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安倍派裏金議員・高木毅氏が40年前に起こした「パンツ泥棒事件全真相」白い手袋をはめて合鍵で侵入

2024年10月16日 22時32分01秒 | 社会

福井2区から出馬の“安倍派裏金議員”につきまとう過去 「白い手袋をはめて、合鍵で侵入」高木毅氏が40年前に起こした「パンツ泥棒事件全真相」

Yahoo news  2024/10/16(水)  デイリー新潮 デイリー新潮編集部

 

高木毅氏(左)の父・高木孝一氏の銅像(右)にはパンツが被せられたこともあったという

 

姉の部屋で箪笥の中とかを物色し

 無所属での立候補を余儀なくされた高木毅元国会対策委員長(68)につきまとう不安は裏金問題ばかりではない。いつになっても有権者の脳裏からついて離れない「恥ずかしい過去」だ。高木氏が40年前に起こした「パンツ泥棒事件」の“全真相”をプレイバックする。(※週刊新潮2015年10月22日号などに加筆し、修正を加えました)。

 ***

 第3次安倍改造内閣で復興・原発事故再生総括担当大臣に就任した高木毅衆院議員が以前、下着泥棒に入った一軒家は、福井県敦賀市内の住宅街の一画にある。

 その家を訪ねると、高齢の女性が出てきて、

「何も知りません」

 そう繰り返すばかりだったが、近所に住む彼女の娘さんは、こちらが拍子抜けするほどあっさり事実関係を認めたのである。

――昔、あなたのお宅に下着泥棒が入ったという話を調べているのですが、その時の犯人は、高木氏ということで間違いない? 

はい。被害者は私の姉です近所のおばさんが、“家の斜め前に車を停めて中に入っていく人を見たけど、知り合いか?”って。通報したのは私だったかな。警察の人が来て、指紋とか取って。でも、教えてくれた近所のおばさんが車のナンバーを控えとってくれたんで、すぐにやったのは高木さんやと分かった家に上がり込み、姉の部屋で箪笥の中とかを物色し、帰って行ったようです」

 

合鍵を勝手に作って侵入

 今から30年ほど前に起こった出来事だ。当時、下着を盗まれた女性は20代、高木氏は30歳前後だった。氏は20代半ばまでに高校の同級生と結婚している。つまり、彼が事件を起こしたのは結婚後ということになる。

 ちなみに高木氏の父親、故高木孝一氏は敦賀市議を2期、福井県議を4期務め、福井県議会議長を経て、1979年から95年まで敦賀市長を4期16年務めた、地元政界の“ドン”だった。事件があったのは、敦賀市長を務めていた時期だ。

 息子の毅氏は地元の敦賀高校を卒業した後、東京の青山学院大に進学。卒業後は敦賀に戻り、父親が設立した会社「高木商事」で働いていた。晴れて国会議員になるのは、事件を起こした十数年後のことである。

 被害者の妹が話を続ける。

当時、姉は(金融関係の)窓口業務をしとった。そこに高木さんは客として来て、姉は一方的に気に入られとった。だから、やったのが高木さんと分かると、姉は“いややわー。家まで来とったんやー”と言っていました」

 さらに、高木氏の、家への侵入方法が実に悪質で、

合鍵を勝手に作っとったんです。田舎やから、無防備に小屋にカギ置いといたりするでしょ。それをいつの間にか持っていって、自分のカギを作っとったみたい。それにしても、どうして勝手に家に上がり込んだりするのか。急に家の人が帰ってきたら、とか思わんかったんかな……」(同)

 

父親の市長が頭を下げてきた…

 無論、高木氏の行為が犯罪であることは言うまでもないが、少なくともこの件は「立件」されていない。

姉が“騒がんといてくれ。勤め先にも迷惑かけたくない”って。父は“(高木氏の父親の)市長も頭下げてきた”“敦賀でお世話になっとるし”と言ってて、それで、示談っていうか……。それにしてもあんな人が大臣にまでなって、不思議やなーと思います」(同)

