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北海道 新ひだか町博物館②アイヌの英傑シャクシャイン像

2024年06月17日 10時13分29秒 | 北海道

英傑シャクシャイン像。模型。新ひだか町博物館。新ひだか町静内山手町。

2022年6月9日(木)。

シャクシャイン像事件の一端が新ひだか町博物館に記されていた。

 

新ひだか町静内(旧静内町)の真歌(まうた)公園にシャクシャイン像がある

私は1976年大学卒業目前の3月にシャクシャイン像を見ることを目的の一つとして1973年夏以来の2度目の国鉄周遊券による北海道旅行を敢行した。襟裳岬にも行ったと思うが、北海道の3月は真冬である。国鉄静内駅で下車してから、小雪の舞うなか雪道を長時間歩いてシャクシャイン像にたどり着いたことを記憶している。

当時は、「アイヌ共和国」という言葉がもてはやされており、シャクシャインは民族解放運動の英雄として学生の間では知られていた。「アイヌ革命論」が、新左翼思想家太田竜の1973年刊の著書と行動によってその名前は有名になったこともあったが、その理論そのものに共鳴していたわけではない。

今回の旅行での再会は大きな目的の一つだったが、旅行前の予習でシャクシャイン像をチェックして、グーグルマップの口コミを読んでみると、以前見学したシャクシャイン像が撤去され、新しいシャクシャイン像が設置されているといい、批判を受けていることを知った。

今回、翌日の6月10日に実際に車でシャクシャイン像が設置されている真歌公園を見学したが、静内川河口東岸の丘陵上にあり、自動車でも登り坂は結構大変なのに、当時よく徒歩で歩いて見学したものだなと感心した。

真歌公園には、アイヌ民族の文化を今に伝える資料を保存・展示するシャクシャイン記念館、アイヌ民族の生活や風俗を紹介するアイヌ民俗資料館があるが、シャクシャイン記念館は改修工事のため休館していた。

アイヌ民俗資料館の職員に旧のシャクシャイン像はどこにあったのかと尋ねると、現在地の手前にあり更地で痕跡もないということだった。

シャクシャインの戦い。1669年6月にアイヌでシブチャリ(静内)の首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。

アイヌ民族部族間対立・報復合戦。

シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルシブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。この東西の2部族の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来るほど根深いものだった。

15世紀頃から交易や和人(大和民族)あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には、河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合し、和人から惣大将・惣乙名と呼ばれる有力首長が現れていた。シャクシャインや、『津軽一統志』に現れるイシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛やシリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。

アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などを北方産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易していた。

しかし17世紀以降、幕藩体制が成立すると幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人との自由な交易が阻害されることとなった。

幕府権力を背景にした松前藩では17世紀後半には対アイヌ交易は松前城下などでの交易から商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩が蝦夷地各地に知行主(松前藩主や藩主一族及び上級藩士など)と彼らの知行地である商場を設定して知行主には直接商場に出向き、そこに居住するアイヌ民族との交易権を与える交易体制であった。

メナシクルの首長であるカモクタインシュムクルの首長でありハエ(後の日高国沙流郡、現在の日高町門別地区)に拠点を持つオニビシもまた惣大将である。シャクシャインはメナシクルの副首長であったが、カモクタインが1653年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。

惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し1655年に両集団は一旦講和する。この際シュムクルと松前藩は接近しシュムクルは親松前藩的な立場となる。

1667年オニビシの甥がシャクシャインの同盟関係にあるウラカワで鶴を獲り、シャクシャインによって殺されたのを機に再燃。1668年5月31日(寛文9年4月21日)仲裁するといって中に入った金堀り・文四郎の館にやって来たオニビシをシャクシャインらが数十人で襲い殺害した。

武器供与要請・誤報・蜂起。

シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは松前藩庁に使者を遣わし、報復のため武器の提供を希望した(調停を求めた)が、対立の深化を望まない藩側に拒否された。その帰路に、使者の一人でサル(現日高振興局沙流郡)の首長でオニビシの姉婿であったウタフが疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせが、「松前藩による毒殺」と流布された。

この誤報によりアイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を一層強めた。これによって、シャクシャインは敵対していたシュムクルを筆頭に蝦夷地各地の各アイヌ部族へ松前藩への蜂起を呼びかけた。

1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。

突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された(大半が老人婦女子の非戦闘員で士卒は5名であった。犠牲者の総数は355人に上る)。

松前藩の反撃とその後。

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。

シャクシャインは弓矢主体で鉄砲27丁を所有していたのに対し、松前藩は鉄砲16丁であったので、津軽・南部藩などから鉄砲を借り受け、計70丁で応じた。戦闘は8月上旬頃まで続いたが、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となった。

このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えた。9月5日には松前泰広が松前に到着、同月16日にクンヌイの部隊と合流し28日には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。さらに松前泰広は松前藩関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、恭順させた。

アイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化が進んだ。部族意識が強く、長年の部族間対立や松前藩との関係に差があったために、中立を維持して蜂起側に参加しなかった集団も多かった。さらに敵対していたアイヌらは松前藩への味方を表明して、松前側として戦闘に加わった。

シブチャリ(静内)に退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、ツクナイ(償いの宝物など)の提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった。戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた和睦の申し出だった。

しかし和議の約束は偽りで、シャクシャインらは和睦に応じ11月16日、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが、和睦の酒宴に酔ったシャクシャインらは松前藩勢に囲まれ、謀殺された。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。指導者層を失った蜂起軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。

翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は1672年まで続いた。

しかし、より重要な戦乱の背景は松前藩の蝦夷交易体制の強化であった。松前藩はアイヌの松前城下、本州方面への渡航を抑え、交易の主導権を蝦夷地へ赴く日本人側に確保しようとしてきた。そのため、干鮭(からさけ)5束(100尾)=米2斗の交換比率が、米7~8升に下がるという状況を引き起こした。また松前藩の砂金取りが河川を荒らすことなどへの不満も前々から積もっており、不満は大きく広範であった。この戦いは、アイヌが日本人の主導権のもとに完全に屈服するかどうかという性格の戦いであった。

このシャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』)。これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。その一方でアイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われた。

また『津軽一統志』にみられる惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は商場知行制や場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなり、「下人狄千人程」をもつ石狩の惣大将ハウカセの「松前殿は松前殿、我等は石狩の大将」と言う発言に象徴される強い自立性をもつアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていった。

ヨイチなど地域によっては自分稼ぎと呼ばれるアイヌ民族主体の自主的な漁業も何とか維持されたが、松前藩による場所請負制の貫徹・大規模な漁場開発に伴う窮状の原因となった。松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。

シャクシャイン。(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、1606年(慶長11年)?~ 1669.11.16 (寛文9年.10.23)。

江戸前期の蝦夷地の5大勢力のひとつメナシクル(東の衆)の首長。シブチャリ(シベチャリ・静内)を本拠としてシブチャリ以南の日高地方及びそれ以東の集団であるするメナシクルの「惣大将」(惣乙名)カモクタインの「家老」であったが,承応2(1653)年シュムクル(西の衆)の「惣大将」オニビシによってカモクタインが殺されたため「惣大将」となる。

メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。

蝦夷地では寛永年間(1624~44)から商場知行制(松前藩が家臣に知行として特定地域のアイヌ民族との独占的交易権を与える制度)を推進したため,アイヌ民族の間では漁猟をめぐる対立が頻発した。

シャクシャインの属するメナシクルとシュムクルでも対立が強まり,慶安1(1648)年メナシクルの「惣大将」センタイン死去を契機にシブチャリ川を軸として戦いが開始された。

カモクタイン戦死直後松前藩が調停に入り,明暦1(1655)年松前城下で双方は和睦。このとき,オニビシ方は松前藩との結びつきを強めた。しかし松前藩が,寛文5(1665)年ごろより交易価格を大幅につりあげたため,6年以後本格的な対立となり,7年オニビシ方は首長を討たれ大敗した。

こののち,オニビシ方の後継者は松前藩に軍事的援助を求めたが一蹴され,帰途「疱瘡」で急死した。アイヌ民族にはこれが松前藩による毒殺と伝わった。シャクシャインは松前藩との戦いを決意し,アイヌ民族全体に参加を呼びかけた。松前藩による様々なしめつけが民族全体におよびはじめたからである。国縫をおとし松前へ攻め入る計画で,9年6月一斉に蜂起した。商船19隻を破壊,乗り合わせていた者273人(355人説もあり)を討ち取った。これに対抗し,松前藩では1000人余の兵力でシャクシャイン方に備える一方,事態を幕府に通報した。シャクシャイン自身は同年謀殺されるが,この戦いは,本州との直接交易再開を目的とするアイヌ民族と,対アイヌ民族交易体制確立をすすめる松前藩の戦いでもあった。

シャクシャインの戦い以後松前藩によるメナシクルの統制はより一層進み、それまで松前藩の力が及んでいなかった根室以東の地域も影響下に入った。1789年にはこのような北海道東端・国後島に居住するメナシクルがクナシリ・メナシの戦いを起こしたが、これも松前藩によって鎮圧された。

