聴禽書屋(ちょうきんしょおく)。山形県大石田町大字大石田乙。大石田町立歴史民俗資料館内。
2024年9月9日(月)。
聴禽書屋は、歌人で精神科医の斎藤茂吉が大石田疎開中の1946年1月から約2年間住んだ建物である。
村山市の道の駅「むらやま」で起床。尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館は9時開館なので、それまで大石田町の史跡を見学することにした。江戸時代に最上川舟運の中継地として栄えた大石田河岸、奥の細道関連の芭蕉句碑、終戦直後に仮住まいした斎藤茂吉ゆかりの聴禽書屋などがある。
大石田町立歴史民俗資料館は月曜休館だが、資料館敷地内の聴禽書屋は外観のみだが予想通り見学できた。
斎藤茂吉は昭和20年4月、郷里である山形県南村山郡堀田村金瓶(かなかめ、現・上山市)に疎開した。昭和21年1月30日、64歳の茂吉は単身大石田に移り、板垣家子夫(かねお)宅に2泊した。2月1日に二藤部兵右衛門家の離れに移り、21年11月3日東京の世田谷区代田に移るまで1年9ヵ月間その離れに住んだ。「聴禽書屋」の名は、庭内の木立を鳴きわたる小鳥の声に因み、茂吉自らが命名した。
ところが、転居して間もない3月に左湿性肋膜炎にかかり、治癒するまで3ヶ月間病床を余儀なくされた。この時期、敗戦の傷心と、家族と離れひとり辺土に暮らす茂吉の身に襲いかかった大病により、すっかり気力も体力も衰えていた。5月ごろから快方に向かった茂吉は、6月上旬には最上川に散歩に出かけるまでに治癒し、夏以降は本格的に短歌を創作できるまで回復した。そして、最上川の周辺を散策し、じっと最上川を見つめる姿が帰京するまであったという。大石田在住時代の茂吉短歌は、歌集「白き山」に824首(後に26首が後補され850首)収められている。
資料館内の歌碑には、「蛍火を一つ見いでいて目守(まも)りしが いざ帰りなむ 老の臥處(ふしど)に」と刻まれている。
松尾芭蕉句碑。大石田観音・西光寺(さいこうじ)境内。大石田町大字大石田乙。
資料館から北近くの駐車場横に西光寺があり、境内奥にガラス張りの句碑保存用小屋があった。西光寺の3句碑中にも芭蕉句碑があるが、どうやらこちらが江戸時代の句碑のようだ。
「さみたれを あつめてすゝし もかミ川 芭蕉」と陰刻されている碑高100.4cmの自然石の句碑である。松尾芭蕉が来町してからおよそ80年後の明和年間(1764年~1772年)に、土地の俳人土屋只狂が歌仙「さみだれを」を得た喜びを記念し歌仙の発句を模刻して建てた句碑という伝えがある。
「おくのほそ道」の有名な句は、「五月雨を集めて早し最上川」の句であり、大石田で芭蕉が詠んだ発句(歌仙の最初の俳句のこと)は「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」である。
「すずし」の方が初案(最初の作句)であり、「最上川に対する涼しさの感じが主」であるのに、「早し」の方は「矢のごとく流れてゆく大河、その全体的に豪壮な感じは、やはり『早し』という端的な表現にまたねばならなかった」のであり、句としては、まったく別個のものであるが、「もとより最上川の大観をとらえた『早し』の方が、句としてはるかにすぐれている」(潁原退蔵「発句評釈」)という理解が現在では一般的のようである。
つまり、初案では「集めて涼し」で、涼しい風を運んでくる最上川の豊かさやさしさを表現した。しかし、本合海(もとあいかい)から急流の最上川下りを体験し、「涼し」を「早し」に改め、最上川の豪壮さ、激しさを表記したのである。
「さみだれをあつめてすゞしもがみ川」の句は、芭蕉がのちの奥の細道執筆時に作句した「早し」とは別に発句として成立しているといえる。
「芭蕉翁“さみだれを”の碑」・高野一栄宅跡。大石田町大石田甲。
最上川に架かる大石田大橋たもとの上流側土手道を50mほど進むと、案内板があり、下の空き地へ下りると小さい句碑広場がある。
