先天性か後天性かは知らねど、俺は俺の愚かさには自分自身で自信を持っている。
たとえば。
ふと手が空いたとき、もはや30年くらい会っていない、しばらく話してもいない学生時代の同級生を、その名前で検索してみたりする。
こういうのって、皆さんやるものなのかな?
高校時代同じ部活で同じ打楽器パートだった、なんでも出来る優等生のTSくん。
フィンランド関係の学者になってた。
剣道部だった、シャイなMKくん。カッコつけのMKくん。
某地元大の教育系の教授になってた。
とかね。
見なきゃ(調べなきゃ)知らないだけの事実に、敢えて踏み込むのが愚かなる我の愚かなるところなり。
たまに今でも思うんだよね。
あの時(大学4年夏)、学校に残って研究者の道を選んでいたらどうなっていたのかな、と。
あの時が、人生の大きな帰路だった。いや、岐路。帰ってどうする。
院には進めただろうが、その後が予想つかないな。
でも、まったく興味が持てない福祉健康分野で死んだ顔で四苦八苦している今現在の仕事よりは、好きなことやってる分充実してたのだろうか?
そんなことは誰も知らない。
答えは誰も知らぬよね。
答え、とは。
答えとは、とは、
夢とは、
と同義。
学者は学者なりの苦労があることはもちろん知っている。
楽な仕事など無い。基本的に。
でもね、たまーに想像するんだよね。
研究者の道を選んだ自分。
研究者だったらこんなコミュ障の廃人でも許されるのかな、とかね。
少なくともいまの配偶者とは絶対出会っていないし、つまりは息子がこの世に存在していない世界線。そこだ。うん。それな。
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