裏の林の中の道を隆平はゆっくりと洋館に向かって歩いている。
見上げると林の木々のところどころに早咲きの桜がぽつんぽつんと花をつけてい る。隆平はこの細い道をのんびりと散歩するのが好きだった。
この道を何度通ったことだろう。仕事中の修に修練の成果を見せに行くために。
透たちより遅れている分、修が特別に指導をしてくれている。
但し、忙しい修はなかなかまとまった時間が取れないため、修が家にいる時にはいつでも修練においでと言われていた。
あの時修がくれた力は、あの後すぐにまた修が取り上げた。
基礎のできていない隆平が使うには危険すぎるということで、ある程度の力がつくまでお預けとなった。
おかげで気が楽になった。やっぱり実力で手に入れないとね…。
隆平はそう思っていた。
この頃では全く発作を起こすこともなくなり、すっかり紫峰に馴染んだ隆平は、はるとも冗談が言えるまでになり、使用人たちとのコミュニケーションも取れるようになった。
それは紫峰の家族のひとりとして生きる決心をしたせいでもあった。
去年の暮れに孝太が結婚して新しい家族ができた。
結婚する時に孝太は地元に帰ってきて一緒に暮らすかと訊いてくれた。
奥さんも隆平が孝太の子どもであることを知っていて、何にも遠慮せんと戻っておいでと言ってくれた。
それは本当に涙が出るほど嬉しい話だったのだが、もともと親子として一緒に暮らしていたわけではない孝太の新しい門出を邪魔したくはなかった。
気持ちだけ有難く受け取った。
紫峰家の面々は、まるで隆平が生まれてからずっとこの家で生活してきたかのように隆平の存在を受け入れた。
まったく余所者扱いをされない分、はるからびしびしと紫峰家の何たるかを仕込まれ、紫峰宗主の家族のひとりとして遠慮なく仕事を任されもした。
はるという教育係がいる分だけ、鬼面川にいた頃よりも行動規制や躾などの指導は厳しくはなったけれど、精神的には誰に気兼ねすることも何を怖れることもなしにのびのびと生活することを許された。
透や雅人と一緒に悪戯をして叱られたり、ゲーマーのお祖父さまとお祖父さまの好物餡団子を賭けて対戦したり、成績表に一喜一憂したり…そんな普通の生活を当たり前に楽しめることが隆平にとっては夢のようだった。
昼間は、多喜に取り次いでもらうのが面倒であれば、屋敷の裏に廻って居間側のテラスからそのまま修のところへ行けばよかった。
修は、たいてい居間の文机で仕事をしていているので、わざわざ玄関から遠回りしなくても済む。
屋敷に一歩踏みいれた時、いつもと違ってパソコンのキーを叩く音がしないのに気付いた。
文机の上に突っ伏している修の姿を見つけた。修は眠っているようだった。
そっと近付くと修の前には写真が置かれてあって、中学生くらいの男の子が笑ってこっちを向いていた。
時々肩が震えて、眠っている修の睫毛を濡らしながら、一筋…また一筋と涙の滴が流れ落ちた。
見てはいけないものを見てしまったような気がして隆平はその場を立ち去ろうとした。
その気配に修は目を覚ました。
「ああ…ごめん。 うっかり眠ってしまった。 」
修はいつもの笑顔で隆平を見たが涙の後は消えてなかった。
「招待状を…作っていたんだよ。 冬樹の追悼会のね。
早めに作って出しておこうと思ってさ…。
どれだけ月日を重ねても…胸が痛いよ…。 」
修は寂しそうに言った。
冬樹が透や雅人の親違いの弟だということは聞いていた。透にとっては父親が、雅人にとっては母親が違う兄弟だ。
この子も生まれてすぐに親を亡くして修の手で育てられたが、不幸にして中学三年になったばかりで酷い事件に巻き込まれて命を落としたという。
子煩悩な修にとって身を切られるより辛い思い出だ。
透や雅人からその時の修の様子を聞いていたので、隆平はできるだけ冬樹のことには触れないでいた。
本当は修から訊きたいこともあったのだけれど…。
「冬樹は…力らしい力を持ってなかったんだ…。
僕が護ってやらなきゃいけなかったのにね…。
24時間べったりくっついてでも護ってやればよかったんだ…。
…馬鹿だなぁ…そんなことできやしないのに…言っても仕方ないよな…。 」
修は自嘲した。
「そんなに子どもが可愛いの? 自分の子じゃなくても? 」
隆平は修につられて思わず訊いてしまった。
修はこれ以上の笑みはないというくらい温かい笑みを浮かべた。
「可愛いさ…。
子ども育てるのは口で言うよりかずっと大変だけど、育つの見てるだけで報われるね…。
やっとここまで育ったかって感じた時のなんとも言えない満ち足りた気持ち… 幸福感がいいよ。 」
そんなもんかなあと隆平は思った。隆弘はあまり表情を変えない男だった。
隆平を殴ったり蹴ったりする時以外はいつも仏頂面で過ごしていた。
隆弘は…どう感じてたんだろう?
