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山形県酒田市 松山城大手門

2024年10月25日 12時20分48秒 | 山形県

松山城大手門。山形県酒田市新屋敷。

2024年9月10日(火)。

芭蕉上陸の地。荘内藩清川関所を見学後、北西に進み、庄内藩の支藩であった松山藩の跡地へ向かった。

松山文化伝承館の見学を予定していたが、松山歴史公園の駐車場に着くと松山城址館が近くにあったので、城址についての展示があるのかと思って入ってみた。女性職員がいて、ここは生涯学習施設で、多目的ホールに能舞台を設置していると能舞台の会場を見せてくれた。城址についての展示は文化伝承館にあるので、ここにはないという。ただ、大手門などのリーフレットは置いてあるので入手した。必要十分な情報が記載されていたので、大手門見学後、有料施設の文化伝承館の玄関まで行ったが入館しなかった。

松山歴史公園は、1982年に開園、松山藩としての歴史を持つ松山地区の歴史と文化を継承し、創造する交流拠点で、山形県指定文化財「松山城大手門」をはじめ、茶室「翠松庵」や郷土文化保存伝承施設「松山文化伝承館」などがある。

松山藩は、酒井家庄内藩の支藩である。1600年関ヶ原の戦いの後、元和8年(1622)、最上氏の改易によりその領地は三分割され、庄内14万石の領主に徳川四天王のひとつ酒井家から酒井忠次(酒井家の祖)の孫酒井忠勝が信州松代より転封され、鶴岡を居城に庄内藩が誕生した。正保4年(1647年)忠勝は、当時九歳の三男忠恒に最上川を眼下にし北東の防備地として中山(後の松山)八千石と内陸の左沢地方一万二千石計二万石を分封し、松山藩が成立した。忠恒は寛文2年(1662)初めて中山の地へ入り、宗藩の鶴ケ岡城、酒田の亀ヶ崎城の鶴亀から縁起を担ぎ、中山の地名を松山と改名した。明治の廃藩置県に至るまで8代に渡る歴代藩主によって209年間藩政が布かれた。

石高は立藩時は2万石であったが、3代・忠休(ただよし)は奏者番を経て若年寄に累進した。このため5,000石を加増され、さらに城を構えることを許され、以後、藩庁は松山城となった。しかし、忠休が幕閣に参与したために経費がかさみ藩財政は悪化した。幕末には本藩である庄内藩に従い奥羽越列藩同盟に与し明治政府軍に降伏。時の藩主・忠良は藩領のうち2,500石を減封され、隠居を命じられた。

明治2年(1869年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した。

松山城大手門。

松山城の大手門は、三の丸の櫓門(通称、多聞櫓)である。江戸時代の城門としては、県下唯一残る貴重な文化財である。櫓門、桁行正面5間、背面3間、梁間3間、入母屋造、総欅白壁造、桟瓦葺で、高さは12.75mである。

天明7年(1787年)に竣工した松山城時代の大手門は、寛政2年(1790年)10月、落雷のため焼失し、現存する城門は、寛政4年(1792年)7月に酒田の本間光丘と娘婿の重利の寄進により再建された。大手門再建の時は、重利が松山藩に入って財政の建て直しをしていた。

初代藩主忠恒が、松山藩政庁の中心地として「中山陣所」という屋敷を構えたのは、寛文2(1662)年のことで、当時、松山の地は、中山村と称され、わずか17戸のみの寒村であった。松山城下の整備は、その前年より始められ、藩主屋敷を中心に家臣の住居がまとめられ、その四周には土居をめぐらせて郭内をその周辺地区と区別し、鍵型に交差する郭内の道路は、軍事上の厳しい配慮を示していた。こうして誕生した松山城下町であったが、何分にも支藩であったため、当時はまだ城を構えることは幕府から認められていなかった。築城が許されるのは三代藩主忠休の時代になってからのことである。

忠休は、寛延2(1749)年から26年間幕府要職である奏者番・寺社奉公・若年寄を勤めた功により、安永8(1779)年、上州桐生(現在:群馬県桐生市)に五千石の加増と松山城の築城が認められ大手門には「鯱」を上げることが許された。楼上に輝く一対の鯱鉾は、三河以来の武門の誉れとして、とくに幕府より許された由緒あるものであった。

築城の設計は宗藩宮田流の軍師長坂十太夫正逸の手になり、天明元(1781)年に着工し、本丸・二の丸の総面積38,708坪と広大な計画で、山を崩し谷を埋め、堀を作り民家を移しての大工事で、新城郭は全体が完成しなかったが、旧郭内とはその区域を異にし、古い土塁は廃毀された。よって、旧郭の土塁に設置された大手門は廃され、新たに新城郭に大手門を設置することとなった。

当初大手門は「三の丸の櫓門(矢倉門)」として天明2年に完成、二の丸も九分どおり完成したが、本丸は藩の財政難や藩主忠休の逝去・連年の凶作・藩財政の困窮・農村の困苦などで着工せず、未完成で天明7年に築城を未完成なまま終えた。

大手門には戊辰戦争までは門扉があり、殿様が城にいる時には門を開き、参勤交代で不在の時は門を閉めていた。家臣達は脇の小さな通用門を使っていた。平城で天守閣はない。敵が攻めて来た時に大手門が簡単に落ちないように階段はなく、縄梯子で昇降した。大手門の上には、武器や兵糧や食物を保管していた。昔は鶴岡が見えたという。

戊辰戦争後、「城郭破却の命令」が出され、明治元年9月に開城し、城地没収、城取り壊しとなった。明治2年11月、新政府の三陸磐城両羽按察次官坊城俊章(としあや)少将が城郭破却の状況検分に来て、「この大手門一つ残したところで今更謀反でもあるまい。取り壊すには及ばぬ」として取り壊しを免れた。その時接待したのが藩主忠匡のお守り役の絵師、田中静居であった。田中静居は坊城俊章少将と京都遊学時代に親交があり、静居のもてなしに感銘し、取り壊されなかったという。公家出身の坊城俊章は、三陸磐城両羽按察使、兼三陸磐城両羽按察次官などを経て明治3年から4年まで初代の山形県知事となった。その後、近衛歩兵大隊長、陸軍歩兵中佐に進み、日清戦争では台湾兵站司令官として従軍し、伯爵貴族院議員となった。

大手門は、明治36年に大改修され、寺子屋のようして教室として使われた。大正時代は藩校の流れを汲んだ松山正心学校があり、尋常小学校を卒業した子供達が夜間勉強をした。

 

このあと、北西にある平安時代の国府跡である国史跡・城輪柵跡へ向かった。

山形県庄内町 芭蕉上陸の地・清川関所跡