 これら一連の経緯について高木氏に取材を申し込んだが、締め切りまでに回答は寄せられなかった――。

「高木さんについては、政治家になって以来、ずっと“ある噂”が囁かれ続けてきた。それは、“高木さんは過去に女性の下着を盗んだことがある”という噂で、彼の地元・敦賀や彼の周辺では知らぬ者がいないほど有名な話だったのです」

 と、永田町関係者。

「その高木さんが大臣になったものだから、まず、噂を知っている関係者が騒ぎ出した。“高木といえばパンツだぞ。大丈夫か?”とか、“下着ドロボーを大臣にするとは、官邸の身体検査はどうなっているんだ”と。で、内閣改造後、噂は爆発的に永田町じゅうに広まり、“高木=パンツ”という奇妙な図式が定着してしまったのです」

 もっとも、永田町じゅうで囁き声が聞かれたその時点では真偽不明の噂話に過ぎず、過去、誰もその噂話の“ウラ取り”をきっちり行った者はいない。あるいは、真偽を確かめようとして失敗してきた。

 そこで以下、噂話の出所を探り、真偽を突き止めるまでの経緯に沿って、「下着ドロボー情報」の詳細をご紹介していきたい。

 

地元ですっかり定着した噂

「下着泥棒」常習犯の『高木毅』を福井県第三区の公認候補者に!! 〉

 そんな大きな文字が横書きされた怪文書が手元にある。〈発行元〉は、〈良識ある政治家を育てる会〉となっている。

「高木さんは選挙のたびに下着泥棒について触れた怪文書を撒かれている」

 と、先の永田町関係者が耳打ちするので地元・敦賀で探してみたところ、さほどの苦労もなく入手できた怪文書は、1996年の衆院選の際に撒かれたもので、次のような記述が並ぶ。

“女性下着泥棒常習犯”『高木毅』がなぜ自民党公認候補者になれたか?

敦賀市長の息子が“女性下着泥棒の現行犯”をして、敦賀警察署へ連行され、事情聴取されたとの事実は、忽ち敦賀市民全体へ拡がってしまい、この度立候補した際にも、その事実が一部の敦賀市民の間で再び囁かれています〉

 96年の選挙ではこの怪文書の影響もあってか、あえなく落選。しかし、高木氏は2000年の選挙でめでたく初当選し、以来、2017年の選挙まで7回連続当選を果たしている。

 

〈敦賀の恥さらし〉

 2012年にはそんなタイトルが付いた怪文書が出回ったが、そこにもやはり次のような記述がある。

〈高木氏はかつて勉強が苦手で逃避しパンツ窃盗歴があり、(中略)話題に事欠かないことは皆様よくご存じのことと思います〉

 初めて選挙に挑んだ96年からこの時点ですでに16年が経過。高木氏の〈パンツ窃盗歴〉が、皆様よくご存じのこととして処理されているのは、地元でその噂がすっかり定着した証左なのかもしれない。

 

父親の銅像の頭に…

「2000年の選挙の時、私はヘンなものを見てしまったんです。敦賀気比高校の前に高木の父親、高木孝一の銅像があるのですが、選挙期間中のある日、警察から“高木孝一さんの銅像の頭に女性もののパンツが被せられている。見に来てもらえないか”という連絡があったのです。私は当時、あのあたりの防犯責任者をやっていたものですから」

 そう振り返るのは、さる敦賀市政関係者である。

「行ってみると、確かに女性もののパンツが……。銅像の顔のメガネの部分を覆うように被せられていたはず。銅像は台座を含めるとかなりの高さで、頭にパンツを被せるには脚立かハシゴが必要。昼間は周辺に生徒がいますから、おそらく夜間の犯行ですわ。警察の人は苦笑いしながら頭からパンツを外していました」

 何ともタチの悪い悪戯という他ないが、一体、いつからこんなバカげた事態が続いているのか。

「確か、初めて怪文書が出たのは高木さんの父親、孝一さんの95年の市長選の時だったと思います“高木市長の息子はパンツ泥棒だ”という内容でしたね」

 と、地元政界関係者。

「結局、この選挙で孝一さんは落選し、その後、地元では息子の毅さんを国会議員にしようという動きがスタートした。そして、彼の選挙があるたびにパンツ泥棒の噂が語られてきたというわけなのです」

