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福島県 南相馬市博物館 桜井古墳群 羽山装飾横穴 金沢地区製鉄遺跡群

2024年06月17日 15時21分20秒 | 福島県

南相馬市博物館。福島県南相馬市原町区牛来出口

2024年5月25日(土)。

雲雀ヶ原祭場地で14時から開催された相馬野馬追1日目行事の宵乗り競馬の第1レースを見学してから、10分ほど歩いて、車を駐車していた南相馬市博物館を見学した。野馬追見学の団体客などで博物館とは思えないぐらい入館者が多かった。

展示の導入コーナーは「相馬野馬追」の模型展示である。

企画展「五月中の申 御野馬追」が開催されていた。「相馬野馬追」は、本年から、日程が7月から5月開催に変更されるという大きな変革があった。そもそも野馬追の日程は、旧暦「五月中なかの申さる」の日を中心に行われ、明治時代以降の改暦後、何度かの変更を経て現在に至っているという。

桜井古墳群高見町支群は、広がりとしては上渋佐支群の半分以下の範囲でしかないが、前方後方墳1基、円墳20基、方墳1基、土坑墓5基で構成され、古墳の数では上渋佐支群を上まわっている。両支群の間にはスギ林が広がっている。

桜井古墳群は、新田川に沿って東西に長狭なかたちに広がり、桜井古墳を含む東側の「上渋佐支群」と西側の「高見町支群」とに大別される。

桜井古墳(1号墳)は両支群のほぼ中央(上渋佐支群のなかでは西端に近い場所)に位置する前方後方墳で、編年上も古墳群のなかで最も古い4世紀後半と想定されている。

上渋佐支群7号墳。

上渋佐支群は、前方後方墳1基、方墳1基、円墳9基、土坑墓1基で構成される。上渋佐支群7号墳は、一辺27.5メートル、高さ3.3メートルの方墳である。方墳としては東北地方でも規模の大きい部類に属する。

周溝は全体的に不整形をなし、墳丘の平坦面の真下に墓穴が二段で掘り込まれている。この築成法は北陸地方の前期古墳に特徴的であり、墓穴に納められた棺は板材を組み合わせた箱形の組合わせ式木棺で、その両端で白色粘土塊を確認している。

年代的には、桜井古墳群のなかでは1号墳(桜井古墳)とともに最古の部類に属しており、調査結果は未調査の1号墳主体部の様子を示唆するものとも言われる。

銅鏡。上渋佐支群7号墳出土。

棺のなかからは銅鏡が布に包まれた状態で出土している。東北地方の古墳では銅鏡の出土例は他に類例が少ないところから、2000年(平成12年)には市の指定史跡になっている。

羽山装飾横穴(レプリカ)。

羽山(はやま)横穴は、南相馬市原町区中太田にある横穴古墳(横穴墓)で、彩色壁画を有することで知られる。国の史跡に指定されている。築造年代は7世紀初頭と推定される。

太田川の北側の本陣山丘陵傾斜面に立地する数十基から成る横穴群の一つで、1973年宅地造成中に偶然発見された。

全長は8.32mを測り、前庭部長3m、羨道長1.9m、東に開口する玄室は方形プランを呈し、奥壁幅2.79m、側壁長2.9m前後を示す。これに玄門を隔てて細長い前庭部がつく。

奥壁には酸化鉄で描いた人物・馬・鋸歯状文・縦長の長方形文、さらに白色粘土を塗り、その上に赤彩斑点をあしらった白鹿、5本の紅白線で連結した渦巻文、赤彩の鹿などが認められている。奥壁と天井には赤白250以上の珠文も描かれている。

羽山装飾横穴出土品。

遺物は金銅装大刀・刀子・青銅釧・ガラス小玉・轡・辻金具・鉸具・須恵器などが出土した。

市内金沢(かねざわ)の長瀞遺跡より移設した古代の竪形製鉄炉。

金沢地区製鉄遺跡群は、南相馬市原町区金沢に所在する大規模な古代製鉄関連遺跡群である。

南相馬市原町区の北東部に所在し、古代陸奥国行方郡の管轄域にあったと考えられ、『和名抄』所載郷の「真吹郷」に立地していたと推定される。遺跡郡周辺には、行方郡の郡衙所在地とされる泉官衙遺跡(泉廃寺跡)や金銅製双魚佩や馬具の出土で知られる真野古墳群がある。

近接する烏崎海岸は砂鉄を多く含み、素材鉄は沿岸部で採集されたこれら「浜砂鉄」であろうと考えられる。同様に、新地町の武井地区製鉄遺跡群もまた、金沢地区とならぶこの地方の同時代における大規模な製鉄関連遺跡群である。

