
逆に、オーディオをチェックするときには、低音の出方がどうとか、低音の質がどうとか、わずかな違いに一喜一憂する。
意識の焦点をどこに置くかによって、ずいぶんものごとに対する感じ方が変わってくるということなのでしょう。
そして、このことは感覚についてだけでなく、思考や感情についても、同じなんでしょうね。