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青森市 青森県立美術館②棟方志功 今純三 ミナ・ペルホネン

2024年04月30日 16時27分15秒 | 青森県

青森県立美術館。青森市安田近野。

2022年9月29日(木)。

棟方志功(むなかた しこう)、[1903-1975]。

1903(明治36)年、青森市に鍛冶屋の三男として生まれた棟方志功は、幼い頃より絵を描くことを好み、ほぼ独学で油彩画を手がけるようになります。18歳の時、文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの《向日葵》を見て感銘を受け、油彩画家を志して、友人の松木満史、鷹山宇一、古藤正雄とともに美術サークル「青光画社」を結成、展覧会などを開催しながら絵画について研究を重ねます。

1924(大正13)年に上京して帝展入選を目指しますが、落選を繰り返します。セザンヌなど後期印象派を学んだことが感じられる《八甲田山麓図》は当時の作品です。一方、この頃に「国画創作協会第5回展」に出品された川上澄生の《初夏の風》を見て感銘を受け、木版画を制作するようになり、1928(昭和3)年には日本版画協会展において初入選を果たし、また同年、油彩画《雑園》で念願の帝展初入選も果たします。

《星座の花嫁》に代表されるこの時期の棟方の版画は、川上澄生の影響を強く感じさせるものでしたが、その後、1933(昭和8)年の《萬朶譜》、1936(昭和11)年の《大和し美し》といった代表作を制作、黒と白を基調とした独自の表現スタイルを見出します。特に《大和し美し》が「第11回国画会展」に出品された際、陶芸家濱田庄司の目にとまったことをきっかけに、柳宗悦の知遇を得、その後、民芸運動の作家達との交流の中で仏教や古典文学等の知識を深めながら、より強固な独自の表現を切り開きました

1938(昭和13)年には謡曲「善知鳥」に題材をとった《勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅》で「第2回新文展」の特選を得ましたが、これは官展において版画が受賞を果たした初の快挙でした。翌年には代表作《二菩薩釈迦十大弟子》を発表、また、1942(昭和17)年より著書の中で自らの木版画を「板画」と呼び、他の創作版画との差別化を図るようになります。

第二次大戦中は東京にとどまりますが、終戦直前の1945(昭和20)年4月に富山県福光町(現・南砺市)に疎開。同年5月の東京大空襲で自宅を焼失し、板木の多くを失いました。福光には1951(昭和26)年まで滞在。

戦後の棟方は、1955(昭和30)年に「第3回サンパウロ・ビエンナーレ」で版画部門最高賞を、1956(昭和31)年に「第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で国際版画大賞を受賞するなど国際的な評価を確立し、1959(昭和34)年にはロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きにより初めて渡米、各地で個展を開催し、大学で「板画」の講義を行います。また、約9ヶ月の渡米中ヨーロッパへも足を延ばし、各地の美術館を見学します。

1960(昭和35)年頃から眼病が悪化し、左眼が殆ど失明状態となりますが、その旺盛な制作活動は衰えを見せず、1961(昭和36)年には青森県庁新庁舎の落成を記念し、幅7mの巨大な《花矢の柵》を制作、その後も《大世界の柵》など大型の作品を手がけました。1970(昭和45)年には文化勲章を受章。「板画」の他、自ら「倭画」と名づけた即興的な日本画を数多く制作、大衆的な人気をも獲得していきました。

1973(昭和48)年、鎌倉市に財団法人棟方板画館を開館しましたが、翌年に健康を害して入院、1975(昭和50)年5月に東京の自宅で死去。同年11月、青森市に棟方志功記念館が開館しました。

今純三(こん じゅんぞう) [1893-1944]

今純三は、1893(明治26)年、弘前市の代々津軽藩の御典医を務めた家に生まれました。5歳上の次兄は「考現学」を創始し、民家研究の分野でも重要な足跡をのこした今和次郎です。1906(明治35)年に家族とともに上京しますが、神経衰弱が原因で医学に進むことを断念し、画家を志して1909(明治38)年、太平洋画会研究所に入ります。翌年、白馬会葵橋洋画研究所に移り、1912(明治45)年には岡田三郎助が藤島武二とともに設立した本郷洋画研究所に入所します。

1913(大正2)年の「第7回文展」に《公園の初秋》が初入選、翌年の東京大正博覧会で《花と果物》、1917(大正6)年の第5回光風会展で《静物》、1919(大正8)年の第1回帝展で《バラライカ》が入選するなど画家としての道を歩み始めますが、一方で、「自由劇場」や「芸術座」などの新劇の舞台で舞台美術製作を担当し、1921(大正10)年には資生堂意匠部に勤務します。

