徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

続・現世太極伝(第百四十五話 嬉しくねぇなぁ…。 )

2010-08-23 21:17:17 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 日本庭園の池のような大きな湯船…趣向を凝らしたその造作に…プールだっ!…と歓声をあげながら駆け出していく子供たち…。
揃いも揃って今にも飛び込みそうな勢いだ…。

違う違う…これでも風呂なんだから暴れちゃだめっ…飛び込み禁止っ!

やんちゃな後ろ姿に慌ててストップをかけながら、西沢は足早に小さな背中を追った…。

 宿を囲む木々の闇の中に、湯の流れ出る音と季節の奏でる音だけが飲み込まれていく…。
灯籠の仄かな明かりに照らされて、乳白色の柔らかな湯気に包まれた小さな身体が四つ浮かんで見える…。

隙間無く星を鏤めたミッドナイトブルーの無限スクリーン…。
子供たちは呆然と空を見上げている。

慧勠(エリク)がそっと天に向かって手を伸ばす…。
溢れるほど光に満ちた空が不思議でたまらないようだ。

亮と温泉に行った夜も…こんな星空だった…。

ふと…そんなことを思い出した。

にわかに肌を擽る冷気…初秋とはいえ…やはり山間の夜風は冷たい…。

「風邪ひくから…少し湯に浸かりなさい…。」

子供たちにそう声をかけて、西沢自身も石造りの湯船に身を沈めた。
心地よい湯のぬくもりの中で、うんと手足を伸ばす…。
思わず知らず…ふうっと息が漏れる…。

 あの日までは他人のふりをしていた…。
突然かかってきた親父の電話で実の兄だと知られてしまった…。
星を見上げながら真実を告げたんだ…。

それももう…遠い昔…光陰矢の如し…だな…。

 子供たちは言われたとおりに一旦は湯に浸かったものの、あっという間に飛び出して所狭しとはしゃぎまわっている。
公園の人工池で水遊びでもしているかのような大騒ぎ…離れ客室専用の露天風呂でなければ即苦情がきそうだ…。

あ~ぁ…もぅ…風邪引いても知らねぇぞ…。

そう嘆きながらも楽しげな子供たちの様子に次第に頬が緩んでくる…。

いいなぁ…こういうのも…。

ノエルと輝が与えてくれた悪戯な天使たち…。
輝が逝ってしまって…西沢が想い描いていたものとは少しばかり違う形になってしまったが…それでもやっと手に入れた本物の家族との暮らし…。

僕と恭介と…ノエルと子供たち…輝とあの子が居ればパーフェクトだったのにな…。
うまくいかないもんだなぁ…。

心の中の輝がクスッと笑う…。

「人間はお星さまになれる…? 」

何を思ったのか…唐突に絢人(ケント)がそう訊ねた…。
瞬時…西沢は言葉に詰まった…。

「ママと赤ちゃんはお星さまになった…って倫祖母ちゃんが言ってた…。」

そうか…それで…お星さまが見たい…と言い出だしたのか…。

子供たちをこの温泉に連れて来たのは、絢人がいっぱい星の見えるところに連れて行って欲しいとせがんだからだった…。

「ケントは…どう思う…? 」

絢人の瞳を覗き込むようにして西沢はそう訊ねた。

「わかんない…けど…お星さまは遠過ぎて…ケントの傍に来られないよ…。
ほら…見えるけど…届かない…。 」

背伸びしていっぱいいっぱいに手を伸ばしながら絢人は言った…。

「ママはいつもケントの傍に居る…ケントには見えないけどママには見えるんだって…。
傍に居るんだから…お星さまにはなれない…ノエルはそう言ったよ…。

花蓮さんのマンションの屋上でも…届かなかった…。

それにね…ケントが見ると…お星さまはいつも違う場所に居る…。
お星さまは動くんだよ…。

じっとケントを見てるなら…動かない…。 」

 ある日突然…目の前から消えてしまった母親…。
まだ…死の意味も理解できない年…言葉にできないほどショックを受けたに違いない…。
幼いなりに絢人は懸命に考えて、どうにか納得できる答えを見つけようとしているのだろう…。

「ケント…今…ママが何処に居るか…ほんとうのところは誰にも分からないんだ…。
ママの姿はもう僕等の目には見えないから…。

でもね…ママはケントのことをちゃんと見ていると思う…。
ノエルが言うようにケントの傍に居て…ケントを護ってくれているのかもしれないよ…。

ケントのことが大好きだからね…。 」

 絢人は輝の血を引く能力者…その場凌ぎのいい加減な誤魔化しは通用しない…。
祖母である倫の昔風な慰め方の是非はともかくとして、倫よりノエルの答えの方が正しいと感じたに違いない…。

「ふうん…誰にも…わかんないか…。 見えないからか…。 
でもやっぱり…ママはお星さまになってない…。
あとで教えてあげよう…っと…。 祖母ちゃんきっと驚くな…。 」

 ずっしりと星を湛えた空…届きそうで届かない手…自分自身でそれを体感することで…絢人はひとつだけ満足できる答えを導き出したようだ…。
すべてを解決するにはまだまだ長い時間がかかりそうだけれど…。

カニっ!
カニが居るよっ!

 露天風呂を囲っている塀に近い岩の辺りで吾蘭(アラン)が嬉しそうに大声をあげた。
絢人はその声に釣られるように慌てて吾蘭の手招きする方へと向かった。
来人(クルト)と慧勠がもの珍しげに吾蘭の手許を覗いている。

お湯でも平気なのかなぁ…?

あちゅいとこ…いれてみゆ…?

え~っ…死んじゃうよ~。

「ねぇ…どうしてお風呂にカニが居るの…? 
これ…お湯ん中に入れても大丈夫なカニ…? 」

ひょいと蟹を摘み上げ、離れたところに居る西沢にも見えるように差し上げながら、吾蘭が大声で訊ねた。

「あぁ…多分…外の川から上がって来たんだよ…。
湯なんかに入れちゃだめだ…茹で蟹になっちゃうからな…。
よく観察したら放してあげなよ…。 」




 障子の向こうからぼんやりと漏れ来る光…月明かりなのか…それとも外灯か…。
離れの客室を囲む和風の庭園には景観と安全上の配慮を兼ねて幾つもの外灯が備え付けられてある。
邪魔にならない程度の穏やかな灯りだが…気になり始めると鬱陶しくって仕方がない。
幾度目かの寝返りの後…眠れぬ自分を持て余した西沢は大きな溜息をついた…。

手を伸ばして枕もとの携帯を取る。

まだ…11時にもなっていない…。

 遊び疲れた子供たちを隣の部屋で休ませたのが9時少し前…。
仕事の都合で遅れてやってきた滝川が如何にも眠たげな様子だったので、大人も早々に寝ることにしたのだが、蒲団に入ってすぐに寝息を立て始めた滝川とは逆に西沢はなかなか寝付かれなかった…。

 目を閉じると、届かぬ星に手を伸ばす絢人の様子が目に浮かんで、つい要らぬことを考えてしまう…。
大人たちが良かれと思って絢人にかけた慰めの言葉が、残念なことに、幼い心に少なからず戸惑いを生じさせてしまった…。
それでも絢人を包む周囲の人々の温かな気持ちは決して絢人に悪い影響を与えたりしないはずだ…。

 西沢には言葉に疑問を抱くほど慰めてもらった記憶が無い…。
誰も傍に居なかったのだから…捨てておかれた…というのが本当かも知れない…。
尤も、実母絵里が亡くなった経緯を思えば、養父も絵里の事故死に関わった妻子のケアで手一杯、西沢を看るどころの騒ぎではなかったことだろう…。

絵里と暮らしていた旧西沢邸の離れの部屋にたったひとり…。
屋敷を崩壊させるほどの大パニックを起こすまでは…誰も西沢に目を向けなかった…。

 無論…当時の記憶などすべてがおぼろげなものだ…。
けれど…その時に味わった底知れぬ恐怖と理由の分からぬ怒り…は…今の西沢の中にも消えずにある…。

いい加減にしろよ…。 まったく情けないやっちゃ…。 
こんなこと…いつまで覚えていても仕方ないじゃないか…。

 再度の溜息とともに西沢は起き上がり、障子の向こうの広縁に出て、閉め忘れたらしい厚手のカーテンを引いた。
外からの光は遮断され…非常灯と誘導灯の僅かな灯りだけが残った…。

ケントが元気に過ごせるようにしてやることだけ考えていればいいんだ…。

 暗闇の中で枕を放り出して、うんと手足を広げ、蒲団の上に大の字になった。
目が慣れてくると、いつの間にか滝川が目を覚ましてこちらを見ているのが分かった。

「ごめん…起こしちゃったな…。 」

ごそごそ動いてうるさかったろ…と西沢は言った…。

何の…と滝川は軽く微笑んだ。

「早くに寝過ぎて目が覚めただけさ…。 」

それはいつもの優しい嘘…。
ノエルが急用で来られなくなって、急遽、休む間もなく出先から駆けつけた滝川…疲れているに違いないのに…。

「ケントのことが気になるか…?
おまえも幼い時に母親を亡くしたから…どうしても境遇を重ねてしまうよな…。 」

努めて穏やかな口調で西沢に話しかける…。
西沢の何処かにまた新たな変調の兆しがないか…を確かめながら…。

「ケントには…ノエルがついている…。
大丈夫…ノエルは立派にケントの親父してるよ…。
僕はただ…ノエルの後押しをしてやるだけ…。

 結果的に輝は…いい男をを選んだってことだ…。
僕みたいなどうしようもない…いじけ虫…じゃなくてさ…。 」

いじけ虫…まさにぴったり…西沢はフッと笑った…。

「ノエルを選んだわけじゃないさ…。 利用したんだ…。

 輝にとって出自の違うおまえとの結婚は避けて通れない問題山積…障害物だらけで決心のしようもなかった…。
まぁ…仮に如何にかなったとして…おまえが特別な血統だってことを別にしても…結局のところ…輝の性格じゃ西沢家とはまったく反りが合わないだろうけどな…。

 だから…ノエルの子供を産むことにした…。
ノエルという媒介を通して…おまえとは切れない絆ができる…。
子供同士が実の兄弟だという確かな絆が…ね。

輝はそういう形を選んだ…。

言ってしまえば…僕だってそうだ…。
ノエルにエリクを産んでもらうことで…おまえとの間に絆を結んだ…。

利用する…なんて言葉は悪いけどもな…。
ノエルはすべてを承知の上で輝と僕に協力してくれたんだし…。」

それほど…おまえと離れたくなかったってことさぁ…。

最後のフレーズの…甘ったるい声が西沢の臍の辺りを擽る…。

その声はやめろ…っ!

げんなりしたように西沢が言う…。

滝川は声をあげて笑った…。

問題なし…だな…と…胸の内で安堵の息を吐いた。

 以前に比べれば西沢の状態はかなり落ち着いている…。
長年付き合ってきた輝が非業の死を遂げ、同時にせっかく輝との間にできた娘も失って、このところ散々な想いをしていたにも関わらず、普段と変わらぬ冷静さを保ち続けている…。

 西沢の中の4歳の紫苑もようよう成長を始めたのかもしれない…。
幾つになっても衰えを見せない祖母譲りの秀麗な横顔を見つめながら…そんなことを思った…。

 西沢の実母は早世したので面識はないが、滝川が高校生くらいの頃まではまだ巌もカタリナも元気で、西沢本家に遊びに行った折に何度か会ったこともある。
子供だったから…御祖母ちゃんが外国人なんてかっこいい…くらいにしか考えていなかったのだが…。

「結婚…と言えばさ…巌御大は何でカタリナ御祖母ちゃんと一緒になれたんだ…?
西沢本家の後継者ともあろう人が外国人との結婚なんて、一族から猛反対されそうな気がするけど…? 」

ふと滝川の脳裏にそんな疑問が浮かんだ…。

「あぁ…それね…。 話したことなかったか…?
祖父は曽祖父が高齢になってから迎えた後妻の子だったので、西沢家の後継候補からはずれてたんだ…。 」

高齢…っつっても…50ちょっと前頃だったかな…?
細かいことはあんまり覚えてないや…。

少しばかり自信なさげに西沢は言った。

「えぇっ? あの巌御大が家族から差別されてたってぇの…? 」

意外な逸話を聞いて滝川は思わず驚きの声をあげた。

とても信じられねぇ…あの御大には誰も逆らえんかった…って聞いてるぞ…。

「そういうことじゃなくて、曾祖父と先妻との間にはすでに成人した子供が4人も居たから、最初のうち祖父は自由の身だった…ってこと…。
後継はとっくに長男に決まってたんだよ…。

 ところがさ…いざ曽祖父が亡くなってみると、長男のところには子供がなくて、次男は病弱で独り身、養子に出した三男には先方の跡取りとなる男の子がひとりだけ、嫁いだ長女には男女ふたり子供はいるが、どちらも後継としての能力を持っていない…ってな状況で…。

 急遽、親子ほども齢の離れた長男が祖父を養子にした時には、すでにカタリナ御祖母ちゃんと結婚した後だったってわけ…。
御祖母ちゃんは外国人だけど能力者だし…厄介な家門もついてないし…で…まっいっか…ってことになったらしい…。 」

怜雄から聞いた話によれば…だけれどもね…と…西沢は付け加えた…。

「なるほど…それでか…。 」

滝川は頷いた。

 西沢を実の父親である木之内家の有から騙し取り、自由を奪って閉じ込めた張本人である祖父巌…。
愛情を注いだとは御世辞にも言えないが…西沢に莫大な財産を遺した…。
それも…他の孫たちとは桁違いの…。

「それでか…って…? 」

怪訝そうに西沢が訊き返した。

「巌御大の次兄さんは…多分…その後元気になったか…所帯を持ったかしたんじゃないか…?
そうなると西沢一族は次兄さんの立場を考えるようになる…。
御大はそのまま後継で仕方がないとしても…その後を次兄さんの希望する誰か…例えば次兄さんの実子なり養子なりに…と言い出したかもしれない…。

 御大がすんなり子息の祥さんを後継とするには…次兄さんと一族を黙らせるだけの何か大きな拠り所が必要だったんだ…。
裁きの一族の本流の血を引く紫苑が生まれたことは御大にとってはまさに渡りに船…。
祥さんの養子にしておけば誰も祥さんの地位を脅かすことはできなくなる…。

 ところがそんな折に祥さんの妻である美郷さんが絵里さんを事故死させた…。
祥さんの将来を思えば…真実は絶対に隠しとおさねばならない…。
養母が実母を死なせたなんてことが知れれば紫苑を有さんに返さなければならなくなる…。

そこで…有さんには自殺…表向きには薬の飲み過ぎによる事故死…としたわけだ…。」

まぁ…これは推理に過ぎんけども…それほど外れた話じゃないと思うぜ…。

眠気も吹っ飛んだか…少々興奮気味に滝川は言った…。

「母が自殺を図ったのは…事実だけどね…。 
電話で相庭にふられた直後…あれは完全に衝動的な行動だった…。

にしても…そうか…なるほど…それで祖父や養父の僕に対する異常な執着心の正体が分かったよ…。 」

 祖父が西沢を閉じ込めて他家に対して威光を示す手段としていることには、内心腹ふくるる思いもあったし、養父が告白した亡き妹への愛情ゆえの執着には、如何にもやりきれないものを感じていた。
けれども、養父の後継としての地位を確固たるものとするという実利を追ったものならば、閉じ込められた身として喜ばしくはないものの、方策としては納得できる…。

「相庭のこともさ…おかしいとは思っていたんだ…。
あの用心深い御大がわざわざ裁きの一族から御守役の相庭を招いてまで紫苑を確保しようとしたこと…。
気付いていたかどうかは分からんが相庭は宗主の密命を帯びた御使者…巌御大にとっちゃ何時破裂するか分からない爆弾を抱えるようなもんだぜ…。

だから紫苑はさ…巌御大と祥さんにとっては要らない子どころか如何あっても手放せない大事な御宝だったんだ…っ! 」

大発見をして喜びを隠せない子供のように滝川は声を弾ませた。

「期待しちゃなかったけど…あんまり…嬉しくねぇなぁ…そんな存在意義は…。
祖父もちゃんと事情を説明してくれれば良かったのに…。 
育ててもらってるんだから御養父さんの役に立て…とでも言ってもらった方が…ずっとマシ…。 」

僕にとっては実の父以上の人だったけど…養父にとって僕は…なんだったんだろうね…?