 

先生の対抗勢力か何かがデマを

 おかげで、今や地元では、

高木がパンツ泥棒だという話は、敦賀市民ならほとんどの人が知っています」(敦賀市議)

 とまで言われるようになったのだが、それについて高木氏の事務所の関係者は、

「パンツ泥棒? 高木先生がそんなことをするわけないでしょう。それが本当なら大臣になんてなれないし、当選だって難しいですよ」

 と、一笑に付すのだ。

「高木先生は、あの民主党への政権交代時の選挙でもしっかり選挙区で議席を取ってきたんです。まともな人はこんな噂を本気にはしていません。先生も奥さんも、怪文書が回っても“またかー”と笑って相手にしていない。先生の対抗勢力か何かがデマを流し続けているだけなのです」

 当然、高木氏に近ければ近いほど噂を否定する声は大きくなり、遠いほど噂を肯定する声が大きくなる。そんな状況下で過去、噂の真偽に肉薄する記事を掲載した雑誌がある。地元で発行されている『財界北陸』だ。

「高木の“パンツ泥棒疑惑”について記事にしたのは、確か、96年の選挙の時だった。その頃すでに高木にはパンツ泥棒という噂がつきまとっていて、私の耳にも入ってきた。そこで、私は元々知り合いだった福井県警の警部補に、その噂が事実なのかどうか確認してみたんです」

 そう述懐するのは、件の記事を担当した『財界北陸』の記者である。

 

侵入する前に白い手袋まで

「すると、警部補は敦賀署が高木毅を、下着の窃盗と住居侵入の疑いで取り調べたのは事実犯行現場は敦賀市内。その後、事情は分からないが検挙には至らなかった、とほとんどの事実関係を認めた。当時、事件の詳しい内容や被害者については聞かなかった。記事を載せた後も高木サイドからは抗議がなかったので、事実関係を半ば認めたもの、と理解しました」(前出・『財界北陸』の記者

 取り調べの事実を明かしたその警部補はすでに他界しているという。

 となれば、被害者に辿りつく術は噂の出所を丹念に追うしかないのだが、その作業の末、行き着いたのが事件の目撃者だ。その目撃者こそ、冒頭で触れた被害者家族に高木氏の車のナンバーを伝えた。近所のおばさん、である。

「自宅の2階で洋裁しとったら、近くに車が停まったんや。で、1階におりてきて車のナンバー見て、また2階に戻ってアイロン台に鉛筆でそのナンバーを書き留めておいたんや。なんでそんなことしたかというと、車から降りた人がご近所の家に入っていったからやけど、車降りる前、その人、白い手袋出したんや、車の中で。ほんで、白い手袋してから出た」

 侵入する前に手袋までするとは何とも用意周到で、初めての犯行とはとても思えないが、実際、被害者の妹(前出)はこう明かす。

ウチだけじゃなく他のとこでもやっとったって聞きました。もちろん警察も知ってて、またかって……」

 

“息子のことを悪く書かないでくれ”

 最後に、一体なぜ、下着泥棒の前歴がある高木氏が過去7回も当選を重ね、大臣にまで上り詰めることができたのかについて触れておこう。それは先に触れた高木氏の父、高木孝一氏の存在が大きい

 そもそも高木氏が下着泥棒を働くも事件化を免れたのは、敦賀市長で地元政界の“ドン”だった父・孝一氏が被害者家族に頭を下げて謝罪したからだが、「高木氏が国会議員になれたのも、もちろん父親のおかげです。嶺南地区と呼ばれる高木氏の地元は原発と建設会社の街で、その両方を押さえれば選挙では安泰。孝一氏はこの地区の選挙で勝つ術を知り尽くした男でした」

 と、先の地元政界関係者は語る。

高木氏は大学卒業後、孝一氏が設立した『高木商事』の社長をやっていた、ただのドラ息子で、地方議員を経験することもなく、1996年、いきなり国政選挙に挑戦した。この選挙では善戦の末落選しましたが、4年後の選挙で見事に当選を果たしたのです」

