木柵「万里のチャシ」。新冠(にいかっぷ)町郷土資料館。新冠町中央町。
2022年6月10日(金)。
道の駅「サラブレッドロード新冠」で起床。最低気温は10度前後で寒い。この道の駅に泊まるのは2001年夏以来である。日本百名山完登の年で、北海道では最難関の幌尻岳へ登頂したあと、達成感に包まれた気分であったことを覚えている。海沿いという記憶だったが、実際にはやや離れており、閑散とした風景だった。
前日は平取町二風谷から新冠町を経て、新ひだか町の新ひだか町博物館が最終見学地となり、新冠町へ戻る行路となった。
本日の見学予定は新ひだか町真歌公園のシャクシャイン像、浦幌町の国史跡・オタフンベチャシで、翌11日の帯広に備えて浦幌町の道の駅で泊まるという行程を考えていた。日高山地を越えて海沿いのオタフンベチャシまでの所要時間はグーグルマップで予測できるが、実速は分からない。走行するうち、車の走行時速の流れをつかんだので、意外と早く進み、浦幌町の博物館も見学して、道の駅「十勝川温泉」まで行くことができた。
午前4時には明るくなるので起きてしまう。余裕があったので、9時に開館する新冠町郷土資料館を見学することにした。入場無料で道の駅から5分以内だ。9時前に着き、開館を待ったが資料館の前庭にある木柵に目が留まった。
新冠は、明治から戦後まで軍馬を育成する地で、日本有数の軽種馬産地として栄えている。日高軽種馬共同育成公社が置かれ、馬の育成も盛んで、牧場が並ぶサラブレッド銀座もあり、ハイセイコー・ナリタブライアンなどの競走馬を輩出している。
新冠郷土文化研究会(斎藤光昭会長)のメンバーが中心となって、旧新冠御料牧場の牧柵復元作業が行われ、新冠町郷土資料館前庭に牧柵と看板が設置された。
復元された牧柵の名称は、広大な放牧地を取り囲んでいた新冠御料牧場の牧柵にちなみ、中国の万里の長城のイメージと、アイヌ語で牧柵、囲い、砦を意味する言葉「チャシ」から。「万里のチャシ」と名付けられた。
新冠牧場は、新ひだか町静内にある牧場で、現在は独立行政法人家畜改良センター新冠牧場となっている。
1872年(明治5)に北海道開拓使長官黒田清隆により、北海道産馬の改良を目的として、静内,新冠,沙流(さる)の3郡にわたる約7万haの土地に牧場を開設することが決定された。
1873年、新冠郡トキット(現在の新冠町朝日)に厩舎・木柵・監守舎を建築し、厩舎監守事務所を置いた。2262頭の野生馬を集牧したという。
1877年、御雇外国人のエドウィン・ダンにより本格的な整備が行われた。面積を約6800haに縮小して、管理監視を容易にするため牧場事務所を静内の御園に移転させ、近代西洋式牧場としての新牧場を設けたが新冠の名は引き続き使われた。ダンはアメリカからサラブレッド種を輸入し、馬の改良を行うほか、馬を襲う狼の毒殺も行った。
1884年に宮内省所管の新冠牧馬場,88年からは新冠御料牧場と改称し,輓馬(ばんば),軍馬の繁殖・育成,品種改良に貢献した。このとき、アイヌ人70戸が新冠村姉去に強制移住され、御料牧場の小作人となる。1911年、木柵の敷設は272㎞(68里)におよんだ。
1916年姉去のアイヌ人部落全70戸が御料牧場の都合で平取町に強制移住させられる。
1947年、宮内省から農林省に移管し、新冠御料牧場は新冠種畜牧場と改称、牧場地は解放されて外地引揚者ら約600人が入植した。
1949年、馬匹生産事業を廃止し、酪農用の種牝牛生産牧場に転換。全域が静内町となった。
エドウィン・ダン(Edwin Dun、1848年7月19日 - 1931年5月15日)。アメリカ人の獣医師で、明治期日本のお雇い外国人。北海道開拓使に雇用され、真駒内牧牛場の設立を指導するなど、北海道における畜産・酪農業の発展に大きく貢献した。
1877年、漁牧場の土壌が馬の飼育に適さないと判断したエドウィンは、馬匹改良の本拠地を新冠牧場に移すべきであると判断。同牧場を拡張整備し、漁牧場から馬を移送した。新冠牧場では千数百頭もの馬が飼育され、根岸競馬場におけるレースに優勝する競走馬や全国博覧会で一等賞をとる馬を生産するなど名実ともに北海道における馬産の拠点として発展した。
「競走馬のふるさと」として知られる新冠ならではの展示物として、各地の馬に関する民芸品を展示している。
新冠泥火山(にいかっぷでいかざん)は、北海道新冠町に存在する丘陵群。地表に泥水などが噴出する泥火山である。国道235号沿いに並ぶ。