「そりゃあもう手が掛かって仕方がないし、ほんとうるさいの何の…少しは言うことを聞け!とか怒ったりもするんだけど…。
こいつらいなけりゃもっと自分の時間が取れるのに…とかさ…。
だけど居ないと物足らないし…寂しいわけよ…。
育ったら育ったでとんでもない覗きはするし、一端の口は利くし、生意気でどうしようもないこともあるんだが…。
あ…これはあくまで僕の主観だからね。 」
この人は本当に子どもが好きなんだなぁと隆平は思った。
怒っていない時の隆弘…あまり思い出せない。
暴力の記憶があまりに強烈で他の事は忘れてしまった。
隆平が本当に知りたいのは二度と会えない人の心…そのことに修は気付いていた。他人の子を育てた修の気持ちを聞くことで隆弘の本心が知りたいのだ。
「隆弘は隆平にまったく愛情がなかったというわけではないのです。
他から攻撃を受ければ、隆弘は隆平を庇ったに違いない。
他人には決して隆平の悪口を言わなかったし言わせませんでした。
…孝太さんが前にそう言っていたな。」
修が呟くように言った。
隆平は驚いたように修を見た。
「隆平へのあの暴力は確かに許せないけれど…隆弘は少なくとも自分でお前を殺そうとは思っていなかった。
むしろ…生き延びて欲しいと願っていた。 そのことは僕も信じるよ。 」
隆平も素直に頷いた。
それが愛情であったかどうかは別として隆弘が隆平を護っていたのは事実だ。
あの久松がそう言っていた。
修の携帯が鳴った。
「メールだ。 」
文机の上に置きっぱなしになっている携帯を取り上げ修はメールを読み始めた。
その様子を見ていた隆平の脳裏にひとつの映像が甦った。
高校の入学式の前の日、朝からどこかへ出かけていた隆弘がいつものようにむっつりとした顔で帰ってきた。
玄関をくぐるなり無言のまま、小さな紙の手提げ袋を隆平に渡したのだ。
驚く隆平を尻目に『これが流行だとよ。』、そう言っただけで奥へひっこんでしまった。袋の中には携帯電話や付属品が入っていた。
思いがけない隆弘からの入学の祝いだった。
隆平は熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
あの仏頂面の隆弘がどんな顔をしてどんな思いで祝いを選んでくれたのだろう。
あの時は怖いだけで怯えながら礼だけは言ったが…父親の気持ちにまで思いを馳せなかった。
「修さん…。」
隆平は震える声で修に言った。
「僕…きっと愛されていたんだね…。」
修は微笑んで頷いた。
「父さんは…憎んだり愛したり…それを繰り返していたんだと思う。」
それが真実かどうかはどうでもよかった。
隆平の中で納得できる何かがあれば、隆平は疑問から解放されるだろう。
真っ直ぐ前を向いて歩いていけるだろう。
「修さん…メールは? 」
読んでいる途中で隆平が声をかけてしまったので修は返信しなかったようだ。
「ああ…あれね。 藤宮でなにかあったらしいね…。
でも…急ぎじゃないようだから後で連絡するよ。
さてと…修練はどこまでいきましたかねぇ…。 」
孝太兄ちゃん…。修さんは皆に頼られていつも忙しそうです。
僕にとって三人目のお父さん…そんなふうに思ったら失礼かな…。
でもそんな感じ…。
陽気で、子ども好きで、時々変わったこともするけど、温かい人だよ。
だけどいっぱい悲しいことや辛いことを経験しているに違いありません。
何となく僕には分かります…。
そんな手紙を孝太宛てに書いてみた。けれども隆平はそれを出さずに破いた。
もう甘えた手紙は出さない…。一歩踏み出そう。
先ずははるさんの手ほどきで習った…紫峰式の手紙を書くぞ!