 96年と2000年、いずれの選挙でも「下着泥棒」について触れた怪文書がばら撒かれたが、その裏で孝一氏は“火消し”のため、涙ぐましい努力をしていた。

福井県では、小さなミニコミ新聞や雑誌が何十種類も発行されている。孝一氏はそういうところを回り、“息子のことを悪く書かないでくれ”と頼んでいた。お金も相当使ったのではないでしょうか」(同)

 ある地元雑誌の発行人もこう話す。

「08年の選挙の前、孝一さんが私を訪ねてきた。で、“息子がパンツ泥棒をやったという噂を流しているヤツがいるが、そういう噂が記事にならないように頼むよ”と言われました」

 来る総選挙は11月7日の投開票が予定される。国対委員長となった高木氏のパンツ泥棒の過去が蒸し返されるのだろうか。

 ***

 下記2本の関連記事では、高木氏が戦う福井2区の選挙情勢や“宿敵”山本拓氏と再婚妻・高市早苗氏との夫婦関係について詳報している。

【福井2区は「パンツ泥棒騒動のリターンマッチ」高木毅氏vs山本拓氏 勝敗の鍵は「高市早苗氏が再婚夫の応援に入るか否か」】

【高市早苗氏は福井2区から出馬の「再婚夫」の応援に入るのか「アイロンをかけていたら突然…」7年前に高市氏が語った「離婚を切り出された日のこと」】


国民が望むのは「インフレ脱却」「デフレ脱却」を違うと感じるのが世論の大半 

2024年10月16日 14時32分25秒 | 社会

コラム:曖昧すぎるデフレの定義、国民が望むのは「インフレ脱却」=唐鎌大輔氏

2024年10月16日 ロイター 唐鎌大輔(みずほ銀行チーフマーケット・エコノミスト)

 

[東京 15日] - 石破茂首相は自民党総裁選後の会見で「デフレからの完全脱却は首相就任後3年間で達成する」と述べたが、この発言に違和感を覚えた向きが多かったようだ。総選挙を控える状況で石破新政権への評価を下すのは尚早である。ただ、デフレ脱却を声高に叫ばれると、「それは違う」と感じるのが世論の大半だということも理解できる。

<国民が望むのは「インフレ脱却」>

というのも、国民が望むのは「デフレ脱却」ではなく恐らく「インフレ脱却」の方が近いからだ。政界全体で物価高対策が争点化し、実質賃金のプラス転化とその定着が希求される状況を踏まえれば、今の日本経済の足かせとなっているのは「上がる物価(インフレ)」であって「上がらない物価(デフレ)」ではない。

例えば、実質賃金の低迷は続いている。8月毎月勤労統計では実質賃金が前年同月比マイナス0.6%と3カ月ぶりのマイナスに転落した。6月分が2022年3月以来、実に2年3カ月ぶりにプラスとなったことが話題になり、7月分も増勢が維持されたが、この2カ月間は特別給与すなわち賞与による一時的な押し上げが反映された結果でもあった。8月も持続性を判断する上で重要な項目である「決まって支給する給与」が同プラス3.0%と32年4カ月ぶりの高い伸びを示したものの、持ち家の帰属家賃を除く消費者物価指数(CPI)が7月の同プラス3.2%から8月は同プラス3.5%へ加速する中、実質賃金がマイナスに押しやられている。円安・資源高発・輸入物価経由の一般物価上昇が家計部門の所得環境を損なっている状況は否めない。

<「デフレの定義」を整理する時>

では、「上がる物価(インフレ)」が問題視される現状を踏まえ政府がデフレ脱却宣言に踏み切れば良いのだろうか。それも簡単ではない。脱却宣言を受けた世論は恐らく「生活は苦しいままだ」と政権への反意を強める可能性がある。だからこそ岸田政権もデフレ脱却宣言への期待が一時期浮上しながらも、遂にそこへ至ることは無かった。デフレは、そこからの脱却を目標化することも、そこからの脱却を宣言することも世論が違和感を覚えるという難しい状況にある。

なぜ、このような状況になっているのか。ひとえに「デフレの定義」が曖昧なまま放置されているからだろう。何となく景気が冴えない状況を総称してデフレという言葉に集約しているため、あらゆる経済主体にとって使い勝手の良い言葉になりがちなのである。しかし、「デフレの定義」は経済主体にとって異なるように感じる。

