「古代氏族の研究4 大伴氏 列島原住民の流れを汲む名流武門」(宝賀寿男、2013年)
1 大伴氏
源流は今のクメール族や苗族で、アジア大陸北方から南方に移動し南蛮といわれた。日本列島での始祖はカグツチ。火神迦具土。縄文時代に日本列島で原始的な焼畑農業を営んだ山祇族。隼人、蝦夷、土蜘蛛、国栖、佐伯、八束脛なども同族で、縄文人の主体。狩猟に長じ、弓矢を得意にした。中臣氏も山祇族で、蘇我入鹿殺害のとき中臣鎌足は後方で弓に矢をつがえていた。山祇族のトーテムは犬狼。愛宕神社の火神カグツチ、月神奉斎、九頭竜神、大国栖御魂神、天手力男神を信仰。北九州若松の戸明神社、長野の戸隠神社も手力雄神を祀る。
祖先は筑前夜須郡か肥前基肆郡あたりにいた。天岩戸を開けたとされる天手力男命(天石門別命、手力男、手力雄命)は大伴氏祖・道臣命の5代前にあたる。天孫族のニニギが筑前怡土に移ったとき、大伴氏の先祖も同行。神武より先に、畿内・紀伊に移住した紀伊国造氏族の一支族が大伴氏。
神武天皇の東征のさい久米部を率いて貢献した道臣命を人代初祖とする。道臣命の原住地は紀伊名草郡(和歌山市一帯)。道臣命は古事記では大久米命の名で登場する。目の周りに入れ墨をしていた。名草郡の族長たちは紀伊国造氏族で、名草戸畔が神武に討たれると、残る紀国造の祖・天道根命ら一族族長たちは神武に降った。紀伊名草郡の大伴連同族では、宇治大伴連、大伴櫟津連、大伴若宮連、榎本連(のち熊野新宮三家の一)がある。
神武が初めて政務を行なったとき、道臣命は諷歌・倒語をもって妖気を払い、大伴氏の宮門警衛の由来となった。大伴氏は各地から上番する人々の管理、軍事・警衛を主とする職掌をもち、靫負部や久米部、佐伯部を率いて天皇警固と宮門警備を担った。大伴とは朝廷に仕えた多くの伴を率いた統率者を意味する。物部氏は物(武器など)の管理を所管し、国軍・警察的な色彩がより強かった。
大伴氏の武日命は垂仁朝に武渟川別命らとともに大夫に任じられ、倭建命の東征に従軍した。武日命の弟に乎多弖(おたて)命がおり、陸奥小田郡に留まって蝦夷に対峙し、靫大伴部、丸子部ら後裔の一族を分布した。丸子部の裔が奈良時代に陸奥大国造となった道嶋宿祢嶋足の一族。
崇神朝の各地平定での指揮官は少彦名神系統の氏族(山城・鴨県主→三野前国造一族→三河加茂郡の松平氏)で、大伴・久米氏が指揮官になったのは景行朝の遠征が初めて。大伴武日命の一族はその子の健持の名が現れるだけで仲哀朝の大伴武以、允恭朝の室屋まで正史から姿を消す。
道臣命は神武から大和高市郡の築坂邑(畝傍山周辺)に宅地を賜った。道臣命以降の居住地は橿原神宮の南方にあり、近隣や紀伊に支族を分出した。新沢千塚古墳群は大伴・久米両氏に関係する。新沢茶臼山古墳(500号墳)の被葬者は武日命、または健持か。三角縁神獣鏡は4世紀中頃に倭建命が征討に合わせて配布したもの。紀伊那珂郡の粉河寺は大伴連孔子古が開基。その後裔が和佐氏・和佐大八郎。
大伴談(かたり)は紀小弓と新羅に派遣され、戦死した。両氏は起源が紀伊にあると雄略が語る。
宮城12門を警衛する門号氏族。大伴氏、佐伯氏、山部氏(久米氏族)、壬生氏(大伴氏族)、的臣氏(葛城臣氏族)、玉手臣氏、建部君氏(倭建命後裔)、若犬甘氏・伊福部氏・丹治比氏(尾張氏族)、猪使氏(安寧天皇後裔)、海犬甘氏(安曇氏族)。
大伴金村は欽明期に任那割譲の責任を物部尾輿に糺問されて失脚。その五人の子のうち阿被布子の流れが主流となる。奈良時代の政争で没落、桓武時代の藤原種継暗殺事件関与で大伴継人は死刑、家持は死後除名。両者の子は流罪。伴善男の失脚後、家持の曾孫・伴保平が参議・大蔵卿。その弟の保在の後裔は下級官人。
大和の雄族・越智氏は大伴氏の可能性。伊豆の伴氏は善男の後裔と称す。その後裔に住友氏。
ヤマトタケルの征路。相模、房総など東国の丸子氏は大伴一族。三河の幡豆・八名・設楽郡。書紀に「三河大伴(部)直」。郡司クラス。伴助兼。設楽氏、富永氏、夏目氏。夏目漱石も。土井利勝。
甲賀の伴氏は三河伴氏から平安末期に分かれ、大原・上野・伴・多喜氏、滝川一益、池田恒興、山岡道阿弥。大隅の肝属氏は肥後・葦北国造一族の大伴部の後裔。刑部靫部、百済生まれの日羅。
相模の波多野氏は佐伯経範の子孫。松田氏も。