これはニューデリーの街角の路上に並べて売られていたシヴァ神のポスターです。
目を閉じているように見えるかもしれませんが、拡大すると半眼に開いています。
かなり美形です。そういえば先日のクリシュナの像もやはり美しかったですね。
なぜそうなのか?たぶんそうしたほうが喜ばれるからということでしょうか。
昨日のつづきですが、サイババはこうおっしゃっています。
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「私たちは如意樹の木陰に座っているのです。
悪いことを考えれば悪いことが生じ、善いことを考えれば善いことが生じます。
ですから私たちの想いや行いが浄らかであれば、人生という如意樹は望みのままに善いことを与えてくれます。」
「善いことも悪い事も、私たちの心から生ずるのです。決して外部から来るのではありません。
ですからまず第一に私たちは、心をできるだけ浄らかに保たなければならないのです。」
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こういった宗教的な言葉は、いろいろ読んでいると、なんとなくわかるような気になってくるのですが、たぶんこれだけ読んでもなかなかピンと来ないのではないかと思います。
また、似たような意味の言葉は、表現やたとえは違いますがキリスト教の聖書にも出てくるでしょうし、仏教関係にもあると思います。
とにかく、私たちの「心とか意識とか思考とか意志など」には、自分たちが思っているよりもずっとずっと強い力があるらしいのです。
「如意樹の木陰」についても、一応お話しておきましょう。
これはインドのお話。
ひとりの旅人が夏の午後、道を急いでおりました。
しかしあまりの暑さに、涼しげな木陰を見つけて、そこでひと時休むことにいたしました。
木陰に入ると、気分がよくなってまいります。
「これで、冷たい水でもあれば」そう旅人が思いますと、水が目の前に出てきました。
「これで、横になれる籐のベットでもあれば」そう思いますと、すばらしいベットが現れました。
「この素敵なベットを妻が見たらどんなに喜んでくれるだろう」そう思いますと、目の前に妻が居りました。
「まさか妻がここにいるわけがない。悪魔かもしれない。私は食べられてしまうのだろうか。」そう思ったとたん、妻は旅人を食べてしまいました。
これが如意樹の木陰のお話です。
如意樹は、思った事・考えた事をすべて実現してくれる木なんですね。
そして、私たちはいつもいつでも如意樹の木陰に座っている、サイババはそうおっしゃっています。
このブログの大きなテーマであるサイババについて、スワミ・サティアサイについて多少とも早いうちに語っておいたほうがよいだろう。
写真は、10年近く前に、私が始めてスワミのアシュラムのひとつであるホワイトフィールドに行った時のものです。
ホワイトフィールドは、インドのバンガロールと言う大きな都市の郊外にあります。
この時、私は多少失望し、かなり疑いの目を持って、スワミを見ていたように思います。
写真に写っている私は、どことなく醒めているし、周囲に溶け込んでいない。
その時が初めてのインドで、わたしはかなり混乱していました。
インドに入ったのは、サイババに会う事が目的でしたが、半分は観光旅行のつもりでした。
だから、デリーで入国したし、さきに北インドを観光してからサイババのところに行くはずでした。
しかし、デリーに着いてみると観光するような気分にはとうていなれず、結局インドに入って2日目には、もうバンガロールにいたのです。
そのバンガロールのホテルで見たものは・・・商業的なパンフレットに載っているサイババの写真。
サイババ目当てにくる外国人にシルクやジュウタンを買ってもらうためのパンフレット。
このパンフレットはかなりショックでした。
聖なる遠い存在であるはずのサイババのイメージが音を立てて崩れてゆくように感じられた。
それから翌朝、アシュラムにサイババに会うために出かけたのだが、今度は人が人を神のように拝む事にかなり抵抗を感じた。
「天は人の上に人をつくらず」というのが、私の常識でした。
いかにも目立つオレンジ色のローブも、アフロヘヤーも、私の[聖なるもの」のイメージとは違っていました。
しかし、写真でもわかると思うが、そのときすでに70歳を超えていたにもかかわらずスワミは精悍に見えた。
信者の間をくまなく歩くのだが、その歩き方、振る舞いになんともいえぬ魅力があるのは事実だった。
その後、私の考えも変わってゆくわけであるが、この写真を見ると最初のころが思い出されるわけです。