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釧路市 ハルトルチャランケチャシ跡 モシリヤチャシ跡

2024年07月08日 10時17分34秒 | 北海道

国史跡・ハルトルチャランケチャシ跡。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

釧路市立博物館を12時30分ごろから1時間ほど見学し、出るときにチャシ見学についてマップやガイドなどがないかと受付で尋ねると学芸員が対応した。モシリヤチャシ見学はやはり事前予約が必要だという。駐車場は公には言えないが城山会館前にあるという。

ハルトリチャランケチャシは、ここから近く西側に駐車場もあるという。春採台でザ・ビッグとダイソーに寄る予定もあったので、雨が降ってはいるがハルトリチャランケチャシへまず行くことにした。

ハルトルチャランケチャシは、鶴ヶ岱(つるがだい)チャランケチャシともいい、チャランケ(話し合い・談合)を行うチャシ(砦)を意味するアイヌ語から由来する。ちなみに、チャランケはのちに和人が名づけたもので、アイヌ固有の呼称ではない。2つの堀跡が残るチャシ跡は東西30m、南北18mほどの規模で、300年以上前の江戸時代のものと推定されている。この付近はアイヌ民族がトーコロカムイ(湖の神様)の遊ぶ聖地として大切にしてきたところで、1916年(大正5)に、その場所からチャシ跡が発見された。

ハルトルチャランケチャシ跡の南岸から春採(はるとり)湖対岸の釧路市立博物館方向。

ハルトルチャランケチャシ跡。2つの堀跡。

史跡・モシリヤチャシ。釧路市城山町。東側の城山会館前付近から。

言い伝えによれば、1751年(宝暦1)に、この一帯で勢力をふるったトミカラアヤノという名前のアイヌが築造したものという。釧路市立博物館には、トミカラアヤノの一族の系図などが展示されている。

「モシリヤ」とはアイヌ語で「島のある川」の意である。

チャシ(砦)は長径約170m、短径約70mの北東側三段、南西側二段の楕円形の丘で「お供え山」という鏡餅のような外観をしている。

内郭(本砦)と外郭(副砦)に分かれており、内郭の周囲には空堀がめぐらされ、その堀をつくった際に出た土砂を利用して土塁がつくられた。竪穴、貝塚も残っている。1935年(昭和10)に同市内のチャランケチャシ、春採台地竪穴群などとともに「モシリヤ砦跡」として国指定の史跡に指定された。

モシリヤチャシ跡は急な斜面があり危険なことから、見学を希望される場合には事前に釧路市埋蔵文化財調査センター(電話:0154-43-0739)にご相談ください。

モシリヤチャシ跡。北東隅。

モシリヤチャシ跡。北西隅の駐車場横にフェンスが切れて登り口があることに気付いた。

モシリヤチャシ跡。中腹。

モシリヤチャシ跡。中腹。雨のため足場が悪いので頂上へ行くのは諦めた。

モシリアのチャシに係わるヲニシトムシから続くタサニシの家系図(釧路市立博物館)である。この中で、メンカクシ(精一郎)が文献にはよく出てくる。

安政5(1858)年,釧路を訪れた松浦武四郎は,その地の乙名(首長)メンカクシ(和名精一郎)から,いわゆる釧路アイヌの先祖の活動の様子を聞取りしている。

トミカラアイノ,タサニシ,ヘケレニシの三名については,他の文献にも登場し,実在の人物であることが確かである。

二代目トミカラアイノの名は,「松前志」(松前広長,天明元年=1781年)にみることが出来る。すなわち宝暦中東部夷地のクスリノ酋長「トヒカライン」と云へる夷人福山(現松前町)に来て領主へ謁す」とあり、宝暦6(1756)年のことという。

文化6(1809)年の「東行漫筆」(荒井保恵)に,『安永8(1779)年頃のこと,タサニシは釧路アイヌの長で あり,彼自身が将となって桂恋のチャシに軍を集めたという。

「寛政蝦夷乱取調日記」寛政元年(1789)に、「クスリの長人タシャニシ病気・・・」とあり、クナシリ・メナシの戦いの時には釧路の首長であったことがわかる。

 

北海道地理No.54(1980年1月)

