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青森県鶴田町 鶴の舞橋 藤崎町 藤崎八幡宮・安東(秋田氏)発祥の地

2024年04月15日 14時56分06秒 | 青森県

鶴の舞橋。青森県鶴田町廻堰大沢。2022年9月25日(日)。

本日4か所目の世界遺産の大森勝山遺跡を見学したのち、16時50分ごろに出て、鶴の舞橋の岩木山側の駐車場に着いたのは17時10分ごろだった。帰る客ばかりで、駐車場もほとんど空いていた。ここは新しい観光名所で、るるぶやマップルを読んだときに知った。

鶴の舞橋は1994年、岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽富士見湖に、全長300mの日本一長い三連太鼓橋として架けられた。

岩木山を背景にした舞橋の姿が鶴が空に舞う姿に見えるとも言われ、また、橋を渡ると長生きができるとも言われている。夜明けとともに浮かび上がる湖面の橋の姿や、夕陽に色づく湖と鶴の舞橋は絶景である。

岩木山などを背景にした光景が写真になっているが、暗くなってきた曇り空では絶景とはいかなかった。

橋上の東屋まで歩き、戻ろうとすると、大森勝山遺跡では見えなかった岩木山の頂上が見えていた。

このあと、道の駅「鶴田」へ向かった。

藤崎八幡宮・藤崎城跡。藤崎町藤崎字四本松。

2022年9月26日(月)。

道の駅「鶴田」で起床。本日は、月曜日開館が多い弘前市街地の博物館などへ向かう。その途中にある藤崎八幡宮(藤崎城跡)へ立ち寄った。

藤崎城は鎌倉幕府から「蝦夷管領」に任じられた安東氏発祥の地とされる。社殿のある長い土塁とその下の堀跡は、その昔、藤崎城を拠点に活躍した安東氏と藤崎城の壮大さを現在に伝える貴重な遺構となっている。

藤崎八幡宮は、平安時代末期前九年の役で、源頼義・義家の軍勢に敗れた奥州の豪族安倍氏の遺児高星丸が藤崎城を築き、後に強大な力を持つ水軍を擁することとなる安東氏を興した時、1092年(寛治6年)の藤崎城築城時に、領内の鎮守として創設されたと伝えられている。

祀られているのは「品陀別命」(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)である。

社殿は藤崎城の土塁の斜面にあり、北東側土塁上には1340年(暦応3年)の板碑(近くの稱名寺の境内から出土したといわれる)、1881 年(明治14 年)に建てられた「安東氏顛末記」、庚申塔、二十三夜塔などがある。

藤崎は平川と浅瀬石川が合流する右岸に開けた津軽平野の中心部で、舟場があった。舟場があった平川はやがて岩木川となり、十三湊へつながる水運だった。また外ヶ浜方面の羽州街道が連結し、まさに水陸交通の要所であった。

安東氏(秋田氏)は、安倍貞任第2子の高星を始祖とする系譜を伝えているが、その実際の家系については、不明である。

『保暦間記』によると安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ蝦夷対応に当たったのが始めとされている。鎌倉時代末期には御内人として蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に西は出羽国秋田郡から東は下北半島まで一族の所領が広がった。

のち二家に分裂し檜山郡と秋田郡にそれぞれ割拠、室町時代に二家は統合し戦国大名となった。本家は16世紀後半以降秋田氏を名乗り江戸時代を通じて大名として存続し、明治維新後は子爵となった。

藤崎城は、15世紀の半ば以降は津軽に進出した南部氏の津軽支配の拠点として使われ、さらに1571年(元亀2年)にのちの津軽氏の大浦為信が、石川城の南部高信を急襲して城を奪うと、この城も為信の支配化に置かれた。

大浦為信は義弟の六郎や甥の五郎らを城代として置いて津軽支配の重要な拠点としたが、1585年(天正13年)に六郎と五郎が川遊びの途中で事故死すると廃城とし、その後は「藤崎古城」と呼んで城番が置かれた。江戸時代に入ると建造物は破却され、苗代や畑として使われたようである。

板碑。金剛界大日種子石塔婆(南北朝時代暦応三年 1340年、安山岩、高さ 82.5㎝ 幅 47㎝ 幅 13㎝)。

このあと、岩木山東麓にある高照(たかてる)神社・「高岡の森 弘前藩歴史館」へ向かった。

青森県 弘前市立裾野地区体育文化交流センター②縄文後期の十腰内式土器


青森県 弘前市立裾野地区体育文化交流センター②縄文後期の十腰内式土器

2024年04月15日 12時14分31秒 | 青森県

弘前市立裾野地区体育文化交流センター。弘前市十面沢字轡。

2022年9月25日(日)。

弘前市立裾野地区体育文化交流センターは、世界遺産・大森勝山遺跡のガイダンス施設であるが、縄文時代後期の標式土器である十腰内(とこしない)式土器を出土した裾野地区の十腰内遺跡からの出土品なども展示している。

十腰内2遺跡(弘前市大字十腰内字猿沢)出土の縄文時代後期の猪形土製品。縄文時代後期から晩期にかけて、猪形土製品は北海道から関東まで散見されるものだが、本品は、それらの中にあって、群を抜く大きさで写実性に富み、美術性にも優れている。

縄文後期には関東地方南部の称名寺(しょうみょうじ)式に後続して堀之内(ほりのうち)式加曽利(かそり)B式土器が後を追って北上し、東北南部へ入って門前(もんぜん)式南境(みなみさかい)式宮戸(みやど)1b式土器に影響を与え、さらに北上して青森県に入り、弘前市の新カメコ山と称する十腰内遺跡の出土土器を標式として設定された十腰内式土器(Ⅰ~Ⅵ群〈式〉に分類されている)を生じ、さらに海を越えて北海道に上陸し、内浦湾に面する虻田町(あぶたちょう)の入江式土器を誕生させている。

東北北部に広い分布をみせる十腰内式土器は、沈線で描かれた入組(いりくみ)・山形・同心円などの文様を主体とするⅠ群式土器器面に疣(いぼ)状の小突起のある十腰内Ⅴ群式など特徴的な文様をもつ土器が多く、器面に磨きをかけ光滑を有するもの、施された縄文の上を軽く擦って縄目文様を潰した磨消(すりけし)縄文もみられる。また器形では壺の形状を示すものも多く、後半期には土瓶形の注口も出現するなど、器形がバラエティに富み、現代人が用いる食器類の根源的様相を抱かせている。

(弘前市史)

 

本日4か所目の世界遺産になる大森勝山遺跡を見学したのち、16時50分ごろに出て、鶴田町の「鶴の舞橋」へ向かった。

青森県 弘前市立裾野地区体育文化交流センター①大森勝山遺跡出土品 縄文土器