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山形県鮭川村 小杉の大杉(トトロの木)国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)

2024年10月22日 09時00分17秒 | 山形県

小杉の大杉(トトロの木)。山形県鮭川村曲川。

2024年9月10日(火)。

推定樹齢1000年と言われているこの天然杉は鮭川村の小杉地区にある大杉ということから、「小杉の大杉」という愛称で村民に御神木として親しまれてきた大杉で、映画「となりのトトロ」のトトロの形に似ていることで有名になった。

夫婦杉、縁結びの木、子宝の木とも言われ、パワースポットとしても知られている。

最上町の道の駅「もがみ」で起床。本日は、鮭川村の「小杉の大杉(トトロの木)」から最上川沿いに日本海方面へ進む。7月中旬ごろから山形県旅行の事前調査を始めて、旅行雑誌で知った。7月下旬の豪雨水害の中心地域だったので、アクセス道路の復旧状況をネットでチェックしていたが、この時点ではほぼ支障がなくなっていた。

案内標識に従って進むと終点の駐車場に着いた。狭い駐車場だが、トイレと休憩所がある。

休憩所からトトロの木が見えるが、見る方角により姿は違う。

撮影スポットが案内されている。

駐車場から緩い下り坂を歩いて5分ほどでトトロの木の根元に着いた。

根回り6.3m、樹高約20m、枝張り17mもあり根元には山神様が祀られている。

根元を一周した。

左奥にトトロに見える撮影スポットがある。よく見ると実は一本杉だが、耳に見えるてっぺんの2本の枝と地面に近づくにつれ広がっていく形はぽっこり出たお腹のようで、トトロに見える。

 

トトロの木を見てから、南方向へ進んで最上川河畔へ向かった。

国名勝・おくのほそ道の風景地 本合海(もとあいかい)。芭蕉乗船の地。新庄市本合海。

「芭蕉乗船の地」記念碑。記念碑(左)と陶像(右)。

昭和 38 年(1963)に、芭蕉乗船の地を舟下りの乗降客などに広く伝えるため、地元の有志により記念碑が建立された。平成元年(1989)には、東山焼製の芭蕉と曽良の陶像が本合海エコロジーにより建立され、観光名所として親しまれている。

本合海は、最上川の中流よりやや下流、新庄市南西部に位置し、元禄2年(1689)、松尾芭蕉一行がこの地から乗船し、最上川を下っている。

古来より内陸と庄内を結ぶ最上川舟運の中継地として栄え、右岸にある八向楯(やむきだて)は中世に築かれた城館跡であり、古来より広く観賞の対象とされ、芭蕉が訪ねた往時を偲ぶ優れた風景を今に伝えている。

日本三大急流のひとつである最上川は、米沢市の西吾妻山を水源として山形県中央部を北に流れ、新庄市本合海で西に向きを変えて酒田市で日本海に注いでいる。ひとつの県のみを流れる川としては日本一の大河で、流路延長は 229 ㎞に及ぶ。

平安時代の中期に編さんされた『古今和歌集』に「最上川 のぼればくだる稲舟の いなにはあらず この月ばかり」と歌われ、古くから交通・物流の大動脈としての役割を果たしてきたことをうかがい知ることができる。江戸時代には、紅花をはじめ、最上川流域のさまざまな物資が舟運によって京や大坂などに運ばれ、帰り船で持ち帰った上方文化が、今も最上川流域の各地域に息づいている。

新庄市南西部に位置する本合海は、古くから最上川舟運の重要な川湊として栄えた河岸集落である。最上川が西に大きく流れを変える湾曲部の右岸の八向山(やむきさん)の断崖中腹には、矢向(やむき)神社があり、最上川の舟人を守る神として古くから信仰されてきた。

元禄 2 年(1689)には、奥の細道を訪ねた俳聖松尾芭蕉が、門人曽良らとともに新庄に 2 泊の後、本合海から舟に乗って最上川を下り、羽黒山に向かっている。その後、芭蕉の足跡をたどり、多くの俳人・文人がこの地を訪れている。

このように本合海集落は、その自然的・歴史的・文化的な要素を背景として、古くからの風習や信仰などが色濃く残っており、2014年に「おくのほそ道の風景地(本合海)」として国の名勝に指定された。ている

松尾芭蕉と本合海。

元禄 2 年(1689)、みちのくの歌枕をたずねて平泉にたどり着いた俳聖松尾芭蕉と門人曽良は、奥羽山脈を横断し出羽国に入る。6 月朔日(新暦 7 月 17 日)、芭蕉一行は大石田を発ち、猿羽根峠を越えて新庄に入っている。

芭蕉は新庄に入る道すがら氷室の清水(現・柳の清水)を訪ね、「水の奥氷室尋る柳哉」の句を詠み、芭蕉はそれを新庄の城下町の中心部にある風流亭に宿泊した際に、三つ物(連句の発句・脇句・第三)の発句としている(曽良『俳諧書留』)。芭蕉一行は新庄に2泊し、風流(澁谷甚兵衛)や盛信(澁谷九郎兵衛)ら新庄の俳人と俳諧交流を行い、6 月 3 日に新庄を発ち、本合海より舟にて庄内に向かった。

芭蕉は、大石田に滞在中に「五月雨を集めて涼し最上川」の発句で歌仙を巻いているが、本合海から乗船し「水みなぎって舟あやうし」と船上での自らの体感によって、「五月雨を集めて早し最上川」と改めている。

明治時代以降は、松尾芭蕉の足跡をたどり、正岡子規や齋藤茂吉をはじめとする多くの近現代の俳人・歌人が本合海を訪れている。

明治 26 年(1893)、正岡子規は芭蕉の『おくのほそ道』をたどり、彼自身の「奥の細道」を綴る旅に出る。子規の紀行文『はて知らずの記』には、「草枕夢路かさねて最上川 ゆくへもしらず秋たちにけり/すむ人のありとしられて山の上に 朝霧ふかく残るともし火/立ちこめて尾上もわかぬ暁の 霧より落つる白糸の滝」の和歌が記されている。

その後も、山形が生んだ歌人・斎藤茂吉や現代俳句の巨匠・金子兜太、黛まどかなど著名な俳人・歌人が本合海を訪れ、句や歌を詠んでいる。

北側には船着き場跡らしき浅瀬がある。

八向山(やむきさん)の断崖中腹には、矢向(やむき)神社がある。

西郷隆盛と庄内藩。

 

このあと、最上川舟下りの乗船場へ向かった。

山形県最上町 芭蕉が通った山刀伐(なたぎり)峠 瀬見温泉共同浴場



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