「さみだれをあつめてすずし最上川」。この作品は、元禄2年5月28日(西暦1689年7月14日)夜、最上川の河港・大石田の船宿経営高野平左衛門(一栄)方にて行われた句会の冒頭の発句「五月雨を集て涼し最上川」である。芭蕉は高野一栄宅に三泊し、四吟歌仙を興行した。
江戸時代の大石田では、俳諧(当時の俳句は「俳諧連句」として行われ、後に発句が独立して俳句となる)が盛んに行われた。今から300年以上前、松尾芭蕉が大石田に来町した元禄期、それから100年ほど経った明和・安永期、そして幕末期の3つの時期に特に盛んに行われた。
芭蕉来町当時の大石田の俳人として知られているのは、高野一栄と高桑川水の2人である。一栄は、当時54歳の円熟した風流人で、船問屋でもあり、大石田での有力者であったようである。一栄が各地に広い交友があったことは、「おくのほそ道」の旅での羽黒山の別当代にあてた一栄の添状から、その一端をうかがうことができる。
川水は高桑加助吉直、金蔵と称し、大石田の庄屋を勤めた人で、芭蕉来遊の年には46歳で、芭蕉と同い年であった。高桑家は当時、代々庄屋・大庄屋を勤めていたが、川水は子がなかったため、末弟勘七吉武を養子として、早くより家督を譲り、元禄5年(1692年)の記録によれば、既に末弟勘七が家督を継いでいた。元禄期に大石田俳人として知られるのは、今のところ一栄・川水のほかには、よくわかっていない。
最上川舟役所跡。大門と塀蔵。大石田町大石田。
大石田大橋たもとの下流側土手を50mほど進むと、川側に復元門塀、反対側下に石標がある。
大石田河岸(かし)は、最上川中流に設置された同川最大の河港で、室町時代から始まったといわれ、元禄の頃にもっとも賑わい、最上川舟運の中枢となり、寛政4(1792)年に幕府の舟役所が置かれた。1996年に、舟運時代の華やかな頃の面影を偲ばせる大門や塀蔵が再現された。
延喜式によると、多賀城と秋田城とを結ぶ東山道沿いに「野後(のじり駅」という馬と舟を置いた水駅があった。近年、大石田町北部の最上川沿いにある「駒籠楯跡」において、掘立柱建物の遺構群が発見され、この遺跡が「野後駅」であった可能性が高いとされている。
大石田の南には、碁点、隼、三ヶ瀬の最上川三難所があり、物資を安全に運ぶためには、大石田河港で陸揚げし、三難所を避けて陸路を運ぶ方がリスクが少なく、確実であった。舟運で上流部に運ぶ場合でも、三難所があるため、酒田港からの大型の川舟はここまでしか入れず、三難所を越えるために小型の舟に積み替える必要があり、いずれにしても大石田河港に舟を着けなければならなかった。そのため、大石田は最上川の港としては最大の物資の集積地として繁栄した。天領であり、大石田川船役所が置かれた。その輸送路は山形県村山地方や置賜地方のみならず、奥羽山脈を越えて仙台藩にまで至り、仙台城下に上方の物資をもたらした。
大石田が河岸として重要視されてくるのは、最上義光が内陸部を統一した天正10年(1582)頃からである。最上川を利用する舟運は近世以前からあったが、山形城下の船町(ふなまち)と河口の酒田湊を一貫して通船できるようになるのは、最上氏が庄内まで領国を拡大した慶長6年(1601)以降のことで、その前後に最上氏は大石田の上流にある最上川三難所を開削したと伝える。
同19年最上氏は清水城(現最上郡大蔵村)の清水氏を滅ぼし、清水河岸が握っていた最上川船の中継権を大石田に移した。慶安3年(1650)商人荷物輸送に関する通船定法(酒田船は大石田まで上り荷、大石田船は上郷への上り荷と酒田までの下り荷)が定められ、運賃の十分の一を荷宿が取立てる制度と清水・大石田・船町の三河岸体制が出来上る。さらに寛文12年(1672)河村瑞賢が西廻海運を整備し、最上川流域の幕府領城米(年貢米)の江戸廻米制を確立したのに伴って、城米・私領米・商人荷物の順に川下げする秩序が出来上った。
最上川の川船は酒田湊に拠点を置く酒田船と、内陸部に拠点を置く最上船とに分れていた。城米・私領米の川下げには酒田船と最上船が半分ずつ当たり、その代償として商人荷物の輸送が許されていた。
このあと、尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館へ向かった。