そう言って…少しばかり寂しげに西沢は笑った…。






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続・現世太極伝(第百四十四話  遺言  )

2010-03-07 18:13:44 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 究極の回答を迫られて即答できるわけもなく、鼓動の音だけが耳の奥で激しく響いていた…。
そうだ…とも…違う…とも…答えようがない…。
それでも、とりあえず、この場は滝川を思い止まらせなければならない。
その選択が正しいにせよ…正しくないにせよ…。

 「紫苑を見張っていろ…というのは…そういうことだったんだ…?
てっきり…僕等の目を先生から逸らさせるための方便だとばかり思ってた…。 」

それもないわけではなかったろう。
現に滝川は今、誰にも内緒でとんでもない行動に出ようとしている。

 細胞の塊…と滝川は言った。
たとえどんな状態であっても、生後間もない赤ん坊をただの細胞などという感覚で捉えることは亮にはできない。
月足らずで生まれて、まだ顔立ちもそれほどはっきりとはしていないが、歴とした人間の子であることには違いない…。

 それに…紫苑にとって如何に酷な選択であろうと…その答えは…やはり父親である紫苑が出すべきではないのだろうか…。
滝川の不安も分かるが、紫苑はそれができないほど弱い男ではない。

「紫苑のためだとしても…紫苑に無断で先生が手を下すのは…どうかと思う…。
この子は紫苑の子だし…脳死といっても…心臓とか…まだ動いているんでしょう…? 」

弱腰ながら…否定してみる…。

「脳死…? それも…少し違うな…。 言ったろう…細胞の塊だって…。
たくさんの細胞が集まって赤ん坊の形をしているだけで…細胞のひとつひとつがエナジーを吸収しながら独立して生きている…そういうこと…。

普通の赤ん坊のように脳が指令を出して細胞全てが相互に連携しながら生命維持活動しているのとは違うんだ…。
まぁ…脳幹部分が僅かにでも働いていれば…その可能性がないわけじゃないが…まずないね…。
細胞ひとつひとつが生き残るのに必死だろうさ…。

こういう形をしていると…分かりづらいよな…。
はっきり言えば人間型の細胞の集合体だけれど…人間として成り立っていない…。
もともとは人間の赤ん坊だったけれど…変質してしまったと言うべきかな…。 」

如何にしてそうなったのか…は…分からないが…と滝川は締め括った…。

そんな馬鹿な…それなら呼吸器も点滴も意味ないじゃないか…。

今一度小さな身体に眼を向ける。
急に…訳の分からない恐怖に襲われて背筋に冷たいものを覚えた…。

「だとしたら…北殿は何故…気付かなかったんだろう…?
輝さんの御腹からこの子を取り上げてノエルの御腹に移した時も…早産しかかったノエルの御腹から取り上げた時も…北殿はこの子に直接触れているんだし…。 
宗主も一目置くくらいの能力者なのに…。 」

手の中の赤ん坊の気を読むくらいのことは朝飯前のはず…そう思うと余計にぞっとした…。

「思い込み…ってやつかもしれん…。 或いは…不審に思いながらも周りの雰囲気に呑まれ勢いに流されたか…。
赤ん坊が生きている…って…あの時は誰もが興奮状態だったからな…。
助ける方法ばかりに頭が行ってしまって、僕自身、この子がどういう状態にあるかは調べてもみなかった…。

僕が気付いたのはこの子がノエルの御腹から出てきてからだ…。
それも最初から確信があったわけじゃなくて…だんだん疑いを抱くようになった…。

それまでは…この子と輝を殺した犯人…紫苑の心がどちらに囚われているか判断つきかねてた…。
知ってのとおり端は…犯人か…とも思って気を向けていたんだが…それどころじゃなくなったさ…。

飯島院長は多分…ノエルの御腹の中に居る時すでに何らかの異常は感じていただろう…。
あまりに不可解なので院長もどう判断していいか困惑したんじゃないか…。

紫苑がわざとこんな奇怪なことをしたとは考えられない…。
あの時…輝の御腹で太極の気配がする…と言い出したのは紫苑だが…当の紫苑でさえ…それが自分自身であることに気付いてたかどうか…。

何処かの過程で予想もつかないとんでもない手違いが起こったんだろう…。 
どう対処すべきか…今はまだ…迷っているんだと思う…。

最初は…紫苑の答えを待とうと考えていた…。
紫苑の判断を確認したその上で…動けばいいと…。

けれど…間の悪いことに天爵さまに気付かれてしまったんだ…。 
口の堅い天爵さまのことだから誰にも話しはしないだろうが…このままいけば遠からず他の能力者にも分かってしまう…。 」

我娘可愛さにこんな馬鹿げたことをしでかした…と思われちゃ…紫苑の立場がなくなるだろう…?

それは…そうだ…と…力なく亮は頷いた…。
軽く眩暈を覚えるほど亮の中の心臓が暴れている…。
ふうっと溜息をつくと崩れるようにソファに腰を下ろした…。

それで…か…。
赤ちゃんを見る目がいつもと違う…のは…。
紫苑は気付いているんだ…。

「それでも…先に紫苑と話し合うべきだよ…。
如何してこんなことが起きたのか…この子を如何したいのか…ちゃんと確認するべきなんだ…。

親族として…僕は認めない…。
先生が紫苑に無断で事を運ぶなんて…絶対に認めないよ…。 」

精一杯…語気を強めた…。

認めていいわけがない…。

滝川との間に妙に張りつめた空気が漂った…。



 次の言葉を探し出せないで居る間…重苦しい沈黙が続いた…。
このまま…どれほど話し合ったところでお互いの望むような回答が得られないことは明らかだった…。

不意に…滝川が特別室の扉の方に眼を向けた…。
亮の目もその後を追った。

 ゆっくりと扉が開き…西沢が姿を現した…。
その背後に…青い顔をしたノエルが呆然と立っている…。
ノエルの様子から察するに…気配を消してずっと滝川と亮の会話を聴いていたに違いない…。

「手を汚すな…恭介…。 これは…僕の過ちだ…。 
おまえにどうこうしてもらうようなことじゃない…。
僕自身が方を付ける…。

まさか…こんなことが起こるなんて…考えてもみなかった…。
僕はただ…輝を救いたかっただけなんだ…。 」

そう言いながら…西沢は二人の居る方へと近付いてきた…。
透明な保温ケースに覆われた我子の前で立ち止まり、そっと中を覗きこんで赤ん坊に何の変化もないことを確認すると、救われないほど哀しい溜息をついた…。

「もっと早く…気付くべきだった…。 
あの状態で胎児が生き延びる可能性など…万にひとつもないんだってことに…。
輝の胎内で反応しているエナジーは僕自身のものだと…。

相変わらず…抜けてる…。

少なくとも…ノエルの胎内に移動させる前に気付いて止めるべきだったんだ…。
そうしていれば…ノエルに辛い想いをさせずに済んだし…恭介を悩ませることも亮に不安を抱かせることもなかった…。 」

予想外の結果を目の当りにして、悔恨の色を隠せない西沢の背中が切なげで、見ている方の胸が痛んだ…。

「それは…紫苑さんのせいじゃないよ…。
助けよう…って…僕が勝手に言い張ったんだから…。
あの時…紫苑さんも先生もちゃんと止めたじゃない…危険だからって…。 」

慰めにもならない…と知りながらノエルは何か言わずにいられなかった。
二人が止めるのを押し切った自分にだって責任はある…そう感じていた…。

「誰のせいか…なんて今はどうでもいいことだよ…ノエル…。
偶発的に奇妙な現象が起きただけで…誰も悪いことなんかしていないんだから…。
はっきりさせなきゃいけないのは…原因と結果…そして今後の対処方法…だ…。

何があったのか話して…紫苑…。 」

 このまま…お互いに自分の行為を責め続けるだけでは先へ進めない…。
先ずは其処から抜け出さなきゃ…と…亮はあえてノエルを黙らせた。
西沢を気遣うノエルの気持ちも分からないではなかったが…。

身内のことであるだけに、ともすれば感情に流されそうな心を奮い起こし、できる限り客観的に事実だけを捉えようと努めた。

さすがに西沢は何時までも後悔のカオスに浸っているような愚行はせず、亮に向かって頷くとあっさり口を開いた。

「輝の声が聴こえた時…非常に危険な状態で一刻を争う…と僕は感じた…。
はっきり言えば…だめかもしれない…とも…。

 けれど…そう簡単には諦められなかった…。
僕の場合がそうだったように…ほんの僅かでも輝に息があれば…エナジーを補給することで少しの間持たせることができるかもしれない…。

どれほどの効果が期待できるか分からなかったが…とりあえず僕等が現場に駆けつけるまでの応急処置として送ってみたんだ…。

それから恭介とノエルに輝の急を告げた…。 」

 滝川とノエルはお互いに顔を見合わせた。
仕事部屋から飛び出してきた西沢の蒼ざめた顔を、ふたりはまだはっきりと覚えている。
すぐにでも飛び出していこうとする西沢を滝川が止めたのだ。
知らせが来るまで待つようにと…。

「病室で輝を見た瞬間…僕のしたことに何の意味もなかったことが分かった…。
いろんな想いが溢れてきて…役立たずのエナジーのことなど頭から吹っ飛んだ…。
吸収されなかったエナジーは残留せずに消えてしまう…何処かでそう思い込んでいたのかも知れない…。
そのすべてが胎児に取り込まれていたなんて…そんな不可解な現象…今でも信じられない…。

 何を血迷ったか…輝の胎内から僕の良く知っているエナジーを感じ取った時…それを太極のものだと錯覚してしまった…。
落ち着いて考えれば…明らかにそれは僕自身のものだったのに…。 」

 深い悔悟と自責の念がその言葉後から伝わってくる…。
西沢の気持ちを思うと、聞いている亮の方が遣る瀬無くなってくる…。

何だって運命はいつも紫苑に過酷なんだろう…?

 亮はそっと周りを窺ってみた…。
滝川もノエルも黙したままだが、西沢の過ちを責めているわけではない…。
あの絶望的な状況の中で、胎児生存の可能性に心躍らせ、真実を見誤ったとしても、誰が西沢を批難できるだろう…?

 確かに、西沢の言葉をきっかけにして、ノエルが自分の身体を使って胎児を助けると言い張り、滝川も手を貸すことになりはしたが、だからと言って、西沢にすべての責めを負わせるのは酷な話だ。
少なくとも治療師である滝川には西沢の言葉を完全否定できるだけの能力が備わっている。
あの場で客観的な判断を欠いたことを滝川は悔やんでいるに違いない…。

 輝の死を受け入れられなかったのは…おそらく西沢だけではない…。
滝川やノエルもまた…儚い希望に目を曇らせて…真実を悟ることができなかったのだ…。

奇跡なんて…そう頻繁に起こるものじゃないことくらい誰もが…分かっていた筈なんだ…。

それでも奇跡に縋りたいのが人間の性なのかもしれない…。
せめて胎児の命だけでも…と…なりふり構わず努めた結果が裏目に出てしまった…。

いや…これも奇跡といえば…言えなくはないか…。

「…あの時は…僕もそう感じた…。 思い込みとは…そういうものかも…な。
紫苑だけじゃなく…僕もノエルも…北殿でさえこの子が生きていると信じて疑わなかったんだ…。 」

滝川がやっと口を開いた…。

「この子のほとんどの細胞が生きていたからだ…。
今思えば…何かに動かされていた…と言った方が正しいのかもしれないが…。
心臓の細胞は勝手に脈打ち、輸液を送り、その他の細胞が其処から栄養成分を吸収した。
それらを制御する脳細胞は崩壊しているのに…。」

 そのようなことが如何して起こりえたのか…?
飯島院長が匙を投げたぐらいだから…誰にも説明がつかない…。
それこそ…奇跡としか言いようがない…。

「輝さん…じゃ…ないかな…?
輝さんが母親として…遺していった力だったのかもしれない…。」

不意にノエルが突拍子もないことを言い出した。

「紫苑さんの赤ちゃんだもの…きっと…どうしても産みたかったんだよ…。
トラブルの種になるから紫苑の子供は産まない…なんて表向きは言っていたけど…紫苑さんのことずっと愛してた人だから…。
多分…この子が生まれたら僕の子ってことにして…輝さんの同族には知れないようにカムフラージュするつもりだったんだ…。

あっ…だから…僕との入籍も…考えておくわ…なんて…。」

 その瞬間…西沢の眼から涙がこぼれ落ちたのを…亮は見逃さなかった…。
輝が亡くなって以来…西沢が初めて流した涙…。

西沢の…この奇妙な娘の…存在の意味…。

「この子が…輝の最後の言葉…だ…。
良かった…紫苑…答えが見つかったな…。」

少し言葉を詰まらせながら滝川が言った…。
滝川の眼にも光るものがあった…。

 無論、即死だったはずの輝に、そんな余力があったとは考え難い。
治療師としては、その可能性を否定して然るべきだ。
それでも…お互いに天敵と呼び合いつつも頼り合える仲間であった滝川には…輝ならそうするかもしれない…という想いがあった…。
最後の能力を振り絞って…西沢のために答えを遺した…と…信じたかった…。

有難うな…。

心の中で輝に手を合わせた…。

「紫苑が現場に行こうとするのを止めたのは…手遅れだと感じたからだ…。
その時点ですでに紫苑が送ったエナジーは無駄だったということになる…。

無駄だと分かっていても…力を持つ能力者なら誰でも…なんとか仲間や家族を助けようとしてそんな試みをするだろう…。
ノエルが…仮親になる…と言い出したのも同じことだ…。

紫苑だけが特別なわけじゃない…。 」

そう言って滝川は窘めるような眼で亮を見つめた。
御使者としての詮索はこれ以上無用…そう言い放つかのように…。

やだなぁ…そんなつもりはないのに…。
心配なだけさ…僕は紫苑の実の弟なんだからね…。

亮は心外そうに唇を尖らせ、大きく溜息をついた。

「ねぇ…この子…どうなるの…?」

ノエルが不安げに訊ねた。
戻っては来られない…と…此処へ来る前に西沢が言っていたのを思い出したのだ。

その場の視線が一斉に西沢に向けられた。

「このままだよ…。 それも…もうじき終わる…。
僕の与えたエナジーはそんなに多くはない…。
時間の問題さ…。

あの時限り…追加はしていないんだ…。
自然なままに終わらせてやりたい…そう思っていたから…。

恭介…それで…構わないだろう…? 」

そう訊ねる西沢の瞳があまりにも寂しげで、何も言えず滝川はただ頷いた…。








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続・現世太極伝(第百四十三話 培養液の中の細胞 )