発掘調査の終わったものだけでも11遺跡、22万4960平方メートルにおよび、検出された木炭窯は152基、土坑606基、製鉄炉123基、鍛冶炉20基、竪穴建物跡139棟、掘立柱建物跡30棟、墳墓14基、須恵器窯1基などである。出土した鉄滓の量はおよそ626トンにのぼる。炭窯年代は、7世紀中葉から10世紀前葉があてられている。

 

シンポジウム「鉄の道をたどる」予稿集 2020 年7月 23 日・24 日 福島県文化財センター白河館

福島県の製鉄関連遺跡 公益財団法人福島県文化振興財団 能登谷宣康

発掘調査された製鉄遺跡・製鉄炉跡の数の全国との比較

近年、島根県古代文化センターではたたら製鉄の成立過程の基礎研究として、全国の古代から近代にいたる発掘調査された製鉄遺跡及び製鉄炉跡を精力的に集成している。その集成が掲載された『たたら製鉄の成立過程』(島根県古代文化センター編 2020)によると、全国で製鉄遺跡 724遺跡、製鉄炉跡 1,715基が発掘調査されている。

福島県内で発掘調査された製鉄遺跡及び製鉄炉跡の数について概観してみると、以下のとおりである。

古墳時代~平安時代前半では、全国で 454遺跡、1,265基に対して、福島県では 62遺跡、250基であ

る。因みに、東北地方全体では 123遺跡、454基(陸奥 100遺跡、379基、出羽 23遺跡、75基)であり、当時のもう一つの製鉄の中心地である吉備(備前・備中・備後・美作;今の岡山県から広島県東部)では57遺跡、91基であり、福島県の製鉄遺跡・製鉄炉跡の数が全国一であることがわかる。

平安時代後半~江戸時代初めでは、全国で 187遺跡、356基に対して、福島県では 18遺跡、24基である。因みに、東北地方全体では 48遺跡、123基(陸奥 39遺跡、109基、出羽9遺跡、14基)で、岩手県が一番目となっている。また、出雲(今の島根県)では 35遺跡、42基である。

江戸時代~大正時代では、全国で 83遺跡、99基、東北地方全体で 16遺跡、20基、福島県で6遺跡、8基であり、当時の製鉄の一大生産地である出雲では 26遺跡、29基、中国地方全体では 55遺跡、61基である。

4.浜通り地方の主な古代の製鉄関連遺跡

福島県の浜通り地方には古代の製鉄関連遺跡が多く存在するが、その中でも北部に当たる相馬地方には 210を超える製鉄関連遺跡が存在し、国内でも有数の製鉄関連遺跡集中地区の一つに挙げられる。新地町武井地区製鉄遺跡群、相馬市大坪地区製鉄遺跡群、南相馬市金沢地区製鉄遺跡群・川子地区製鉄遺跡群・割田地区製鉄遺跡群・蛭沢製鉄遺跡群・川内廹遺跡群・横大道製鉄遺跡群などが調査され、横大道製鉄遺跡は平成 23年2月に国史跡に指定された。

一方、双葉地方やいわき地方でも、浪江町北中谷地遺跡・太刀洗遺跡、富岡町後作B遺跡、楢葉町南代遺跡、いわき市磐出館跡・清水遺跡などが調査されている。

これらの遺跡は、7世紀後半以降、中央政権による東北開発・支配が活発化することにより、その一環としての鉄器・鉄の現地生産が行われる過程で営まれたものと推測される。特に、8世紀後葉に中央政権が本格的な蝦夷征伐に乗り出し、8世紀後葉以降、鉄生産量が増大化するのはこの蝦夷征伐やその後のさらなる東北開発・支配と連動していると推測される。

福島県文化財センター白河館まほろん 2020年①『令和元年度まほろん企画展 ふくしま鉄ものがたり~鉄滓の山から読みとく歴史~』解説資料

福島県域は、かつて古代律令国家を代表する鉄生産地でした。とりわけ、浜通り地方には7世紀後葉から 10 世紀前葉までの製鉄遺跡が集中しており、この地方の鉄が律令国家の東北経営や対蝦夷政策の物資として大きな役割を担っていたとも考えられてきました。

 

「国家標準型」箱形炉の導入

中大兄皇子らが政治の実権を握った7世紀中頃、近江国湖南地域では「国家標準型」といわれる両側排滓(はいさい)の箱形炉が確立します。この製鉄炉は長さ 200 ~ 250㎝・幅 40㎝ほどの長方形の炉の両側に、円形もしくは長方形を呈する排滓作業のための空間が設けられ、上から見た形から「鉄アレイ形」とも呼ばれます。このタイプの炉は、中国・畿内・東海・関東地方に類例があり、7世紀後葉の比較的短期間に各地に技術移転が計られたと考えられています。

福島県浜通り地方で製鉄操業が開始されるのも、ちょうど同じ時期にあたります。近江国起源の「国家標準型」の箱形炉が導入されたほか、横口式木炭窯という特殊な窯で木炭を焼く技術なども同時に伝えられました。