オニビシ(鬼菱? - 1668年(寛文8年)4月21日)。アイヌ部族のひとつハエクル(シュムクル)の首長・惣乙名。

諸史料によると、オニビシは「ハエ(波恵川流域)」を本拠地とする「ハエクル(ハイクルとも)」と呼ばれる集団の長であったと伝えられている。海保嶺夫は『津軽一統志』などの記述に基づいてオニビシが日高北部から胆振西部、現在の札幌市にまで及ぶ広大な領域を統べる大首長であったと論じているが、現在ではこの説に対する批判もある。

大井晴男は実際のオニビシの勢力圏はより限定された、新冠川を中心とする波恵川・慶能舞川・賀張川・厚別川流域(現新冠町・日高町)一帯であったと論じている。

オニビシを首長とするシュムクルはニイカップを中心として静内側上流域から西側に勢力を張っていた。オニビシはシコツの頭と見られているが、シコツは千歳、勇払、鵡川、沙流など幅広い範囲に渡っていたとされる。

ハエクル(を含むシュムンクル)は墓制・伝承などで他のアイヌ集団とは著しく異なる特徴を持っており、特に静内川の対岸を本拠地とするメナシクルとは漁猟圏を巡って対立していた。

寛永年間(1624-44)から松前藩が商場知行制を推進したことで、アイヌ民族たちは漁獲高や狩猟の獲物を増やすことを迫られた。オニビシは石狩湾と太平洋を結ぶ交通路を勢力下におさめたが、静内川流域の漁猟圏(イオル)を巡ってメナシクルの大将であるセンタインと争った。センタインは豪勇で知られ、センタインがオニビシ領に入って狩猟を行っても何も文句を言うことができなかったとされる。センタインがオニビシの領土に攻め込んだが守りは堅く、1648年(慶安元年)にセンタインは攻めあぐねるうちに亡くなり、カモクタインがメナシクルの大将を継いだ。

1653年(承応2年)、オニビシがカモクタインの配下にあったシャクシャインと酒を飲んだ際、シャクシャインがオニビシの部下を撲殺し、オニビシとカモクタインは戦争状態になった。この争いの中でオニビシは多くのアイヌを味方につけ、カモクタインを打ち殺して優勢となった。シャクシャインは劣勢であることから逃げ出すことを計画し、ツノウシという一族に戒められ仕方なくメナシクルの大将になった。

シャクシャインが討ち取られればその仇討ちにより内戦が続くことは必至で、この争いにより交易状況が悪化することを懸念した松前藩は両者に使者を送って和解を試みたが、失敗に終わった。とうとう松前高広は家臣である佐藤権左衛門・下国内記を派遣して両者を説得し、米・酒・器具・宝物などを与えてオニビシとシャクシャインを福山城下に招いて調停し、両者の争いは一時的におさまった。このときシュムクルと松前藩に同盟関係が生まれたとされる。

しかし、1665年(寛文5年) 松前藩が交易価格をつり上げたため、優位であったオニビシ側がシャクシャイン側のシカ狩りを妨害したり、シャクシャインのイオルであった静内川でサケ漁を行ったりしたので1666年(寛文6年)オニビシとシャクシャインの間の争いが再燃した。

1667年(寛文7年)、オニビシ一味のツカコホシという者の甥が浦河に鶴を捕まえにきた際、オニビシの横暴な態度に不満が溜まっていたシャクシャイン一味は鶴を捕まえることを許さず、結局宴会の席でシャクシャインの息子カンリリカがツカコホシの甥を打ち殺してしまう。

オニビシは300品の償いものをシャクシャインに求めるが、シャクシャインはカンリリカが不在であるためそれまで待てと言っていつまでも償いものを出そうとしなかった。そこでオニビシは11月ごろになって、手下90人余りを連れてシャクシャインの居宅に向かったが、シベチャリ(静内)にいた砂金掘りの文四郎という和人に仲裁を説得され、11品の償いものを受け取って帰った。

この後、オニビシは現在の新ひだか町静内目名にメナチャシを築いた。文四郎は事の次第を松前藩に報告し、翌年2月に松前藩も円満な解決を望んでいることを伝えた。

4月21日、子供とともに砂金掘りの文四郎宅へ立ち寄ったところ、静内川を渡ってきたシャクシャインの軍勢に屋敷を取り囲まれ、殺害された。彼の死後、シュムクルは勢力を失っていき、アイヌ民族は松前藩と対立することになる。

メナシクル(メナスンクル、メナシウンクル、アイヌ語: menas-un-kur)とは、静内以東の太平洋沿岸地域などに居住するアイヌ民族集団の名称。「シャクシャインの戦い」でシャクシャインが率いていた集団が「メナシクル」とされるが、その指す示す範囲については諸説ある。

