
名水百選・富田の清水(しつこ)。弘前市紙漉町。
2022年9月26日(月)。
旧弘前偕行社を見学したあと、近くの名水百選・富田の清水(しつこ)へ向かった。
富田の清水(しつこ)は、江戸時代の貞享年間(17世紀末)初めて製紙法が導入した際に、紙漉きに適しているということで、熊谷吉兵衛らに使わせたのが始まりとされている。昭和初期頃まで製紙が行われ、その後は生活用水として利用された。

並んでいる水槽は一番目が飲料水、二番目が洗顔用、三番目が漬物洗い、四番目が洗濯のすすぎというようにそれぞれの水槽に使用のきまりがあったという。


国名勝・盛美園。平川市猿賀石林。
弘前市紙漉町の名水百選・富田の清水(しつこ)を見学後、洋風建築も見飽きたので黒石方面へ向かうことにして、途中にある国名勝・盛美園に15時30分過ぎに立ち寄った。1990年代後半に日本百名山の岩木山と八甲田山登頂のため、酸ヶ湯温泉旅館に泊まり、三内丸山遺跡や弘前城を見学したさいに平泉中尊寺金色堂なみの部屋がある盛美園を見学したはずだが記憶が薄れているので確かめに来た。
盛美園は、2010年(平成22年)のジブリ作品『借りぐらしのアリエッティ』に登場する屋敷や世界観・イメージの一部として参考にされたと言われている。

国名勝・盛美園は、津軽で盛んであった大石武学流の造園を代表する庭園である。大石武学流は江戸時代初期に都落ちしてきた公卿らが、仏教文化と地元に根付いた古神道文化の思想を習合させて、京風の庭を造った流派であり、津軽地方では特に人気があった。明治時代の作庭としては京都の無鄰庵や清風荘に伍する傑作に数えられている。この庭園は清藤家第24代盛美(1914年没)が大石武学流4代宗匠小幡亭樹を招き、明治35年(1902)から9年の歳月をかけてつくったもので、その広さは約9,360㎡である。
盛美館の北側に南北に長く設けられ、観賞式と廻遊式を兼ねた池泉庭であるが、梵珠山を望む借景の庭でもある。
建物寄りの平坦部(枯山水部)には正面に礼拝石を据えて大型の飛石を打ち、左に蹲踞、右に二神前を組んで飛石で結んでおり、大石武学流の定型がみられる。平坦部の奥は一段低い平地、さらに一段さがって凹字型の池がある。池中の中島、奥の築山は土橋、石橋で結び廻遊できるようになっている。

左手奥の築山に組まれた枯滝石組は豪華な桃山風を偲ばせるものと定評があるほか、庭中随所に組まれた石組と刈込樹が演出する庭趣は、大石武学流池泉式庭園の代表作として高く評価されている。



庭園のつくりは、池を中心に「真」「行」「草」の三部から出来ている。
庭園の中央は池泉と枯池の二段とし、池泉には神仙島を浮かべその上に逢菜の松を植えている。「真」を表す築山、「行」を示す築山をつくり、松・かえで・つつじ等を添えて趣きを豊かにしている。「草」は平庭になっていて、天地創造の神々をつかさどったイチイの大刈込みが見事である。

庭園の中心には大きな泉池があり、その鏡のような水面に館の姿をおとしている。

盛美館は、庭園を眺めるために明治41年に建てられた和洋折衷の建物で、同館は、1階と2階で意匠が全く異なっており、1階は庭園を見渡せるように東方と北方の2方向に縁側を廻した純和風の意匠に対し、2階はルネッサンス調を漂わせ、庭園を見渡す東北角に八角形のドーム屋根の展望室塔屋が突出する形で配置され、屋根には尖塔が配置された洋風に仕上げられており、当庭園の添景として独特の景観を醸し出している。
設計・施工は、地元の宮大工であり、また堀江佐吉の下で洋風建築の腕も磨いたといわれる西谷市助で、4年かけて東京方面の視察から設計・施工まで行った。
一階が和風、二階が洋風という異なった様式が上下に重なる建物は珍しく、我が国では他に例がないといわれている。


御宝殿は清藤家の位牌堂で、二十五代辨吉により大正六年に造営され、十畳敷の堂内は金箔に覆われている。
御宮殿は、重層入母屋造り唐破風の廟建築の様式で、内陣には鎌倉幕府執権北条時頼の側室唐糸御前を祀り、本尊には鎌倉時代(七百年前)の彫刻金剛界大日如来を安置している。
両側の蒔絵は、三部五枚からなり豪華絢爛を極めており、おもに宮内省御用品を制作した漆工芸家で文化功労者の河面冬山(こうもとうざん、1882年- 1955年)が生涯をかけて作った大作で大正初期に完成した。
そのうち、「桜に孔雀」の蒔絵は6尺に7尺(約180cm×210cm)という日本最大、漆芸の最高峰のものといわれている。
なお、御宝殿の観覧は、保存のため、30分ごとに1回約3分間のペースで公開している。写真撮影は禁止されている。

