マンションの前の通りを顔見知りの子供たちが挨拶しながら通り過ぎるのを、管理人の花蓮さんは箒を片手に眼を細めながら見つめていた。
新婚の英武夫妻に部屋を譲って、西沢たちがマンションを出てから三年ほどにもなろうか…。
今…最後に通り過ぎたのは…末っ子の慧勠(エリク)…引っ越した翌年辺りに生まれた子供だ…。
四番目の子供…花蓮さんは秘かに想像する…。
まぁ…誰が誰の親で誰の子か…なんてのは…どうでもいいんだけどさ…。
顔立ちはまぁ…西沢さんよりは多少日本人っぽいけど…アランくんとクルトくんは西沢さんの子に違いないのよね…。
あとのふたりについては…謎だわよ…本当のところ…。
動物の絵のついたビスケットの徳用箱を両手で抱えて…兄たちの後を懸命に追っていく…。
慧勠のお気に入りのチョコレート入りのビスケット…いつもの小さな箱じゃなくて…今日は特大のを買ってもらって御満悦…。
けれど…慧勠の小さな身体にその菓子箱は大き過ぎて…足元が全然見えない…。
両手の塞がった体勢はかなり不安定…。
花蓮さんがあっと思った時には歩道の上に転げていた…。
先を行っていた吾蘭が慌てて駆け戻り、慧勠が泣き出す前にそっと立ち上がらせた…。
来人が転がっていた菓子箱を拾い上げ、絢人が慧勠の服についた汚れを掃ってやっている…。
怪我は…ないようだ…。
「ちょっとへこんじゃった…。 」
来人が吾蘭に箱を見せた。
目の前に潰れた箱…慧勠が悲しそうな顔をして吾蘭を見上げる…。
「大丈夫だよ…エリク…。 中身は潰れてない…。
もし潰れたのがあったら…アランが食べるからいいよ…。
エリクには潰れてないのをあげるからね…。 」
吾蘭がそう言って慰めると慧勠は嬉しそうに頷いた…。
成り行きを見守っていた花蓮さんは…う~ん…と唸った…。
アランくん…ってばホントに良くできた子だわねぇ…。
自分だってまだ小さいのに…感心感心…。
子供たちの後ろから買い物袋をぶら提げて、のんびり歩いてくる西沢に、そんな褒め言葉をかけた。
西沢はただ黙って微笑んだ…。
吾蘭と来人に内在する危険な潜在記憶…良好な兄弟関係を崩壊へと導く懼れのある人為的な遺伝子プログラム…。
その扱いについては、庭田の天爵さまの中に居るばばさまの魂の勧めに従い、不要な記憶を消去してしまうことに決めてあったが、まだ幼い子供の成長にどう影響するかも分からないという懸念から、ずっと保留されたままになっていた。
今のところ、ふたりの関係は頗る良好で、対立の気配すらない。
あの忌まわしい潜在記憶を持っているからといって誰もが発症するわけではないから…運が良ければ…このまま何事も起こらないで済むかもしれない…。
そうはいっても発症の可能性がある以上は、いつまでも放っておくわけにもいかないので、御伽さまの立会いのもとに、より攻撃性が高いと思われる来人の潜在記憶を先に消してしまうことになった…。
来人の場合は単純に不要な潜在記憶を消してしまえばいいことだが、問題は今回再び保留となった吾蘭の方…。
吾蘭の記憶は王弟の記憶、庭田家当主代々に引き継がれる天爵ばばさまの魂と同じく、わけありで存在しているものだ。
消してしまうことが果たして…正しい…のかどうか…。
前例のないことだけに、さすがの西沢も採るべき道を決めかねていた…。
「頑丈な杖さえあれば…いつ転ぶか…など案ずるには及ばない…というのが宗主の御考えです…。
アランの方は…しばらく放っておいても大事ないでしょう…。
発症したらした時の話…。
その対処方法を見つけたのは…あなた自身ではありませんか…。 」
お伽さまは…そう言って涼やかに笑った…。
「クルトの潜在記憶は消してしまったのですから…今後はアランの状態さえしっかり把握しておけばいいのです…。
兆しが見えた時点で…すぐに手を打てば…何の問題もありますまい…。
何かあったとしても…エリクが居ますから…それほど大事には至らないでしょう…。 」
ただいまぁ…という子供たちの声に応えるように…奥の方から…お帰り…という声がする…。
絢人と慧勠の眼が嬉しそうに輝いた…。
パパたん…!
