いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

読書メモ「古代氏族の研究2 葛城氏 武内宿祢後裔の宗族」(宝賀寿男、2012年)

2024年10月28日 09時01分18秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究2 葛城氏 武内宿祢後裔の宗族」(宝賀寿男、2012年)

 

葛城氏は皇別の臣姓の氏が主。ほかに神別で葛城国造系の直姓もあるが,同族ではない。葛城国造族は鴨県主と同じく天孫族・少彦名神の後裔である。

葛城襲津彦(そつひこ)が初代とされるが、大和葛城地方あたりに本拠を置いて活動したのは、その先代の武内宿禰からである。

武内宿禰の活動期間は実際には成務から応神までの60年ほどであろう。武内宿禰は、孝元天皇の孫の屋主忍男武雄心命と紀国造の祖・菟道彦(ウチヒコ)の娘との間に生まれた。大和国宇智郡に因んで武内宿祢という通称を名乗った。実名は不明。北隣の葛城国造家と通婚し、その地に入って子の襲津彦を儲け、襲津彦の代に豪族となり葛城氏を氏の名とした

380年ごろ新羅の重臣・昔于老(奈解王の子)を殺した倭の将軍「于道朱君」は「宇治宿祢」「内宿祢」「武内宿祢」で、倭の使臣「葛那古」は襲津彦であろう。

 

井上光貞のソツヒコ実在論。襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条で、『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(サチヒコ)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。これは史実であって、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げると、壬午年は382年と解釈される。襲津彦は4世紀末から5世紀初めの広開土王碑に記された時代に実在した人物とみられる。380年代に襲津彦は新羅など韓地で活動。襲津彦が韓地から多くの俘虜を倭国に連れ帰ったという記事は葛城地方に残る遺跡で裏付けられる。御所市の南郷遺跡は冶金・金工・韓鍛冶の技術者の居地で、5世紀の馬韓・百済・伽耶系土器が出土する。

 

記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んだとされるが、実際には皇后ではなく、仁徳の皇子時代の最初の妃であった。仁徳は応神の崩御後に、皇太子の菟道稚郎子皇子が即位したのを殺害して皇位を簒奪し、菟道稚郎子の同母妹の矢田皇女を皇后とした。

 

葛城氏の本宗は「襲津彦―玉田宿禰―円大臣」と続いて滅んだ玉田宿禰允恭天皇5年(416年)に職務怠慢の罪に問われ、天皇に召し出されて武装したまま参上して、激怒した天皇に誅殺された円大臣安康天皇3年(456年)に安康天皇暗殺の下手人である眉輪王を自宅に匿い、大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅に火を放たれて眉輪王らとともに焼殺され、本宗は滅んだ

傍系では、円大臣の弟から出た玉手臣氏、玉田宿禰の兄弟・的戸田宿祢から出た的臣(いくはのおみ)は残った。また、玉田宿禰の兄弟・葦田宿祢の子の蟻臣の娘の荑媛(はえひめ)は市辺押磐皇子の妃となり、顕宗天皇・仁賢天皇・飯豊女王を生んだ。

 

葛城氏同族の諸氏。葛城氏は地方展開がほとんどなかった。葛城臣氏が起こったときには、列島主要部はすでに平定されていたからである。

玉手臣氏は楽人の家となる。的臣(いくはのおみ)氏の祖・的戸田宿祢は仁徳期以降に半島へ派遣された。平城宮の警衛。的門はのちに郁芳門(いくほうもん)となる。

 

武内宿祢後裔と称した氏族。実際にはほとんど仮冒

紀氏火国造祖・建緒組命後裔の筑紫国造一族平群氏は紀氏と同族。巨勢氏筑紫国造と同族の佐賀県主の一族で、本姓は雀部(さざきべ)

 

蘇我氏は武内宿祢後裔を称すが、本姓境部(さかいべ)で鐸石別(ぬてしわけ)命(備前の和気朝臣の祖。垂仁天皇の皇子ではなく、息長氏系統)の後裔とみる。備前から河内、大和の高市郡曽我に定着し、飛鳥で発展したとみる。橿原市曽我の宗我坐宗我都比古神社を奉斎。蘇我馬子は元の本拠だとして葛城県の割譲を推古天皇に要求した。波多臣(羽田臣)も蘇我同族とみられる。

越前の生江臣氏は葛城氏後裔を称したが、彦坐命の後裔である加賀の道君(称阿倍氏)や越前の江沼臣氏と同族。忍海原連・朝野宿祢氏は833年参議の朝野朝臣鹿取が有名。武内宿祢後裔ではなく忍海部造の一族で、彦坐王の後裔とされる日下部連の一族。三河穂国造も同じ。

葛城国造族。2世紀後葉に神武が奈良盆地南部を押さえたとき、葛城国造族・鴨族の祖が先導役をつとめて、功績を認められ、剣根命が葛城国造に任じられた。

遠祖は天孫族の天照大神の子・天背男命(天津彦根命)で、出雲を経由して、その子の少彦名神かその子の代に畿内へ遷住し、葛城地方を中心に居住した。同族の物部氏と同じく神武東征に先立ち畿内に入っているので大和先住民としての色彩が濃い。三輪山麓の大物主神一族と通婚を重ねた。

狭義の鴨族は葛城国造族から北方に分かれて、山城・カモ氏となった。三野前国造も同族。神骨命は実際には山城の鴨県主支流。牟義津国造、池田首の祖。美濃東部から三河に入り、松平氏(加茂朝臣と称す)となる。倭建の西征に随行した止波(とは)足尼は比多(ひた・日田)国造に。

飛鳥時代に直姓。平安時代は宿祢姓の葛木氏が主流。役(えん)直は応神前代に分岐

 

尾張氏海神族で、神武創業時の功臣・高倉下命の後裔葛城地方に住み、葛城氏と通婚を重ねた

垂仁・景行期に乎止与(おとよ)命が尾張東部に移遷し、成務期に初代尾張国造に定められた。尾張という国名は先祖の地葛城の高尾張邑にちなむ。尾張氏系統では笛吹連・若犬養連・竹田連など葛城に残るものがあった。

 

大和葛城の鴨氏海神族で大己貴命後裔。地祇の鴨君・賀茂朝臣大和・カモ氏)の祖は大物主神一族の祖で「賀茂大神」とされる味鉏(あじすき)高彦根命。海神族三輪君の一族・鴨君氏は、鴨族(天神族の山城・カモ氏)遷住のあとにその旧域を占めた。

陰陽道の賀茂朝臣氏はその後裔で、勘解由小路を家号として中世末まで続き、幸徳井家が明治まで続いた。

馬見古墳群葛城国造一族(新山→佐味田宝塚→乙女山)、葛城臣氏、大王家関係が混在

室宮山古墳武内宿祢の墓新木山古墳は葛城襲津彦の墓鑵子(かんす)塚古墳(御所市)は玉田宿祢の墓。屋敷山古墳(葛城市)は円大臣、葦田宿祢、戸田宿祢などが候補。