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岩手県奥州市 奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)国立天文台水沢VLBI観測所

2024年01月04日 21時33分22秒 | 岩手県

奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)。岩手県奥州市水沢星ガ丘町。

2023年6月14日(水)。

旧岩谷堂共立病院を見学後、奥州宇宙遊学館へ移動した。

奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)は、国立天文台水沢VLBI観測所の敷地内に立地する。1921年、二代目の緯度観測所本館として建築された。

当時としては珍しい、望楼を持つドイツ風建築物である。寄棟造桟瓦葺、木造二階建で塔屋を設け、外壁は下見板張、上部小壁漆喰塗とする。小屋はキングポストトラス。全体に建ちが高く、柱形、窓配置など垂直線を強調した外観が特徴である。

1967年まで使用されたのち、国立天文台施設として使われていたが、老朽化に伴い2005年10月、国立天文台は同建物の解体を決定、翌年2月より解体を開始する予定になった。宮沢賢治学会の「宮沢賢治がたびたび訪れ、『銀河鉄道の夜』などの名作を生んだ貴重な財産を残してほしい」という発言などやイーハトーブ宇宙実践センターの活動などもあり、2007年4月4日、国から奥州市に同建物が譲渡されると決定した。奥州市は耐震改修工事・展示の整備などを進め、2008年4月、科学交流館「奥州宇宙遊学館」として開館され、天文宇宙の学習や地域の科学の歩み、緯度観測所の歴史や宮沢賢治との関わりや普及を目的とする施設に生まれ変わった。

2017年10月27日に「旧緯度観測所本館」として国の登録有形文化財に登録された。

花巻農学校(現・岩手県立花巻農業高等学校)の教師をしていた宮沢賢治は、たびたび水沢緯度観測所を訪れており、数々の名著の構想を育んだとされる。童話『風野又三郎』(『風の又三郎』の先駆作品の一つ)には水沢緯度観測所の一文が書かれている。『風野又三郎』では、水沢緯度観測所でテニスに興じる「木村博士」が登場する。また、童話「土神と狐」では、「水沢の天文台」という表現が出てきている。

Z項とは

地軸の運動

地球の自転軸(地軸)は、私たちが夜空の星を眺めたときに、星々がゆっくりと回る回転の中心方向を示している。この回転の中心は天の北極にも南極にもあるが、その方向そのものが星々のある天空に対してゆっくり(万年の時間で)、またあるリズムで動いてゆく(今からおよそ1万3千年たつと、天の北極は、今は北極から大きく離れていること座(はたおり座)の近くにくる)。これを「才差・章動」という。

国際緯度観測事業が開始されたのは地球の緯度が変わることが数学者のオイラーによって予言されていたからである。緯度が変るのは、先に述べた地軸の天空に対する動き(歳差・章動)とは全く異なって、地軸が「地球そのものに対して揺れること」が原因で極運動とよばれる。この極を動かす原因は、地上で重い物が移動したり、内部が変形したりすることによるが、当時は分かっていなかった。

国際観測で水沢の観測は50点?

1899年、国際協力により開始された緯度観測の目的は、この極運動を確かめてその実態を明らかにすることであった。

ゲイザーズバーグ (GAI)             N 39:08:12         W 77:11:55         アメリカ合衆国

シンシナティ (CIN)       N 39:08:3          W 84:25:4         アメリカ合衆国

ユカイア (UKI)              N 39:08:14          W 123:12:42      アメリカ合衆国

水沢 (MIZ)       N 39:08:1          E 141:07:9         奥州市水沢区

チャルジュイ (TSC)       N 39:08:0          E 63:29             現トルクメニスタン

カルロフォルテ (CAR)   N 39:08:13          E 8:18:41         イタリア

観測が始まって1年余が過ぎた日、水沢の観測は50点で、不合格との手紙が国際観測事業の中央局(ドイツのボン)から送られてきた。苦境に立たされた木村博士は、恩師の田中館博士の助言を仰ぎ、観測方法等の見直しを行なったが、不備な点は見つからなかった。木村は、送られてきたデータから各観測所のデータを見直してみると、水沢だけでなく他の観測所にも共通な「おかしな変化」があることに気が付いた。それは、冬になると6か所の観測が、みな共通して緯度が大きくなり、逆に夏になると小さくなるという現象であった。