メナシの原義は「[東または南から吹く]強風」や「時化を呼ぶ風」などで、太平洋沿岸地域のアイヌが河川を境として「東風の吹いてくる方角」を「メナシ」、その対岸を「スム」と呼んだ事から転じて、「メナシ」は「東」を意味するようになった。

「イシカリ(石狩)」や「ソウヤ(宗谷)」といった地名と違い、河より東をメナシ、西をスムと呼ぶのは道東で広く見られることで、「メナシ」は本来的には広範囲(道東一帯)を指す地名ではなかった。アイヌが「メナシ」という地域名を用いるようになったのは、和人による地域区分を逆輸入したためではないかとする説もある。

「メナシクル」の範囲について、『津軽一統志』は以下のように記す。

しふちゃり(静内)より奥狄罷有候所の覚:一、もんへつ(現捫別川流域[4])。一、ほろいつみ(幌泉)。一、とかち(十勝)。一、しらぬか(白糠)。一、くすり(釧路)。一、あっけし(厚岸)。右所々狄共メナクシクルの内にて、銘々居所を構、頭分に罷成有之由、此狄の分シャクシャインと一味仕、浦々へ着船の商人共を殺し申候由に御座候……

この記述から、シャクシャインの時代には日高の静内から釧路・厚岸に至るまでの広大な一帯が「メナシクル」の範囲であったと考えられている。この「メナシクル」が一人の惣乙名(シャクシャイン)によって治められる政治的集合体であったとする説もあるが、近年ではシャクシャインの勢力はより限定されたものであったとする説もあり、大井晴男は実際のシャクシャインの勢力圏は静内川・捫別川流域一帯に限られていたと想定する。

また、シャクシャインの戦いから約百年後、蝦夷通辞の上原熊次郎もメナシクルの分布について記述している。

扠又、当所(静内)よりポロイヅミ辺までの蝦夷をまとめてメナシウンクルといふ。則、東のものといふ事。ニイガプよりシラヲイ辺までの蝦夷をシュムンクルといふ。則、西のものといふ事。……ビロウ(広尾)より子モロ(根室)領辺迄の蝦夷をシメナシュンクルといふ。則、奥東のものといふ事……

— 上原熊次郎『蝦夷地名考并里程記』

この記述によると、シャクシャイン時代のメナシクルは日高南部に居住する集団と十勝〜根室一帯に居住する集団に分かれており、前者を「メナシウンクル」、後者を「シメナシュンクル」と呼んでいたという。ここで言う「シメナシュンクル」の領域は和人が言う所の「道東」とほぼ一致する。

アイヌの墓標を調査した河野広道によると、当時静内以東の日高南部から釧路・網走にかけての一帯にメナシクル型の墓標が分布していた。男性の墓標はほとんどがY字型の股木であるが、女性の墓標は地域によって二分される。十勝では上の方にくびれのある太い木となっており旭川のものに近い形状であるのに対し、日高や釧路・網走では丁字型の木であり、内浦湾沿岸や石狩湾周辺のものに近い形状である。

また、考古学的には「メナシクル」の領域にのみ「砦」としての性格を持つチャシが発見されている。これはメナシクルが日高山脈以西より遅れてアイヌ文化を受容した集団を母体としており、後に「アイヌ化」する過程で交易を巡って抗争が起こったためとする説がある。

史料上に始めて「メナシ」という単語が登場するのは17世紀初頭のことで、1618年のアンジェリスの報告には以下のようにある。

毎年東部の方にあるメナシの国から松前へ百艘の舟が、乾燥した鮭とエスパーニャのアレンカに当たるニシンという魚を積んできます。多量の貂の皮をも持って来ますが、彼等はそれを猟虎皮といい、我が[ヨーロッパの]貂に似ています……— アンジェリス『第一蝦夷報告』

また、『新羅之記録』には1615年に「東隅」のニシケラアイヌが松前にやってきたことが記録されているが、この「東隅」は「メナシ」を意訳したものではないかと見られている。盛岡藩の『雑書』には、1644年にメナシ(原文では「目無」ないしは「妻無」と表記)のアイヌが交易のため田名部に来たことが記録されている。寛文2年(1662年)に刊行された『新改日本国大絵図』(扶桑国之図)では、「ゑぞのちしま」の地名として「めなしふろ」(原文ママ)が記載されており、メナシクルのこととされる。1654年頃の刊行とされる『日本国之図』にも、同様に「めなしふろ」の記載が見える。

シュムクル(スムンクル、アイヌ語: sum-un-kur)とは、胆振から日高北部にかけての太平洋沿岸地域に居住するアイヌ民族集団の名称。17世紀には東で接するメナシクルと抗争を繰り広げたことで知られるが、その指し示す範囲については諸説ある。