間もなく高校生活最後の年の新学期がやってくる。
隆平は確かに春の足音を感じていた。
二番目の夢 完了
三番目の夢へ
見上げると林の木々のところどころに早咲きの桜がぽつんぽつんと花をつけてい る。隆平はこの細い道をのんびりと散歩するのが好きだった。
この道を何度通ったことだろう。仕事中の修に修練の成果を見せに行くために。
透たちより遅れている分、修が特別に指導をしてくれている。
但し、忙しい修はなかなかまとまった時間が取れないため、修が家にいる時にはいつでも修練においでと言われていた。
あの時修がくれた力は、あの後すぐにまた修が取り上げた。
基礎のできていない隆平が使うには危険すぎるということで、ある程度の力がつくまでお預けとなった。
おかげで気が楽になった。やっぱり実力で手に入れないとね…。
隆平はそう思っていた。
この頃では全く発作を起こすこともなくなり、すっかり紫峰に馴染んだ隆平は、はるとも冗談が言えるまでになり、使用人たちとのコミュニケーションも取れるようになった。
それは紫峰の家族のひとりとして生きる決心をしたせいでもあった。
去年の暮れに孝太が結婚して新しい家族ができた。
結婚する時に孝太は地元に帰ってきて一緒に暮らすかと訊いてくれた。
奥さんも隆平が孝太の子どもであることを知っていて、何にも遠慮せんと戻っておいでと言ってくれた。
それは本当に涙が出るほど嬉しい話だったのだが、もともと親子として一緒に暮らしていたわけではない孝太の新しい門出を邪魔したくはなかった。
気持ちだけ有難く受け取った。
紫峰家の面々は、まるで隆平が生まれてからずっとこの家で生活してきたかのように隆平の存在を受け入れた。
まったく余所者扱いをされない分、はるからびしびしと紫峰家の何たるかを仕込まれ、紫峰宗主の家族のひとりとして遠慮なく仕事を任されもした。
はるという教育係がいる分だけ、鬼面川にいた頃よりも行動規制や躾などの指導は厳しくはなったけれど、精神的には誰に気兼ねすることも何を怖れることもなしにのびのびと生活することを許された。
透や雅人と一緒に悪戯をして叱られたり、ゲーマーのお祖父さまとお祖父さまの好物餡団子を賭けて対戦したり、成績表に一喜一憂したり…そんな普通の生活を当たり前に楽しめることが隆平にとっては夢のようだった。
昼間は、多喜に取り次いでもらうのが面倒であれば、屋敷の裏に廻って居間側のテラスからそのまま修のところへ行けばよかった。
修は、たいてい居間の文机で仕事をしていているので、わざわざ玄関から遠回りしなくても済む。
屋敷に一歩踏みいれた時、いつもと違ってパソコンのキーを叩く音がしないのに気付いた。
文机の上に突っ伏している修の姿を見つけた。修は眠っているようだった。
そっと近付くと修の前には写真が置かれてあって、中学生くらいの男の子が笑ってこっちを向いていた。
時々肩が震えて、眠っている修の睫毛を濡らしながら、一筋…また一筋と涙の滴が流れ落ちた。
見てはいけないものを見てしまったような気がして隆平はその場を立ち去ろうとした。
その気配に修は目を覚ました。
「ああ…ごめん。 うっかり眠ってしまった。 」
修はいつもの笑顔で隆平を見たが涙の後は消えてなかった。
「招待状を…作っていたんだよ。 冬樹の追悼会のね。
早めに作って出しておこうと思ってさ…。
どれだけ月日を重ねても…胸が痛いよ…。 」
修は寂しそうに言った。
冬樹が透や雅人の親違いの弟だということは聞いていた。透にとっては父親が、雅人にとっては母親が違う兄弟だ。
この子も生まれてすぐに親を亡くして修の手で育てられたが、不幸にして中学三年になったばかりで酷い事件に巻き込まれて命を落としたという。
子煩悩な修にとって身を切られるより辛い思い出だ。
透や雅人からその時の修の様子を聞いていたので、隆平はできるだけ冬樹のことには触れないでいた。
本当は修から訊きたいこともあったのだけれど…。
「冬樹は…力らしい力を持ってなかったんだ…。
僕が護ってやらなきゃいけなかったのにね…。
24時間べったりくっついてでも護ってやればよかったんだ…。
…馬鹿だなぁ…そんなことできやしないのに…言っても仕方ないよな…。 」
修は自嘲した。
「そんなに子どもが可愛いの? 自分の子じゃなくても? 」
隆平は修につられて思わず訊いてしまった。
修はこれ以上の笑みはないというくらい温かい笑みを浮かべた。
「可愛いさ…。
子ども育てるのは口で言うよりかずっと大変だけど、育つの見てるだけで報われるね…。
やっとここまで育ったかって感じた時のなんとも言えない満ち足りた気持ち… 幸福感がいいよ。 」
そんなもんかなあと隆平は思った。隆弘はあまり表情を変えない男だった。
隆平を殴ったり蹴ったりする時以外はいつも仏頂面で過ごしていた。
隆弘は…どう感じてたんだろう?
