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山形県庄内町 芭蕉上陸の地・清川関所跡

2024年10月24日 11時10分28秒 | 山形県

芭蕉上陸の地。荘内藩清川関所。山形県庄内町清川字花崎。清川歴史公園。

2024年9月10日(火)。

戸沢村古口で最上川舟下りを体験し終えて、庄内平野の入口にある清川関所に着いた。「芭蕉上陸の地」の標示と芭蕉像がある。背後はエノキの古木と船見番所である。

松尾芭蕉は、弟子の河合曾良をともなって1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月17日)、江戸深川の芭蕉庵を発ち、9月6日岐阜県大垣に到着までの142日間にわたって旅をした。 5月15日、陸奥国尿前の関(しとまえのせき)から出羽国堺田に入り、尾花沢の鈴木清風を訪ね歓待を受けそこで、10日間滞在した。 5月27日、山寺に詣で、大石田、新庄を経て、6月3日本合海(もとあいかい)で舟に乗り、最上川を下り、清川で下船した。その後狩川(現庄内町)、手向(とうげ、現鶴岡市)、羽黒山・月山・湯殿山へと足を運んだ。

清川最上川舟運の水駅として発展した宿場町で、出羽三山詣での登拝口でもあることから、人の往来が盛んで今でも歴史的な価値のある旧跡・文化・遺品が多く残っている。江戸時代の清川には1日700人〜1,000人、年間3万人の出入りがあったという。

古くは、1187年に源義経の一行が奥州平泉へ向かったという伝承地、1689(元禄2)「おくのほそ道」での松尾芭蕉上陸の地、戊辰戦争東北初戦の地、明治維新の魁といわれる清河八郎を輩出した所でもある。

川口番所(右)と船見番所(左)。

清川関所は庄内藩が置いた関所の5ヶ所の1ヶ所で、関所内には参勤交代の本陣(御茶屋)と番所があり、庄内藩主の江戸参府・帰城の際の宿泊所として、承応元年(1652)に建てられた。文化5年(1808)の大火で類焼し、その後再建はされず、翌年、清川組大庄屋役宅に居間などが増築された。

現在も「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っている。

平成31年(2019)、川口番所や船見番所が復原され、清川歴史公園として公開されている。地区全体を「歴史の里」としてまちづくりを進めており、復元した番所は「歴史の里清川」を体感できるまち歩きの拠点施設として利用可能である。清川関所跡は日本遺産「自然と信仰が息づく『生まれかわりの旅』」の構成文化財になっている。

川口番所。番所資料館。

最上川の舟運は、古代から明治時代にかけ、経済と文化の大動脈として栄えていた。荘内藩は藩境に五つの番所を設置していたが、清川口の番所は清川と古口・清水・大石田との間を川船で往来することから、鼠ヶ関・小国・大網・吹浦の四口と異なり「川口番所」と呼ばれ、人・物・文化の交流が最も多かったといわれている。川口番所では、他藩との間を往来する「人」を監視していた。

船見番所から最上川方面への眺望。

荘内藩は清川に、内陸向け諸荷物の抜荷を監視するための「船見番所」をおいた。川口番所が「人」を監視したのに対し、船見番所は最上川を往来する「荷物」を監視していた。復元された施設は最上川に臨み、川面を眺めることができる。

内部は写真などを展示している。

大正11(1922)年。

昭和20年代末。

1914年(大正3年)に陸羽西線が開通して以降、舟運から汽車の利用に移ったことで徐々に衰退した。

1874年(明治7年)この地に清川小学校が創立されたが、その小学校も統廃合に伴い2009年(平成21年)に閉校した。今でも小学校があった時の名残で、関所のすぐ裏側には体育館がある。

昭和31(1956)年。

芭蕉上陸地の表示地が現在地で正しいのか川岸にあるのか確認するため、番所資料館に入り、女性職員に尋ねると、国道が川沿いに開通してから土手下内に隠れるようになったが、現在地でよいとのこと。大石田河岸の例からすると、本来は川岸に船着き場があり、石段の上に関所建物があったのだろう。

また、さきほど最上川舟下りで見学した仙人堂の常夜燈を寄進した斎藤治兵衛は清河八郎の父だと教えられた。近くには清河八郎記念館もある。

 

このあと、北西に進み、庄内藩の支藩であった松山藩の跡地へ向かった。

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