2009-10-05 17:51:15 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 輝が生きていたなら…わざわざこうして話すこともなかったかもしれない…。
成り行きのままにノエルは輝と生きる道を選び…この変則的な家族はごく当たり前にこれまでどおり暮らしていけただろう…。

 けれども輝が居なくなった今…ノエルの目はいつ…新しい恋…に向けられるかも分からない…。
ノエルは若く…それも自然なこと…。
これまでノエルの心を抑え縛り付けていた…ノエルの中の女性…はもう居ない…。

「まず…ノエルの本当の気持ちが知りたいな…。
ここに居たいというのは…僕のため…? それとも…子供たちのため…? 」

陳腐だ…と思いながらも…そんなふうに問いかける…。

「違うよ…僕自身の満足度の問題…。 
僕の心の拠所を繰り返し探ってはみたんだけど…他の場所は思いつかない…。
やっぱり…今でも…紫苑さん…なんだ…。
紫苑さんの姿が見えないと…何か妙に落ち着かなくて…。

それにさぁ…何年も一緒に暮らしてきたんだもん…恭介先生や子供たちの居ない生活なんて…全然考えられない…。 
だから…ここで生きていくのが自然だと思う…。 」

生き生きと確信に満ちた溢れんばかりの笑顔…。
野良猫ノエルの面影は…何処にもない…。

結婚…なんてデタラメな手段でも…一応は成功だったってことだな…。

胸の中で西沢は苦笑する…。

なら…僕等の破局はその証…素直に喜ぶべきなんだろう…。

「僕の中の女…が居なくなってしまっても…心って…そんなに簡単に変わるもんじゃないんだね…。
アランたちがもう少し大きくなるまで…なんて…そんな期限付きの望みじゃなくて…ずっとここで暮らしたい…。 」

躊躇いもなく真っ直ぐな視線を向けてくる…。

そう…それはそれで…構わないんだ…。
断わる理由もないし…。
ただ…。

「いつかは…きみ自身が…誰かの拠所になるだろう…。
もう…紫苑…という仮の拠所など必要ないよ…。
僕の役目は終わった…。 」

哀しい…が…仕方がない…。
最初から覚悟の上で漕ぎ出した船…。

「仮…なんかじゃない…。 本物だよ…。
僕等…家族なんでしょ…?
もう…夫婦じゃないけど…二度と夫婦にはなれないけど…。
いいんじゃない…? そういう絆があっても…。 」

家族…ノエルの口からそれが語られると…西沢の心が震える…。
幼い頃から夢見ていたもの…ずっと欲しかったもの…。

輝と出会った時…微かに抱いた期待…。

「あの子が退院したら…また…忙しくなるよね…。
輝さんが亡くなって寂しくなったけど…この家に新しい家族が増えるんだ…。
それも…紫苑さんがずっと望んでた…輝さんとの赤ちゃん…。
最後にひとりだけでも授かって良かったね…。 」

授からなかったわけじゃない…。
輝は…端から授けてくれようとはしなかった…。

期待はいつか…諦めに変わった…。

 子供好きな西沢のために赤ちゃんをプレゼントしたい…とノエルが考えるようになったのも…もとはと言えばそのせいだ…。
そして…ノエルのその想いが西沢にノエルとの仮想現実のような結婚を思いつかせるきっかけともなった…。

「また…紙オムツ…買ってこなきゃ…。 えっと…哺乳瓶なんかはお兄ちゃんたちのお古でいいんだよね…?
産着はエリクのがいっぱい残ってるけど…女の子だから新しくした方がいいのかなぁ…?
今までずっと輝さんにお任せしちゃってたから…何から手をつけていいんだか…。
どうしよう…紫苑さん…? 」

屈託なく微笑むノエル…。
楽しげなノエルの表情とは裏腹に西沢の顔は曇る…。

「あの子は…戻っては来られない…。 」

無表情な声が信じられないことを告げる…。

「えっ…? 」

ノエルは思わず西沢の顔を見つめた…。

「おいで…。 きみには…知る権利がある…。 」




 小さな身体に幾つもの管…痛々しいその姿に胸が痛くなる…。
退院の目途の立たない入院患者…。
新生児ICUを出て…つい先程…いつもの特別室へ移った…。
容態が良くなったわけではない…。
どこに居ても同じだから…便宜上の移動…。
生命維持のために着けられたこれらの管でさえも…実際には役に立っているのかどうか…。

 この部屋へ来てからずっと…輝の遺児を見つめている…。
天爵さまの忠告に…こんなにも動揺している自分が不思議でならない…。
犯行がいつ発覚するかと怯えている犯罪者…そんな感じ…。

何もしちゃ…いないんだけどな…。

滝川の唇から小さな溜息が洩れた…。

そう…まだ何もしちゃいない…。
この期に及んで…迷っている…。

身動きひとつすることのない小さな身体…。
器械の奏でる鼓動のリズムは…医師によって設定されたものに過ぎず…不自然な呼吸もまた然り…。

器械を止めてしまえば…消える命…。
…本当に…消える…だろうか…?

 ノエルの中から取り出されて以来…一度もはずされたことのない維持装置…。
誰もそれを確かめてはいない…。
この装置の御蔭で辛うじて生きているのだ…と誰もが信じているから…。

躊躇している時ではない…。

大きくひとつ深呼吸をする…。
すべての迷いを振り払うかのように…。

管を…はずしてやるよ…。
長いこと辛抱させたけど…必要ないだろ…もう…。

滝川は赤ん坊を覆っている透明なケースにそっと手をかけた…。

「どうかしたの…先生…? 」

背後から亮の声…。

またか…。

背中を向けたまま…苦笑いする…。

「御苦労なこった…。 ずっと監視してたのか…。
犯人には手を出さないと聞いても…それだけじゃ納得しなかったわけだな…。 」

皮肉っぽい笑みを浮かべながら亮の声のする方に顔を向けた…。

「そんなんじゃないけど…この子に対する紫苑の態度が妙だ…とノエルが言ってたんで…ひょっとしたら先生がどうにかしようとしているのは犯人じゃなくて…この子かも知れないと思ったんだ…。 」

努めて平静を保った声…滝川を刺激するまいと感情を抑えているのが分かる…。
滝川の目にはそんな亮の生真面目さが滑稽に映った…。

そんな必要ないのになぁ…僕は至って冷静だよ…。
気持ち的に多少…躊躇うところがないわけじゃないが…。

「誰にも知らせずに…僕ひとりで始末をつけようと思ってたんだが…立会人が居ても悪くはないな…。
きみはこの子の親族でもあるし…。

亮くん…ちょっと此処へ来て…この子の気を探って御覧…。 」

そう言って滝川は手招いた…。
促されるままに、亮は赤ん坊の前に立ち、小さな身体の持つ気を探った…。

「驚いたなぁ…紫苑そっくり…。 さすがに紫苑の子だけあるよね…。 」

それを聞いて滝川は意味ありげな笑みを浮かべた。

「紫苑…そのものさ…。 寸分違わない…。
おかしいと思わないか…亮くん…いくら親子でも完全に同じ…だなんて…? 」

完全に同じ…?

慌てて亮はもう一度赤ん坊の気を探った…。

「同じ…だ…。 どういうこと…?
仮に…この子が紫苑のクローンだったとしても…完全に同じってのは在り得ないんでしょう…? 」

その通りだ…と滝川は答えた。

「僕等にとっては気は指紋のようなもの…いや…指紋以上に正確なものだ…。
たとえクローンであっても厳密には異なった気を持つ…。
この子が紫苑と同じ気を持っている…ということは…この子が紫苑自身だ…ということに他ならない…。 」

そんな馬鹿な…。

亮の背中で恐怖めいた感情が渦巻いた…。

「有り得ない…。 この世に紫苑がふたり居るってことになるじゃないか…。
冗談でしょ…。 紫苑であるわけがない…。 」

そう否定しながらも不安は増すばかり…狼狽を隠せない…。

「あぁ…言い方が悪かったな…。 勿論…この身体はこの子自身のものだよ…。
どうしてそうなったのか…その理由は分からないが…気…だけが紫苑なんだ…。
まぁ…それも…俄かには信じ難い話だけれども…。 」

 滝川はすでに確信を得ているようだが、今の今、赤ん坊の異常に気付かされたばかりの亮としては得心がいかない…。
思い切り悪くも他の可能性を探ろうとする…。

「何かの…間違いじゃないの…? 僕等が気づいてないだけで…微妙な違いがあるとか…さ…。 
他人ならともかく…親子なんだし…。 
他人だって…ほら…紫苑と宗主なんか…そっくりだし…。 」

探れば探るほど…それが現実である…と納得せざるを得なくなってくるのに…。

「HISTORIANの首座とマーキス…彼等の気はまるで瓜ふたつだった…。
あの戦いの最中に最初に現れたマーキスが首謀者というにはあまりに幼なくて戸惑った覚えがある…。
後から首座が出てきたんですぐに違いを把握できたが…あれは酷似してたなぁ…。

 血の繋がりがなくても…気というのは似てくることがある…。
あいつ等の場合はその最たるものだが…この子の場合はそれとはまったく次元が異なる…。
この子の中にある気…生命エナジーの特性は紫苑そのものなんだ…。
しかも…その身体とはまったく同化していない…。
身体の方は単に…紫苑のエナジーを生命維持の栄養素として吸収しているに過ぎない…。 」

淡々とした口調で語られる現実…亮は脳天に一撃を喰らったような気分になった…。
頭がクラクラする…。

「栄養素…? 僕等が感じている気は…本人の気じゃないってこと…? 
じゃぁ…紫苑が瀕死状態になった時…新しい生命エナジーの基盤が出来上がるまでの繋ぎで…英武や怜雄からエナジーを分けてもらったのと同じ状態…?

この子には生命エナジーがなくて…それで…紫苑が自分のエナジーを与えているってこと…?
まさか…そんなの信じられない…。 」

いくらなんでも…生まれたばかりの赤ん坊…だよ…?
ノエルの御腹の中では動いてたのに…?

それとは…ちょっと違うな…滝川は首を横に振った…。

「あの時の紫苑は…宗主の応急処置もあって…辛うじて生きていた…。
激しい消耗のために酷く衰えていたから完全とは言えないまでも…生き延びるギリギリの状況ながらすべてが正常に機能していたんだ…。
だから…もとが英武たちのエナジーではあっても…それは身体に入った段階で紫苑本人のエナジーに近い状態に変換されてしまっている…。

 この子の脳は生きていない…もしかすると脳幹だけは微弱ながら働いている可能性はあるが…それも管をはずしてみて初めて分かることだ…。
ノエルが感じた動きは…多分…何かの反射だろう…。
細胞自体は生きているんだから…。

正常な胎児なら…或いは…新生児なら…原始反射だろう…が…この場合そう言っていいものかどうか…な。
胎内ではノエルのエナジー…産まれ出てからは…紫苑の生命エナジー…この子は他人の生命エナジーという培養液の中に居る細胞の塊…に過ぎない…。

この子の体内にある紫苑のエナジーが尽きてしまえば…それでお終い…。」

培養液の中の…細胞…。

思わずシャーレの中に蠢く細菌のような存在を思い浮かべた…。
目の前の赤ん坊とはあまりにもイメージがかけ離れ過ぎていて実感が湧かない…。

「それを待つべきか…とも考えた…。 天爵さまに指摘されるまでは…ね。
このまま…自然に終わるのがベストだと…。

けれど…終わらなかったら…どうする…?

 紫苑がどの段階で手を差し伸べたか…或いは…何かしようとして失敗したか…は分からないが…万が一…また同じことを繰り返したら…。
普段の紫苑なら…それは有り得ない…と僕は信じる…。
だけど今は…輝を失ってズタボロだし…魔が差すってこともないわけじゃない…。

 それよりもっと悪いのは…紫苑の責任感の強さを考えれば…自ら手を下す可能性が在るってことだ…。
これが手を差し伸べたわけではなく…何かの失敗の結果なら必ず…後始末をつけようとするだろう…。

僕が恐れるのは…その後の崩壊…。 

 回復見込みのない患者に最後の処置をするのは…父親紫苑ではなく…医者である飯島院長か…治療師の僕でなきゃならない…。
院長はすでに匙を投げて…この子をこの部屋に移した…。
ならば…後は僕の仕事…。

そう…思わないか…? 」

すべてをひとりで背負うつもりの滝川に、いきなり背筋も凍るような問いを投げつけられて、亮は返す言葉に窮した…。
亮の中であらゆるものが点滅を始めた…。








続・現世太極伝(第百四十二話 五番目の子供 )

2009-07-20 17:21:17 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 突然襲ってきた下腹の痛みに耐えかねて、ノエルが飯島病院のあの特別室へ運ばれたのは夜半過ぎのことだった…。
まだ産み月でもないのにノエルの子宮はすでに限界…。
緊急の連絡で駆けつけた北殿の不思議な力で、輝の胎児は仮親の産道を通ることもなくこの世に生まれ出で、飯島院長の手で保育器へと移された…。

 8ヶ月までノエルの胎内に置いておければ…万が一未熟児で生まれたとしても何とか無事に育つだろう…。
それが…ノエルと胎児を診断した飯島院長と治療師たちの見解だった…。
けれども…他人の子宮という環境は胎児にとって予想以上に過酷だったのかも知れない…。
標準に満たない小さな身体は見るからに弱々しかった…。

 新生児ICUの保育器の中で管に繋がれた嬰児を…西沢は複雑な想いで見つめていた…。
吾蘭や来人の生まれた時とは違い…まるで映像でも見ているような存在感の無さ…。
嬉しい…というよりは…哀しい…ような…。
それでも嬰児の顔立ちには何処となく思い当たるものがあって…無意識に笑みを漏らした…。

輝…。

西沢が無意識に呟いた名前…。
近くに居た看護婦たちはそれを…五番目の子供の名前だと思った…。



 ノエルの中の女性としての臓器は、機能不全を通り越して存在することさえ意味をなさず、それが何であるかもよく分からないものと化していた…。
朽ちた細胞をそのままにしておけば、後々、ノエルの身体に何らかの悪影響が出てくるかも知れない…。
医師や治療師たちの診立てが一致して、時を置かず、残骸と化した臓器は全て摘出された…。

 太極の化身ノエルはようやく…16歳のノエル…を越えた…。
止まっていた時が再び動き始めた…。


「ちょっと複雑…なんだ…。 事故に遭う前の何も知らなかった僕に戻っただけなのにね…。
これが本当の僕だから…嬉しいはずなんだけど…ってか…めっちゃ嬉しいには嬉しいんだけど…。

 たださぁ…もう…紫苑さんの奥さんでいてあげられないし…子供たちにはママが居なくなっちゃったし…。
それに…紫苑さんに何かあっても…もう生命エナジーの基盤を産んであげることはできないんだよね…。

そこんとこが…さ…。  」

入院の連絡を受けて飛んで来た亮に…ノエルはそう言って溜息をついた…。

「けど…気持ち的には…あんまり変わってないと思うよ…。
紫苑さんの傍で暮らしたい…って想いは消えてないもんな…。 
僕の居場所は…紫苑さんと恭介先生の間…そう決まってるんだ…。 」