その本拠地(沙流郡波恵村)から、ハエクル(ハイクル,アイヌ語: hay-kur)、サルンクル(アイヌ語: sar-un-kur)という名称でも知られる。

アイヌ語で「西の人」の意である。「スム[・レラ]」は本来「西風」を意味する単語で、太平洋岸のアイヌが河川を境として西風が吹いてくる方角(=西)を「スム(シュム)」と呼んだことから、転じて「西」を意味する名詞となった。

「スム(シュム)」という言葉は日高東部や道東一帯の地名において多く用いられており、本来は広域を指す名称ではなかった。シャクシャインの戦いの頃は首長オニビシに率いられた「ハエクル(ハイクル)」という集団がおり、これが後のシュムクルに繋がる集団であると見られる。

松前矩広による『正徳五年松前志摩守差出候書付』(1715年)では、アイヌの集団の一つとして「シモクル」をあげ、アイヌ語で「西衆」を意味するとしている。蝦夷通辞の上原熊次郎は、著書『蝦夷地名考并里程記』における「シビチヤリ」の項において、「ニイガプよりシラヲイ辺まての蝦夷をシユムンクルといふ」としており、名称について「西のもの」という意味であるとしている。この記述によると、新冠から白老周辺にかけての太平洋沿岸地域がシュムクルの居住範囲ということになる。

10世紀以後、北海道太平洋沿岸地域にはカムチャッカ半島・千島列島に繋がる「太平洋交易集団」が成立しており、和人からは「東の方角の者」の意で「日の本」と呼称された。この「太平洋交易集団」の一部がシュムクルの先祖になったと見られる。

シュムクルは「祖先は本州から移住してきた」という他のどのアイヌも持たない独自の始祖伝承を有しており、本州から移住してきた奥羽アイヌを核として成立した集団ではないかと考えられている。

近現代北海道においてアイヌ民族の人口密集率が高いのは胆振・日高地方であるが、これはシュムクルがメナシクル・石狩アイヌなどと比べ松前藩に友好的であったためではないか、とする説がある。

真歌公園内初代シャクシャイン像(現在ブロンズ像に再生して新ひだか町花園地区に設置された)

1970年9月15日、シャクシャインのチャシが遺跡として残る新ひだか町・真歌公園に、任意団体「シャクシャイン顕彰会」によって強化プラスチック製の立像が有志の寄付により建立され、1976年に静内町に寄贈された。

この初代シャクシャイン像は彫刻家竹中敏洋がデザインしたもので、像は高さ3.5m、杖の先までの長さは4.2m。「風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エキㇺネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現したもので、一部に言われている松前藩の方向へ怒りを表した姿ではないことが、1972年9月30日に発行された児童書「明日に向かって アイヌの人びとは訴える」によって記されている。毎年9月には、新ひだかアイヌ協会が像の前で全道からアイヌを集めた法要祭を行っている。

1972年9月20日、結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事(当時)の名を削り取る事件があった。犯行に新左翼の太田竜が加わっていたことから、警察は札幌オリンピックを控えた時期を狙った過激派による事件とし、全国指名手配の末1974年に結城らを逮捕した。しかしこの事件で有罪となったのは太田のみで、結城や足立正生・新谷行など他の4人は起訴猶予処分となった。

その後老朽化により2代目(後述)の建造計画が発表されると、シャクシャイン顕彰会が設立時に込められたアイヌと和人の寄付だけで設立された日本初の和合の証である歴史に重きを置き、子どもたちの未来に向けられた像の解体に反発、新ひだか町は新像完成後に旧像撤去を行う方針だったものの顕彰会の申し出を受けて保留し、2018年7月に町・アイヌ協会・顕彰会による3者会談を行ったが、協議は平行線をたどり一旦旧像を残したまま新像も立てる方針とするも、結局、9月20日に新ひだか町は「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」として旧像を一方的に撤去した。

さらに、2021年11月には、残された初代ユカルの塔や初代シャクシャイン像の台座(全道からアイヌの仲間が大切に持ち寄った黒曜石や、子どもたちが川から拾った石が埋め込まれていた)やシャクシャイン顕正会の解説が刻み込まれた石碑などすべてが撤去され更地となった。

2018年10月にはシャクシャイン顕彰会が町による旧像の撤去を「対応が乱暴で納得いかない」として、旧像の型枠を用いた独自の再建計画を検討し、約1700万円の寄付を集めた上でブロンズを用い旧像を再建し2020年10月にお披露目され新ひだか町内の倉庫で保管されていた。2022年春、真歌山の砦があった場所から新ひだか町の街並みを挟んで対面にあるコタンがあったとされる花園地区に、ブロンズに再生されたシャクシャイン像が設置された。