チャシ分布に対するチャシ地名からの接近 小林和夫 関係分抜粋

釧路アイヌの戦についての松浦武四郎の記録は次のようなものである。

『何処よりかは知らず,一人の男夷雲にのり来り此の場所へ下り、自らヲニシトムシといひて,此辺りに住ける女の子を妻とし,当所へ城郭を築き,此近隣の土人を随ひけるに,其二人の中に男子二人を産み,其兄はトミカラアイノといひ,其会所元より八丁程南なるハルトルといへるへ城を構へ,弟トミチアイノ,此の川筋十余里上のシラリウトルといへるへ城を築き之に住し,其辺りよりニシベツ辺り迄を境とし居りけるが,其を聞

て東西の夷人共其処へ下り来て,此辺りの酋長と称して城棚を構へ居る事不法なりとネモロ,アツケシ,シヤリ,トコロ,トカチの土人四方八方より申合て此処へ攻来りし』ということであった。

ヲニシトムシは,『聯籠域ひるむ色なきまゝ,其寄せ手攻めあぐみけん,少しく攻め手緩みし時,ヲニシトムシ此辺りの浜へ少し其地勢を考,此処にてはよろしからずと急て居館を川口より十丁斗上なる今のチヤシコツへ引移し,川を堀通し,其前なる谷地を要害になし,いかなる勢にて攻来るとも何事かあらんと是に籠りありけるが,又々四方より攻来り,又々数月の対陣に及びけるに,此度前よりは又々要害堅固になりしかば,猶更 ひるまざるに,攻手今は詮方なしと皆其旗下に屈し過ける』という。

トミカラアイノは,『ハルトルの城を築き居住せしが,根室・厚岸・十勝三方より攻来り落城に及び,後サル シナイに城を築き居し時,また攻来りしが,前の谷地を堀となして防,勝利を得,城を子に譲り,ニシベツの 方に行住せしと』いうことである。

トミチアイノは,『シラリウトルの上に城を築き,舎利・根室の兵と戦,勝しと』いうことである。

またトミカラアイノの長子タサニシは,『サルシナイのにて諸方の敵を防ぎし』ということで,次子ヘケレニシは,『今のヌサウシの城に居しと』ということである。

『ヌサウシの城』は「幣舞のチャシ』,『ハルトルの城』は「春採湖畔のチャシ」,或るいは「ウライケチャシ」,『サルシナイの城』は「モシリヤのチャシ」,『シラリウトルの城』は「シラルトロチャシコツ」と呼ばれているチャシ跡であるという。

(シラルトロチャシは釧路湿原北東端シラルトロ湖北岸・標茶町コッタロ原野にある。)

宝暦6(1756)年6月,トミカラアイノが『クスリ酋長』として福山を訪れ,松前藩主に謁見しているが,これは『目見』である。この目見は,アイヌがいう「ウイマム」であり, 酋長代替りの挨拶と考えられる』。初代ヲニシトムシの死によって,トミカラアイノが『クスリの酋長』に就任した,その挨拶であった。

釧路アイヌの戦が,主としてヲニシトムシ,トミカラアイノ,トミチアイノの父子二代が,互に協力し連携して遂行したものとみられることからすれば,ヲニシトムシの死は,戦は既にその時期一応の終熄をみていたということになる。

この宝暦期頃には,松前藩の支配力はこの奥蝦夷地へも滲透し終えていた。

「東行漫筆」によれば,安永8(1779)年頃には,既にタサニシは釧路アイヌの『乙名』,すなわち酋長となっていて,釧路東岸の桂恋(かつらこい)のチャシに軍を集結し,釧路アイヌの『たから物』を掠奪に来るという国後アイヌのツキノエに備えている。

タサニシ一族は、釧路川筋や西別川上流の虹別(標茶町)と密接な関係をもっていた。虹別は、摩周湖から根室へ流れ出る西別川の上流に位置している。西別川は「ヌーシベツ」と呼ばれるほどサケの遡上で有名な川で、鮭の豊漁の川であり、クマやワシ猟に向いた土地であった。

トミカラアイノが,サルシナイのチャシをタサニシに譲り,その後移り住んだニシベツは,根室アイヌの領有する西別川の上流であり、根室アイヌが領有権を主張したので最終的には釧路アイヌが買い取ったという。

 

モシリヤチャシを見学後、山下りんの聖画を鑑賞するため北海道立釧路芸術館へ向かった。

釧路市立博物館③アイヌ文化 チャシ トミカラアイノ タサニシ



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