1990年代後半以降、デフレとは政府・日銀にとっては「CPIの低迷」であったが、企業にとっては長年続く「円高・株安」であり、海外投資家にとってもやはり「円高・株安」であったように筆者は考えている。異次元緩和が起動する2013年以前、日本経済にとって慢性的な円高・株安が宿痾(しゅくあ)のように考えられていた。実際、過去に行われた日銀の追加緩和はそのほとんどが円高・株安への対処だったはずだ。そして慢性的な円高ゆえに輸入物価も抑制され、一般物価も上がりにくい状況があった(もちろん物価が上がらなかったのは円高のせいだけではない)。少なくとも約10年前まではデフレという言葉は多くの経済主体にとって最大公約数を捉える便利なフレーズであった。

特に「CPIの低迷」という表層的な状況の解決に傾倒したのが政府・日銀が総力を挙げた「アベノミクス」であり、象徴的には黒田東彦体制下での異次元緩和であった。その余波で継続される金融緩和路線とこれを一因とする円安、さらに資源高の影響も相まって「CPIの低迷」という表層的な状況は現状では解消されているし、円安を起爆剤として株高も実現している。現状、「CPIの低迷」や「円高・株安」という意味でのデフレに関し、脱却は完了済みと言っても差し支えないだろう。

<国民にとってのデフレとは「実質賃金の低迷」>

しかし、家計部門(国民)においては「こんなはずではなかった」という感情が強いだろう。それは家計部門にとってのデフレとは「実質賃金の低迷」だったからではないかと思う。日銀の「生活意識に関するアンケート調査(24年9月分)」では「物価に関する受け止め」に関し83.6%が「どちらかと言えば、困ったことだ」と回答している。そもそもデフレという現象に対し、政府・日銀と家計では問題意識の置きどころが同じではない物価に関し、前者は上がって欲しいが後者は上がって欲しくないという認識相違がある。

日本の家計部門は長年、名目・実質双方のベースで上がらない賃金を強いられてきた。「慢性的な不況」と「実質賃金の低迷」がデフレという便利なフレーズに押し込められ「デフレを脱却しなければならない」という価値観が家計部門に強く根付いているように思う。その認識でも最近までは大きな問題にならなかったが、インフレが定着したことで家計部門とそれ以外の間で「デフレの定義」の差異が浮き彫りになってきているのが現状に見受けられる。

<「デフレ」の使用に終止符を>

今回、石破首相が口にしたデフレ脱却は、本来的に政府・日銀が念頭に置いていた「CPIの低迷」という意味ではなく、おそらく家計部門が抱いている「実質賃金の低迷」という意味で使ったのだろう。しかし、多くの国民にはその真意が伝わっていないかもしれない。額面通り受け止めれば、物価上昇を望む政治からの情報発信のように見えかねないため、石破首相がデフレ脱却を強調するほど家計部門は「何もわかっていない」という反感を覚えてしまう(国民はデフレという言葉をそこまで深く考えていないとも言える)。

今後、政府は「CPIの低迷」という意味でのデフレはもう終わったということを説明した上で、デフレという言葉から少しずつフェードアウトし、その使用に終止符を打つ必要があるのではないか。政治的な痛みを覚悟で一気呵成(かせい)にデフレ脱却宣言をしても良いかもしれない。案外、物価高で困っている今ならば納得感を得られる可能性もある。その上で本当の問題はインフレ脱却、これに伴う「実質賃金の低迷」の解消であることを強調すれば良いだろう。

何らかの形でデフレというフレーズに対する意識変革を起こさなければ、多くの国民が小さくない違和感を抱きながら、政治のデフレ脱却論議に付き合わされる状況が続くことになる。「実質賃金の低迷」の遠因となっている円安およびこれとセットと考えられている円金利の長期低迷に終止符を打つことが、実体経済が復調するための迂遠な道に見えて王道に思える。