変なところで自信有り気だし…と亮は穏やかに微笑んだ…。
口元に少しだけ寂しげな陰を残して…。

「…で…赤ちゃんはどんな具合…? まだ保育器に入ってるって聞いたけど…。
どっちだったの…? もう…名前とか決まった…? 」

そう訊かれてノエルは急に眉を曇らせ声を落とした…。

「女の子…。 それがさぁ…紫苑さんたら…ひかり…としか言わないんだ…。
多分…輝さんの…ひかり…同じ名前…。

僕としては別にかまわないんだけど…ほんとにそれで…いいのかな…って…。 」

 公園の絵の先生…と近所の子供たちに慕われるくらい子供好きな西沢なのに、輝の遺児に対してはこちらが思うほどの感情を表さない…。
ノエルにはそれが不思議で仕方がなかった…。

実子である吾蘭や来人にだけでなく、直接には自分の血を受け継がない絢人や慧勠にでさえ惜しみない深い愛情を注ぐ西沢が、何故か妙に冷めた視線を向ける…。
実の娘だというのに…。

「あの子に会いに行くと…笑顔見せたり話しかけたりしてるから…別に嫌ってるわけじゃないんだけど…。
ほら…なんて言うか…子犬とか子猫なんかを見て単純に可愛いと思う…そんな感じ…なんだよね…。 」

あれほど子煩悩な紫苑さんが…だよ…。

理解し難い西沢の態度にノエルは戸惑いを隠せない…。
どちらかと言えば楽観的なノエルの…これまでになく不安げな様子に…亮も尋常ならぬものを感じ取った…。

「ふ~ん…そうなんだ…らしくないんだ…? 
けど…これまでとは違って嫁さんの妊娠・出産過程ってものがないから…まだそれほど実感が湧いてこないだけなんじゃないかな…?
輝さんのことで…かなりのショックを受けた後だしね…。 」

紫苑はまだ輝の死を受け入れられないでいる…。
滝川の言っていた言葉が亮の脳裏をちらっと掠めた。

もうちょっと様子を見てから考えようよ…。

 そんなふうに亮は答えた…。
仮親になったノエルの気持ちも分からないではなかったが…西沢を問い詰めたとしても…答えは返って来ないような気がした…。

そうだね…。
そうするしか…ないかもね…。

釈然としないまま…ノエルは頷いた…。




 最後の一滴がぽとりと落ちて…滝川自慢のコーヒーに小さな波紋が広がった…。
上出来…と…滝川は胸の内で呟いた…。
珍客を持て成すための一杯…そして滝川自身のための一杯…。
ふたつのカップが特別な部屋のテーブルに並んだ…。

「悪いわねぇ…予約なしで来ちゃった…ってのに…。」

 勧めに従ってカップを手にした珍客は、そう言って突然の来訪を詫びた…。
滝川を指名しての撮影依頼は前以て予約が必要…と…一旦は撮影を断わられたことを気にしているのだ…。
受付嬢が申しわけなさげに釈明しているところに…幸いにも滝川がひょっこり顔を出した…。

「いいんだよ…そんなこと…。
御得意さんが搗ち合わないようにしてあるだけだからさ…。
他の仕事してる時もあるしね…。
あまり長い時間…御客を待たせるのも申しわけないんで…。 」

そう言って滝川は機嫌よく笑って見せた…。

ポートレート…ね…。
コースはいろいろ…所要時間も料金もコースによるんだけど…。

 コース一覧を渡して一応本人の希望を訊いてはみるが…珍客はその立場上VIP料金コースを選ばざるを得ない…。
滝川としては有り難い話だが…見た目からは想像もつかない彼の控えめな性格を思えば…一覧を見せるのが気の毒なような…。

これが…お姉ちゃまならねぇ…何もかも最高クラスで構わないのよねぇ…文句なく綺麗な人だったもの…。
私の写真じゃ…いくら御金かけたって同じよぉ…。

 一般とは桁違いの料金表に溜息をつく…。
別に懐具合が悪いわけではないが分不相応に思えて気が引けるのだ…。
長い間、華やかな姉麗香の陰で働いてきたから、表舞台に立つ身となった今でも、誰にというわけではないけれど、ついつい気兼ねしてしまう…。

いつまでたっても…変わんねぇなぁ…。
今や押しも押されぬ存在なんだから…もう誰に気を使う必要もないじゃないか…。

滝川は苦笑する…。

別にねぇ…私が撮りたいってわけじゃないのよぉ…。
庭田の顔が一枚の写真も作ってないんじゃ困るって…うるさいもんだからさぁ…。
私は顔写真が1~2枚あれば…それでいいと思ってたから…まともな写真なんて何年も撮ってなかったの…。
そうしたら…免許証じゃないんだからちゃんとしたのを用意しろ…ってさ…。
ホント…面倒だったらありゃぁしないわ…。

「どうせなら…できるだけ早い方がいい…と思って…。 」

湯気を立てているコーヒーカップにそっと唇をあてた…。

ん~…美味しい…。

珍客は満足げに呟く…。

「早い方がいいのは…写真だけじゃないだろ…スミレちゃん…。
わざわざ僕のスタジオに御出ましあそばすなんざ…何か…紫苑に聞かせたくない話があってのことだな…? 」

予約なし…は計画的…ってわけだ…。

予約を取れば西沢に悟られる虞がある…。
それを見越しての不意の来訪…。

さすがは…天爵さま…と…滝川を唸らせた…。

うふふ…麗香似の見目好い唇が笑う…。

「そのとおり…察しがいいわねぇ…。

余計な御世話かとも思ったけれど…このまま放っておくのもどうかと…。
他家の私がどうこう言うよりは…先生の方が適任だし…。 

気付いてるんでしょ…先生…?
ひょっとすると…紫苑ちゃん自身も…。 」

問いかけるような眼差しで滝川を見た…。

「そう…かも知れん…。
だけどな…スミレちゃん…仮にそうだとしても僕は…もう少し…待っててやりたいんだ…。
紫苑が輝の死を受け入れて…自分の気持ちに決着をつけるまで…。 
そんなに…長いことじゃないと思うし…。 」

ただでさえ難解な西沢の心の迷路に、傍から余計な刺激を与えることが賢明な策だとは、滝川には到底考えられなかった…。
自然に…流れのままに…少しずつ癒されていくのを待つべきだ…。

それを聞いて…珍客は殊更…穏やかに微笑んだ…。

「でもねぇ…あれはこの世にあってはならないものなの…。
分かるでしょ…?
器は所詮…器…それ以上のものでもそれ以下のものでもないわ…。
あのまま何年置こうと…それだけのものでしかないのよ…。 」

確かにその通りだ…と治療師としての滝川は思った…。
それでも西沢が憔悴しきっている今の段階で…酷な話を持ち出すことには躊躇いがあった…。

「大丈夫…心配ないさ…。
紫苑は必ず自分の手で始末をつける…。
これまでだって…ずっとそうしてきたんだから…。 」

 そうは言っても…不安がないわけではなかった…。
いつもと変わらない平静さを装っている西沢だが…その何気無さがかえって不気味…胸の内で何を考えているのかを想像するのが怖いような…。
西沢という男を誰より熟知している滝川にさえも見えない部分はある…。

「スミレちゃんの忠告…心しておくよ…。
好ましくない方向へ向かっていくようなら…その時はちゃんと軌道修正させる…。」

思ったより素直に忠告を受け入れた滝川に…スミレも安堵して大きく頷いた…。

それじゃ…さっそく撮って頂こうかしらぁ…。
コースはこの際なんだっていいけど…できるだけ美形に撮ってちょうだいねぇ…。

「それは大丈夫さぁ…スミレちゃん…写真は口きかねぇからな…。 」


 

 本来の自分を取り戻して意気揚々と戻って来たノエルだったが、いざ新しい気持ちで生活を始めてみれば今までと何処といって変わるところもなく、毎日が静かに過ぎていくだけだった…。

 あの頃、心の落ち着く先のないノエルのために、結婚という形をとってノエルに居場所を与えてくれた西沢…。
何時の日にかノエルが16歳の自分を取り戻せたなら…そこから再出発できたなら…笑って自分の許から旅立たせる…そう心に決めて…。

 今…改めて何ひとつ変わることのない平穏な日常を享受している自分を思うと…西沢がどれほど懸命にノエルのためを考え…ノエルにとって過ごしやすい家庭を築いてきてくれたかが痛いほど分かる…。
奇跡としか思えない出産を繰り返しながら…けれど…女性としては生きられないノエルのありのままを受け入れて…それでも幸せだと言ってくれる…。

「ねぇ…紫苑さん…僕はまだ…ここに居てもいいの…?
僕は…もう…紫苑さんの奥さんってわけには…いかないよね…。
やっぱり…実家に戻らなきゃいけないのかな…? 」

長いこと胸にしまってあった不安…恐る恐る訊ねてみる…。

えぇっ…?

突然の問いかけに怪訝そうな西沢の顔…。

「いきなり…どうしたの…?
ここはノエルの家なんだから居ていいに決まってるじゃないか…。
男でも女でもノエルはノエル…奥さんじゃなくても…僕の家族だよ…。

ノエルがここを出たい…って言うなら…それはそれで仕方ないけど…。
できれば…アランたちがもう少し大きくなるまで一緒に居て貰えると嬉しいんだけどなぁ…。 」

遠慮がちな西沢の言葉…。
ノエルの背中を押してやらなければ…と思いながらも…いざとなると躊躇ってしまう…。
そうしてずるずると…何年も先延ばしにしてきたノエルとの別れ…。

「僕はここに居たいよ…。
けど…完全な男になっちゃった僕は…もう紫苑さんにとって…何の意味もない存在なんじゃないかって…。 」

そう口に出してみて、ノエルはあっと思った。
慧勠を産んで機能停止してから…ずっとノエルを悩ませてきた不安の原因はそれだと…やっと気付いた…。

「ノエル…そんなこと考えてたの…?
意味は…在り過ぎるくらいだ…。
なんと表現していいのか…言葉にするのはとても難しいのだけれど…。 」

時が来たのだ…と西沢は感じた…。
失うことを怖れてずっと曖昧にしてきたこと…この先のふたりのことを…しっかりと話し合うべき時が…。

どんな結果が出ようと…もう…回避する術なし…だ…。

西沢はひとつ…大きく溜息をついた…。









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続・現世太極伝(第百四十一話 安心しとけ…! )

2009-03-16 18:09:12 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 通りを隔てた向こう側の緊迫した動きひとつひとつに、其処此処に見え隠れする報道関係者と思しき姿が敏感に反応する…。
道行く人が次々と物珍しげに立ち止まり、その周りを囲んで野次馬と化していく…。
立ち合う犯人らしき姿も何も…こちら側からはほとんど見えないというのに…。

 その人だかりから少し離れた並木の陰に滝川の姿…。
滝川はじっと…群衆の向こう側を見つめている…。
興味津々の見物人たちとは対照的に…ただ無表情な眼を向けている…。

やれやれ…思ったとおりだ…。

大きく溜息吐きながら…亮は滝川の居る並木の方へと向かった…。

「先生…? 」

偶然出会ったかのように軽く声をかけ、いつもどおり親しげに微笑んで見せた。

やっぱり来たか…。

その何気なさを装った声を耳にして…滝川は思わず苦笑いした…。

 誘うでも誘われるでもなく、その場を離れ、ゆっくりと歩き出した…。
何処といって行くあてがあるわけではなかったが…大勢の見知らぬ他人の傍でわざわざ披露する話でもなかった…。
無論…その場を動きたくなければ…いかようにもできるふたりではある…。

 声はかけたものの…二の句に迷い…亮は黙って道なりに歩いた…。
滝川もいつになく無言のまま…ただ歩調だけを合わせている…。

 亮にとって滝川は家族のようなもの…役目とは心得ていても…職質めいた話をしたくはない…。
滝川は別に…意に介さないだろうけれど…。

閉ざされたままの輝の工房が見えるところまで来て…ようよう沈黙は破られた…。

「まさかとは思うけど…輝さんの敵をとろうなんて考えてないよね…? 」

おそるおそる遠慮がちな…亮の問いかけ…。

「分かってるくせに…。
だから来たんだろ…御使者さん…。 」

皮肉っぽい笑みを浮かべたまま滝川はそう答えた…。

「ぶっ殺してやろうと思ってたが…気が失せた…。 」

それは…いつもの冗談ではなく…半ば…本気とも取れる口調…。
亮の心臓が駆け足を始めた…。

「先生が…どうして…?
そりゃぁ…先生は輝さんと半分同棲してたみたいなもんだし…ケントの父親代わりでもあったけど…だからって…。

先生…ひょっとして…本当は輝さんのこと好きだったの…? 
それで復讐なんて…考えたわけ…? 」

何だって…?

呆れたような滝川の目が亮の顔を一瞥した。

「馬鹿言っちゃいけない…輝と僕とはあくまでダチだ…。
そりゃぁ…一緒に暮らしてたんだから…何にもなかったとは言わないが…。

 紫苑にその気がねぇから…やめたんだ…。
紫苑が動くつもりなら…代わりに…と思ったんだがな…。 」

 野次馬や報道陣の向こう側に詰めているに違いない警官が耳にすれば、即、後ろに手が回りそうな事を平然と語る滝川…。
聞いている亮の方がうろたえた…。

「代わりって…いくら紫苑命でも…それは…。 」

間違ってる…と喉まで出かけて…言葉にするのを躊躇った…。

はっきり言い切って良いんだろうかなぁ…紫苑を想う先生の気持ちは…分からなくもないし…。

亮の躊躇を察してか…滝川の方から口を開いた…。

「紫苑はまだ…輝の死を受け入れることができないでいるんだ…。
認めてないから…復讐する気も起こらない…。

 まぁ…そのうちには…どうしたって認めざるを得ないんだけどな…。
怒りのボルテージは上がるかも知れんが…もう…暴走はしない…。
実際に手を出すことはないだろう…。 」

僕にもその気はねぇから…安心しとけ…。

安心しとけ…と言われても…御使者である亮の立場からすれば…ハイそうですか…と引き下がれるような状況ではない…。

「そういうことじゃなくて…僕が言いたいのは…。
仮に紫苑にその気があったとしても…やり方次第で何とか止められるんじゃないか…って…。
今も先生が言ったように…世界が崩壊するかもしれないような力を暴走させる懼れはないんだし…。 」

何も先生が代わりにどうこうしなくたってさ…。

非難するような眼で滝川を見つめた…。
滝川の笑顔が少しばかり翳ったように思えた…。

「輝は紫苑の恋人だけど…母親みたいな存在でもあったからな…。
紫苑は多分…ひとり遺されることに耐えられないんだよ…。
自殺を図った実母と…どうしても重ねてしまうんだろう…。

