京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
代表 金澤 ひろあき
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雅楽ー自分以外の何か

2025-03-09 08:02:46 | 俳句
雅楽-自分以外の何か
   金澤ひろあき
 雅楽や能舞台のゆるやかな舞いを見ていると、今流れている時間とは違う時の中にいるような気がする。
 雅楽では、舞い手は蝶になったり、龍になったり、異国人になったりする。
 能の多くは、二人の対話劇で、ワキという人物が、シテという突然現れた謎の者に出会う。シテは幽霊であったりするのだが、なぜ自分が成仏できずにここにいるのか、どういう思い(悲しみ、恨みが多いのだが)なのかをワキに述べて消えて行く。恐ろしさよりも、かなしさと美しさが漂っている。
 舞い手は、見ている人の心をうつ「表現」をしているのは確かだ。ただ、その表現は、「自己表現」なのだろうか。
 雅楽や能の素人である私には、断言できる根拠がないのだが、どうも「自己表現」ではないような気がする。
 舞い手は、自己の身体を使って龍や幽霊を表現している。しかし、そこに「自己の個性的表現」を意図しているのだろうか。
 龍や幽霊は、本物を見る機会がないのだから、「自分なり」の龍や幽霊のイメージで表現してもかまわないはずなのに、舞台では一定の表現を保っている。
 また、心の中に優れたイメージを持っていても、「身体」を使うので、表現には制約が出る。例えば、龍が空を飛ぶことをイメージしても、人間の身体は実際に飛行できないから、地上で飛行しているような動きをするしかない。
 そこでは、自己の個性を出すことよりも、自分の「個性を消し」て、龍の役に成りきろうとしているように見える。むしろ、「自分以外の何か別のもの」になる努力をしているように見える。
 言葉を使う芸術にも、同じことを感じることがある。例えば、「飢餓海峡」や「砂の器」のように、殺人を描く小説があるが、その作家達は殺人犯ではない。しかし、小説の中で、殺人犯の立場で、心情や背景を克明に描こうとする。
 自分以外の何か別のものに出会ってはじめて、「自分って何なのだろうか」と考えはじめ、「自分を越えるもの」のことを思うのかもしれない。
 そういえば、新年によく聞く雅楽の越天楽は、天人の楽であったそうだ。
 越天楽 冬のとばりを片付けはじめる ひろあき