喜び勇んで声のする方へ駆け出していく…。
滝川が居るはずのキッチンに向かって…。
こえ…リクが持ってちた…。
ちゅぶれたやちゅ…アヤンが…あびてくえゆって…。
慧勠が懸命にさっきの出来事を話そうとする…。
聞いている方には何のことだか…よくは分からないが…それでも滝川は笑顔で頷き…それに耳を傾ける…。
テーブルの上に所狭しと置かれた鍋やボール…。
その向うで滝川が手際よく料理の下拵えをしている…。
「これで多分…不足はないと思うけど…後は適当にってことで…。 」
テーブルの僅かに残った隙間に、西沢は買ってきたばかりの食材を置いた…。
「いいさ…ひとつふたつなくったって…どうってことはない…。
けど…うちが用意する料理…こんなんでいいのか…? 」
下拵え中のローストビーフ…アンチョビーのパスタ…サーモンのマリネ…季節野菜のサラダ…等々…。
「あと…きのこのシチュー…だろ…。
それに…オムライス…面倒だから卵焼いてのせとくだけにしよう…。
…なんか皿数…少なくねぇ…? 」
西沢の催すイベントに有りがちな飛び入りを考えると…来客数は参加予定数をはるかに超えそうだ…。
「いいんじゃないかぁ…?
紅村先生と田辺先生がいつもより多めに料理を作ってきてくれると言ってたし…。
今日…怜雄んちのママがケーキを焼いてくれたから…それも大丈夫…。
倫さんが箱寿司作ってくれるし…千春ちゃんと英武もフライドチキンとポテトを揚げてくるって…。
桂先生と仲根からは…ピザを焼くばかりに仕込んであるから…朝イチにこっちへ来て焼くつもりだって連絡あったぞ…。
酒と果物はノエルと輝が買ってくるし…それだけありゃぁ…十分じゃねぇ…?
それに…あいつが…さ…エスニック料理を届けてくれるそうだ…。 」
西沢が意味有り気にニヤッと笑った…。
あ~ぁ…あいつね…。
半ば呆れたように言いながら…滝川も笑みを浮かべた…。
ノエルのお気に入りの籐のソファに腰を下ろして…西沢はぼんやり…外の月明かりを眺めている…。
英武たちが使うというので…家具はそのままマンションに置いて出てきたが…このソファとスミレに貰った特大のビーズクッションだけは…新居まで持ってきた…。
ビーズクッションは子供たちの玩具になってしまったが…ノエルは今でも時々…このソファに座っている…。
大盛況だった今日のパーティ…実は仲根と桂のために西沢が秘かに企画したサプライズ…あれやこれや事情があって挙式を端折ってしまったふたりへのささやかなプレゼント…。
西沢の呼びかけに応えた仲間たちの愛情こもった手作りパーティ…趣旨を聞かされたふたりはともに感極まって涙していた…。
その時間帯だけは他の支部から応援を頼んで…上司も同僚の御使者たちもみんな顔を揃えていた…。
勿論…西沢は応援部隊にも御裾分けの御馳走を届けさせている…。
幸せそうで…よかった…。
仲根と桂の嬉しそうな顔を思い浮かべながら…西沢はふうっと溜息をついた…。
慧勠を産んだ後のノエルは完全に女性としての機能を失い…最早…西沢との夫婦生活は成り立たなくなってしまった…。
お互いの間に子供が居ることは紛れもない事実だから…父であり母であることには変わりはないけれど…夫と妻…という関係の継続は到底無理…。
この頃では…西沢の傍に居る時間より輝と過ごす時間の方が確実に長い…。
ノエルは生まれた時のノエルに戻り…もう何の躊躇いも戸惑いもなく男として生活している…。
時々は思い出したように…甘えに来るけれど…。
僕の役目は…終わったってことさ…。
諦めとも自嘲ともつかない笑みが西沢の唇に浮かんだ…。
最初から…分かってたことだろ…。
智哉さんとも約束したじゃないか…。
ノエルにその時が来たら…笑って背中押してやるって…。
それがたまたま…僕の元恋人…輝だったってことだよ…。
良かったじゃない…知らない女じゃなくて…。
おかげで僕等はずっと…ひとつ屋根の下に暮らせるんだ…。
一緒に子供を育てていける…。
幸せだと思わなきゃ…。
もう一度ふうっと溜息をついて…西沢はソファから立ち上がった…。
子供たちの寝顔を確認してから…ノエルはそっと輝の部屋に戻った…。
ここのところ週のほとんどは輝の傍で夜を過ごす…。
西沢の傍に居たくないわけじゃないけれど…今でも胸が痛くなるほど好きだけれど…ノエルはそれほど意識しないまま輝を選んでしまう…。
不思議だよね…。
輝の温かい肌に触れて…西沢とは確かに違う柔らかさを感じる…。
西沢に対しては湧いてこない衝動的な欲求が身体の奥で渦巻く…。
絢人を産んでくれた輝をそれなりに愛しいとは思うけれど…西沢への想いとは比べられない…。
それなのに…なぜ…?