<円安と金利上昇の二者択一>

誰がリーダーになろうと円安か金利上昇のいずれかは受け入れる必要がある。為替を制御するのが難しい以上、緩やかな金利上昇を甘受した上で円安抑制を図るしかあるまい。もちろん、日銀の連続利上げが難しいことは理解できる。ただ、わざわざ政治的にその運営をけん制するような所作は不必要な円安を招くリスクがあるため、控えた方が良い。この点、石破首相は12日の自民党党首討論会で「政府が何を言ったとしても、日銀は日銀として独自の判断がある」と述べており、恐らく正しい問題意識を備えているように思えた。

円安は「実質賃金の低迷」を助長するのだから家計部門はそれを良く思わないし、最終的には時の政権への批判として返ってくる可能性が高い。現状、日銀は内外金融情勢を見極めながら正常化に動こうとしている。積極的に利上げを応援する必要はないが、政治からノイズを増やしてその見極めを難しくする必要もない。

編集:宗えりか

(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)

唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月) 、「ECB 欧州中央銀行:組織、戦略から銀行監督まで」(東洋経済新報社、2017年11月)。新聞・TVなどメディア出演多数。


山形県天童市 天童織田の里歴史館・旧東村山郡役所資料館 建勲神社 舞鶴山山頂広場

2024年10月16日 09時21分37秒 | 山形県

天童織田の里歴史館・旧東村山郡役所資料館。山形県天童市五日町。

2024年9月8日(日)。

舞鶴山にそびえる白亜の三層楼閣「旧東村山郡役所」は、明治新政府の郡制の発足により、織田二万石の城下町であった天童の地に創建されたもので、三層、白壁の斬新な洋風建築は人々に新時代の到来を告げた。

天童市の西郊にある西沼田遺跡公園を見学したあと、天童市街地へ向かい、15時30分ごろ天童織田の里歴史館・旧東村山郡役所資料館横の駐車場に着いた。残念ながら常設展示は撮影禁止であったが、企画展は撮影可能だった。

 

旧東村山郡役所は、1878(明治11)年に郡制が布かれたことに伴い、天童をはじめ98の村々が含まれる東村山郡の郡役所として創建されたもので、1879(明治12)年10月にこの場所に落成し、11月16日に開庁した。

旧東村山郡役所は3階に塔屋をもつ瓦葺漆喰白壁の木造一部2階建の3層楼で、擬洋風建築として明治初期の庁舎建築の姿を知る貴重な遺構である。

西面する正面に2階をバルコニーとする玄関ポーチが、中央外側に突出して取付いている。1階・2階とも寄棟造桟瓦葺で、玄関部分は、飾破風入母屋造桟瓦葺である。壁は内外とも漆喰塗壁、窓は上げ下げ窓である。

設計や施工は共に不詳であるが、2階にはベランダがあり、彫刻やステンドグラスなども特徴になっている。中央のベランダには八角柱や柱頭、唐草模様の膜板などがあり、素朴であるが独特の意匠になっている。

外壁は、白亜の漆喰塗りとなっており、板張りの外壁が多い当時の郡役所としては珍しいものである。

この建物は、1891年(明治14)9月の明治天皇東北巡幸の際には昼食の行在所として使用された。

明治35年(1902年)の暴風雨によって、塔屋が欠壊したため2階建に改造された。その後、郡農会、天童町役場、天童市役所、市立図書館など、時代に応じてその役割を務めた。

1972年(昭和47)山形県有形文化財に指定され、1985年(昭和60)解体復元工事が完了して3階建の創建当時の姿が蘇り、1986(昭和61)年に資料館として生まれ変わった

 

常設展示では、まず天童織田藩関係資料を展示している。本能寺の変で非業の死を遂げた織田信長の宗家を継いだ次男信雄 (のぶかつ)の四男信良が上野国(群馬県)甘楽郡に小幡織田藩を継ぎ、上野国甘楽郡などを150年間支配した。その後、信浮(のぶちか)が藩主のとき、明和事件に関与して出羽高畠に移封された。領地の大部分が村山郡内となったため、文政11年(1828年)に幕府から拠点を高畠から天童に移す許しを得た織田信美(のぶかず)は、天保元年(1830年)に天童に移って天童藩を立藩した。2万石の小藩で財政難に悩まされていたため、家臣の俸禄借り上げ、厳しい倹約令を施行し、当時流行していた将棋の駒を武士達に作ることを推奨し、将棋の町・天童市の基礎を作った