2代シャクシャイン像。2015年、新ひだかアイヌ協会が老朽化を理由に、協会をNPO法人化し寄付を募る形で像の建て替えを決定した。政府のアイヌ新法検討を踏まえ穏やかな表情のデザインによる新像(原型作者、田畑功)の発注を行い、手のひらを上にしてオンカミ(拝礼)をする姿をかたどった高さ約4メートルの燐青銅で、2018年9月23日の法要祭で披露された。この像については、「シャクシャインの戦い」という歴史を捏造するものという指摘もある。

 

英傑シャクシャインの旧像復刻 法要祭でお披露目 新ひだか

2020/10/19 北海道新聞 

2018年に新ひだか町が老朽化を理由に同町の真歌公園から撤去したアイヌ民族の英傑シャクシャインの旧像が、地元のアイヌ民族団体によって復刻され、10月18日、同公園で開かれたシャクシャイン法要祭でお披露目された。1970年に同公園に建てられた旧像は勇ましくつえをかざす姿が小中学校の教科書にも載った。町は18年9月、平和を願う姿の新像を同公園に設置し、旧像を「倒壊の危険が高い」と撤去した。復刻委員会が現存する旧像の型枠を鋳造会社に送って制作を依頼。今月完成した。今後新たな設置場所を町と協議する。

アイヌ英雄像差し替えが暗示する政府の“だまし撃ち”

2018年11月21日 週刊金曜日 (平田剛士・フリーランス記者、2018年11月9日号)

真歌公園のシャクシャイン像 (右:旧像=2015年4月13日、左:新像=2018年10月28日。共に撮影/平田剛士)

掲げた2枚はどちらも同じ人物をモチーフにした立像の写真だ。撮影場所も同じ、北海道新ひだか町静内の真歌公園である。

モデルは、1669年、台頭する和人勢力(松前藩)に対するレジスタンス戦争を指導し、非業の死を遂げたアイヌの英雄シャクシャイン(生年不詳)。

右の像が長い杖を空の彼方に差し伸ばしてエネルギッシュなのに対し、胸の前のたなごころに視線を落とした左の像はずいぶん内省的に映る。同一人物をかたどったにしては、見る者の受ける印象は正反対と言っていい。

右は地元のアイヌ有志団体「シャクシャイン顕彰会」によって1970年に建立された。その老朽化が激しいとして、NPO法人新ひだかアイヌ協会が監修・制作し、この9月に披露したばかりの新像が左の像だ。旧像は「胆振東部地震で倒壊の危険性が高まった」との理由で町役場(像の所有権者)によってすでに撤去された。

もの言わぬ立像とはいえ、この「シャクシャインの印象の差し替え」は、最近の日本政府と先住民族アイヌとの関係の変化を示唆しているように思える。ただしそれは、先住民族の権利回復に取り組む世界潮流とは真逆の変化だ。

像が立つ真歌公園は、かつてシャクシャインがチャシ(軍事拠点)を構えた戦跡だ。88年8月、北海道ウタリ協会(現在は北海道アイヌ協会)は、民族議席確保・自立化基金創設などを盛り込んだ「アイヌ新法」制定を政府や各党に求めるにあたって、この公園で大規模な決起集会を開いた。また2001年夏、現職大臣や代議士が「アイヌ民族は今はまったく同化された」などとヘイト発言を繰り返した時、各地から大勢のアイヌがこの公園に集まって抗議のシュプレヒコールを繰り返した。

歴史家の田端宏・北海道教育大学名誉教授は、北海道史研究協議会編『北海道史事典』(16年、北海道出版企画センター)の「シャクシャインの戦い」の項で、〈自律性を賭しての戦いはアイヌ民族の歴史のなかで非常に重要な意味がある。現代アイヌ民族の人びとの民族意識に強く関わるからである〉と解説している。

アイヌが政府に要求や抗議をする場としてシャクシャインのチャシ跡が選ばれてきたのは、これが理由だ。そこには、いつも旧像が屹立していた。

【「だまし討ち」の歴史、再び?】

ところが9月23日、アイヌ政策を担当する内閣府官僚らを招待して開かれた新像除幕のセレモニーは、明らかに様相が違った。加藤忠・北海道アイヌ協会理事長は「こんにち、以前には考えられないほどアイヌ政策を進めていただいている」と挨拶した。また、新ひだかアイヌ協会の大川勝会長は「(像は)戦いを呼びかけるのではなく平和と共生を祈る姿に変わった。これからはこの像がアイヌ民族の象徴になる」と語った。