度を超えた意地悪はするし、嫉妬深い女だけど、紫苑は自分を心から愛してくれる面倒見のいい輝が大好きだったんだ…。 」

そんなこと…訊いてるんじゃないんだけどなぁ…。

亮は小さく溜息をついた…。

「紫苑が超へこんでるのは分かってるけど…なんで先生が?…って話だよ…。 」

的を得ない滝川の答えに、亮は少しばかり焦れてきた。

先生ってば…時々人を苛々させるような態度をとるからなぁ…。

その苛々があからさまに亮の顔に出た…。

やれやれ…怒らせちまったか…。

滝川はまた苦笑した…。

僕の気持ちの…問題…さ…。

「紫苑を護ってやりたいんだ…。
エナジーの意思に従ってあのくそったれどもの魂を消滅させたことで…紫苑の心はまた…癒えない傷を負った…。

御使者の務めだろうが…太極の意思だろうが…たとえどんな正当な理由がつこうとも…実際に手を下したのは紫苑自身…生涯…その傷は消えない…。

紫苑…何も言わないけど…ほんとは泣きたいくらい痛むんだろうよ…。
数え切れねぇほど傷があるんだからな…。

だからさ…紫苑にとっちゃ輝のことだけでも堪え難い衝撃なのに…その上さらに傷口広げるような愚行をさせたくないんだよ…。
そうさせるくらいなら…紫苑が動く前に僕が先にしとめてしまった方がいい…。
そうだろ…? 」

間違ってるよ…と亮の心が叫んだ…。

そんなこと…許されるわけがない…。

「先生が動けば…紫苑は余計に傷つくよ…。 」

どちらにせよ…結果は同じじゃないか…。

何の権限もなく手を下すこと自体が問題なんだ…亮は胸の内でそう憤慨した…。

いくら紫苑命でも…やって良いことと悪いことがあるだろう…。
まったく…先生らしくもない…。

「ふっ…紫苑にも手を汚すなと言われたよ…。
まぁ…紫苑に気がねぇなら…僕がどうするって意味もねぇことだし…。
今日はちょっと覘いてみただけさ…。 」

面白くもなかったけどな…。

吐き捨てるように滝川は言った…。

「賢明だね…。 
紫苑も…当のHISTORIANでさえ見捨てた悪党のことなんか…さっさと忘れりゃいいのに…。
そうするしか…人類の存続を守る方法がなかったんだからさ…。 
あのまま悪党どもが紛争の種を撒き散らせば…いずれはまたエナジーたちが暴れだしたに決まってるんだから…。 」

 何人もの尊い命を奪い、世間を混乱に落としいれ、罪のない人々を利用し苦しめた者たち…。
放っておけば犠牲者が増えるだけ…やがては世界の崩壊を招くだろう…。
奴等にゃ天罰が下って当たり前…その選択が誤りだなどとは認めたくなかった…。
母親が…犠牲者のひとりだということを考慮に入れなかったとしても…。

「僕が心配なのは…力の暴走よりもむしろ…紫苑の心の崩壊の方だ…。
紫苑も人間だからな…どのくらい堪えたらぶっ壊れるか…なんて…その時になってみなけりゃ分かりゃしないのさ…。
どんなに我慢強い人間にだって…限界はある…。

 なぁ…亮くん…。
きみにはまだ…きみの兄貴のことが全然分かってない…。
大きな荷物を幾つも背負わされて…その重みでいつ暴走するかもしれない自分という存在を怖れる男の気持ちが…さ…。

 今…紫苑が落ち着いていられるのは…少しだけ安心してるからなんだ…。
僕が紫苑の傍に存在する真の意義が伝わったから…。
勿論…紫苑にとっては…の話だけどな…。

 もしも…力の暴走を止められないような事態に陥った場合には…世界が破滅する前に…僕がこの手で殺してあげる…そう紫苑に約束したから…。
紫苑が…自ら命を絶たなくてもいいように…僕が逝かせてあげる…僕の命を懸けてでも…。

紫苑は…嬉しそうに笑ったよ…。
恭介…絶対…約束だぜ…って…。

分かるか…亮くん…?

生きるより殺されることを喜ばなくてはならない…紫苑の切なさが…。
生まれてからこれまで…さんざん酷い思いをしてきた上に…こんな悲しい選択を迫られる紫苑の痛みが…。

 僕にとっちゃ世界の破滅がどうのこうのよりも…紫苑が日々平穏に幸せに生きてくれることの方が重要だ…。
それがたまたま…どちらも無関係ではいられないだけの話で…。

だから…僕は…何でもしてやる…。
紫苑のためになら…何だって…。

間違っていることは百も承知だ…。 」

 紫苑命…それは仲間たちが冗談まじりに滝川の行動を揶揄する言葉だった…。
西沢紫苑という類稀な素材に心底惚れ込んで…その魅力を余すところなく写し取り表現することをライフワークとしている写真家滝川…。

 けれど…西沢への想いはモデルと写真家の関係だけに留まらないことを仲間の誰もが知っている…。 
分厚く不透明な膜で覆われた滝川の心の奥底で…密やかに光を放つもの…。
その形が…どういうものであるかは…誰にも分かりはしないけれど…。

「心配要らねぇって…そんなことにはなりゃぁしないよ…。
どんな手を使ってでも…僕が紫苑を護ってやる…。

紫苑にとっちゃぁ…僕は有さんや祥さんの代わりでしかないけれど…それならそれで…なりきってやってもいい…。

大丈夫…紫苑はちゃんと…人生を全うできるさ…。 」

滝川の目には亮の顔があまりに不安げに映ったのか…慰めるような優しい声で…そう言った…。

 間違ってる…とは…とうとう…言えなかった…。
言いたくなかった…。
間違っていてもいい…と亮は思った…。
お役目には反するかも知れないけれど…。

「そうだと…いいな…。 ううん…きっとそうだよ…。
先生にそこまで想われてるんだから…きっと…。
有り難う…先生…感謝します…。 」

 過去・未来…はどうあれ…現時点での紫苑は幸せに違いない…。
同じ形ではないにせよ…紫苑の中の空白は…滝川の真心で満たされる…。
それはさらに中枢へと浸透し…疼く傷のひとつひとつをも包み込んで…穏やかに優しく…癒していく…。
完全とはいかないまでも…。

 そう思うと…亮はなんだか西沢が羨ましいような気持ちにさえなってきた…。
自分にそれほどの想いを寄せてくれる誰かが…果たしてこの世に存在するのだろうか…と…。

「亮くんに礼を言われる筋合いはねぇな…僕の自己満足だ…。
紫苑…可愛いからな…。
初恋の紫苑ちゃんは僕の永遠の恋人だからさ…。 」







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続・現世太極伝(第百四十話 不在の空間)

2009-01-06 23:55:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 居間のテレビからニュース番組のテーマ曲が流れ始めた瞬間…ノエルの手がリモコンを握った…。
即座に切り替えられた画面からは幼児向けのコミカルな歌が聴こえてくる…。
慧勠(エリク)が慌てて駆けて行ってテレビの前にちょこんと座った…。

 何気なくリモコンを置きながら…ノエルは横目でチラッと西沢の表情を窺った…。
番組を替えられたことを気にする様子もなく…西沢は普段どおりにノエルの用意した昼食の炒飯を口に運んでいた…。

 こんな時間帯に慧勠向けの幼児番組なんぞ放送していないことを知らない西沢ではない…。
何しろ西沢は慧勠を含めて四人の子供を自分の手で育てている現役パパだ。
前以てノエルがセットしておいたDVDの映像だということぐらい分かっているに違いない…。

 輝が亡くなってから連日のようにマスメディアで取り上げられる事件の様相…。
絶えず周囲を取り巻く不愉快な情報をできるだけ西沢の目に触れないようにするのは至難の業だった。
それほどテレビ好きとはいえない西沢でもニュースは見るし…パソコンを使えばネットからはいくらでも情報が入る…。
新聞や雑誌に至っては見せないわけにもいかない…。

 チャンネルを替えたり、話題を逸らしたり、ノエルはできるだけ西沢の意識を事件から遠ざけるように努力した。
輝の子が御腹に居るせいで体調が悪く、ドクターストップをかけられて家に籠っているノエルだが、それでも四六時中西沢にべったりついてはいられない…。

 それに…ノエルのそうした行動に不自然さを感じないほど…西沢は鈍感ではない…。
ちゃんと気付いていて…黙っている…。
あまりにしつこいと苛々させてしまうことになり…かえって逆効果…。
西沢が事件だけに気を向けて思い詰めないように…他事に集中させるしかない…。

難しいんだから…紫苑さんの感情を読み取るのは…。
鈍いところも確かにあるんだけど…鈍感な振りして誤魔化してることもあるし…。

幸いなことに…急ぎの仕事が立て続けに入った西沢は仕事部屋に軟禁状態…。
TVを見る暇も仕事関係以外のサイトを廻る余裕もない…。
おそらく…事情を知る玲人がわざと多めに仕事を請け負ってきているのだろう…。
御蔭でノエルも西沢の仕事中は気を抜くことができる…。
けれど…今は…。

 慧勠が音楽に合わせて踊り始めた…。
その楽しげな様子に西沢の顔がほころぶ…。
ノエルの緊張が少し揺るんだ…。

「あんまり気を使い過ぎると…身体に障るよ…。 」

愉快そうに慧勠を見つめたまま…西沢が言った…。

ノエルの心臓が震えた…。

「そんなに心配しなくてもさ…奴を殺したりはしないよ…。
御使者の管轄外だし…。
奴のことは…警察に任せておけばいい…。 」

軽く笑みを浮かべ…ノエルの方に眼を向けた…。

「恭介がきみに何を言ったか知らないが…僕もそこまで自制心がないわけじゃない…。
殺したって気が晴れることなんかないしね…。
輝は戻らないんだから…。 」

輝は戻らない…。

その言葉の重さがノエルの胸を締め付けた…。

「復讐…したいとは思わない…?
僕は…奴を叩き殺したいくらいに思ってるよ…。
紫苑さんが何も言わないから…僕も動かないだけで…。 」

自分でも激昂してくるのが分かった…。
感情を抑えるのに苦労した…。

何を馬鹿言ってるんだろう…。
そうさせないように…見張ってるはずの僕が…。

「復讐するのは簡単だ…。
そうしようと思えば…一瞬で終わってしまう…。
だけど…そんなの…意味がないさ…。
被害者は輝だけじゃない…。

何が起こったのかを…被害者側の人々は知りたがっている…。
僕も…だ…。 」

感情を抑えた静かな口調で…西沢は言った…。

「僕は大丈夫だから…心配しなさんな…。
きみの身体は今…大事な時だ…。
その子と自分のことだけを考えていればいい…。 」

番組が終わって…慧勠が慌ててこちらに駆けよった…。
もう一度見たいとせがんだ…。

気の抜けたようなノエルの手が…ゆっくり…リモコンを取り上げた…。
慧勠の身体がまた曲に合わせて動き出した…。



 カタカタとタイピングの音が部屋中に響き渡る…。
向かい合って並べられたデスクのあちらとこちらで…ディスプレイを眺めながら何気ない会話を交わす…。
いつもと変わりない社外データ管理室特務課の昼時の光景である…。

「ふ~ん…そんじゃ…奴についての資料は紫苑さんに渡さない方がいいのかな…?
別に頼まれたわけじゃないけど…少しだけ調べてみたんだ…。 」

仲根がディスプレイを睨んだまま…そう訊ねた…。
思うところに確信が持てない亮は即答するのを躊躇った…。

「う~ん…先生は僕等にはあんなこと言ってますけど…本心では別のこと考えていると思うんですよ…。
その気になれば…僕等が注意してようとしまいと…紫苑は相手のデータを簡単に読み取るでしょう…。
実際…僕等がどんな手を打ったところで…紫苑が動こうとするのを止めることなんかできないんです…。 」

そりゃぁ…そうだ…と仲根は頷いた…。

「多分…先生が逸らさせようとしているのは…紫苑の方じゃなくて…僕等の方じゃないかと思うんです…。
僕等の意識を紫苑に集中させて…何か…やらかそうと考えているんじゃないかと…。
ノエルは単純だから…額面どおりに受け取ってますけど…。 」

滝川先生が…何を…?
訝しげな仲根の顔がパソコンの向うから覗いた…。

「そいつは…分からないんですけどね…。
先生が何かするとなれば…紫苑のために決まってます…。
まさか…紫苑に代わって復讐するなんてことまでは…しないでしょうが…。 」

有り得ないことではない…という不安を払拭できない亮は…できれば仲根が自分の代わりにそれを強く否定してくれるよう期待していた…。

けれども…。

「いや…ないとは…言えないなぁ…。
紫苑さんが本気で相手に殺意を抱いたら…先生は動くかも知れない…。

けどまぁ…多分…大丈夫だろ…。
胸ん中はどうあれ…紫苑さんは普通の人間に手を出すような人じゃない…。
紫苑さんが静かなら…先生も沈黙…。 」

仲根の答えは…完全否定とまではいかなかった…。

…だと…いいんだけど…。

亮は大きく溜息をついた…。




 ベッドライトの明かりが不在の空間を照らす…。
西沢と滝川の間にぽっかり空いた空間を…。
別に珍しいことではないが…今夜は少し事情が違う…。

 突然の輝の死は大人たちに衝撃を与えただけではなく、子供たちにも影響を及ぼした…。
自分の傍から急に消えてしまった母親…まだ幼い絢人にはよく事情が飲み込めない…。
ママは死んだのだ…と聞かされても本当の意味では理解できずに居る…。
ただ…もう会えない…と言われたのが悲しい…寂しい…。

 子供たちがどこか落ち着かない様子なので、ノエルはほとんど子供部屋で寝起きしている…。
絢人の不安げな顔を見た時、滝川は一瞬、自分が傍に居てやろうかとも思ったが、ノエルという実の父親が傍に居るのに差し出がましい真似はできないと考え直した…。
この屋敷で同居生活を始めてからノエルにも甘えるようになってきた絢人…。
今が大切な時かも知れない…と…。

それに…。

もうひとりの子供…。
西沢の中の…4歳の紫苑…その感情の動きも気がかりだった…。

 再会した時にはすでに過去の女性であったにも関わらず、麗香が亡くなった折には素直にその死を悲しんだ西沢が、現役の恋人輝を失って未だ一滴の涙も流してはいない…。
滝川にはそれが…ひどく不自然な気がしてならない…。
我慢強い男ではあるけれど…堪えている…というわけでもないようだ…。
今は目を離すべきではない…と滝川は思った…。

 ベッドライトを消そうと伸ばした指を止めて…西沢は小さく溜息をついた…。
眠れないわけではないが…眠りたくない…そんな妙な気分…。
背中に心配そうな滝川の視線を感じた…。