1923(大正12)年、関東大震災で被災したのを機に青森市に転居すると、銅版画や石版画の研究・制作に着手、版画制作に重点を置くようになります。1927(昭和2)年、青森県師範学校図画嘱託となりますが、この頃より、兄の和次郎による「考現学」調査に協力し、青森の暮らしを詳細に採集したスケッチを和次郎のもとに送るようになり、同年に東京新宿の紀伊国屋書店で開催された「しらべもの[考現学]展覧会」には、純三による「青森雪の風俗帳(其1)」も出品されました。当時、純三のアトリエには、芸術家志望の若者が足繁く訪れ、純三から多くを学んだといわれています。

1933(昭和8)年に青森県師範学校を退職して東奥日報社編集局嘱託となった純三は、県内各地の自然や風俗等を考現学的な視点をもって描写した、銅版と石版による『青森県画譜』の発行に着手、翌年、全12集(100点)をもって完結させます。1935(昭和10)年にはエッチングによる「奥入瀬渓流」連作や、県内の風景、風俗を題材にした銅版画による小品集の制作にも着手するなど、1930年代後半にかけて精力的に活動をおこない、1936(昭和11)年には川崎正人らと「青森エッチング協会」を設立、1937(昭和12)年からは、西田武雄が発行していた雑誌『エッチング』で「私のエッチング技法」の連載執筆を開始します(1940年4月まで)。

1939(昭和14)年9月、版画家としての再出発をかけて家族とともに上京しますが、戦時下、西田武雄の紹介によりインキ製造所で働くことになります。1940(昭和15)年、「日本エッチング協会」の設立に参加し、1943(昭和18)年には版画研究の集大成である『版画の新技法』を三國書房より刊行しますが、困窮した生活を支えるための過重労働により湿性肋膜炎を発症し、1944(昭和19)年9月28日に亡くなりました。制作助手としても純三を献身的に支えてきた妻のせつは純三没後、青森に帰郷し、翌年の青森空襲で亡くなりますが、純三の作品は奇跡的に戦災を免れました。戦後、1950(昭和25) 年には兄の和次郎により、東京ジープ社から『版画の新技法』が再刊されています。

ミナ・ペルホネン(minä perhonen)は女性服を主に展開している日本の服飾ブランドである。1995年、デザイナー皆川明(みながわ・あきら)によりファッションブランド「ミナ(2003年よりミナ ペルホネン)」が設立される。

ミナ ペルホネンは、ハンドドローイングを主とする手作業の図案によるテキスタイルデザインを中心に、社会への考察や自然への詩情から図案を描き、織りやプリント、刺繍などのテキスタイルをオリジナルにデザインしている。2006年「毎日ファッション大賞」大賞を受賞。近年は、青森県立美術館、東京スカイツリーRのユニフォームのデザインも手がけるほか、家具や器、店舗や宿の空間ディレクションなど、日常に寄り添うデザイン活動を行っている。

 

青森県立美術館の見学を終え、南へ15分ほどの場所にある世界遺産・小牧野遺跡のガイダンス施設である青森市小牧野遺跡保護センター(縄文の学び舎・小牧野館、青森市野沢字沢部)へ向かった。

青森市 青森県立美術館①奈良美智「あおもり犬」 シャガール


青森市 青森県立美術館①奈良美智「あおもり犬」 シャガール

2024年04月30日 11時33分15秒 | 青森県

青森県立美術館。青森市安田近野。

2022年9月29日(木)。

11時過ぎに世界遺産・特別史跡・三内丸山遺跡の見学を終え、隣にある青森県立美術館を見学した。地元の女性客でにぎわっていた。

この美術館は、奈良美智の作品で有名だと予習で知った。奈良美智が、村上隆とともに高額で取引される現代美術の作家であることを知ったのは2000年代初めだろうか。2021年ごろ、NHKの日曜美術館で北海道・洞爺湖町のアトリエで過ごしながら、子供たちの作品を品評している姿を見た。

奈良美智(よしとも)1959(昭和34)年、弘前市に生まれた奈良美智は、青森県立弘前高等学校卒業後に上京し、1981(昭和56)年、愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学します。同大学大学院修士課程修了後は、ドイツに渡り(1988年)、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学、ミヒャエル・ブーテやA.R.ペンクのクラスで絵画を学びました。アカデミー修了後、1994(平成6)年にケルンに移り住んで以降、帰国するまでの約6年間は多作な期間で、《Mumps》(1996年)や《Pancake Kamikaze》(1996年)など、挑むような眼差しをもった子どもの姿を描いた奈良の代表的な作品が次々と生み出されました。また、この間、日本やヨーロッパでの個展の機会が増え、しだいにその活動に注目が集まるようになります。