政府はほくそ笑むだろう。だがアイヌ政策が進んでいるというのは本当か? 政府は20年開業を目指し国立アイヌ民族博物館建設などを進めてはいるが、土地や自然資源に関わる権利など、「先住民族の権利に関する国連宣言」(07年採択)が列挙する主要な権利の回復には冷淡なままだ。8月には、国連の監視機関から日本政府に新たな改善勧告が届いた。

さて、はじめ優勢だったシャクシャイン軍に対し、江戸幕府は鉄砲隊を投入して鎮圧にかかる。敗色濃厚となったシャクシャインは、松前藩が提示した「償い品を出せば命は助ける」という条件を受け入れ、敵陣内で講和の約束を交わすのだが、同夜の酒宴で酔い潰され、藩の暗殺隊に殺されてしまう。だまし討ちだ。

暗殺日直近の週末だった10月28日、旧像が取り壊され台座のみが残る真歌公園で、最後まで旧像存続を訴えていた顕彰会会員たちがイチャルパ(慰霊の儀式)を執りおこなった。参加者の一人はこう語った。「350年前と同じことが今またアイヌに対して繰り返されているのではないか」。

新ひだか町発・新しい「アイヌの英傑像」に噴き出す批判

新シャクシャイン像は民族分断のシンボルか

2019年11月号 北方ジャーナル

 

浮上した「町とアイヌ協会の二人三脚」

かつてのアイヌ民族の英傑、シャクシャインを顕彰した像を昨秋、所有者である新ひだか町(大野克之町長)が解体撤去し、新ひだかアイヌ協会(大川勝会長)が新しい像を建立した問題が地元でくすぶっている。かつて全道のアイヌ関係者の総意の下で建てられたシャクシャイン像は、なぜ葬られることになったのか。見えてきたのは町役場とアイヌ協会による「二人三脚」の構図だ。マスメディアが触れないこの問題の深層とは──。(本誌編集長・工藤年泰)

失われたアイヌの総意 

 江戸時代の1669年6月、不平等交易で困窮していた当時のアイヌたち約2千人を率いて松前藩と戦ったとされるシャクシャイン──。

 そのアイヌの英傑を偲ぶ法要祭(実行委主催)が9月23日の祝日、新ひだか町の真歌公園で行なわれた。あいにく当日は台風の影響でしだいに雨脚が強くなり、屋外で予定されていた多くの行事が中止を余儀なくされた。

 ここで毎年法要祭が行なわれていることには理由がある。付近にシャクシャインの最後の砦(シベチャリチャシ)があったことを踏まえ、「英傑シャクシャイン像」が建てられているからだ。

 だが、これまで長く親しまれてきたかつての姿を見ることはできない。昨年9月20日、法要祭の直前に「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」とする町によって解体撤去されるという末路を辿ったからだ。

新ひだか町発・新しい「アイヌの英傑像」に噴き出す批判【その2】

シャクシャイン像の喪失を生んだ行政の怠慢と責任

2019年12月号 北方ジャーナル

安易にアイヌ協会に傾斜した町役場

かつてのアイヌ民族の英傑、シャクシャインを顕彰した像を昨秋、新ひだか町(大野克之町長)が解体撤去し、新ひだかアイヌ協会(大川勝会長)が新しい像を建立した問題の続報だ。本誌報道後、日刊紙の地方版に「町内のアイヌ民族団体の間でぎくしゃくが続いている」という内容の記事が掲載された。だが問題の根底に見えてきたのは像の所有者である同町の大きな責任、そしてアイヌ協会への安易な傾斜だ。取材に役場とアイヌ協会は、どう答えたのか──。(本誌編集長・工藤年泰) 

無為に過ぎた半世紀 

 10月30日午前、新ひだか町役場で取材に応じたのは、米田和哉住民福祉部長、同部福祉課の渡辺浩之課長、建設部建設課(都市計画・公園グループ)の木村辰也参事の3名である。

 最初に記者は、旧シャクシャイン像が建立され町に寄贈された当時の経緯、像が有していた芸術作品としての価値やアイヌの英傑を顕彰する特別な意味、さらには観光名所として寄与してきた事実などを指摘したが、これらは「その通りで異論はない」との回答だった。

 先月号で既報のように強化プラスチック製の旧像は彫刻家の竹中敏洋氏(故人)がデザインし、昭和45年に任意団体シャクシャイン顕彰会(※当時は神谷与一会長・故人)が建立。維持や管理の問題などから同51年に当時の静内町に寄贈されている。