「輝が…居ないんだ…。 部屋にも…庭にも…家中捜しても…何処にも…。
気配を感じて扉を開けてみるんだけど…居ないんだ…。 

分かってる…輝は死んだ…。
もう何処にも居ないことは…分かってる…。 」

分かっていない…と…滝川は感じた…。
大切なものをあまりにもあっけなく失ってしまったから…西沢の心は未だ輝の死を受け入れられないでいる…。

「紫苑…如何したい…? 如何して欲しい…?
殺すか…? じわじわと苦しめてやるか…?
何でもしてやるよ…。 紫苑の望むままに…。 」

滝川の過激な物言いを聞いて…驚いたように西沢は振り向いた…。

「馬鹿なことを…恭介…。 治療師の言う台詞か…。
ノエルといい…おまえといい…なんでそんな…。 」

治療師の目がそこにあった…。

「輝は…おまえを置き去りにしたわけじゃないぞ…。
輝自身…何があったのか気付かぬままだ…多分…な…。 」

西沢の中の4歳の紫苑が悲鳴をあげた…。

「だからといって…そのことが輝の生存を肯定するわけじゃない…。
輝はもう居ない…それが真実だ…。
紫苑…認めたくないのは分かるが…。 」

滝川の視線から目を逸らし…西沢はひとつ深い溜息をついた…。
そうして…今度は真っ直ぐに滝川の目を見つめた…。

「…手を…汚すな…恭介…。 望んでいない…そんなこと…。
僕のためなら…なおさら…だ…。

これは…輝の仕組んだいつもの意地悪なんだ…。

…分かってる…すべて分かってるけど…そう思っていたいんだ…。

この力で何十億の人間の命を救った英雄と言われているけど…僕は輝を救えなかった…。
ずっと傍に居たのに…。

輝は怒っているだろう…。
いったい…あなたは何をしていたの…って…。 」

それは…と反論しようとして…滝川は言葉に詰まった…。

「あの時…最期の声が聴こえたんだ…。
紫苑…と…ひと言だけ…。

何を言いたかったんだろう…?
輝の…その次の言葉を知りたくて…僕は輝を捜している…。

見つけられない限り…輝もまた僕を呪縛する…永遠に…。 」

いい加減にしろ…という言葉が喉まで出かかっているのを、滝川は堪え飲み込んだ…。
母親の遺した言葉だけでも厄介なのに…またしても…言葉の呪縛…。

逆戻りだ…せっかくここまできて…。
別の意味で…犯人をぶっ殺してやりてぇ…。

西沢の中の小さな紫苑…その心のケアに力を尽くしてきた滝川…その努力が脆くも崩れ去ろうとしている…。

頼むぜ…輝…。
呪縛だなんて…おまえはそんな女じゃなかったろ…。
紫苑の自由を誰よりも望んでいたのはおまえなんだから…。

ふふん…と…鼻先で笑ったような輝の顔が…滝川の脳裏に浮かんで消えた…。







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続・現世太極伝(第百三十九話 輝の子 )

2008-10-31 23:26:23 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 重々しい沈黙の中…ノエルが急にクスクス笑いを始めた…。
何が可笑しかったわけでもなく…擽ったそうに身をよじっている…。

「やめてよ…。 もう…くすぐったいよ…。
ねぇ…この子…動くんだよ…。
御腹の中でグニュグニュッてさ…。 」

それまでの暗い気持ちは何処へやら…西沢も滝川も…亮までも身を乗り出してノエルの御腹に注目する…。

「何か…妙な気分だよね…。 
輝さんとノエルの赤ちゃんがノエルの御腹に居るなんて…。
ノエルが紫苑の子供を産んだ時よりも…もっと不思議な気がするよ…。 」

何ていうか…父親の御腹ん中で…育ってるんだよね…この子は…。

感慨深そうに亮が言った。

「う~ん…どぉっかなぁ…?  
この子さぁ…僕の子じゃないかもしれないし~…。 」

えぇっ…?

三人の目が一斉にノエルの顔に向けられた。

「確かにさぁ…僕と輝さんはそういう関係だけど…。
それは紫苑さんも同じだし…。

この子はさぁ…太極の光に包まれてたんだよね…。
紫苑さんの生命エナジーの基盤になったあのエナジーの赤ちゃんも…そうだった…。

輝さんがケント産んだ時には…そんなもの全然なかったし…。
もしかすると…紫苑さんの子なんじゃないかなぁ…って…。 」

何故か嬉しげにノエルは笑った…。

そうだったら…いいね…紫苑さん…。
紫苑さん…輝さんの赤ちゃん…欲しかったんだよね…。

ノエルはそう思っているようだ…。
西沢の胸中は複雑だった…。

僕の子…だとしても…輝はもう…居ないんだよ…ノエル…。
気持ちは有り難いけど…僕が望んでいたこととは…違うんだ…。

口には出せなかった…。
ノエルは…西沢のために必死に頑張っている…。

「そうか…僕は輝がケントを産んだ時には立ち会ってないから…気付かなかったが…。
確かに生命エナジーの基盤の時にはそんなことがあったな…。
だけど…アランやクルトには…なかったぞ…。 」

怪訝そうに眉を顰めて滝川が言った。
滝川は吾蘭や来人が生まれた時には、有とともに治療師として出産に立ち会っている…。
実際にふたりを取り上げたのはノエルの父親智哉だが…間近に居てすべてを見ていた…。

「僕の中でできて僕から生まれたんだもん…。
アランやクルトには難産だったこと以外…何の問題もないじゃん…。

 この子の場合…輝さんはすでに亡くなってたんだし…。
紫苑さんの赤ちゃんだとすれば…他人の御腹で育つんだからさぁ…何だか分かんないけど…危険から保護されてるんだよ…きっと…。 」

そっと御腹を擦った…。
何だかひどく硬くなっている気がした…。

太極の護りがなかったら…こんなに御腹が張りまくっちゃ…とっくに駄目になってるかもなぁ…。

なんということもなしに溜息が出た…。

これから先だって…どうなることか…。

ノエルにも輝の御腹から預かった子供を絶対に護りきれるという自信はない…。
むしろ…不安でいっぱい…はちきれそうだ…。

「あのさぁ…誤報のせいで紫苑の奥さんは死んだことになってんだけど…。
ノエルの御腹が大きいと…やばくない…? 」

不意に…亮がそんなことを言い出した…。
壁の向こうで誰かが聞き耳を立てているのではないか…とでも言いたげに声を潜めて…。

 亮に問われるまでもなく…それは…西沢自身もおおいに気になっているところ…。
取材に来た報道関係者と直に話をしたわけではないから、現時点で自分の立場がどういう状況になっているのかは想像の域を越えない…。

 相庭と玲人が誤報について何をどう説明したかは分からないが、成り行きからすれば、誤解が解けていないことは容易に察せられる…。
身内・仲間内だけの葬儀で、全員が事情通とはいえ、一応は夫として喪主席に居たのだから…。

 そのことについて世間からどう言われようと見られようと…西沢自身にとってはかまったことではない…。
ノエルと結婚したからといって、輝と切れたわけではなかったし、輝が同じマンションの滝川の部屋に間借した頃には、住いが近くなった分、それまでよりも頻繁に会っていた…。
この土地に新しく家を構えて、みんなで同居を始めてからは、どちらかと言えば、ノエルよりも輝の方がこの家の女主人らしい存在だったのも事実だ…。

けれど…ノエルは…どうなる…。
輝の子供がノエルの御腹に居る以上…男には戻れない…。
しばらくは…嫌でも女で居るしかない…。

しかも…だ…このまま誤解が解けなければ…世間からは西沢の愛人呼ばわりされることになる…。
なんてこった…ノエルの方が本物の奥さんだってのに…。
それもこれも…僕が思いきれなくて…ずるずると別れを引き延ばしていたせいだ…。

仕方がない…添田に記事を書いて貰うか…。
独占インタビューとかで…畑違いだけど…そこは…何とかなるだろう…。
体調の優れないノエルに…これ以上負担をかけることだけは…避けなければ…。

「平気さぁ…。 
御近所さんたちの間では、ケントがまだ小さいから、代わりに紫苑さんが一家を代表して喪主に立ったってことになってるんだ…。

そんなだから御近所では…あの人~西沢さんから滝川さんに乗り換えたみたいだったけど~ケントくんは滝川さんの子じゃなくて~本当は西沢さんの子だったんじゃないの~…なんてうわさ話が出てるくらい…。

さすがに僕の子…とは言わないけどね~…。

 さっき…花蓮さんが来てくれて…ちゃんと話を通しておいたからね~…って…。
花蓮さんのことだからぁ…巧く辻褄合わせしてるよ…きっと…。
多分…レポーターさんたちのインタビューに対しても…みんなで口裏合わせてくれてると思う…。 」

要は…御近所さんの口…でしょ…とノエルは可笑しそうに笑った…。

おば友・ママ友のパワーは侮れないよぉ~…普段からみんなと仲良くしてて超ラッキー…って感じぃ~…。

「そっかぁ…なら…御近所ではノエルはまだ紫苑の奥さんってことだね…。
突然赤ちゃんが生まれちゃっても問題なしってわけだ…。 」

一応納得…亮はほっとしたように頷いた…。

「さすが…花蓮おばさん…。
御近所の口封じ…根回しとなりゃぁ…相庭や玲人より上手かも知れんな…。
今度ばかりは花蓮おばさんの舌に救われたな…紫苑…。 」

これで面倒は免れたってことだ…と…滝川が言った…。

救われた…?

西沢は眉を顰めた…。

「ノエルがまた自由を失った…。
素直に喜べないよ…そんな状況…。 」

そのままでもよかったんだ…。
西沢の妻は亡くなった…世間がそう思えば…ノエルは自然に男に戻れるじゃないか…。
御腹に…輝の子供さえ居なければ…。

そんな想いが西沢の胸の内にはあった…。
西沢はノエルの普段より少しだけ丸みを帯びた下腹を見つめた…。

それでも…子供が生きている限りは…ノエルの立場を擁護してやらなきゃ…。
いくら花蓮さんがいいように辻褄合わせてくれたとしても…僕がこのまま黙っているわけにもいくまいし…。

ノエルの御腹の子供は…僕自身…。
要らない子の…僕の姿…そのもの…。

太極…あなたは何故今頃…その現実を僕に突きつけるのか…?

「この子の存在は…確かに…喜ばしいことかもしれない…。
僕にとっては…だ…。
けど…そのためにノエルを…犠牲にしたいとは思わない…。 」

大きな溜息とともに西沢は立ち上がった…。
なんとも言えない遣る瀬無い眼差しをノエルの方に向けて…そのまま…無言で部屋を出て行った…。

「紫苑さん…もう…輝さんの赤ちゃん…欲しくないのかなぁ…?
アランたちの時はあんなに喜んでくれたのに…。 」

西沢の後姿を不安げに見ていたノエルが…ぽつり…そう呟いた…。

「なぁに…紫苑はノエルの身体が心配なだけだよ…。
もともと子供好きなやつだから…産まれてくれば飛び上がって喜ぶさ…。
それより…ノエルも亮くんも…ちょっとの間…紫苑の行動に注意しててくれるかな…? 」

気持ち表情を硬くして…滝川がふたりにそう頼んだ…。

「何か…気になることでもあるの…先生…?
さすがに今度ばかりは…紫苑も相当へこんでいるようだけど…。 」

亮が身を乗り出して訊いた…。
その不安げな様子に…滝川は一瞬…返答を躊躇った…。

心配なのは…そこじゃない…。

「そりゃぁ…薔薇のお姉さんに続いて…恋人亡くすのふたりめだもん…。
落ち込まない方がおかしいよ…。 
輝さんのことは…僕もかなりショック…。 
ケントのためにそろそろ籍入れようか…なんて話をしたばかりだったのに…。 」

輝さん…考えとく…って言ってくれたのになぁ…。

そう思うと急に切なくなって…ノエルは目を潤ませた…。
泣かないように小さく鼻を啜った…。

「まぁ…精神的なショックもあるんだが…それ以上に心配なことが…な…。
紫苑…大好きな輝が死んだというのに…涙ひと粒も見せてないんだ…。
あの泣き虫な紫苑が…だ…。

輝の子供のことで気を取られているせいならいいんだが…。
ひょっとして…涙も出ないほど…紫苑の心の中で怒りと憎しみが渦巻いているとしたら…少々厄介だ…。

紫苑には…その気になれば…思うだけでも相手を殺せる力がある…。
感情が落ち着くまでは…絶対に…まともに犯人の顔や素性を知らせちゃいけない…。 」

亮とノエルは思わず顔を見合わせた…。

「紫苑自身がそうしたいと思うかどうかは別として…無意識にでも力の暴走は起こり得る…。
紫苑に絶対的な信頼を置いている君たちに…こんな話をするのは酷だけど…。

 最も重要な時期にケアされなかった紫苑の心は未だに問題を抱えている…。
ここ数年で飛躍的に安定してきたとはいえ…まだまだ油断はできないんだ…。 」

母親の残した忌まわしい言葉…。
どうしたら…紫苑は…その呪縛から完全に解放されるのだろう…。

 表面上は吹っ切れたように見えていても…何か起こるたびにパックリと開く西沢の心の傷…。
そのケアを始めてから…もう何年にもなるが…悪い兆候こそないにしても…万事良好とも言い難い…。

「まぁ…それでも以前に比べりゃ天と地の差…それほど神経尖らすこともないのかも知れないが…。
場合が場合だけに…慎重にいかないと…な…。 」

半ば呟くように滝川はそう語った…。
聞いているふたりに…というよりは…まるで…自分自身に言い聞かせるような口振りで…。






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続・現世太極伝(第百三十八話 刹那の選択 )

2008-09-13 23:54:23 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 急ごしらえの小さな白い祭壇の上から微笑みかける輝…。
西沢はひとり…ぼんやりと遺影の前に座っている…。
少し前に…滝川とノエルが最後の弔問客を見送りに出ていった…。

 喪主を務めた立場を考えれば…西沢が自ら送りに出てしかるべきなのだが…報道関係が煩くて外には出られない…。
西沢の代理人である相庭や玲人が巧く応対してくれてはいるけれど…顔を見せればそれなりに相手をせざるを得なくなる…。
弔問客には丁重に御詫びして…滝川が見送りの役を担った…。

 本来なら…輝の実兄克彦か…幼い絢人の代わりに絢人の父親であるノエルが喪主に立つのが筋なのだろう…。
けれども…妹を不憫に思う克彦が何気なく漏らしたひと言で…西沢が輝の夫として葬儀を仕切ることになった…。

どうしたって夫婦にはなれない…と…分かっているのに…馬鹿ねぇ…私も…。
それでも…同じ屋根の下に暮らすことを望んでしまったわ…。
今となっては…ただの…同居人…なのにね…。

引越しが決まった時…輝はそう言って笑ったというのだ…。
ふたりの結婚に半ば否定的だった克彦にすれば…思い出すたびに胸に棘を刺すような笑顔だった…。

同居人…だなんて…輝は歴とした僕の家族なのに…。
その話を聞いた端は…西沢もそう憤慨したが…すぐに思い直した…。
輝が本当に望んでいたこと…そして…諦めたもの…。
それは同時に…西沢が望んで得られなかったもの…だと気付いたから…。

 そういう経緯もあって葬儀は大事にはせず、身内と仲間だけで秘かに行うはずだったのに、何処から洩れたのか、今を時めく西沢の妻の葬儀である…という誤った情報を聞きつけて報道合戦が始まってしまったのだ…。
誤解だ…と言って言えないことではないが…ただ…沈黙を守った…。
明日になれば西沢は…最愛の妻を失った悲劇の夫…ということになっているだろう…。

何とでも言ってくれ…。
否定する気も起こりゃしない…。
まるで…気の抜けたビール…だ…。

どうしようもない脱力感に見舞われながら…西沢はただ…動かない輝の笑顔を見つめている…。

本当に…意地悪だなぁ…きみは…。
何にも言ってくれないのか…。

言えよ…いつものように…。
奥さんの肩書き…奪ってあげたわ…って…。

今さらなんだよ…何時だってプロポーズしてたじゃないかよ…。
すげなくふったのは…きみの方だぞ…。

子供は欲しくない…そう言ったのもきみだったんだ…。
僕は望んでた…。

けど…諦めた…。
失うよりは…そのままでいた方がいいんだ…と…。

「子供たち…はしゃぎ疲れて寝ちゃったよ…。
ケントは不安そうだったから…すぐ起きるかもしれないけど…。 」

子供部屋から戻って来た亮が、西沢に声をかけた。
弔問客の応対でバタバタしている間…子供たちの相手を買って出てくれていた…。

「紫苑…いったい…何があったの…?
輝さんほどの能力者が…何故こんなことに…? 」

仕事の都合で通夜に出られなかった亮は、まだ、ことの経緯をはっきりとは聞いていなかった…。

「何故…と言われても…僕等にも納得できる答えがないんだ…。 」

溜息混じりに西沢が答えた…。
これで元恋人を失うのは二度目…さすがに応えたのか…力のない声で…。



 それはあまりに突然で…西沢たちが輝の身に何が起こったのかを理解するまでに…かなりの時を要した…。
葬儀を終えた今でさえ…悪夢を見ているとしか思えないような出来事だった…。