逆転の発想とZ項の発見

このような、すべての観測点で同じように緯度が変化するという現象は、極運動(先に述べた地軸の運動)では説明できない。すべての観測点が冬になると約1m北極に近づき、夏になると逆に北極から約1m遠ざかるということは、簡単な理屈では説明できないと思われた。

原因がよく分からないこの奇妙な現象を表すために、木村は緯度変化による極運動を解く(地表面に対する自転軸の位置を求める)方程式の中の未知数x,yに加えて新しくzを加えてみた。すると妙な年周変化は見事にZで表され、観測所ごとのばらつき(残差)が小さくなった。この項の発見は世界を驚かし、その後、正式に「Z項」と呼ばれるようになった。これが1902年の木村榮によるZ項の発見である。

Z項の解明から世界最先端の天文地球科学へ

Z項は、はじめのころ、大気や地面の傾斜の影響などによるものと考えられていたが、やはり詳細は不明であった。Z項の原因が分かるまで、半世紀以上にわたって多くの天文学者・地球物理学者を悩ませた。残念ながらZ項発見者の木村自身は、原因がわかる前の1943年に死去した。

1970年になって、後輩の研究者、若生康二郎によってその原因がつきとめられた。それは当時、地軸の天空に対する運動である才差・章動(原因は太陽と月の引力が地球の形等に作用する効果で、コマの首ふり運動と同じ)の予測値として、地球全体を堅い物(固体)と見て計算していたが、実際の地球の深部は鉄などのとけた流体(流体核)があり、その流れの効果等が重大な影響を与えていたためであった。これは、「半年周期の章動項に大きな誤差が生まれ、その誤差が各観測主に共通な1年周期の見かけの緯度変化」として観測されるからであった。この半年周期の章動項の誤差は、まさに、太陽の位置(黄経)と星の東西方向の座標(赤経)の関数として表せる」ものであった。

Z項の原因をより確かなものにする努力も多岐に亘って進められた。大気と海洋の世界のデータの収集とそれらの運動による地球回転への影響の追及、月・太陽による潮汐力に対する固体地球および流体核応答の理論的・実験的調査、などである。

水沢で解き明かした地球のなぞ

Z項の原因は力学的には重大な意味を持ち、流体核が地球の自転周期(約24時間)よりも約7分短いところに固有の周期をもつこと(この周期は主としてマントルと流体核の境界の大きな形によって決まる)、そしてこの周期に近い変化をもつ外部の力が加われば、それに共鳴して流体核が大きく振動し、地軸も揺れることを示すものであった。この外からの力として主に働いていたのは、この周期に近いところにある太陽による潮汐成分(日周潮汐の1成分:地球に対して平均太陽時で約23時48分16秒の潮汐を起す)であった。地球に固定した小さい円錐体が天空に固定された大きな円錐に内接して回りながら南から西に半年周期で回転して行く。流体核の共鳴による半年周章動への影響が、Z項の原因だったとする長年のなぞの解明は、世界の天文学および地球科学の研究に大きなインパクトを与えた。

半年周期の現象の誤りが、どうして周期の異なる1年周期のZ項に化けてしまったのか。それは星の観測は夜のある一定時刻に行うので、半年周期の現象が1年周期の現象に見えたということで、もし、昼間も緯度変化の観測が可能だったら、Z項の原因はずっと早くに分かっていたかも知れませない。

このZ項の原因は、江刺地球潮汐観測施設での地球潮汐観測から見られる地球の流体核の効果や、また最新の計測技術であるVLBI(超長基線電波干渉計)や超伝導重力計による地球の揺れの観測からでも確かめられた。今日では、これらの研究は更に発展し、地球のマントルと核の境界の形と力学的結合、核の物質の流れやすさ、また地球の長期の内部変化の究明などへと移って来ている。