浜通り地方にやって来た製鉄工人は、原料砂鉄の違いに最初は戸惑ったことでしょう。何しろ近江国ではチタン分など不純物が極めて少ない鉄鉱石を原料に操業しており、関東地方の砂鉄でもチタン分は5~ 10%程度、一方、浜通り地方の砂鉄ではチタン分が 20 ~ 30%もあり、一般に鉄を生成することが難しいといわれています。しかしながら当時の製鉄工人はこの難題を乗り切り、7世紀末葉に操業最盛期をむかえたとされる大船廹(おおふなさく)A遺跡 29・30 号製鉄炉跡では、当地方最大の排滓量 76 トンを誇り、高い技術水準にあったと考えられています。

「縦置タイプ」の箱形炉の登場

導入期(7世紀後葉)の箱形炉は、丘陵尾根部の平坦面に築かれていました。これが8世紀初頭頃になると、丘陵斜面を切り崩して、等高線と並行方向に箱形炉の長軸をそろえた炉(両側排滓の横置タイプ)へと変化します。このタイプの製鉄炉は、数は少ないですが9世紀中葉くらいまで存続します。

一方、8世紀前葉には、関東地方からの製鉄技術の影響を受けて、丘陵斜面の等高線に直交方向に炉を築く、「縦置タイプ」の箱形炉が出現します。これに伴い、浜通り地方の箱形炉では炉壁下部の送風孔に羽口(長さ 20㎝、内径3㎝位の土管)を装着する技術が生まれました。

浜通り地方で独自の技術が生まれた背景には砂鉄中のチタンと鉄の分離を促すために、前提条件として炉壁の粘土を多量に溶かし、鉄滓を生成する必要があったためだと考えられます。

ただあまりにも炉壁だけが溶けてしまうと、送風孔が詰まってしまうので、その部分に溶けにくい粘土で作った管(羽口)を取り付けたと考えられます。つまりチタン分が高い砂鉄への技術適応の結果だったといえます。その裏付けとして羽口を装着する箱形炉の炉壁が出土する古代製鉄遺跡の分布と高チタン砂鉄の分布域は一致しています。

竪形炉の登場

8世紀中葉頃(東大寺で大仏を鋳造していた頃)、これまでの箱形炉に加え、竪形炉とよばれる新たなタイプの製鉄炉が出現します。

竪形炉は推定内径 60㎝、高さ 150㎝位の円筒形の製鉄炉で、「踏みふいご」とよばれる送風装置から1本の大口径の土管(通風管)を通って、炉内に空気が送られます。

また、踏みふいごの製作は高度な木工技術を必要とし、それまでの製鉄技術にはまったくなかったものでした。一説には大仏などの鋳造に用いられた溶鉱炉の技術が、竪形炉に技術移転されたともいわれています。

関東地方では8世紀代に「国家標準型」の箱形炉から竪形炉への転換が行われましたが、浜通り地方では8世紀中葉から9世紀前葉にかけて、竪形炉と「縦置タイプ」の箱形炉、2タイプの製鉄炉が併存します。なぜ2タイプの炉が併存するのかはいまだに解明されていません。

「鳥打沢(とりうちざわ)タイプ」の箱形炉の登場

8世紀末葉頃、陸奥国では国府多賀城が蝦夷との争いで焼け落ちるなど、いわゆる「38 年戦争」という動乱期に突入していきます。この戦争の物資として、浜通り地方で生産される鉄が重要な役割を果たしたと考えられています。

この時期の製鉄炉は本地方だけで 75 基、製鉄関連遺物の総量は 587 トンと、他の時期と比較して突出しています。

この時期の箱形炉の最大の特徴は、「縦置タイプ」の箱形炉の送風装置として、竪形炉で用いられた踏みふいごが採用されることにあります。最初に発見された遺跡にちなみ「鳥打沢タイプ」の箱形炉とよばれます。踏みふいごの採用により安定した送風量が維持でき、増産化につながったと考えられます。

箱形炉から円筒炉へ

9世紀中葉頃の箱形炉は、炉底の規模で長軸200㎝を超えるものもあり、大型化が図られます。

踏みふいごの大きさも9世紀前葉頃の箱形炉に比べて、一回り大きくなっています。技術的には習熟期を迎え、この時期の箱形炉からは鋳鉄の塊が多く出土しています。しかしながら9世紀中葉以降、浜通り地方においては製鉄炉の数が減少し、7世紀後葉から約 250 年間続いた箱形炉での製鉄操業は 10 世紀前葉をもって終焉を迎えます。

10 世紀代の製鉄炉は、70㎝ほどの円形もしくは楕円形の土坑状の基礎構造(掘形)に炭や焼土を充填し、その上に小型の「円筒形自立炉」を築いていました。

 

南相馬市博物館見学後、桜井古墳の見学に向かった。

福島県南相馬市 雲雀ヶ原祭場地 相馬野馬追・宵乗り競馬



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