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瀬木比呂志 「何のための憲法なのか」「日本はまるでアメリカの植民地」…国の義務を放棄し、国民の主張を否定する《最高裁判所》のヤバすぎる事実

2025年01月30日 08時47分48秒 | 社会

「何のための憲法なのか」「日本はまるでアメリカの植民地」…国の義務を放棄し、国民の主張を否定する《最高裁判所》のヤバすぎる事実

Yahoo news  2025/1/17(金)  現代ビジネス 瀬木比呂志(明治大学教授・元裁判官)

 

日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行され、たちまち増刷されました。

「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」「なぜ、日本の政治と制度は、こんなにもひどいままなのか?」「なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から抜け出せないのか?」

これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。

 

「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。

残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。

裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。

『絶望の裁判所』 連載第40回

 

空港騒音差止め訴訟

最後が空港騒音差止めである。確かに、空港は一般国民が利用するものであり、無条件に差止めが正しいということにはならないかもしれない。しかし、逆に、たとえば睡眠を妨げるような深夜の大きな騒音まで空港周辺の住民が甘受しなければならないものではなく、両者のバランスを取った適切な線引きが必要なのである。

だが、第38回で紹介した大法廷判決は、およそ差止めは認めないという乱暴なものであり、空港差止め訴訟は問答無用で切り捨てるという姿勢が明らかである。実は、この事件については、第一小法廷において限定的差止めを認める方向が決まっていた。

ところが、なぜかこれが大法廷に回付されることになり、第38回で紹介したような結論に至ったのである(毎日新聞社会部『検証・最高裁判所──法服の向こうで』毎日新聞社)。その背後に政治的な動きや思惑があったことは想像に難くない。

 

この判決は、差止めを一切認めない理由付け「航空行政権」に関わる事柄だからという理屈を用いているが、これについても学者からは批判が強い。こんな論理を用いれば、国の事業はほとんどが公権力の行使だということになってしまい、一律に民事訴訟の対象から外されてしまうことになるからだ。

また、「行政訴訟ができるか否かはともかく」という言い方も実に欺瞞的である。どのような行政訴訟ができるのかは一切明らかでなく、実際、学者たちも、それは難しいと考えており、砕いていえば、「行政訴訟については、さあね、知らないよ(知らねえよ。知ったこっちゃねえよ)」といっているに等しいからだ。

 

さらに、差止めを全く認めない以上被害が継続することは明らかであるにもかかわらず将来の損害賠償請求を一切否定するというのも問題が大きい。本来は、将来の損害賠償も一定期間、たとえば数年間の分を認めた上で、もしも国が損害を減少させた場合には、国のほうに民事執行法35条の「請求異議の訴え」を提起させた上でその分の強制執行を止める、という形で事案を解決するのが当然なのである。

 

被害が過去のものとなった時点で被害者のほうから再度損害賠償請求を起こさなければならないというのは、理論(民事訴訟法学でいうところの「提訴責任の適正な分配の原則」)にも、正義にも反する。なお、このように被害者に損害賠償について再度の訴えを余儀なくさせることについては、差止めを問答無用で認めないという態度と相まって、全国各地における関連訴訟提起押さえ込みの意図が露骨に透けてみえる。

 

植民地と何ら変わりがないのでは?

第11回で言及した、米軍基地に関する騒音差止請求を主張自体失当として棄却した最高裁判決(1993年〔平成5年〕2月25日)も、大阪空港判決と同様、木で鼻をくくったような内容である。米軍の飛行は国の支配の及ばない第3者の行為だから国に差止めを求めるのは主張自体失当であるというのだが、そもそも、アメリカと日米安保条約を締結したのは国である。つまり、国が米軍の飛行を許容したのである。

また、条約ないしこれに基づく法律の定めがないからできない、というのもおかしい。

適切な法律がないのであれば国にはそれを作る義務があるはずだし、また、日米地位協定(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定)第2条2項には「両国政府は、一方の要請があれば、取決めを再検討し、施設の返還や新たな提供の合意ができる」旨が規定されている以上、つまり、施設の返還まで求めることができる以上、国がアメリカに対して飛行の態様に関する協議の申入れをできないはずがないからである。

 

さらに、憲法秩序が条約に対して優位にあることは憲法学の通説であり、憲法上の基本的人権、人格権の侵害に関わる事柄については、国は一層前記のような行為を行うべき義務がある。

アメリカのやることだから国は一切あずかり知らないというのであれば、何のために憲法があるのか?それでは、植民地と何ら変わりがないのではないだろうか?

 

なお、安保条約については、日本の政治家が、国際情勢に関する明確な展望を欠いたために、本来であればする必要のない妥協を重ねてきた事実が、やはり機密指定を解かれた米公文書により明らかにされている(外岡秀俊ほか『日米同盟半世紀──安保と密約』朝日新聞社)。

 

相当の覚悟がなければ新たな方向へは踏み出せない

以上の私の議論は、自由主義者である学者(学者はほとんどが自由主義者だと思うが)としてのものであり、何らのイデオロギー的な背景はない(なお、空港訴訟に関する部分は、私たちが沖縄で考えていた理屈ではなく、その後私が考えてきた結果を簡潔にまとめたものである)。また、学者の意見としても、比較的先鋭な部分もあるかもしれないが、決して特異なものではないと思う。

言い換えれば、学者の常識の範囲内の分析であり意見なのである。裏を返せば、こうした、統治や支配の根幹に触れる事柄に関する最高裁の判断、また、裁判官一般の考え方が、いかに権力寄りにバイアスがかかっており、また揺るがないものであるかということが、おわかりいただけたのではないかと思う。

 

なお、下級審判例が、以上のような法律上の争点に関して私が論じたような方向に進んでいく可能性も、現在の裁判所システムの下では、あまり高いとはいえない。

そもそも平均的な裁判官は私が論じたようなことはおよそ考えもせず、受け入れもしないだろうし、また、そのような方向が望ましいと考える裁判官がわずかにいたとしても、相当の覚悟をしない限り、新たな方向へは踏み出せないだろう。こうした法律問題に関して果敢な判断を行った裁判官は、前記のとおり、おそらく無傷ではいられず、いつどこでどのような報復を受けるかわからないからである。



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