初代清藤次郎盛秀は、鎌倉幕府5代目の執権北条時頼の家臣であった。ときに時頼の寵姫唐糸御前は、女性達の嫉視反感に耐えかねて鎌倉を去る事になった。時頼は唐糸御前を盛秀に託し再会を約した。一行は海路十三湊に着き名野岡村(今の南津軽郡藤崎町)に居を定めた。しかし唐糸御前は時頼行脚の風聞に接し、池に身を投じて自殺した。盛秀は主命を果たせなかった責任を感じて鎌倉に帰らず猿賀の地に永住した。
清藤家は、歴代農業(地主)を営みながら他方では広い地域に亘って商業を営んでいた。当家には往時を偲ばせる「そろばん」がある。その箱書に「天文十一年壬寅三月調之清藤」とあり、日本最古のそろばんといわれている。
清左衛門は、かねてより田舎館城主千徳掃部政武と親交があった。津軽為信が田舎館城を攻めた時、清左衛門は和睦の使者に立ったが、千徳政武は武士道の義に殉じ245人全員が玉砕した。城主の妻お市の方は18歳、一子を抱え隠れ忍んでいたが遂に見付け出された。やがて津軽為信が統一事業を終えた後、敵味方合同の慰霊祭を営んだときにお市の方は祭壇の前に進み焼香を終えた後その場で自刃して果てた。当家では、その心情を哀れみ千徳政武・お市の方の菩提を弔ったと伝えられている。
江戸時代、清藤家は当時大庄屋を勤めていたが、7年間に及んだ大飢饉で餓死する者が続出し惨状を極めた。それを見かねて当家では蔵を開き米を施して村民の窮状を救ったという。その後も勤労を奨め、土地を開墾し飢餓に備えて米を貯えるなど、率先して事に当たり豊かな村を築いた。
明治維新に際し、士族授産のため田地十町歩(10ヘクタール)を残して没収された。24代盛美は、農業(地主)を本業にしていたが、他方で政治的にも経済的にも活動していた。戸長や村長を勤める傍ら青森商業銀行・尾上銀行創立に参画し、やがて尾上銀行頭取になった。



二階主人室。天井周りの蛇腹や床の間の落とし掛けが洋風で作られており、明治文明開化の気品と香りを伝える美しい和洋折衷の広間である客間の雪見障子から庭園を眺める。
二階の窓や展望室からの眺めもそれぞれ額縁の替わった絵が楽しめる。部屋の隅に展望室への入口がある。

田舎館村 田んぼアート。第2会場。道の駅「いなかだて」。田舎館村高樋八幡。
平川市の国名勝庭園・盛美館の見学を終え、黒石市「中町こみせ通り」へ向かい、その途中にある田んぼアート第2会場の駐車場である道の駅に16時ごろに着いた。
第2田んぼアートは道の駅「いなかだて」敷地内にある弥生の里展望所から観覧できる。エレベーターで最上階に昇る。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館 午後4時30分)である。
2023年の開催期間は、10月9日までで、第1会場が5月29日から、第2会場が6月10日からである。見ごろ時期は例年7月中旬~8月中旬で、この時期は稲が隙間なく生育し、発色も良くアートが最も綺麗に見える時期であり、8月下旬以降は出穂や葉の変色により全体的に色あせていくという。




田んぼをキャンバスに見立て、色の異なる稲を絵の具代わりに巨大な絵を描く「田んぼアート」を、田舎館村では1993年に3色の稲でスタートし、年々技術が向上し今では7色の稲を使いこなし繊細で緻密なアートを作り上げている。
田んぼアート第2会場の2022年のテーマは「縄文から弥生へ」であった。
「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に登録されたことを祝し、また、村では弥生時代の水田跡が検出されたことから、縄文時代から弥生時代への移り変わりを表現した作品を描いている。


黒石市消防団第三分団第三消防部屯所。県重宝。黒石市甲徳兵衛町。
松の湯交流館西の「こみせ通り」駐車場の道路向い側に建つ黒石市消防団第三分団第三消防部屯所は昔ながらの威風を誇っていた。大正13年の建築で、洋風デザインを取り入れ、望楼を載せた木造2階建ての建物である。
重要伝統的建造物群保存地区・黒石市「中町こみせ通り」を見学しようとしたが、一方通行の多い街並みで無料駐車場を探して時間がかかり、16時50分ごろ松の湯交流館西の「こみせ通り」駐車場に着いた。
見学施設は17時に閉まるようで、外観のみの見学となった。