「なぜ…って…そうねぇ…。
ノエルはやっぱり…本質的には男だから…ね…。
子供を産む機能が働いている間は抑えられていたものが…ここに来て再始動を始めたんじゃないの…。 」
仲は良いけど…お互い…特に恋愛感情があるわけではないから…輝も冷めたものだ…。
「まぁ…身体と心は別物…ってことね…。 」
そう言って輝は可笑しそうに笑う…。
紫苑さん…僕のこと怒ってるかなぁ…。
さんざん甘えておきながら…傍に居るって約束しておきながら…。
成り立たなくなった結婚生活…。
何も言わないけれど西沢は…気持ちの上で…すでにピリオドを打っているのかも知れない…。
それも仕方がないけれど…なんだか無性に寂しい気もするし…悲しい…。
決して…別れたいわけじゃないんだから…。
我儘だよね…僕…すごく自分勝手だ…。
紫苑さん…傷つけちゃったかなぁ…。
裏切り者だと思うだろうか…?
「大丈夫よ…紫苑はそんなふうに悪くは取らないわ…。
それに紫苑は…最初から覚悟の上であなたと一緒になったんだから…。
これは当然の結果よ…。 」
そう言われても…心は晴れない…。
西沢にひどく申しわけないことをしているようで…。
もう一度…西沢の本心を訊いてみたいけれど…そしてこれからのことを話し合いたいけれど…それをする勇気が…今のノエルには湧いてこなかった…。
何か言えば…すべてが壊れてしまいそうに…思えた…。
次回へ
新婚の英武夫妻に部屋を譲って、西沢たちがマンションを出てから三年ほどにもなろうか…。
今…最後に通り過ぎたのは…末っ子の慧勠(エリク)…引っ越した翌年辺りに生まれた子供だ…。
四番目の子供…花蓮さんは秘かに想像する…。
まぁ…誰が誰の親で誰の子か…なんてのは…どうでもいいんだけどさ…。
顔立ちはまぁ…西沢さんよりは多少日本人っぽいけど…アランくんとクルトくんは西沢さんの子に違いないのよね…。
あとのふたりについては…謎だわよ…本当のところ…。
動物の絵のついたビスケットの徳用箱を両手で抱えて…兄たちの後を懸命に追っていく…。
慧勠のお気に入りのチョコレート入りのビスケット…いつもの小さな箱じゃなくて…今日は特大のを買ってもらって御満悦…。
けれど…慧勠の小さな身体にその菓子箱は大き過ぎて…足元が全然見えない…。
両手の塞がった体勢はかなり不安定…。
花蓮さんがあっと思った時には歩道の上に転げていた…。
先を行っていた吾蘭が慌てて駆け戻り、慧勠が泣き出す前にそっと立ち上がらせた…。
来人が転がっていた菓子箱を拾い上げ、絢人が慧勠の服についた汚れを掃ってやっている…。
怪我は…ないようだ…。
「ちょっとへこんじゃった…。 」
来人が吾蘭に箱を見せた。
目の前に潰れた箱…慧勠が悲しそうな顔をして吾蘭を見上げる…。
「大丈夫だよ…エリク…。 中身は潰れてない…。
もし潰れたのがあったら…アランが食べるからいいよ…。
エリクには潰れてないのをあげるからね…。 」
吾蘭がそう言って慰めると慧勠は嬉しそうに頷いた…。
成り行きを見守っていた花蓮さんは…う~ん…と唸った…。
アランくん…ってばホントに良くできた子だわねぇ…。
自分だってまだ小さいのに…感心感心…。
子供たちの後ろから買い物袋をぶら提げて、のんびり歩いてくる西沢に、そんな褒め言葉をかけた。
西沢はただ黙って微笑んだ…。
吾蘭と来人に内在する危険な潜在記憶…良好な兄弟関係を崩壊へと導く懼れのある人為的な遺伝子プログラム…。
