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山本 謙三、藤巻 健史①「異次元緩和」これからどんなツケを払うことになるのか

2024年10月07日 14時10分19秒 | 社会

私たちはこれからどんなツケを払うことになるのか…なんと11年に及んだ「異次元緩和」がもたらしたもの

Yahoo news  2024/10/7(月)   現代ビジネス 山本 謙三、藤巻 健史

 

(撮影:森清)

元モルガン銀行・日本代表兼東京支店長で伝説のトレーダーと呼ばれる藤巻健史氏が心酔するのが元日銀理事の山本謙三氏だ。同氏は、「異次元緩和」は激烈な副作用がある金融政策で、その「出口」には途方もない困難と痛みが待ち受けていると警鐘を鳴らす。

2024年9月17日講談社現代新書より山本氏初の本格的著作となる『異次元緩和の罪と罰』が刊行された。これを記念して、著者である山本氏と藤巻氏が、異次元緩和の功罪を検証する対談を行った。

現代ビジネスでは、その対談の内容を3本の動画に分割して公開する。第1回目は、「史上最大の経済実験と呼ばれる異次元緩和は本当に成功したのか?」について議論する。

以下、対談の要旨を掲載する。

 

37年にわたる付き合い

藤巻:私は、普段は全く人の本を読まないのですが、さすがに今回は、尊敬する山本さんが書いた本だということで、全部きっちり読ませていただきました。重要なところはマーカーで線を引いて精読しました、いや、本当に素晴らしい作品です。

 

藤巻健史(ふじまきたけし)氏。1950年、東京生まれ。一橋大学商学部を卒業後、三井信託銀行に入行。80年、行費留学にてMBAを取得(米ノースウエスタン大学大学院・ケロッグスクール)。帰国後、三井信託銀行ロンドン支店勤務を経て、85年、米モルガン銀行(現・JPモルガン・チェース銀行)に入行。東京屈指のディーラーとしての実績を買われ、当時としては東京市場唯一の外銀日本人支店長兼在日代表に抜擢される。同行会長からは「伝説のディーラー」と称された。

2000年、モルガン銀行を退行後、世界的投資家ジョージ・ソロス氏のアドバイザーなどを務めた。1999年より2012年まで一橋大学経済学部で、02年より09年まで早稲田大学大学院商学研究科で非常勤講師を務める。2020年に旭日中綬章を受章。日本金融学会所属。現在、参議院議員。(株)フジマキ・ジャパン代表取締役。東洋学園大学理事。

 

はじめて、私が山本さんにお会いしたのは、1987年のことです。当時、私はモルガン銀行日本支店の責任者(日本代表)で、山本さんは日銀の外銀担当の係長でした。以来、37年にわたってお付き合いいただき、金融政策について議論を重ねてきました。

私は金融マーケットのスペシャリストとして、黎明期から活躍し、生き残ってきた最古参のトレーダーです。これまで、金融市場の中心人物といわれるプレイヤーだけでなく、日銀や金融庁などの監督サイドの要人にも多数お目にかかりましたが、山本さんほど素晴らしい知識があって、実務経験のある方はいませんでした。私は金融の知識や経験については、人に負けない自信があるのですが、それでもやっぱりわからないことが出てきます。そんな時はいつも山本さんに助言を求めてきました。どうして、そんな優れた人が、今まで本を書かれなかったのかなという思いさえあります。そういう意味でも、山本さんの初の著作にして大変な力作である『異次元緩和の罪と罰』は、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思っています。

 

山本:面映ゆいほどのお言葉ありがとうございます。1987年に最初におめにかかったとき、すでに藤巻さんは名うてディーラーでした。最初にお目にかかったときは、マーケットを非常に大事にされる方という印象を持ちました。「金融機関の資産の評価は、簿価評価ではなく、常に時価評価でなければいけない」「金利の自由化を急ぐべきである」など、私は藤巻さんから教えていただいたことを大変参考にして、金利の自由化などを進めてきました。

 