松の湯交流館。保存地区の北側にある復元整備された観光交流施設であり、地元の児童生徒で賑やかだった。観光リーフレットや情報コーナーが充実している。
松の湯はかつて地域の人々に愛された銭湯で、屋根を突き抜け、力強い生命力を感じさせる松の木が印象的な建物であった。この地に建てられた江戸時代の当時、旅籠(旅館)だったと伝えられ、旅人が疲れを癒し、さまざまな情報を交わす場所だった。
その後、銭湯に生まれ変わり、人々が集まるコミュニティの場であり、まちの情報があふれる場所だった。1993年にその役割を終えたが、まちのランドマークとして、保存と活用が望まれ、当時の姿そのままに、2015年に松の湯交流館として生まれ変わり。黒石の観光情報の収集やまち歩きの拠点になっている。


黒石市中町 重要伝統的建造物群保存地区。
「日本の道百選」にも選ばれた中町の通りには、「こみせ」と呼ばれるひさしが伝統的な形態を維持したまま残されている。
中町は、明暦2年(1656)に津軽信英(のぶふさ)が黒石津軽家を創立した際に整備された商家町である。
「黒石津軽家」が誕生したのは、江戸時代前期のことである。明暦元年(1655)、弘前藩3代目藩主・津軽信義が急死したため、その翌年、彼の子供である信政が4代目藩主となった。しかし、その当時信政はまだ幼かったことから、信義の弟である津軽信英(のぶふさ)が信政の後見人に命じられた。明暦2年(1656)、信英は弘前藩から5,00石を分知され、黒石領初代領主となった。信英は分知以前からあった町並みを基に新しい町割りを行っており、これが現在の黒石の基礎となっている。
中町の通りは、北は青森、南は弘前藩領へと繋がっていたことから、交通の要所として栄え、商家が立ち並び、現在もその名残をとどめている。
この地区の最大の特徴は、主屋の道路側に「こみせ」と呼ばれる庇が設置されているということにある。「こみせ」の建築年代は定かではないが、信英が町割りをしたときに作らせたと伝えられている。
江戸時代に形成されたこみせは、最盛期には総延長4.8キロメートルにも及んでいたが、度重なる火災や車社会の発達などにより、大半が消失してしまった。
ところが中町周辺だけは、伝統的な形態のこみせが連続性を保ったまま保存された。中町には、造り酒屋、米屋、呉服店、銭湯など、近代的な店構えにしなくても成り立つ商家が多かったうえ、昔ながらの重厚な店構えであったほうが商売上有利であったことが関係していたと考えられている。

中村亀吉酒造店。中町の通りには重要文化財「高橋家住宅」や、造り酒屋、蔵などが立ち並び、いにしえを彷彿とさせてくれる。
商家の外観の特徴として、屋根は切妻造が主体で、妻入りと平入りが混在している。間口が大きい家は妻入り、小さい家は平入りが多くなっているが、これは冬場の雪降ろしの都合によるものである。
主屋や店舗は木造真壁造が主流で、外壁は土壁中塗装仕上げ、しっくい仕上げ、板張りである。土蔵は、雪害から守るために屋内に取り込まれていることが多く、景観上は目立ってはいないが、丁寧な仕上げを施した土蔵が数多く残されている。
通りにある寺山餅店は、文政7年(1824年)創業の歴史ある餅店とリーフレットに書いてあったので、「四半餅」を購入し、翌日食べた。西谷家住宅(こみせ美術館)は、古いこけしやねぷた絵、陶器、農具などの昔懐かしい品々を展示し、大石武学流の庭園の見学も可だが、営業時間を過ぎていた。


建物の表通りに設けられたひさしを、青森県や秋田県では「こみせ」と呼んでいる。同じものが、新潟県などでは「雁木」と呼ばれており、地方によって呼び名が違う。
こみせの伝統的な形態は、構造が木造で、幅は1.6メートル前後、軒高は2.3メートル前後、屋根勾配は2寸勾配前後、天井は垂木となっている。また、前堰(現在は側溝)に雨だれや雪を落とすため、軒先が道路に出ている。
こみせの空間は、積雪時の貴重な歩行通路となることから、降雪地帯で維持されてきたと考えられる。黒石のこみせは主屋1階の高さに合わせてひさしをつけた「落とし式」となっている。
こみせの構成はシンプルだが、雪を防ぐために落とし込む「しとみ」や、幕板、欄間風の細工、庭への入り口部分に設けられた入母屋屋根など、通り全体の統一性を保ちつつ家ごとに個性のある意匠が施されている。
2015年からは電線の地中化が始まり、2020年9月末にすべての電柱が抜き取られた。そして同10月から道路の美装化を行い、2021年3月で工事が終了した。1車線となり道路の両側に石畳風の路側帯が整備され、安全な歩行空間が増えたことで、当時の落ち着いた雰囲気を見せている。
17時を過ぎたので、弘前市南端にある道の駅「弘前」へ向かった。