山刀伐(なたぎり)峠顕彰碑。山形県最上町満沢。
2024年9月9日(月)。
顕彰碑には俳人加藤楸邨の筆による「高山森々...」の一節が刻まれている。昭和42年建立。
山刀伐峠の標高は470mで、峠道の周りにはブナ林が広がる。「山刀伐」という名前は、山仕事や狩りをする際に被る「なたぎり」に似ていることに由来するといわれている。
元禄2年(1689)5月17日(陽暦7月3日)、松尾芭蕉と河合曾良は最上町の封人の家に逗留した後、山刀伐峠を越えて、尾花沢市の鈴木清風宅へ向かった。この道は、「おくのほそ道」全行程2400kmの中でも最大の難関といわれており、「高山森々として、一鳥声きかず、木の下闇、茂りあひて、夜行くがごとし」と芭蕉が記したように、昼間でも真っ暗で芭蕉も少し怖く感じたようである。
刀を持った山賊が住み着いており、道行く旅行者を襲撃しては身包みを剥ぐ危険な峠であったようで、芭蕉が、山刀伐峠を越えるにあたっては、「封人の家」の当主有路氏が、山賊から芭蕉の身を守るため、屈強の若者を護衛に付けて先導させた、と記されている。
最上町堺田の松尾芭蕉が宿泊した旧有路家(ありじけ)住宅(封人の家)と堺田分水嶺を見学後、西へ戻って、芭蕉が挑んだ「おくのほそ道」最大の難所である尾花沢市との境にある山刀伐(なたぎり)峠へ向かった。宮城県大崎市鳴子と山形県最上・村山地方を結ぶ道である国道47号線から南方向へ向かう県道28号尾花沢最上線に入り、赤倉温泉を過ぎて山刀伐峠トンネル手前から旧道に入って、山頂駐車場へ向かう。旧道ができる前の歩道が芭蕉が歩いた「歴史の道」で「二十七曲り」ともいわれる遊歩道になっている。
旧道は1台がやっと通れるほどの狭さで、曲がりくねっているのでライト点灯は欠かせない。離合箇所もほとんどないので対向車が来た場合は離合困難だと思いながら登っていくと、軽トラが駐車していた。車を降りて車幅と路肩の堅牢さを確かめると、何とか横をすり抜けられると判断できたので、ドアミラーを格納して通り抜けることができた。軽自動車同士だったので可能だったが、普通自動車だと谷底へ転落だろう。
少し登ると二人が除草作業中だった。車の中から、ドアミラーを畳んでいてくれたら楽だった、と声を掛けた。30分ほどあとに往路を戻ると、除草作業を続けていたので、軽トラはどうなっているのかと心配しながら少し下ると、道路山側のスペースに道路から外れたように駐車していた。ありがたいとは言え、道路を知悉しているなら最初から通行に支障がないように駐車してくれればよかった。地元の人が油断するぐらい通行量は少ないということでもある。
ほどなく峠下の山頂駐車場へ着いた。20台ほど駐車可能の広い駐車場でトイレもある。秋田ナンバーの普通自動車3台が整列して駐車していた。調査研究のような気配がした。峠周辺では誰とも会わなかったので、多分そうだろう。
山頂駐車場の尾花沢側は通行止めになっていた。尾花沢側のほうが道路は広いらしいので、当初はこちら側から旧道を登る予定だったが、通行止めらしかったので最上町側から登ってきたのだ。早朝、ナビを見ると、県道28号線の山刀伐峠トンネルの尾花沢側付近に片側交互通行の表示があったので確認すると、尾花沢市の芭蕉清風歴史資料館の職員も市役所の職員も県道28号線は通行止めと言ったので、新庄・最上町方面から迂回したのだが、実際には県道28号線は交互通行ができて、通行止めだったのは旧道の尾花沢側だった。
県道28号線の「山刀伐トンネル」は、通年通行可能であるが、峠を越える旧車道、さらには江戸期以来の旧街道(歴史街道)は、いずれも冬季通行止である。周辺では、熊の目撃情報があるため、山に入る場合は熊鈴を持ち、単独ではなく複数行動することが推奨されている。9月6日に米沢市の舘山城跡でクマと遭遇したので、気にはなったが、熊鈴を身に着けて峠への遊歩道を登っていった。
途中で「歴史の道」に出会う。見下ろすと、たしかに急傾斜だ。
山刀伐峠顕彰碑付近には東屋がある。山刀伐峠顕彰碑には駐車場から5分ほどで着いた。
東屋から尾花沢方面へ向かう「歴史の道」。
クマが出るかもしれないので、すぐ駐車場へ帰った。
往路の旧道を下り、瀬見温泉共同浴場へ向かった。
瀬見温泉共同浴場せみの湯。最上町向町。
温泉街の東端にあり、駐車場もある。瀬見温泉名物の「ふかし湯」を始め、内湯・露天風呂・足湯の四つの温泉が楽しめる。
コイン式で自動ドアが開閉する。400円(100円玉4個必要)で両替機はない。
このあと、東近くにある道の駅「もがみ」へ向かった。新しいので室内にはWIFIが使える休憩所があった。その下の河原は水害で遊具などが被害を受けていた。
翌朝は鮭川村の小杉の大杉(トトロの木)から見学開始である。