新冠町市街地から北北西約2kmの地点から、北西に向けて複数の泥火山が並ぶ。かつては8つの泥火山が確認されていたが現在では第二丘から第五丘の位置は不明となっており、第一、第六から第八までの計4つが現存している。北西端の火山を第一丘、南東端の火山を第八丘とし、第八丘が最も大きく活動も盛んである。
形成されたのは最終氷期以降の極めて新しい年代で、1663年の有珠山噴火前にはほぼ現在の形が出来上がっていた。近年も大規模な地震発生時には噴出現象が見られ、1952年十勝沖地震、1968年同左、1981年浦河沖地震、1994年北海道東方沖地震、2003年十勝沖地震、2008年同左、には主に第八丘で噴泥や山体の変形が記録されている。
北海道天然記念物に指定されているが、泥火山の大半は私有地(牧場)内にあり、遠望することのみが可能である(地権者の許可のもとに学術的な調査時のみ立ち入り可能)。
現地の地下構造は背斜構造に断層が交わる構造となっており、これら地質条件に地震等の影響が加わり、地表にガスや泥水、土塊が噴出するものと考えられている。火山活動に伴い形成された地形ではない。
日高地方の新冠町節婦から新ひだか町にかけて,点々と泥火山が分布している。その代表格が高江地区の新冠泥火山で,ここでは4つの丘が確認できる。泥火山とは,地下から水と一緒に噴出した泥が積み重なって出来た丘のことで,世界の油田地帯や海底の現世付加体などに分布している。国内では,新潟県などでも見つかっている.
新冠泥火山の特徴は大地震に伴って噴泥や亀裂の発生などの変動が発生することである。第八丘を中心に1952・1968・2003年十勝沖,1982年浦河沖, 1994年北海道東方沖などの各地震の際に変動があった.最近では2008年9月11日の十勝沖地震(マグニチュード7.1)でも変動が見られた。
噴泥は,地下に異常な高水圧の地層(異常高圧層)があり,地上への通路が開くなど圧力の開放が生じた時に発生するとみられている.地震の時にだけ変動を起しているのは,すでに地下の異常高圧の状態が弱まっているためではないか,と推定されている。
石冠。縄文時代の石器。
「北海道式石冠(せっかん)」とよび、木の実をすり潰すための持ち手つきの磨石(すりいし)である
氷川遺跡(新冠町東町)。種別:墳墓。出土遺物:土器・石器・人骨。
時代:縄文(早期)・縄文(前期)・【 縄文(中期) 】・縄文(後期)・縄文(晩期)・続縄文
立地:海岸段丘・浦里川河口右岸標高:40m。土器・石器を大量に出土。特に円筒上層式土器・擦石を大量に出土。
縄文時代【中期】の特徴。約5千年前~約4千年前】。
「大規模な集落」が多くつくられる。
前期に引き続き、道南央部は「円筒(えんとう)式土器」、道北東部は「北筒(ほくとう)式土器」が広がり、日高地方は両者が混在。
「ピポクの人々」ではアイヌにまつわる品々が展示されている。
新冠の旧名はピポク(Pi-pok 岩・下の意)。後にニカプ(Ni-kap 楡の皮、木の皮の意)に改められた。
「ピポク」は「岩の陰」または「崖の下」の意味で、具体的には判官館のふもとあたりを指すと言われている。その他にも、判官館自体を「ポロヌプリ」(大山または親山)と呼んで大事にした場所だという。
判官館を海側から眺めると、ゴツゴツした岩壁の姿が目立つ。昔、アイヌ民族はこの付近を「ピポク」と呼んでいた。新冠と呼ばれる前は、ピポクの地名がこの付近を指すポピュラーな呼び名だった。
江戸時代、シベチャリ(現在の新ひだか町静内)のアイヌ民族であるシャクシャインと、蝦夷地を統治していた松前藩の間に「シャクシャインの戦い」が起こった。
寛文9年(1669年)、松前藩はシャクシャイン側に和睦を持ちかけた。しかし、これはだまし討ちで、祝宴を開いてアイヌ民族側が酔うのを見て襲いかかり、長であるシャクシャインは倒され、シベチャリの砦も焼き払われてこの戦いが終焉した。シャクシャインが最期を迎えた場所がこの「ピポク」だった。
日高本線のうち、鵡川駅以南様似町の様似駅までの区間は、2015年1月に発生した高波で線路が被災して列車が運休し、以降復旧することなく2021年4月1日に鉄道事業が廃止され、日高本線は、苫小牧駅から勇払郡むかわ町の鵡川駅までの路線に縮小された。
このあと、国道を東進して静内川東岸丘上にある新ひだか町真歌公園へ向かった。