その扱いについては、庭田の天爵さまの中に居るばばさまの魂の勧めに従い、不要な記憶を消去してしまうことに決めてあったが、まだ幼い子供の成長にどう影響するかも分からないという懸念から、ずっと保留されたままになっていた。
今のところ、ふたりの関係は頗る良好で、対立の気配すらない。
あの忌まわしい潜在記憶を持っているからといって誰もが発症するわけではないから…運が良ければ…このまま何事も起こらないで済むかもしれない…。
そうはいっても発症の可能性がある以上は、いつまでも放っておくわけにもいかないので、御伽さまの立会いのもとに、より攻撃性が高いと思われる来人の潜在記憶を先に消してしまうことになった…。
来人の場合は単純に不要な潜在記憶を消してしまえばいいことだが、問題は今回再び保留となった吾蘭の方…。
吾蘭の記憶は王弟の記憶、庭田家当主代々に引き継がれる天爵ばばさまの魂と同じく、わけありで存在しているものだ。
消してしまうことが果たして…正しい…のかどうか…。
前例のないことだけに、さすがの西沢も採るべき道を決めかねていた…。
「頑丈な杖さえあれば…いつ転ぶか…など案ずるには及ばない…というのが宗主の御考えです…。
アランの方は…しばらく放っておいても大事ないでしょう…。
発症したらした時の話…。
その対処方法を見つけたのは…あなた自身ではありませんか…。 」
お伽さまは…そう言って涼やかに笑った…。
「クルトの潜在記憶は消してしまったのですから…今後はアランの状態さえしっかり把握しておけばいいのです…。
兆しが見えた時点で…すぐに手を打てば…何の問題もありますまい…。
何かあったとしても…エリクが居ますから…それほど大事には至らないでしょう…。 」
ただいまぁ…という子供たちの声に応えるように…奥の方から…お帰り…という声がする…。
絢人と慧勠の眼が嬉しそうに輝いた…。
パパたん…!
喜び勇んで声のする方へ駆け出していく…。
滝川が居るはずのキッチンに向かって…。
こえ…リクが持ってちた…。
ちゅぶれたやちゅ…アヤンが…あびてくえゆって…。
慧勠が懸命にさっきの出来事を話そうとする…。
聞いている方には何のことだか…よくは分からないが…それでも滝川は笑顔で頷き…それに耳を傾ける…。
テーブルの上に所狭しと置かれた鍋やボール…。
その向うで滝川が手際よく料理の下拵えをしている…。
「これで多分…不足はないと思うけど…後は適当にってことで…。 」
テーブルの僅かに残った隙間に、西沢は買ってきたばかりの食材を置いた…。
「いいさ…ひとつふたつなくったって…どうってことはない…。
けど…うちが用意する料理…こんなんでいいのか…? 」
下拵え中のローストビーフ…アンチョビーのパスタ…サーモンのマリネ…季節野菜のサラダ…等々…。
「あと…きのこのシチュー…だろ…。
それに…オムライス…面倒だから卵焼いてのせとくだけにしよう…。
…なんか皿数…少なくねぇ…? 」
西沢の催すイベントに有りがちな飛び入りを考えると…来客数は参加予定数をはるかに超えそうだ…。
「いいんじゃないかぁ…?
紅村先生と田辺先生がいつもより多めに料理を作ってきてくれると言ってたし…。
今日…怜雄んちのママがケーキを焼いてくれたから…それも大丈夫…。
倫さんが箱寿司作ってくれるし…千春ちゃんと英武もフライドチキンとポテトを揚げてくるって…。
桂先生と仲根からは…ピザを焼くばかりに仕込んであるから…朝イチにこっちへ来て焼くつもりだって連絡あったぞ…。
酒と果物はノエルと輝が買ってくるし…それだけありゃぁ…十分じゃねぇ…?