「嘘でしょ…! そいつが能力者じゃない…なんて…? 」

 輝にとって降って湧いたような不幸…の経緯を聞いて亮は驚きを隠せなかった…。
島田一族の中でも指折りの能力者である輝が、ごく普通の人間の手にかかるなど、どう考えても解せなかった…。

「相手が普通の人間だったから…気付けなかったんだよ…。
輝は…そいつに狙われていたわけじゃなくて…突発的な事件に巻き込まれただけなんだ…。
警戒もしてなかったと思う…。 」

口惜しげに西沢が答えた…。

「あんなに…読みの力に優れた人なのに…どうして…?
あの場で何人もが犠牲になってるってのに…? 」

とても信じられないと亮は思った…。

「出会い頭…運悪くすれ違いざまの…最初のひとり…だったらしい…。
それに…輝の御腹にはふたりめが居たから…いつもより感度が鈍っていたのかもしれない…。
妊婦には時々…そういう現象が起こるんだ…。
逆に…鋭くなるタイプの人も居るけど…。 」

輝さん…なんて不運な…悪条件が重なったんだな…。
遣り切れない溜息が亮の唇から漏れて出た…。

「やれやれ…ようやく…外の連中も引き上げたみたいだ…。
以前なら…取材ったって記者ひとりふたり来りゃぁいい方だったのになぁ…。
ドラマの影響は怖ろしいぜ…。 」

喪主の西沢に代わって朝からあれやこれやで動きっぱなしの滝川が、さすがに疲れた顔をして戻って来た…。

「ノエルは…? 」

西沢が心配そうに開け放された襖の向こうへと眼をやった。

「キッチン…。 コーヒーを淹れてる…。 
僕が淹れると言ったんだが…大丈夫だって聞かんもので…。 」

滝川の後を追うように…芳しい香りが座敷の方まで漂ってきた…。
微かにバラの香りを含んで…。

ほどなく…小型のワゴンを転がしながらノエルが姿を現した…。
誰に声をかけるでもなく…ノエルは乗せてあるカップの中からひとつだけ取り上げると…ゆっくり祭壇の方へ向かった…。

「あんまり上手に淹れられなかったけど…ゴメンね…輝さん…。 」

そう言って…ノエルは花柄のカップを…輝の遺影の前に置いた…。
輝の好きなバラの紅茶…が白い湯気を立てていた…。

 ノエルが輝にそう語りかけている間に、亮がワゴンの上のコーヒーサーバーを取り上げてそれぞれのカップになみなみとコーヒーを注いだ。
ちょっとやそっとの量じゃ全然満足できない…とでもいうように…。

 輝は…西沢の元恋人というだけではなく…ノエルにとっても絢人を産んでくれた大切な女性…西沢以上にショックを受けているかもしれない…。
表情からは測りかねたが…亮にはそんなふうに感じられた…。

このところのノエルは…紫苑の嫁さんというより…輝さんの若い連れ合い…って雰囲気だったもんなぁ…。

「ノエル…何だか…顔色悪いよ…。
熱でもあるんじゃないか…? 」

先に西沢と滝川にカップを渡した後で、遺影の前のノエルにも手渡してやりながら気遣うように言った。
うぅん…と首を横に振って…ノエルは軽く笑みを浮かべた…。
その思わせぶりな笑顔に…亮は当惑した…。

「あぁ…そうか…亮くん…まだ知らなかったんだね…。
ノエルの御腹ん中には…輝の赤ちゃんが居るんだよ…。
あのままにしておいたら、到底、助からないんで、急遽、ノエルの子宮に移動させたんだ…。 」

どう捉えていいか分からなくて怪訝そうにしていた亮に、滝川が横から信じられないようなことを言い出した。
一か八かの賭けだった…と…。

「ノエルの子宮も…エリクを産んですぐに機能停止してたしね…。
下手すりゃぁ…ノエルの命にも関わることだから…すごく迷ったんだけれども…。

 連絡を受けて僕等が駆けつけた時には…輝はとうに亡くなってた…。
おそらくは…紫苑が…輝に何かあったと気付いた時点でもういけなかったんだと思う…。
当然…御腹の赤ちゃんも一緒に駄目になってるはずだった…。 」

それがさぁ…とノエルが引き継いだ…。

「輝さんの中で太極の気配がするって…突然…紫苑さんが言い出したんだ…。
で…探ってみたらさぁ…この子が…太極の光に包まれてちゃんと生きてた…。 」

普段より少し大きめの御腹をノエルはそっと擦った。

「だけど…大丈夫なの…先生…?
ノエルの子宮はもう…。 」

そう言いながら亮は…ノエルの御腹に…心配そうな眼を向けた…。

「止めたんだ…。 僕も…紫苑も…危険だから…って…ね…。
けど…助けられるかもしれない命を見捨てられない…とノエルが言うもんだから…。 」

輝の…最後のメッセージだから…と…。

 最初は産科医に相談するべきだと考えた…。
しかし…輝の死亡を確認した医師は…胎児の死亡をもちゃんと確認したのだ…。
今…再び医師を呼んでも…同じ診断が下る可能性の方が強い…。
胎児の生命反応はそれほど微弱で…治療師の能力で辛うじて捉えられるくらいのものだった…。
このままだと遠からず…灯は消える…。

 ノエルの強い決意を知って、それ以上は反対することもできず、西沢と滝川は胎児を移動させる方法を模索した…。
これまでに幾度もノエルの赤ちゃんを取り上げた智哉に、何か良い方法はないかと訊ねてはみたものの、さすがの智哉にも其処までの知識はなかった…。

宗主の内室…北殿なら…。

 そう思いついた西沢は、添田を通じて北殿に伺いを立ててみた…。
北殿は…家門の奥儀だから…という理由で、西沢たちにその方法を伝えることはしなかったが、わざわざ病院まで出向いて、ノエルの子宮に胎児を移動させてくれた…。

返事を貰ってから…北殿が到着するまでの時間が…どれほど長く感じられたか…。

「今のところ…何とか無事なんだけど…何時どうなるかは分からない…。
何しろ…六ヶ月にもなってたんで…自力での準備がまったくできていないノエルの子宮が耐えられるかどうか…。 」

すべては…運次第さ…。

そう言って滝川は肩を竦めた…。

滝川の言葉が途切れると…それまで黙っていた西沢が大きな溜息をついた…。

「どうして…もっと強く…反対しなかったんだろう…。
ノエルにつらい思いをさせるだけだと…分かっていたのに…。 」

相変わらずの…大馬鹿だ…と…自らを貶した。

 滝川にしても、ノエルの意思を変えられなかったことについては、後悔の念を禁じえない…。
胎児の命は大切だけれど…だからと言って…ノエルの命を危険に晒すようなことをしていいものだろうか…。
治療師としては…断固止めるべきでは…なかっただろうか…。

 あの場でも…西沢と滝川は繰り返し話し合い…ノエルに思いとどまるように何度も勧めた…。
このまま胎児が助からなければ…ノエルはつらい思いをしただけ無駄だったということになる…。
ひょっとしたら…ノエル自身も…無事では済まないかもしれない…。

 命の重みは比べようもないけれど、能力者でなければ…他人の胎児を受け継いで自分の胎内で育てる…など有り得ない選択…。
普通なら輝の死とともに胎児の命もとうに消えてしまっている…。
太極の光に護られている御蔭でなんとか命を保っているだけで…誰も気付かなければそれすらも時間の問題だったはず…。

 それなのに…止められなかった…。
ノエルの状態が必ずしも良好でないのは一目瞭然…。
刹那の判断の重さが…今になってふたりに圧し掛かる…。

西沢も滝川も…もし犠牲になるのが自分の身体であれば…ノエルと同じ選択をしたに相違ないのだが…。






次回へ…。

続・現世太極伝(第百三十七話 天命 )

2008-08-03 17:29:17 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 自動ドアが朝からひっきりなしに開いたり閉じたり…を繰り返している…。
壊れたわけではない…。
客の出入りがそれだけ頻繁なのだ…。
買い物客より立ち読み客の方が多い…と噂の駅前谷川書店にしては珍しい光景…。
谷川店長とパートの吉井さん、亮やノエルの後に入った何代目かのアルバイトくんも、いつもとは違う店の盛況ぶりに目を回している。

原因はこれ…滝川恭介の新しい写真集と西沢のイラスト集…。
同時発売なのは…勿論…相乗効果を見込んでの出版社の意図的な操作だ…。

 少し前に西沢は或るドラマの初回にちょい役でゲスト出演したのだが、何故かそれが大当たり…。
ただの運転手役だったのに、いきなり謎の運転手役に格上げされて、ほんの1~2シーンながら、そのままレギュラー出演することに…。
本業に専念して静かに暮らしたい西沢が頭を抱えたことは言うまでもないが、玲人の顔を立てるために不本意ながらも引き受けてしまった。

まったくもう…ど素人に演技なんかできるわけねぇだろ…。
視聴者怒らせても知らねぇからな…。

台詞を唇から吐き出すたびに…胸の中でそう呟く…。

なぁに…すぐに…お払い箱になるさ…。
けど…役者さんたちには迷惑かけないようにしなきゃなぁ…。
引き受けたからには…逃げるわけにもいかんしね…。
なんにしても…頼むから早いとこ見限ってくれ~…。

それが…お払い箱どころかドル箱に変身するとは…当の本人はおろか誰も予想だにしていなかったに違いない…。

 モデル出身の実力派イラストレーターで…そこそこ売れてるエッセイスト…。
それだけなら御呼びはかからないかも知れないが…コメンテーターなどでちょこちょこTVにも出ているから…ファンも全く居ないわけじゃない…。
所謂…芸能人ではないが…大富豪の次男坊で超美形のクォーターとくれば…付加価値がついて余りある…。

 話題性は十分にあろうから、最初はちょっとした視聴者寄せの招き猫のつもりでゲストに選んだのだろうが、今や主人公に迫る勢いで人気上昇中…。
2匹目のドジョウを狙って…ここぞとばかりに写真だのイラストだのの依頼が…。

だからさぁ…本業に専念したいつってるだろうがぁ…!
そりゃぁ…イラストの御依頼は有り難く承りますよ…それが僕の飯の種だし…。
けど…モデルはやんねぇ…。

 そうは言いつつも…滝川のおねだりには弱い西沢…。
依頼主もそこのところをよく弁えているらしく…滝川を使うと前置きしてきた…。
とうとう写真まで撮る破目に…。

言っとくけど…僕は妻子持ちの中年男だよ…。
そんなオヤジの写真…誰が買うんだよ…。
撮るだけ無駄だ…無駄…。

 そんなこんなで…ここのところ西沢の唇から溜息の途切れる暇もない…。
それとは裏腹に滝川の方はホクホク顔…。
永遠のテーマと決めた被写体西沢の写真を…その最高の瞬間を手に入れるチャンスがまた廻ってきた…。

オヤジだろうがコモチだろうが関係ねぇんだ…。
納得の一枚を撮るのが…僕のライフワークだからな…。
う~ん…たまんねぇ…その喉の曲線…。

 実際には…西沢は未だにオヤジと呼ぶには相応しくない存在だった…。
まるで時が止まってしまったかのように…むしろ…逆行してしまったとしか思えないほどに…。
皮膚も体型も何ひとつ変わらず…二十代のままだ…。
それが世間を驚かせ…不思議がらせる…。

当然さ…。

滝川は秘かにほくそ笑む…。

紫苑の生命エナジーの基盤はノエルが新しく生み出したもの…。
まだすべてが幼くて…せいぜい小学生くらい…新鮮なエナジーなんだ…。

 新しい生命エナジーの基盤は西沢の命の基となっただけでなく、年齢相応の老化をストップさせ、さらには若返らせた…。
見る者を驚嘆させるほどの奇跡ではあっても…西沢にとって…それがメリットなのか…デメリットなのか…それは誰にも分からない…。
西沢はただ…太極によって再び与えられた命を…静かに全うするしかない…。




 「それじゃあ…紫苑さんはみんなよりずっと長生きするの…?
200歳くらいまで生きたりして…。 」

新しい写真集を繰りながらノエルが驚いたようにそう問いかけた…。
すぐ脇から子供たちが興味深げに覗き込んでいる…。

こぇはぁ…チオンとうたん…と慧勠が写真集の西沢を指す…。
そうだよ…と吾蘭が頷いて…それに答えてやっている…。

「そいつは無理だな…。 」

そう答えながら滝川は…西沢と顔を見合わせて笑った…。

「むしろ…普通の人より早いかも知れないよ…。
大きな力を持つということは…それだけ自分を支え保っていく力も必要なんだ…。
見かけは若くても自分自身の力に喰われて早死にする者も多い…。
紫苑は並外れた能力者だから…ケアも十二分にしてやらないとな…。 」

そう言って…さも愛しげに西沢を見る…。
それが自分に与えられた天命…と…滝川は信じて疑わない…。

そんなぁ…。

ノエルは不安げに西沢を見た…。
早世の予測など気にする様子もなく…西沢は穏やかに微笑んでみせた…。

「心配しなさんな…ノエル…。
紫苑の場合は生命力も並外れてるんだから…そんなに簡単に死んだりしないよ…。
早いったって…今日明日ってわけじゃないんだ…。
人生が80年のこの時代なら…それより少し早いかも…って話で…。 」

それに…と滝川は続けた…。

「100歳越えて長生きした能力者だって居ないわけじゃない…。
ひょっとしたら…ノエルよりずっと長く生きるかもしれないぜ…。 」

 そう言われても…ノエルの不安は消えない…。
エナジー相手の戦いで西沢の命の火が今まさに消えていこうとした時の…その手の冷たさを…ノエルは未だに忘れては居ない…。
不覚にもぽろっと涙がこぼれ落ちた…。

 子供たちが訝しげな目でノエルの顔を覗き込み…それぞれの手がノエルの衣服をぎゅっと掴む…。
母であり父であるノエルの涙は、幼い子供たちに少なからず動揺を与えた…。

「ノエル…大丈夫だってば…僕はそう簡単にはくたばりゃしないよ…。
きみが産んでくれた命じゃないか…。
きっと…誰のものより頑強で長持ちだ…そうだろ…? 」

西沢がそっとノエルの髪を撫でた…。
それ以上…要らぬ涙がこぼれぬように下唇をきゅっと噛み締めながら…ノエルはうんうんと頷いた…。



 後ろのカット具合はこれで宜しいですか…と美容師が訊ねる…。
何気なく鏡の中の自分を見て…ちょっとした肌の翳りにはっとする…。
鏡の向こうから覗く顔…。

 いったい幾つになったっていうのかしら…と輝は嘆く…。
何処がどう変わったというわけではないのだけれど…少しばかりくすみが出てきたような…。

嫌だ…まだそんな齢じゃないわよ…。

溜息混じりに礼を言って…輝は美容室を後にした…。

 通りすがりのショウウィンドウに映る自分の姿を…立ち止まって少しだけ眺めてみる…。
母親になっても衰えない容貌…同年代の知人からはいつも羨ましがられる…。
けれど…間近にノエルを見ていると…それも虚しい…。
輝よりもずっと若くて魅力的…とても男の子三人産んだとは思えない…。
手放すのを躊躇う紫苑の気持ちが…悔しいけれど…十二分に分かる…。