緯度観測所

1.緯度観測所の開始

奥州市水沢に世界の共同観測所として緯度観測所が設置されたのは 1899 年のことであった。1880 年代に発見された極運動(地球回転の乱れの一側面)の詳細を解明するため、国際測地学協会が「国際緯度観測事業」として、世界各地の北緯 39 度 8 分上の 6 か所に観測所を設置した。日本では 1899 年(明治 32 年)岩手県水沢市(現奥州市)に文部省所轄研究所として「臨時緯度観測所」を発足させた。初代所長は木村榮(ひさし)で、木村は東京帝国大学の星学科で天文学を学び、特に星を用いて緯度を決定する手法を身に着けた。また大学院に進学し、震災予防調査会の下で田中館愛橘教授に学び地磁気測量に従事した。また 1895 年には嘱託として『緯度変化観測方』となり観測を行っていた。

なぜ「臨時緯度観測所」が水沢に設置されたのか、実際は 1895 年頃の萬国測地学協会の会議において北半球の中緯度圏だけでなく南半球も含めた 10 種類もの案が検討された。その中の候補として日本では、水沢―ユカイアラインとともに、白川―シシリー島ラインも候補に上がっていた。会議の結果、観測所の大局的な分布が考慮され、水沢―ユカイア―カリアリのラインが採用された。平均緯度は北緯 39 度 8分であった。初めに北緯 39 度 8 分ラインがあった訳ではなく、国際的な観測所の配置や晴天率、地盤の安定性、交通の便などが考慮された結果であった。

日本では「臨時緯度観測所」の名称が付けられたが、それは当時、この観測は数年も続ければ十分との考えがあったからである。実際はそれでは済まず、極の動きはとても複雑で数年の観測では解明できるものではなかった。

また観測が始まって半年経った頃、緯度変化を生じさせる極の動きが捉えられたが、水沢で得られた観測値が他と違って様子がおかしいということが明らかになった。はじめ、それは日本の観測が未熟なため、日本の天文学がだめだからなどと、散々言われた。この責めを負って木村榮は所長を辞めようと決意したとも言われるが、ある閃きがあり、緯度変化を表わす式に第 3 の項を加えることでこの違いを解消できることを発見した(1902 年)。この不思議な項は、やがて「木村のZ項」と呼ばれるようになり、その功績で 1911 年(明治 44 年)に第 1 回の学士院恩賜賞、1936 年にイギリス王立天文学会金牌、1938 年(昭和 13 年)に第 1 回の文化勲章を受章した。こうして水沢での観測も世界に認められ、z項の解明も含めて大きく発展した。

2.臨時緯度観測所から緯度観測所へ

水沢ではその Z 項の原因を解明しようと、色々な試みをした。第一に、巨大地震が誰もまだ分からない方法で地球を揺さぶっているかもしれないと、1901 年に試験観測を行っていた地震観測を 1902 年に正式の観測として開始した。。第二に気象観測を強化した。星の見える位置の精密決定に必要(大気による光の屈折の補正)な地上気温と気圧、また風速(星の見え方に影響する)の観測は緯度観測開始と同時に開始したが、それ以外の気象要素の観測を追加し、1905 年日照時間と蒸発量の観測を開始した。大気による光の屈折への影響への追及は観測室全体の温度分布にまでその測定範囲を広げた。さらに 1920 年になると地上の気象要素だけでなく、上空の風の観測が始まる。それは、気球を飛ばして地上の二点から追跡する方法によるものであった。

丁度 1920 年 10 月に官制の公布により「臨時」の名が取れて名称が「緯度観測所」となった年であった。

第三に取り組んだ事は、地盤傾斜の緯度観測への影響の調査である。1929 年に石本式シリカ傾斜計を設置して 1944 年まで地球潮汐の観測(月、太陽による鉛直線の傾きの変化の観測)を実施し、また日食観測による地球・月系の運動の追跡なども行われた。また、この時代は、世界がようやく水沢を認め、1920 年から 1936 年までの「国際緯度観測事業」の中央局の業務を、日本に任せた時であった。

木村の後を継いだスタッフたちはその研究を受け継ぎ、新しい工夫に取り組んだ。極運動の解明のために経度変化の観測も可能な写真天頂筒やアストロラーベ(天文観測用の機械で、星の位置と時刻が測定できる)を導入、また重力計、伸縮計、歪計などの地球物理学的観測を実施し、Z 項をはじめ極運動そのものの原因究明、また地球の各部分の運動の解明など、近代の天文地球科学において大きな役割を果たした