山本謙三(やまもと けんぞう)氏 1954年 福岡県生まれ。76年日本銀行入行。98年、企画局企画課長として日銀法改正後初の金融政策決定会合の運営に当たる。金融市場局長、米州統括役、決済機構局長、金融機構局長を経て、2008年、理事。金融機構局、決済機構局の担当として、リーマンショックや東日本大震災後の金融・決済システムの安定に尽力。2012年NTTデータ経営研究所取締役会長。2018年からはオフィス金融経済イニシアティブ代表として、講演や寄稿を中心に活動している。

 

史上最大級の経済実験

写真:現代ビジネス

--あしかけ11年にわたって行われた「異次元緩和」ですが、一般の理解は十分ではありません。史上最大級の経済実験とも呼ばれる「異次元緩和」とはどのようなものだったのでしょうか?

 

山本:日銀が2013年の4月から開始した金融政策を異次元緩和と呼びます。いわゆるリフレ派の主張を強く色濃く反映した金融政策で、私なりに要約しますと、その考え方の柱は大きく分けて3つあります。

第1は、日本経済の停滞の原因は、デフレすなわち持続的な物価の下落にあるという現状認識です。第2の柱は、日銀の責務は、その物価を押し上げることつまり物価目標を達成することにあるという信念です。第3は、物価を押し上げるには、市場に資金を大量に供給して、同時に「物価目標を必ず達成する」と国民に約束するというアプローチです。こうした考え方に基づいて、黒田東彦前日銀総裁は以下のような目標を掲げました。

「〈資金の供給量を約2倍に増やすことによって物価目標を2年程度で必ず達成する〉と日銀が約束すれば、国民がこれを信じて、人々のインフレ心理が高まり、実際の物価も上がる」。異次元緩和は、このように極めてシンプルなシナリオに基づいて行われた政策でした。

ただし、このシナリオは、過去に実証されたことがないもので、それゆえ実験的な金融政策と呼ばれました。

 

--実験的な金融政策、異次元緩和の評価については、専門家の間でも意見が大きく異なります。いわゆるリフレ派は「異次元緩和」の効果を高く評価して、長く低迷してきた日本経済を復活させたように言っていますが、山本さんはどう評価されますか、異次元緩和は本当に成功したのでしょうか?

 

山本:もともと2年程度での期限で、目標の達成を目指すという政策が、(目標を達成できずに)11年間も続けられてきたわけですから、その一事を持ってしても、この政策が成功ではなかったことは明らかです。黒田日銀総裁は前任の白川総裁までの金融政策を「小出しである」「戦力の逐次投入である」と批判し、異次元緩和では「必要な政策を全て講じた」とまで言い切りました。

にもかかわらず、最初の9年間は、出だしこそ良かったものの、物価はなかなか上がらず、自ら否定していた政策の逐次投入を行うことになりました。ただし、小出しではなく、黒田バズーカと呼ばれた、市場にサプライズを与えるような大がかりな政策を次々に投入しました。こうした経緯を踏まえても、黒田日銀が根拠とした「日本経済の停滞の原因は、デフレすなわち持続的な物価の下落にある」という見立てが、見当違いだったように思えます。

 

私は、日本経済の抱える問題は、金融緩和の不足にあったのではなくて、生産性の低下によるものであったと理解しています。異次元緩和は、市場への介入を強めた結果、金利や為替市場の機能を著しく低下させ、日本経済の新陳代謝を著しく阻害したと考えています。

 

藤巻:山本さんのおっしゃったことはまさにその通りですが、私は異次元緩和には、財政危機を先送りする隠された意図があったと考えています。ちょっと過激な見立てなので、日銀OBの山本さんは否定されるかもしれませんが…。

 

物価上昇にこだわる理由

写真:現代ビジネス

 

--山本さんは、『異次元緩和の罪と罰』のなかで、「物価目標2%」への日銀の尋常ならざるこだわりが、期間限定だった金融緩和をずるずると11年続けることにつながり、もはや後戻りできない困難な事態を招いたと分析しています。なぜ、日銀は物価を上げることにそれほどまでにこだわったのでしょうか

 

