上越市立歴史博物館。屋上展望デッキから高田城三重櫓方向。新潟県上越市本城町(高田城址公園)。
2023年10月4日(水)。
上越市文化財・旧師団長官舎に立ち寄ってから、高田城址公園にある上越市立歴史博物館を見学した。館内撮影禁止。頚城丘陵の油田が紹介されており、松之山温泉の石油臭が理解できた。
近くの高田城三重櫓を見学するため駐車場を数百ⅿ移動したが、満車に近かったのは、上越地域の中学校レベルの陸上競技の大会が開催されていたからだったようだ。三重櫓周辺を走る生徒も多かった。
続日本100名城・高田城三重櫓。上越市本城町(高田城址公園)。
高田城三重櫓。慶長19年(1614年)に築城された高田城のシンボル的存在であった三重の櫓は、上越市発足20周年記念事業として、平成5年(1993年)に復元された。
高田城跡が新潟県の指定史跡であることから、築造にあたっては、絵図や古文書の検討、発掘調査など詳細な調査・研究を行い、設計に活かした。
規模は、稲葉正通時代の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同様で、外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」を参考とした。
1・2階は展示室で、高田城などに関連する展示を行っており、3階は展望室になっている。
高田城は、徳川家康の六男、松平忠輝(越後少将家)の居城として天下普請によって造られた。忠輝の福島城(上越市港町)からの移転は、転封から2年後の慶長17年(1612年)7月の時点で南に移る話があり、慶長19年2月に忠輝が高田へ移ると、3月15日に高田城築城が始まり、7月5日に普請は完了した。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗が勤めた。
高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230ⅿから約220ⅿ四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。堀は南方の総構である百間堀を除けば、関川・青田川・矢代川・儀明川の流路変更と旧河道の流用により構成されている。
すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。
普請完了から程なく大坂の陣、そして忠輝の改易が続き、櫓等の作事は殆ど進展せず、高田城唯一の櫓である天守代用の櫓も1624年に入封した松平光長が建てたと見られている。正保元年(1644年)に提出が命じられた『正保城絵図』では二重櫓だが、寛文5年(1666年)の高田地震後の復旧で、3重3階の三重櫓になったと見られる。当時の三重櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。
明治以降、旧陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。
1598年(慶長3年) - 上杉景勝が会津に移封され、堀秀治が春日山城に入府する。
1607年 - 堀忠俊が福島城を築き、春日山城は廃城となる(越後福島藩の立藩)。
1610年 - 越後福嶋騒動によって堀氏は改易となる。
1610年 - 徳川家康の六男、松平忠輝が信濃川中島から福島城に75万石で入封。
1614年 - 忠輝が福島城を廃し、高田城を建築。越後高田藩の藩庁が置かれた。
1616年 - 忠輝改易。酒井家次が上野高崎10万石から移封(10万石)
1618年 - 家次の子・忠勝が信濃松代に転封。松代藩主松平忠昌(徳川家康の孫。結城秀康の次男、松平忠直の弟、越前福井松平家の祖)が高田25万9千石となる。
1623年 - 忠昌、越前福井藩50万石を相続。高田から移動。
1624年 - 松平光長(徳川家康の曽孫。結城秀康の孫。松平忠直の嫡男。母は徳川秀忠の三女・勝姫。津山松平家の祖。)が26万石で立藩。
1665年 - 高田地震により建造物倒壊。三重櫓を建設。
1681年 - 越後騒動(一門重臣たちが争い、将軍徳川綱吉の親裁で厳しい処分が下された。)により、光長改易。
1685年 - 稲葉正往が相模小田原10万2千石から移封、10万3千石。
1701年 - 稲葉正往、下総佐倉に国替え。佐倉の戸田忠真が交換移封6万8千石。
1710年 - 戸田忠真、下野宇都宮に移封。松平定重(久松松平家・桑名藩主家)、伊勢桑名から移封。11万3千石。
1741年 - 松平定賢、陸奥白河に移封。
1742年 - 榊原政純が播磨姫路から15万石で入封。明t治維新まで続く。
創藩当時の高田藩は、親藩の大藩である越前福井藩と共に加賀前田藩を牽制する配置である上、日本海側東北地方の外様大名への押さえとして、幕府にとって重要な位置づけとされた。その後、石高の減少や前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていった。元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、幕府や諸大名にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば流刑地のような位置づけが強くなった。
稲葉正往
江戸に近い相模小田原城主より転封。同時に京都所司代を罷免された。綱吉を将軍に擁立することを反対した大老酒井忠清派の人物であったため、これを嫌った5代将軍綱吉により粛清された結果である。のち老中に返り咲いた際、江戸に近い下総佐倉に移封された。
戸田忠真
佐倉城主より転封。江戸から極めて近い佐倉城主であったが、戸田氏が幕閣から遠ざかったために、江戸から離れた高田に移された。佐倉城主は幕閣の中枢の譜代大名がしばしば入封するのが例であったため、忠真の父の忠昌が致仕したことにより、領地替えとなった。忠真に対する懲罰と言うより、稲葉正往の佐倉入りに伴い、忠真が弾き出された形に近い。その後、忠真が幕閣で重視されるに伴い、江戸により近く、関東の重要拠点である下野宇都宮に再移封された。
松平定重
桑名城主より転封。些細な経理ミスを犯した藩士の野村増右衛門を斬首し、懲罰は野村の一族にも及んだ。この厳科が5代将軍綱吉の不興を買い、東海道の要所の桑名から高田に転封された。五代のちに松平家は陸奥白河に移封された。
榊原政純
姫路城主より転封。政永の父、榊原政岑が幕府の倹約令を無視した言動を行った。吉原で豪遊し、遊女の高尾太夫を身請けするなどの行動が、倹約令を推し進めていた8代将軍吉宗の怒りを買った。榊原家は幕府の名門ということもあり改易とはならなかったが、政岑は強制隠居・蟄居となり息子政純が相続したが、格の高い姫路城主の地位から越後高田に転封という処分になった。高田に移ってのちの政岑には、名君伝承が残る。
3階展望室から、妙高山・火打山。
本丸御殿跡。
極楽橋。2002年(平成14年)、高田城築城当時、二の丸から本丸に渡っていた極楽橋が発掘調査の資料をもとに再建された。
高田城三重櫓の見学を終え、旧師団長官舎を見学、町屋交流館高田小町へ立ち寄った。
このあと、高田地区から直江津地区の春日山城跡へ向かった。