「そりゃあもう手が掛かって仕方がないし、ほんとうるさいの何の…少しは言うことを聞け!とか怒ったりもするんだけど…。
こいつらいなけりゃもっと自分の時間が取れるのに…とかさ…。
だけど居ないと物足らないし…寂しいわけよ…。
育ったら育ったでとんでもない覗きはするし、一端の口は利くし、生意気でどうしようもないこともあるんだが…。
あ…これはあくまで僕の主観だからね。 」
この人は本当に子どもが好きなんだなぁと隆平は思った。
怒っていない時の隆弘…あまり思い出せない。
暴力の記憶があまりに強烈で他の事は忘れてしまった。
隆平が本当に知りたいのは二度と会えない人の心…そのことに修は気付いていた。他人の子を育てた修の気持ちを聞くことで隆弘の本心が知りたいのだ。
「隆弘は隆平にまったく愛情がなかったというわけではないのです。
他から攻撃を受ければ、隆弘は隆平を庇ったに違いない。
他人には決して隆平の悪口を言わなかったし言わせませんでした。
…孝太さんが前にそう言っていたな。」
修が呟くように言った。
隆平は驚いたように修を見た。
「隆平へのあの暴力は確かに許せないけれど…隆弘は少なくとも自分でお前を殺そうとは思っていなかった。
むしろ…生き延びて欲しいと願っていた。 そのことは僕も信じるよ。 」
隆平も素直に頷いた。
それが愛情であったかどうかは別として隆弘が隆平を護っていたのは事実だ。
あの久松がそう言っていた。
修の携帯が鳴った。
「メールだ。 」
文机の上に置きっぱなしになっている携帯を取り上げ修はメールを読み始めた。
その様子を見ていた隆平の脳裏にひとつの映像が甦った。
高校の入学式の前の日、朝からどこかへ出かけていた隆弘がいつものようにむっつりとした顔で帰ってきた。
玄関をくぐるなり無言のまま、小さな紙の手提げ袋を隆平に渡したのだ。
驚く隆平を尻目に『これが流行だとよ。』、そう言っただけで奥へひっこんでしまった。袋の中には携帯電話や付属品が入っていた。
思いがけない隆弘からの入学の祝いだった。
隆平は熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
あの仏頂面の隆弘がどんな顔をしてどんな思いで祝いを選んでくれたのだろう。
あの時は怖いだけで怯えながら礼だけは言ったが…父親の気持ちにまで思いを馳せなかった。
「修さん…。」
隆平は震える声で修に言った。
「僕…きっと愛されていたんだね…。」
修は微笑んで頷いた。
「父さんは…憎んだり愛したり…それを繰り返していたんだと思う。」
それが真実かどうかはどうでもよかった。
隆平の中で納得できる何かがあれば、隆平は疑問から解放されるだろう。
真っ直ぐ前を向いて歩いていけるだろう。
「修さん…メールは? 」
読んでいる途中で隆平が声をかけてしまったので修は返信しなかったようだ。
「ああ…あれね。 藤宮でなにかあったらしいね…。
でも…急ぎじゃないようだから後で連絡するよ。
さてと…修練はどこまでいきましたかねぇ…。 」
孝太兄ちゃん…。修さんは皆に頼られていつも忙しそうです。
僕にとって三人目のお父さん…そんなふうに思ったら失礼かな…。
でもそんな感じ…。
陽気で、子ども好きで、時々変わったこともするけど、温かい人だよ。
だけどいっぱい悲しいことや辛いことを経験しているに違いありません。
何となく僕には分かります…。
そんな手紙を孝太宛てに書いてみた。けれども隆平はそれを出さずに破いた。
もう甘えた手紙は出さない…。一歩踏み出そう。
先ずははるさんの手ほどきで習った…紫峰式の手紙を書くぞ!
間もなく高校生活最後の年の新学期がやってくる。
隆平は確かに春の足音を感じていた。
二番目の夢 完了
三番目の夢へ