山本:物価目標自体は1980年代の後半から各国の中央銀行が採用するようになっています。ただし、その多くは、インフレによって物価の高騰が続いた国が、物価を抑える目標として定めたものでした。日本の場合、これらの国とは違って、物価が上がらないデフレ的な状況が長く続いたため、物価を上げる目標として2%を設定しました。背景には、中央銀行として説明責任を果たしたほうがよいという考えがありました。

ただし、物価目標2%の捉え方は各国中銀でまちまちで、日銀のように物価目標2%を絶対視している中央銀行はなく、もっと柔軟な政策運営を行っています。

 

一方、異次元緩和では、物価目標2%を絶対視した結果、超緩和的な金融政策を達成目標の2年を超えて11年も続けることになりました。

先ほど申し上げましたように、もともと、この政策のベースになっているのは、「物価目標2%が必ず達成される」と国民に信じ込ませることに重点があったために、「絶対に2%は譲らない」という強い姿勢を示したかったのだと思います。

ただ、もともと2%という数字に絶対的な何か根拠があるわけではありません。アメリカでさえ、FRB(連邦準備制度理事会)が重視している物価指標(コアPCEデフレーター前年比)の実績は、高インフレが収束した1990年代半ば以降、ほとんどの期間で1%台でした。1%を超えたのは、直近のインフレを除くと、2005年から2007年の3年間だけです。しかもこの3年間は、平均するとわずか年率2.3%にすぎず、目安となる2%をわずかに超えただけです。にもかかわらず、この物価上昇は、住宅バブルを発生させました。そして、その後に起きた住宅バブルの崩壊はリーマンショックに繋がっていき、世界的な金融システムの不安と景気の後退へと連鎖していきます。やはり、振り返ってみると、2%という目標を絶対視するという政策はリスクが大きい政策だったように思います。

 

藤巻:2%を絶対視するなという主張については同感ですね。山本さんと少し違うのは、黒田日銀の異次元緩和には財政危機を先送りしたいという(隠れた)意図があるがゆえに、2%という物価目標に執着したのではないかと思っています。現状の物価は、2%を超えているにもかかわらず、「出口」がないから、安定的な物価目標2%を達成していないという理由で金融緩和を継続しているような気がします。

それともう一つ、これも昔から山本さんと同じ意見だったのですが、単に消費者物価指数だけではなく、資産価格も景気に大きな影響を与えます。特に顕著だったのが1985年から90年の資産バブルです。

 

表を見ていただくとわかりますが、バブル時代は、消費者物価指数は、1985年こそ2.0%でしたが、86年は0.8%、87年は0.3%、88年は0.4%しかありません。いまの2%よりもはるかに物価は低かったにもかかわらず、日本は狂乱経済と言われるほどに景気がよくなりました。84年に1万1542円だった日経平均は、89年には3万8915円と3.4倍近くに高騰し、地価も急騰しました。資産価格が暴騰したがゆえに景気が良くなりすぎて、バブルが起きたわけです。こうした動きを見ていると、また同じ間違いをするじゃないかと不安になってきます。

バブル時代は、円高がものすごい勢いで進んだこともあり、物価は上昇しませんでしたが、当時とは逆に現在は急激な円安が進んでいるので、資産効果によるインフレが起きる可能性もあります。

 

第2回記事<いまの日銀は、「中央銀行としてやってはならないこと」をやりまくっている…「日本が置かれた深刻な状況」の実態>では、「異次元緩和がもたらした財政規律の緩み」について議論する。

 

*本対談のきっかけとなった山本謙三『異次元緩和の罪と罰』(講談社現代新書)では、異次元緩和の成果を分析するとともに、歴史に残る野心的な経済実験の功罪を検証しています。2%の物価目標にこだわるあまり、本来、2年の期間限定だった副作用の強い金融政策を11年も続け、事実上の財政ファイナンスが行われた結果、日本の財政規律は失われ、日銀の財務はきわめて脆弱なものになりました。これから植田日銀は途方もない困難と痛みを伴う「出口」に歩みを進めることになります。異次元緩和という長きにわたる「宴」が終わったいま、私たちはどのようなツケを払うことになるのでしょうか。

 



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