国史跡・桜井古墳。福島県南相馬市原町区上渋佐字原畑。
2024年5月25日(土)。
南相馬市博物館見学後、桜井古墳の見学に向かい、隣接する桜井古墳公園の駐車場に着いた。
桜井古墳(桜井古墳群1号墳)は、前方後方墳であり、発掘調査の結果をもとに前方部は無段、後方部を三段に復原された。この際、削平を受けた後方部南端部分も復原されている。周辺の古墳も保存整備を加えられて、福島県内初の本格的な史跡公園「桜井古墳公園」が完成し、2003年5月、原町市制施行50周年記念事業のひとつとして開園された。
3分ほど歩くと桜井古墳の解説板がある場所に着く。
桜井古墳は、福島県の通称浜通り地方の北部、南相馬市原町区の中心市街の北東に位置し、西の阿武隈高地から東の太平洋に流下する新田川南岸の標高10mの低台地(河岸段丘縁辺部)に立地する。なお、桜井古墳を中心に河岸段丘上を東西約900mの範囲にわたって桜井古墳群が広がり、大小37基の古墳が確認されている。
本古墳北東の金沢地区には7世紀から9世紀にかけての製鉄遺跡として著名な長瀞遺跡、真野川水系の鹿島区寺内地区には国の史跡に指定された真野古墳群(古墳時代中期・後期)、同じく横手地区には横手古墳群がある。
1955年(昭和30年)の大塚初重を中心とする明治大学考古学研究室による測量調査が契機となり、当時としては日本列島で最も北に所在し、東北地方最大の規模をもつ前方後方墳として注目を浴びた。
測量調査の結果、前方部を西に面する前方後方型の墳丘を呈し、主軸の長さ74.5m、高さ6.8mの規模を有することが判明した。
現時点では、東北地方第4位の規模をもつ前方後方墳であり、東北地方で桜井古墳の大きさを上回る前方後方墳は、田中舟森山古墳(全長約90~70m。福島県喜多方市)、大安場古墳(全長約83m。福島県郡山市)、天神森古墳(全長約75m。山形県天童市)の3基である。
撥(バチ)形をなす前方部は幅27m、高さ4.5m規模の無段築成、一辺45mの矩形をなす後方部は三段築成で造られており、周溝をともなっている。陸橋や墓道も確認された。
1983年(昭和58年)原町教育委員会による範囲調査が行われた。その結果、周濠が周囲をめぐっていることが分かり、幅7~20m、深さ60~70cmと確認され、1988年(昭和63年)6月周濠を含む地域が史跡に指定された。墳丘長72m、後方部幅45m、長さ42mのほぼ方形で、高さ6.35m、前方部は長さ32m、前方部前幅23m、高さ3mある。
後方部の南側の一部は後世削られてしまっていたことも判明したが、古式の前方後方墳としてはきわめて整正な形態を残している。葺石や埴輪はともなっていない。
後方部の頂上には埋葬施設として2基の割竹形木棺が並べられて安置されている痕跡を確認した。ただし、遺跡保護の観点から当該部の発掘調査は実施されておらず、詳細は不明である。
底部穿孔(底部に穴をあけた)の壺や二重口縁の壺が出土しており、これらの出土遺物や撥形をなす前方部の形状などから古墳時代前期の築造、年代的には4世紀後半が想定される。
埋葬された人物は、古墳の立地や築造年代からも新田川流域を治めていた浮田国造の初祖・鹿我別(かがわけ)命(巫別命。海神族・毛野氏族)と宝賀寿男氏は推定している。
本古墳は、東北地方における古墳文化の様相を示す考古資料として学術的な価値が高いとして、測量調査のわずか1年後、1956年(昭和31年)に国の史跡に指定された。
今のところ、浜通り地方最大の古墳はいわき市の玉山1号墳であり、桜井古墳はそれに次ぐ規模を有している。中通り地方最大の大安場古墳の事例と併せ検討すると、同じ福島県内でも会津地方では前方後円墳が卓越するのに対して、中通り地方および浜通り地方ではそれとは異なる様相を呈している。これは、前方後方墳をさかんに築造した北関東地方とくに下野(現在の栃木県)および常陸(現在の茨城県)との濃密な文化交流が考慮される。
このあと、相馬市の相馬中村城跡へ向かった。