それに…あいつが…さ…エスニック料理を届けてくれるそうだ…。 」
西沢が意味有り気にニヤッと笑った…。
あ~ぁ…あいつね…。
半ば呆れたように言いながら…滝川も笑みを浮かべた…。
ノエルのお気に入りの籐のソファに腰を下ろして…西沢はぼんやり…外の月明かりを眺めている…。
英武たちが使うというので…家具はそのままマンションに置いて出てきたが…このソファとスミレに貰った特大のビーズクッションだけは…新居まで持ってきた…。
ビーズクッションは子供たちの玩具になってしまったが…ノエルは今でも時々…このソファに座っている…。
大盛況だった今日のパーティ…実は仲根と桂のために西沢が秘かに企画したサプライズ…あれやこれや事情があって挙式を端折ってしまったふたりへのささやかなプレゼント…。
西沢の呼びかけに応えた仲間たちの愛情こもった手作りパーティ…趣旨を聞かされたふたりはともに感極まって涙していた…。
その時間帯だけは他の支部から応援を頼んで…上司も同僚の御使者たちもみんな顔を揃えていた…。
勿論…西沢は応援部隊にも御裾分けの御馳走を届けさせている…。
幸せそうで…よかった…。
仲根と桂の嬉しそうな顔を思い浮かべながら…西沢はふうっと溜息をついた…。
慧勠を産んだ後のノエルは完全に女性としての機能を失い…最早…西沢との夫婦生活は成り立たなくなってしまった…。
お互いの間に子供が居ることは紛れもない事実だから…父であり母であることには変わりはないけれど…夫と妻…という関係の継続は到底無理…。
この頃では…西沢の傍に居る時間より輝と過ごす時間の方が確実に長い…。
ノエルは生まれた時のノエルに戻り…もう何の躊躇いも戸惑いもなく男として生活している…。
時々は思い出したように…甘えに来るけれど…。
僕の役目は…終わったってことさ…。
諦めとも自嘲ともつかない笑みが西沢の唇に浮かんだ…。
最初から…分かってたことだろ…。
智哉さんとも約束したじゃないか…。
ノエルにその時が来たら…笑って背中押してやるって…。
それがたまたま…僕の元恋人…輝だったってことだよ…。
良かったじゃない…知らない女じゃなくて…。
おかげで僕等はずっと…ひとつ屋根の下に暮らせるんだ…。
一緒に子供を育てていける…。
幸せだと思わなきゃ…。
もう一度ふうっと溜息をついて…西沢はソファから立ち上がった…。
子供たちの寝顔を確認してから…ノエルはそっと輝の部屋に戻った…。
ここのところ週のほとんどは輝の傍で夜を過ごす…。
西沢の傍に居たくないわけじゃないけれど…今でも胸が痛くなるほど好きだけれど…ノエルはそれほど意識しないまま輝を選んでしまう…。
不思議だよね…。
輝の温かい肌に触れて…西沢とは確かに違う柔らかさを感じる…。
西沢に対しては湧いてこない衝動的な欲求が身体の奥で渦巻く…。
絢人を産んでくれた輝をそれなりに愛しいとは思うけれど…西沢への想いとは比べられない…。
それなのに…なぜ…?
「なぜ…って…そうねぇ…。
ノエルはやっぱり…本質的には男だから…ね…。
子供を産む機能が働いている間は抑えられていたものが…ここに来て再始動を始めたんじゃないの…。 」
仲は良いけど…お互い…特に恋愛感情があるわけではないから…輝も冷めたものだ…。
「まぁ…身体と心は別物…ってことね…。 」
そう言って輝は可笑しそうに笑う…。
紫苑さん…僕のこと怒ってるかなぁ…。
さんざん甘えておきながら…傍に居るって約束しておきながら…。
成り立たなくなった結婚生活…。
何も言わないけれど西沢は…気持ちの上で…すでにピリオドを打っているのかも知れない…。
それも仕方がないけれど…なんだか無性に寂しい気もするし…悲しい…。
決して…別れたいわけじゃないんだから…。
我儘だよね…僕…すごく自分勝手だ…。
紫苑さん…傷つけちゃったかなぁ…。
裏切り者だと思うだろうか…?
「大丈夫よ…紫苑はそんなふうに悪くは取らないわ…。
それに紫苑は…最初から覚悟の上であなたと一緒になったんだから…。
これは当然の結果よ…。 」
そう言われても…心は晴れない…。
西沢にひどく申しわけないことをしているようで…。
もう一度…西沢の本心を訊いてみたいけれど…そしてこれからのことを話し合いたいけれど…それをする勇気が…今のノエルには湧いてこなかった…。
何か言えば…すべてが壊れてしまいそうに…思えた…。
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