斐太(ひだ)歴史の里総合案内所。新潟県妙高市宮内。
上越市高田の高橋あめやから南西の妙高市山間部へ向かい、15分ほどで14時30分前に、斐太神社(ひだじんじゃ)近くの駐車場に着いた。
斐太歴史の里総合案内所は、麓の斐太神社からさらに丘の上にあるガイダンス施設であるが、続100名城のスタンプ設置場所でもある。10月は9時~16時と開館時間は1時間短くなる。一般車は丘上に上がれないので駐車場は斐太神社近くにある。鮫ヶ尾(さめがお)城跡見学のため、念のためにトレッキングシューズに履き替えて、登り坂を案内所まで5分ほど登っていった。
「斐太」という地名は、斐太神社の社伝によれば、主祭神の大国主命が御子神である事代主命と建御名方命(諏訪大神)を従えて当地方へ神幸し、住民に稲作の業を教える等の国土経営にあたった折に当地を越国の「日高見(ひだかみ)の国」と名付けたことからという。
斐太歴史の里は国内第一級の史跡が密集する歴史の宝庫で、いずれも国史跡である弥生時代末の倭国大乱時代の高地性環濠集落跡・斐太遺跡の竪穴住居跡や上杉謙信の跡目争いで上杉景勝に敗れた悲劇の武将である上杉景虎の最後の地である続日本100名城・鮫ヶ尾城跡を見学することができる。古墳時代の纏向型前方後円墳などの古墳群は北と南のやや離れた場所にある。
案内所の女性職員に見学コース概要を聴き、時計回りに宮内池(淡水魚の池)、斐太遺跡(矢代山B地区)、鮫ヶ尾城跡を周遊するコースを選択し、14時50分頃出発し、15時45分頃に案内所に帰り、斐太遺跡関連の展示を見た。
宮内池(淡水魚の池)の池岸へ下る。
斐太遺跡(矢代山B地区)。竪穴らしきものはあるが明確ではない。鮫ヶ尾城跡へ向かう。
斐太遺跡は、弥生時代後期後半(3世紀)の集落遺跡である。妙高山に発した山なみは頸城平野の西を限り、妙高市付近では比高40ⅿ前後の低い丘陵となっている。その低丘陵上に200軒を上回る竪穴建物跡を有する大規模な遺跡であり、既知の弥生時代後期の集落遺跡としては東北日本最大規模を誇る。
弥生時代後期後半は中国の史書に「倭国大乱」と記された戦乱の時代で、女王・卑弥呼が登場する時代である。この上越地方にも戦火に備えた山城のような集落が数多く出現したが、その最大規模のものが斐太遺跡である。
これまでの発掘調査により、大規模な環壕(集落を囲う防御用の空壕)の跡が見つかっている。斐太遺跡は、後世の人為的な破壊を免れて集落全域がほぼ無傷で保存されている上に、腐葉土が堆積しにくいという特殊な気候風土によって、日本で唯一、約1800年前の弥生時代の遺構を半埋没状態で肉眼観察することができる。
出土した土器は日本海側に広く共通する「北陸系」、さらに限定するならば能登以東の地域に見られる「北陸北東部系」と呼べる土器群であり、異質な意匠の中部高地系の土器はほとんど出土していない。遺物の大半は弥生時代後期後半~終末期(3世紀初頭から中頃)にかけての30年~50年くらいの短期間で使用されたものである。
こうした遺物の年代から、斐太遺跡が突然見晴らしの良い台地上に出現し、極めて短期間で忽然と姿を消した様子をうかがい知ることができる。斐太遺跡は、列島規模の軍事的緊張が高まった一時期だけの拠点集落だったのであろう。
石製品や鉄製品も少なからず出土しており、東京大学による調査の際にはヒスイ製勾玉の未完成品などが出土した。
斐太遺跡群は、高田平野南部の丘陵地から平野部の半径約1.5kmという狭い範囲の中で、弥生時代から古墳時代にかけて存在した拠点的集落である、吹上遺跡、斐太遺跡、釜蓋遺跡の3遺跡からなる。
いずれの遺跡も、この地域が青田川の扇状地で水田耕作に適していたこと、日本海側と長野方面を結ぶ交点だったことから地域間交流の拠点であったと考えられている。
また、吹上遺跡の集落規模が縮小する時期に斐太遺跡への集住化が図られ、斐太遺跡の縮小と吹上遺跡の一時的な廃絶とほぼ同時に釜蓋遺跡が成立している。
斐太遺跡群のそれぞれ異なる遺跡の性格と集落の盛衰は全国的な動向や傾向と密接に関わっており、この地域の成り立ちや拠点集落の移り変わりがわかる非常に貴重な事例で、弥生時代から古墳時代の我が国の古代国家形成期における地域のあり方を示している。
吹上遺跡は、弥生時代中期から古墳時代前期にいたるまで長期間存続した遺跡である。多様な建物や墓域の存在から、地域の中核的集落と考えられる。
遺跡の特徴は、弥生時代中期に盛んにおこなわれていた大規模な勾玉や管玉生産で、なかでもヒスイ製勾玉の生産量が全国でも有数の規模を誇る。生産された勾玉はその需要が高かった中部高地を中心として、広域に流通したと推定される。
また、石包丁やこの地域には珍しい銅鐸型土製品や銅戈型土製品が出土しているが、これは、遠隔地を含んだ広域流通の存在や、中核集落としての重要度を示している。
釜蓋遺跡は、扇状地北端に位置する弥生時代の終わりから古墳時代はじめの環濠集落である。集落を取り囲むように幅2~3ⅿ、深さ約2mのこの地域では極めて規模が大きい3条の環濠が確認されている。集落東側を流れる河川に結束すると推測される環濠を持ち、舟運を思わせる建物跡や、環濠内部からは、近江など西日本を中心とした遠方の土器が多数見つかっている。
本来は居住に向かない低地にあえて集落が作られたのは、舟運による物資の流通を優先させたためであり、地域間交流の拠点として、近隣周辺のみならず、遠隔地とも盛んに物資の流通を行った姿が想像される。
斐太遺跡北側の丘陵部に観音平古墳群、南側の丘陵部に天神堂古墳群がそれぞれ立地し、古墳群は斐太遺跡によって南北に分断された形となっている。
いずれの地形も斐太遺跡の地形とよく似ており、ふもとには緩やかな傾斜面が広がり、その奥部は山稜の鋭い細尾根となっている。両古墳群とも、この緩斜面に斐太遺跡と同様の竪穴建物跡の窪みが存在するため、弥生時代の集落跡の上に古墳群が形成されたと考えられている。
古墳の数については、昭和53年の史跡指定の時点で、観音平古墳群で52基、天神堂古墳群で118基の古墳を数えているが、確実な古墳の数はわかっていない。
古墳群の年代については、指定された時点では古墳時代中期(5世紀)を中心とした初期群集墳とされていたが、平成に入って観音平古墳群において2基の前方後円墳が発見されたことを受けて、古墳時代前期初頭(3世紀後半)から中期にかけての古墳群と考えられるようになった。天神堂古墳群についても、最高所に位置する方墳(1号墳)が古墳時代前期までさかのぼる可能性が指摘されている。