 だが、このシャクシャイン像は昨年に取り壊されるまで修復の手が加わることは一度もなかった。

 途中で傷みがひどくなったのを見かねた先述のシャクシャイン顕彰会(現在は土肥伸治会長、以下顕彰会)の有志たちが平成22年1月末、町役場を訪れ復元などを提案したが、その願いが届くことはなかった。

顕彰会の陳情から8年後の平成30年9月20日、「倒壊の恐れがある」という理由で町が解体撤去するに至っている。「取り壊して撤去するぐらいなら、台座から切り離してこちらに渡してほしいと頼んだのですが、町の答えはノーでした」(土肥会長)

 重機によってバラバラにされた旧像は産廃扱いで最終処分場に送られた。この解体撤去作業が行なわれたのは、NPO法人新ひだかアイヌ協会(大川勝会長)が執り行なったシャクシャイン法要祭の3日前のことである。

 旧像が姿を消した真歌公園で同協会の関係者がカムイノミ(神への祈り)などを捧げた先には、自分たちが建立したばかりの新しいシャクシャイン像があったというわけだ。

 まず疑問なのは、新ひだか町としての町有財産に関する姿勢だ。ほかならぬ町自身が「地域に寄与してきた」と認める旧像を約半世紀近くにわたって朽ちるに任せてきたのはなぜなのか。

新ひだか町発・新しい「アイヌの英傑像」に噴き出す批判【その3】

彼らは新しい像でアイヌの英傑を汚し民族を分断した

2020年1月号 北方ジャーナル

シャクシャイン顕彰会の土肥伸治会長に訊く

かつてのアイヌ民族の英傑、シャクシャインを顕彰した像を2018年の秋、新ひだか町(大野克之町長)が解体撤去し、NPO法人新ひだかアイヌ協会(大川勝会長)が新しい像を建立した問題の続報だ。先月号では役場や同協会関係者への取材を通し、長年にわたって主体性を欠いた町の動きが関係者の軋轢を深めたことを主にレポートした。だが、役場や同協会側の釈明にシャクシャイン顕彰会の土肥伸治会長は黙っていない。11月下旬、記者は本人を直撃しインタビューを試みた。問題の本質は果たしてどこにあったのか──。

(本誌編集長・工藤年泰) 

町は当事者として話を進めようとしなかった 

 ──先月号で報じた通り、町は50年もの間、町有財産でまちの名所でもあった旧シャクシャイン像を一度も修復や復元することなく、結果的に自らの手で葬り去りました。修復や復元できなかった理由として、町は制作者で著作権を持っていた彫刻家の竹中敏洋氏(故人)との関係がネックだったと釈明しています。曰く「傷んでいるのは分かっていたが、勝手にいじることはできないし、ブロンズ像にしたいという要望にも予算の関係で応えられなかった」と。 

 土肥 まず言いたいのは、あの像は「町が管理して後世に引き継ぐ」という約束の中で昭和51年に寄贈されているということ。そのような条件付きの寄贈であり町有財産だったことを自覚していない物言いに非常に憤りを感じます。

 それに自分たちの手ではどうしようもなかったのなら、こちらに返せばよかった。像の所有権を顕彰会に戻してもらえば正直いくらでも手立てはありました。ブロンズ像にすることを竹中さんが求めていたのは事実ですが、彼が値段を釣り上げたような説明も事実と違う。5千万円というのは最初に出てきた数字で、最終的には2千5百万円程度になったと記憶しています。 

 ──著作権の問題については。 

 土肥 竹中敏洋さんが亡くなってから著作権を引き継いだ子息の博彦さんと一緒に役場へ行ったことがあります。あれは平成28年11月のことでした。博彦さんは、著作権を500万円で町に譲りたいと申し出られたんですが、ここでも結果的に役場の回答は得られませんでした。

 要は、あの像の修復、あるいはブロンズ像にするしないについても、町は当事者として全く話を進めようとしなかったということです。

 本当に像の状態や今後に危機感を持っていたというのなら、なぜ私たち顕彰会に相談に来なかったのか。あれは顕彰会が竹中さんに依頼して建てたものであり、私たちと竹中さんとは密接な間柄。協議すれば解決する方法はあったはずです。

 繰り返しますが、自分たちでどうしようもできないのならこちら側に所有権を戻してもらえばいいだけのこと。それもせずに「危険だから壊しました」と。こんな馬鹿な話がありますか。 

 ──顕彰会では旧像の修復・復元について平成22年に陳情を行なっていますが、この案件がいつの間にか新ひだかアイヌ協会の新像建立事業にすり替わっていった。

 

博物館見学後、国道を戻って、道の駅「サラブレッドロード新冠」へ向かった。

北海道 新ひだか町博物館①日高の縄文文化 静内中野式土器 静内御殿山式土器



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