半分だけ…のくせに…紫苑の心をがっちり捉えて放さないのよね…。

それでもあとの半分は…と…昨日の夜を振り返ってみる…。

輝さんがさぁ…うんっ…と言ってくれたら…すぐに籍入れるんだけどなぁ…。
だって…僕等ずいぶん長い付き合いだしさ~…ケントも大きくなってきたし…。
そろそろ…僕の嫁さん…してくんないかなぁ…。

なんて…変なプロポーズ…。
分かってるわよ…恋愛感情じゃないことは…。
それなのに…考えとくわ…なんて気を持たせるようなこと…言ってしまった…。

籍なんか入れたら…紫苑はどう思うかしら…?
紫苑の再三再四のプロポーズをすげなく断っておきながら…今さらノエルと…。
そう…半分だけ紫苑の奥さん…ノエルと…よ…。

馬鹿ね…まるでまた…紫苑に意地悪しているみたいじゃないの…。
あてつけがましく…ノエルの子供を産んだだけでも…紫苑は好い気がしなかったでしょうよ…。
その上に…ノエルまで…まぁ私にとっては…妻じゃなくて夫ってことになるんだけど…奪い取っちゃったら…ショックで寝込んじゃうかも…。

そうなったら…あ~ぁ…また恭介が煩いわねぇ…。
紫苑命の御馬鹿さん…あんたがしゃしゃり出てきたら紫苑は余計に寝込むわよ…。

天を仰ぐ紫苑の顔を思いうかべて…輝は思わずクスッと笑った…。

…それでも…恭介が必要なのよね…紫苑…。
誰よりも…大好きなのよね…。

大丈夫よ…紫苑…そこまで意地悪じゃないわ…。
だって…今でも…。




 仕事部屋のドアが勢いよく開かれ…蒼ざめた西沢が飛び出してきた…。
居間のソファにゆったりと身体を預けて雑誌をめくっていた滝川と、子供たちを昼寝させながら半分うとうとしていたノエルは、そのただならぬ様子に驚いて身を起こした。

「今…輝の声が聴こえた…!
僕を呼ぶ声…何かあったんだ…! 」

西沢の表情から…容易ならざる事態だということが察せられた…。
他の者が言うことなら空耳で済ませられるが…西沢の場合はそうはいかない…。

ノエルはすぐに携帯を手にした。
鼓膜に呼び出し音だけが虚しく響く…。
 
「だめ…美容室の方に連絡入れてみるよ…。 」

美容室とはすぐに繋がったが…輝はすでに店を出た後だった…。
もう工房に戻っているかも知れない…と…ノエルはまた別の番号を押し始めた…。

「輝の工房に行ってくる…。
店を出たのなら…輝は工房へ向かったはずだから…。 」

西沢がそう言うと…滝川はだめだと言うように首を横に振った…。

「ここに居ろ…紫苑…分かっているんだろう…?
多分…すぐに連絡が来る…それを待て…。
今…おまえが出てったところで…事態は変わらん…。
行き違いになるだけだ…。 」

滝川の悲しげな眼が…宥めるように西沢を見つめた…。
自分を納得させるように何度か小さく頷いて…西沢は思いとどまった…。

「工房にも居ないみたいだよ…。
仕事切り上げて…直接…こちらへ向かっているのかなぁ…? 」

何も知らないノエルが希望に満ちたことを言う…。
とにかく外部からの連絡を待とう…と…見合わせた滝川の眼が頷いた…。

「そうだと…いいなぁ…ノエル…。 」

西沢はかろうじて…笑みを浮かべた…。

 






次回へ 

続・現世太極伝(第百三十六話 苛立ち )

2008-06-07 22:51:22 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 雨の音が聞こえる…やたら大きく響いてくる…。
幾千億の雨粒が地表に降り注ぐ刹那の音…。
マンションに居た時にはまるで聞こえなかった雨だれの音…。
ぼんやりと天井を見つめながら…聞くともなしに聞いている…。

今夜は…毛布でもよかったかな…。

 長袖のパジャマを着ているのに…妙に…薄ら寒い…。
雨で外気が冷やされたせいだろうか…。
或いは…そう感じるだけ…かもしれない…。
隣に眠るはずのノエルの身体が…そこにない…。

腹までを覆っていた肌掛けを首まで引っ張り上げた…。

 そんなことはこれまでにも幾度となくあった。
結婚してからもずっとノエルは木之内の家とマンションを頻繁に行き来していたのだし、子供部屋で子供たちと一緒に眠ることも少なくなかった。

 これまでノエルがそこに居ようと居まいと、それほど意識したことはない。
ひと晩ふた晩姿がなくても…必ず…この場所へ戻ってくることが分かっていたから…。

 今は…いつ…その時が来るのか…と…その不安に苛まれている…。
最早…避けられない…すでに秒読み段階…。
今日か…明日か…明後日か…。
 
迷っているようなら…こちらから先に背中を押してやるべき…なんだろう…。
そう約束したんだから…。

 分かってはいるが…躊躇してしまう…。
西沢の許からノエルが旅立つ時…それは西沢がひとり残される瞬間…。
薄皮の張った心の傷が…パックリと口を開く…。
西沢の中の小さな紫苑が悲鳴をあげる…。

要らない子…。

小刻みに身体が震え出す…。

違う…!
状況が変わっただけなんだ…!

 少し間を空けて…滝川が寝ている…。
祥から強引に買い取った部屋が、この屋敷内に二部屋あるというのに、相変わらず西沢のベッドの反対側を占領している滝川…。

 寝返りを打つと同時に目を覚まし、西沢の異常に気付いた…。  
それほど冷えてもいないのに肌掛けで顔半分くらいまですっぽり覆っている…。

「紫苑…? 」

 飛び起きて…西沢の状態を調べた…。
こういう時の西沢は発熱していることが多い…。
それも我慢を重ねた上で高熱を出していることもしばしば…。
けれど…これという病の兆しは…何処にも見当たらなかった…。

滝川はほっと安堵の息を洩らした…。

「あんまり…思い詰めるな…。 
立場は変わっても…ノエルがここで暮らすことには変わりないんだ…。 
それに愛情が無くなったわけじゃ…ないんだから…。 」

そっと西沢の髪をなでてやりながら…そんな優しい言葉を投げかけた…。

慰めにもなりゃぁしないな…。

内心…そう思いながらも…。

「分かってる…端から覚悟してたことだもの…。
分かってるけど…さ…。
僕の中の…4歳の紫苑が怯えてるんだ…。
母が逝ってしまったあの時のように…置き去りにされることを怖れている…。
いつまで経っても…頭から消えてくれない…言葉のせいで…。 」

 いい加減…うんざりだ…と西沢は呟いた…。
悲しみが心に触れるたびに…甦る呪われた言葉…。
解けない呪縛に苛立ちを覚えるものの…どうすることもできないでいる…。

「でもな…紫苑…祖父さんと祥さんに消された記憶が戻ってからは…随分と良くなったじゃないか…。
あれからずっと…安定した状態を保っている…。
それも自力で制御できているんだぜ…。 
記憶の修復パニックもまったく起きなくなったしな…。 」

西沢のすぐ傍に身を寄せて横になり、軽く身体を擦ってやる…。

大きな事件がないからさ…。

西沢はそう言って溜息をついた…。

それに…恭介が必ず傍に居るからだ…。

 もし、エナジーたちの勧めに従って子を生せば、その子は西沢の力を引き継ぐ吾蘭の制御装置になると知り、躊躇いもせずに滝川が選んだ道…。
それまで同族扱いの要人という不安定な立場だった滝川は、慧勠の誕生によって正式に裁きの一族の滝川姓初代として迎え入れられた。
が…同時に滝川本家との架け橋として重責を担うことにもなってしまった…。

「恭介が居るから安心して居られるんだ…。
僕の暴走を止めてくれる…。
心強いけれど…申しわけないとも…思う…。 」

幾度となく…繰り返される溜息…。
己の弱さゆえに、滝川という男の人生を犠牲にさせてしまった…。
そういう思いが未だ西沢の胸から消えない…。

まだ…そんなことを…。

滝川の方が溜息をつきたくなる…。

「何言ってんだよ…。 僕は最高に幸せだぞ…。
怜雄の妹…可愛い紫苑ちゃんを嫁さんにするのが小学校の時からの夢だった…。
紫苑と一緒に暮らしている今は夢が叶ったのと同じだ…。
ちゃんと子供まで居るんだぜ…。 」

ふたりの愛の結晶だろぉ…。

嬉しそうな滝川の声に西沢の頬は引きつった…。
臍の辺りがむずむずするような…あの甘ったるい声…。

誰だよ…ふたり…って…。

西沢がわざと不機嫌な口調で応える。

まっ…そういうことだから…お構いなく…。

クックッと喉を鳴らして…滝川は心から楽しげに笑った…。

「勝手に…幸せに浸っとけ…。 」

そう言って…西沢は滝川に背を向けた…。

 ふっと軽く鼻を鳴らして…滝川はまたそっと西沢の頭を撫でてやる…。
優しく肩を抱いて温めてもやる…。
西沢の中の幼い紫苑が永久に失ってしまったもの…を…僅かでも取り戻すことができるように…。
滝川の肌の温もりを背中に感じながら…4歳の紫苑は眠りにつく…。



 叩きつけるような雨の攻撃で窓の外が滲んで見える…。
街灯の明かりもぼやけて歪む…。
ここからほんの少しだけ見える家の灯り…ガラス越しに様子を窺っている…。

「もし…だめになっても…今までと何が変わるわけじゃないんだ…。 」

まるで自分自身に言い聞かせるかのようにノエルはひと言ひと言に力を込めた。

「同じ屋根の下に居て…アランたちを育てていくんだから…。 」

それでも唇をへの字に曲げてしまうのは…どこかに納得できない自分が居るから…。

「なにもさぁ…そんなに深刻に考えることないんじゃないか…? 」

呆れたように亮が言った。

「ノエルと紫苑の場合は…親兄弟や仲間の前で…結婚します…って宣言しただけなんだから…そのまま自然消滅だって有りだろ…?
書類上の契約を交わして役所へ届け出た…ってわけでもないんだし…。 」

届出なんて出来るわけもなかった…。
ノエルは戸籍上は男…両方の機能を持つと分かったのは16になってからだ…。
そのことで父智哉とトラブルになり…悩み苦しんだ挙句…家を飛び出して西沢のマンションに転がり込んだ…。
結婚という形は行き場のないノエルに居場所を与えるための…西沢の考え出した方便に過ぎない…。

「紫苑はさ…最初っから覚悟してたよ…。
いつかは…ノエルが本当の居場所を見つけて…自分のもとを離れていく…って…。
仕方ないじゃないか…その時が来たんだよ…。 」

ノエルの受けた心の傷をを癒すために、西沢がノエルの仮の居場所になる決心をしたと知った時、亮は、自分なら別れを前提にした結婚なんてできないと思った…。
生涯を共にしたいから結婚するんじゃないのか…とも…。

そんなんで…幸せだったのかなぁ…紫苑は…?

亮の脳裏にふとそんな疑問が浮かんだ…。

だいたい…ノエルが子供を産むなんて紫苑だって考えてもなかったろうさ…。
子供が生まれたことで…仮想現実みたいな夫婦の在り方が一変してしまったんだ…。
それがなけりゃ…ふたりの関係なんて…とっくに終わってるかもな…。

「それにだ…今までだって…ノエルには結婚してるなんて意識なかったろ…? 」

亮にそう言われて…ノエルは驚いたように目をパチクリさせた…。

「あ~っ…そうじゃん…そんな意識…全然なかった…。
紫苑さんの傍にずっと居てもいい…ってのが…やたら嬉しかっただけで…。
だいたい…結婚…って端っから…よく分かんなかったし…。

…んじゃ…このイライラはなんなんだ…? 」

夫婦じゃなくなる…ということ以外…何処がどう変わるということもない関係…。
それなのに…どうしようもない焦燥感に駆られてしまう…。 
ならば…これまではどうだったか…といわれると…夫婦とは名ばかりだったような…。

「自分の居場所であるという証…が…なくなるから不安なんだよ…ノエルはね…。
紫苑の方は…存在する意味…がひとつ減る…そういうこと…。
紫苑にとっちゃ…最大の恐怖だよな…要らない子…になるっていうのは…。 」

…それでも…それが分かっていても…紫苑はノエルに手を差し伸べた…。
自分と同じように…存在の意義に苦しむノエルを放ってはおけなかったんだ…。

「げげっ…だよね~…どうしよう…亮…?
僕ってば…いつも紫苑さんに悪いことばっかりしてるよね~…。
大丈夫かなぁ紫苑さん…また…暴発しちゃわないかなぁ…? 」

 慧勠を産んだ後に女性の機能が失われた…という現実は、生まれた時から男として育ってきたノエルにとってはまさに願ったり叶ったりの好転だから、西沢との関係に不安はあっても気持ちにはまだ余裕がある…。

「そんなの…心配ないって…ちゃんと…滝川先生がついてるし…。
それより…ノエル…女性機能停止状態になってから…あいつら来ないんじゃない…? 」

 あいつら…とは意思を持つエナジーたち…そういえば…とノエルは思った。
慧勠を産んでからは、太極にも、他のエナジーたちにも会っていない…。
勿論…この世の何処にでも混在するエナジーたちだから…今この時点でもノエルの中にも周りにも居るには違いないが…久しく言葉を交わしていない…。

「次世代…をすべて産み終えたから…もう用済みになっちゃったのかな…僕…。
それならそれで…さよならくらい言って欲しかったよな…。 」

不満げに唇を尖らせるノエルを見て…亮は思わず噴出した…。

「ノエル…ほんの数年前まではあいつら敵だったんだぜ…。
僕らふたりとも殺されかけたんだからな…。
紫苑なんか僕らを庇って…もう少しで命落とすとこだったんだ…。
そんな極限状態だったってのに…すっかり頭にないんだね…。 」

 一時は人間の殲滅を図ったエナジーたち相手に完全に御友達状態のノエル…。
大らかというか脳天気というか…。
エナジーたちの言動を何の疑いもなく受け入れることなど…未だ亮にはできない…。
何時また…人間に牙をむくかも分からない相手なのだ…。

「それは…そうなんだけど…太極にはいっぱい助けて貰ったし…他の連中だって…決して悪い奴じゃないんだ…。
エナジーたちと話ができなくなるのはちょっと…寂しい気がするなぁ…。 」

少しばかり悲しそうに…小さな溜息を洩らした。

本来…人間が関わるべき相手でないことは百も承知だけれど…それでも関わってしまった以上は…別れのひと言くらいは交わしたかった…。

勝手に使われて無言のまま御払い箱かぁ…。

そう考えると…なんだか妙に切ない気がした…。




 

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