主な取り組みとしては、① Z 項の原因は、太陽の引力(地球に潮汐を起す力:起潮力)に対する流体核の共鳴現象であることを解明する、②奥州市江刺区の阿原山に地球潮汐観測施設を設置し継続的な観測を行い、Z 項の要因となっている流体核の動きを捕えることに成功、また流体核を含めた精密な地球回転運動モデルを構築、③海洋潮汐により地球自転が減速し、月が地球から遠くなって行くことを明らかにしモデル化に成功した。④地球の極の周期的な運動は、大気運動と気圧分布の変化が地軸を揺さぶることに主な原因がある、などの解明、であった。

3.国立天文台へ

「緯度観測所」は 1988 年(昭和 63)に東京天文台、そして名古屋の空電研究所とともに「国立天文台」となり、その中の、その中の地球回転研究系を構成し、現在は「国立天文台水沢 VLBI 観測所」となっている。

国立水沢VLBI観測所本館。

国立水沢VLBI観測所は、国立天文台の中では、現存する一番古い観測所の一つであり、1899年以来、同地で観測を行ってきた。現在は、VERA(天文広域精測望遠鏡VLBI Exploration of Radio Astrometry)プロジェクトにより、VLBI(超長基線電波干渉法、 Very Long Baseline Interferometry)という電波干渉計の手法を用いて、銀河系内の電波天体の距離と運動をこれまでにない高い精度で計測し、精密な銀河系の3次元立体地図を作るため、国立天文台を中心に、多くの大学や研究所からさまざまな分野の研究者が参加し、日本各地にあるVLBI観測点を専用ネットワークで結んだ観測点の解析センターの役割を担っており、2003年から観測が始まっている。また、ダークマターの検証、またわが国最初の本格的月探査機「かぐや」で月の地形や内部構造解明といった、最新・最先端の研究を行なっている。

これらのデータ解析には、精密な時刻測定が必要なため、国内では数少ない協定世界時(UTC)を刻む原子時計を運用し、データ解析に活用している。

現在水沢キャンパス内には本館・実験棟、VERA プロジェクトの 20m や 10m 電波望遠鏡および観測棟、前身となる緯度観測所時代からの「旧眼視天頂儀室」や「木村記念館」などが点在している。また、奥州市の学習交流館「奥州宇宙遊学館」もキャンパス内にある。

電波望遠鏡2基。手前の小さい建物は、旧眼視天頂儀室(1899年建設)。

VERA20m電波望遠鏡。

旧緯度観測所本館の裏側。

木村榮記念館。

木村榮記念館は緯度観測所の初代所長、木村榮(ひさし)の業績を顕彰する記念館である。この建物は1900年に臨時緯度観測所の庁舎として建築され、1966年まで研究室として使用された。その後、1967年に現在の位置に移設された。

木村 榮(1870-1943)は、石川県石川郡野村字泉野(現在の金沢市)篠木(ささき)家に生まれ、1892 年帝国大学理科大学星学科を卒業した後、震災予防調査会の嘱託で東京天文台の緯度変化の観測(1895-1897 年)に従事、1898 年ドイツのシュトゥットガルトで開かれた第 12 回万国測地学協会総会に、田中舘愛橘に伴われて出席、ポツダムの中央局で、観測する恒星の選定に関わる中央局役員になり、そのまま留学生となった。翌 1899 年に帰朝し、水沢(岩手県)の臨時緯度観測所所長として着任し、以後約 42 年間にわたって地球の極運動の研究を行い、その学問的な基礎を築いた。

館内では、当時の所長室の再現のほか、木村がZ項を発見した際に観測で使用していた眼視天頂儀(望遠鏡)や、その後Z項の究明のために用いられた歴代の観測装置、木村に授与された第一回の文化勲章など貴重な資料を展示している。

見学後、国史跡・角塚古墳へ向かった。

岩手県奥州市 旧岩谷堂共立病院 緑の丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台



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