続日本100名城。国史跡・浪岡城跡。浪岡城跡案内所。青森市浪岡大字浪岡。
2022年9月28日(水)。
国史跡・高屋敷館遺跡、資料館の「青森市中世の館」を見学後、北東近くにある国史跡・浪岡城跡へ向かった。県道27号青森浪岡線が跡地の北側を通っており、東端に浪岡城跡案内所と駐車場がある。
浪岡城跡の史跡指定面積は約13万6千㎡で、1940年(昭和15年)2月10日に青森県内で初めて国の史跡に指定された。城跡は20数年の発掘調査で復原が試みられ、史跡公園として整備されている。
中央に浪岡城跡、下部に中世の館。
浪岡北畠氏は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。浪岡における北畠氏の宗家は、「浪岡御所」「大御所」あるいは「北の御所」とあがめられ、天正年間まで力を持ち続けた。
後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていった。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した北畠具永以前のものは判然としてはいない。
当初は南朝ゆかりの根城南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部したものと推測されている。
浪岡城は、現在の地に15世紀後半に築城されたとみる説が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。
16世紀になってから浪岡城は拡張されて、北畠氏は、大光寺、大浦氏(津軽氏)などの勢力と津軽を三分していた。また、16世紀中頃になると、官位獲得のため京都に使者を送り、具永・具統・具運3代の官途はいずれも従五位下から始まり、最盛期と考えられる具永の時代には従四位下左中将にまでいたっている。
永禄5年(1562年)に、川原御所の乱が発生し、この内乱を契機に浪岡北畠氏の勢力は衰退した。顕村(後の具愛)が跡を継ぎ、檜山の下国安東愛季の娘を正室にむかえて勢力回復をはかったが、西根の大浦(津軽)為信が浪岡城を攻略して、北畠氏は滅亡した。
浪岡城は、浪岡地区中心部の東方、北東へと続く丘陵の南端に位置し、浪岡川と正平津川の合流点右岸段丘面に築かれた平城である。城の南側の急峻な崖下には浪岡川と正平津川が流れていて天然の堀と水源を兼ねていた。
築城は15世紀後半の4代顕義のころとされる。北畠氏は建武の新政(1334~36)に活躍した北畠親房の子孫で、「浪岡御所」の敬称で呼ばれた。京都の公卿の日記にも登場する。浪岡へは応永年間(1394~1428)に来住、岩手県閉伊地方に住んでいたのを南部氏が津軽支配にその権威を利用しようとして連れてきたといわれる。
浪岡城は、東西1200m、南北600mの敷地を持ち、幅10 - 30mの二重堀で分けられた8つの館(郭)があった。各館は丘陵を掘切るように構築され、東側から新館、東館、猿楽館、北館、内館、西館、検校館の7郭と発掘によって発見された無名の館で構成されている。
内館 - 主郭で、城主の居館があった。広さは、東西約120m、南北約85m。南に正門、北に裏口があり、土塁に通じている。
西館 - 内館の西にある。広さは、東西は北から約80・100・18m、南北約150m。北館、検校館の間に2重の掘割、その中央に土居があった。
北館 - 内館、西館の北にある。全郭の中でもっとも広い。東西約200m、南北約100m。全面二重の堀で囲まれ、堀の中央に土居があった。家臣の屋敷があった地でもある。
東館 - 北館の東にある。最広部は東西約120m、南北約70m。北、南に二重の堀があり、南の猿楽館の堀は中央に土居がある。浪岡城落城後一時代官所が置かれた。
猿楽館 - 内館の東、東館の南にある。最広部は東西約80m、南北約80m。西・北に二重の堀があり、東は断崖である。猿楽館の名称は、この地で猿楽が催されたことから。
検校館 - 西館の西にある。東西約80m、南北約180m。検校屋敷とも言われる。東側に二重の堀、その他全方向に堀がある。
新館 - 東館の東と国道の南に地域。南北約90m、東西不明。西に掘割があり、南は断崖となっている。浪岡補佐の目的で置かれた津軽郡代関係の武士の居館と思われる。
内館入口。
内館から北館方向。木柵が再現されている。
内館。
内館から北館方向。木柵が再現されている。