 

東北最初の写真館を開設した『菊地新学』の作品や当時の写真機などを展示し、初代県令三島通庸の命を受け、御用写真師として活躍した足跡を展示している。

企画展『寺津手人形芝居の世界 ―受け継がれる伝統芸能―』2024年7月13日〜9月16日。

寺津(てらづ)地域で誕生した寺津手人形芝居は、江戸末期に上方方面から最上川舟運の重要な河岸であった天童市寺津地域に伝えられ、明治の中頃に、仲島喜五郎が養祖父以来伝わる人形遣いを父忠次郎とともに仲島人形芝居の一座として結成して巡回興業を行い、当時、数少ない庶民の娯楽の1つであった。その後、映画などの普及に伴い、次第に見物する人が少なくなり、昭和31年頃には一度途絶えたものの、昭和49年に寺津手人形保存会が結成され、再び公演が行われた。

現在、寺津手人形芝居は市指定無形民俗文化財に指定されており、関係資料と共に大切に受け継がれている。また、寺津小学校の児童のが、寺津手人形芝居について、総合的な学習の時間における継続した学びにより、令和3年度「郷土Yamagataふるさと探究コンテスト」において「最優秀賞(ふるさと探究大賞)」を受賞した。

寺津は、古くから最上川舟運の重要な港として大石田と競って発展した港町で、江戸時代の享保8年(1723年)以降は幕府の公認河岸(かし)として発展した。紅花の交易などの重要拠点として、天童だけではなく山形県の歴史に登場する。農村地帯でありながら港町や宿場町の姿ももっていた。

建勲神社。天童市天童字城山。

舞鶴山中腹西面にある。建勲神社は、織田信長を主祭神とする。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつである。正しくは「たけいさおじんじゃ」と読むが、一般には「けんくんじんじゃ」とよばれる。

天童織田家は、織田信長の次男・信雄の子孫で、信雄の四男・信良を祖とする。子孫は上野国小幡藩から出羽国高畠藩と渡ったのち、天童に陣屋を移した。

当初は天童藩知藩事の織田信敏が東京の私邸内に「織田社」と称して祀っていたが、明治2年(1869年)11月8日に神祇官より「健織田社」(たけしおりたのやしろ)という神号が下賜された。この健織田社を明治3年(1870年)9月13日に天童市の城山(舞鶴山)山頂へ分祀したのが、建勲神社の起源である。

同年(1870年)10月17日、健織田社は太政官の通知により「建勲社」へと改称し、太平洋戦争終結までこの名称は使われた。

明治17年(1884年)に現在地に遷座した。これは当初建てられた舞鶴山山頂の社への道のりが急で転落事故が起きるなど不便があったためで、平坦な舞鶴山山腹が選ばれた。

建勲神社を称する神社は当社を含め3社あり、同じく織田信長を祀る。建勲神社(京都市)は、当社同様、織田信敏により京都船岡山に祀られた。建勲神社(兵庫県丹波市)は、柏原藩織田家により創建された。

芭蕉句碑「原中や ものにもつかず 啼く雲雀 芭蕉」。建勲神社境内。

貞享四(1687)年、芭蕉四十四歳の時の句。

舞鶴山(まいづるやま)山頂展望広場。天童市天童字城山。

標高242.1m。天童市街地の南東に位置し、山の西側をJR奥羽本線(山形新幹線)、東側を国道13号山形バイパスが南北に通る。一帯は天童城址であり、天童公園の一部となっている。山頂の展望広場からは、月山や朝日連峰、最上川などが一望できる。

また、舞鶴山は桜の名所としても知られ、4月中旬の土・日にはおよそ2,000本の桜の下で、天童桜まつり「人間将棋」が開催される。広場の横に広大な駐車場がある。

 

このあと、天童温泉「はな駒荘」で入浴。250円。その後、道の駅「むらやま」へ向かった。

山形県天童市 古墳時代の農村遺跡 西沼田遺跡 西沼田遺跡公園