2000(平成12)年12年間におよぶドイツでの生活に終止符を打ち、帰国。翌年、新作の絵画やドローイング、立体作品による国内初の本格的な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館を皮切りに国内5ヵ所を巡回します。いずれの会場でも驚異的な入場者数を記録し、美術界の話題をさらいましたが、特に作家の出身地である弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫(現弘前れんが倉庫美術館)で行われた同展は、延べ4,600名にのぼるボランティアにより運営されたもので、市民の主体的な関わりと参画の規模の大きさにおいて、展覧会の歴史上画期的なものとなりました。

青森県立美術館では1998(平成10)年から奈良美智作品の収蔵を始め、現在その数は170点を超えます。コレクション展では、展示替を行いつつ常時奈良の作品を展示しています。

青森県立美術館の敷地には、巨大な犬の立体像≪あおもり犬≫や、自身のデザインによる建造物「八角堂」内に設置されたブロンズ像《Miss Forest / 森の子》といった、建築空間を意識して作られたモニュメンタルな作品もあります。ほかにも青森県内では、十和田市現代美術館の外壁の《夜露死苦ガール》、弘前れんが倉庫美術館の《A to Zメモリアル・ドッグ》といった奈良美智作品を見ることができます。

2023年4月14日、奈良美智は大阪IRをめぐる報道の中で自身の著作物である「あおもり犬」無断でイメージの中に使用されていることをツイートした。

大阪府市のIR推進局によると、イメージ図や動画は、IR事業者であるオリックスと米MGMリゾーツ・インターナショナル側から2021年7月と9月にそれぞれ提供を受け、公表資料に掲載するなどした。2021年にも指摘を受けていたが、IR推進局からの問い合わせに対して「利用許諾を適切に取得している」と事業者は回答していた。

なお、本人は許諾しておらず、展示場である青森県立美術館も「なお、当館においては、本件での画像使用許可等の問い合わせの事実はありません。」としている。大阪府知事の吉村洋文は「美術家の奈良さんと村上さんには謝罪を申し上げます。本当に申し訳なかったと思います。」と謝罪をした一方で、「ただ一方で、何らかの奈良さん本人ではない方とのやりとりというのも実はあったんじゃないかという話も聞いています」という、著作権者を騙る第三者の存在をにおわせる言い訳をした。

twitterでは日本維新の会、大阪維新の会支持者が奈良に対して「大阪にIRは必要だけど、君の作品は大阪に必ずしも必要ではない黙々と法的処置だけしとけよ」などの誹謗中傷を行った。MBSテレビの『よんチャンTV』では著作権に詳しいという触れ込みで弁護士の河西邦剛氏が「意外に思われるでしょうが、今回の作品が屋外でお金を払わなくても見られる場所にあることがポイント」「屋外に設置されている造形物は、誰でも写真に撮ってSNSにアップするなどできてしまう。屋外にあると奈良さんの権利は大幅に制限されることがある」「今回は、PR動画に使っているだけで販売したり収益化をしていないので、まだ著作権侵害には至っていないかな、というところ」「損害賠償請求できたとしても、慰謝料的な意味合いの数十万円程度ではないか」「実際にIRに無許可でこの像を造るのはNG。また、創作者の心情にも配慮すべき」とした。

また、出演者のロザンの宇治原史規は、「PR動画に大阪の町並みを使う時、そこに誰かの著作権がある看板が映ってたら、全部許可を取らないといけないのかという話になるってことですよね」など著作権を軽視する発言を行った。しかし、(1)「あおもり犬」は青森県立美術館の壁に囲まれた敷地内にあり、明確な屋外ではない。(2)「多くの人に気軽にアートに触れてほしい」という作者の好意で私的な撮影は自由だが、PR動画という明確な商用利用までは認められていない。など多くの事実誤認の上での発言であった。

シャガール: バレエ「アレコ」舞台背景画。

20世紀を代表する画家の一人、マルク・シャガール(1887-1985)は、1942年、亡命先のアメリカでバレエ「アレコ」の舞台装飾に取り組んだ。青森県は、全4幕からなるそのバレエの背景画の内、3点を収蔵している。1点の大きさは縦が約9m、横は約15m。巨大な画面にシャガールの色彩への情熱がほとばしっている。