荒川豊蔵資料館。岐阜県可児市久々利柿下 久々利。
2024年3月29日(金)。
土岐市美濃陶磁歴史館とその周辺の国史跡・元屋敷窯跡、国史跡・乙塚古墳・段尻塚古墳の見学を終えたのち、北方向にある可児市の荒川豊蔵資料館へ向かった。
2020年6月に森蘭丸ゆかりの美濃金山城や明智光秀ゆかりの明智城跡などの可児市の史跡めぐりをしたときに、荒川豊蔵資料館の駐車場まで来たら、入館時間が15時30分までと書いてあったので断念し、時間切れで入館できなかったことがあり、ついでがあれば行くつもりにしていた。人間国宝だった荒川豊蔵の作品は数十年来何度も見ている。
中日新聞より
荒川豊藏(1894年- 1985年)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家で、人間国宝、文化勲章受章者。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。
豊蔵の母方の祖は陶祖・加藤景一で、多治見市で製陶業を営んでおり、豊蔵は桃山時代以来の美濃焼の陶工の血筋を受け継いで生まれた。
青年時代は、陶磁器貿易商のもと多治見や名古屋で働いた。1922年京都東山窯の工場長を任される。京都では旧大名家や名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得る。
1925年東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と出会い、親交を深める。1927年北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ。魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。(東山窯、星岡窯時代の豊蔵は陶工というよりはプロデューサーで、本格的に作陶を始めるのは大萱に窯を築いてから後のことである)
1930年、北大路魯山人が名古屋の松坂屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう。
茶碗の高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持つ。その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った可児市久々利の大平、大萱の古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。
1933年星岡窯をやめて可児市久々利の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる。古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作し、39歳から半世紀にわたる陶芸活動を展開することになる。
1935年満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する。
1955年61歳のとき、 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される。1960年宗達画・光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手する。1971年文化勲章受章。1984年可児市にある大萱窯の地に豊蔵資料館(現・荒川豊蔵資料館)開館。1985年91歳で死去。
2014年豊蔵資料館が財団法人豊蔵資料館から可児市に寄贈され、名称を「荒川豊蔵資料館」に変更し、現在に至る。
2017年から、敷地内にある居宅(旧荒川豊蔵邸)、陶房などを改修し、公開。
再オープン10周年記念企画展「豊蔵の逸話いろいろ」開催。
当館は今年、可児市の施設として10周年を迎えています。その記念として、豊蔵が遺したこれらの収蔵品の中から、豊蔵との逸話が残る品々を紹介します。箱書や絵画の添え書、著作物、口伝といった様々な形で残された逸話からは、豊蔵の矜持や思い、人柄などが伝わってきます。逸話を通して、人間・荒川豊蔵を知るきっかけにしていただけたら幸いです。
開催期間 2024年1月5日(金曜日)から5月12日(日曜日)。
古窯発見端緒図。昭和41年 豊蔵筆。
昭和5年4月11日、可児市久々利大萱の牟田洞古窯跡で、豊蔵によって志野の筍絵陶片が発見された。志野などの桃山陶は、瀬戸で生産されたと言われてきたが、この発見で美濃での生産と判明した。この発見直後から豊蔵による陶片採取が行われた。本作はその端緒を後年述懐して自ら描いたものである。
大萱牟田洞古窯跡出土の陶片 桃山時代
志野などの桃山陶は、豊蔵が可児市久々利大萱の牟田洞古窯跡から志野の陶片を見つけたことで、制作地が美濃であることが判明したやきものである。
これらは、豊蔵が牟田洞古窯跡から採取した陶片で、約400年前から伝世した名碗と同様の絵文様が描かれており、伝世した品の製作場所が特定できる資料として重要である。それと同時に、陶土や釉薬という素材の情報を今に伝えてくれる貴重なものであり、豊蔵自身もこれらの陶片を再現の手掛かりとし、大切にしていた。