全9冊。
読み終わった、、、この充実感。
去年の9月半ばから読み始めて、最初かなりゆっくりとしたペースで、それでも毎日欠かさず数ページでも読むようにして。
11月くらいからだいたい週一冊ペースになり、週末家にいる時間はゲームもせずに(これは自分にとりかなり珍しい)没入した。
もっとも集中力は断続的に切れるので休み休み。
言うまでもなく、読み始めたきっかけは大河ドラマ「光る君へ」にかなりハマってしまっていたから。
それまで、源氏物語は高校の古文あたりで断片的に触れる程度で。
ストーリーも知らないし登場人物も光源氏くらい。
読み始めの時点では、むしろ大河ドラマ関連からの前情報がベースだったりしていた。
敢えて翻訳を選ばなかったのは、誰の翻訳版を選んでよいか分からないという理由の他に、恐らく残る生涯で源氏物語を通読する機会などもうないだろうから、それならいっそ原典に当たるべきと思ったのだ。
正直、読み応えはあったね。ありすぎるくらいに。
それこそ古文なんて何十年ぶりに読むので、独特の単語(例えばつきづきし、あぢきなし)のニュアンスをだいぶ忘れていた。
「え〜ず」は覚えてたよ。
読み応えについては、2つ目の帖「帚木」があまりにくどくどしく感じ、さっそく挫折しそうになった。
そこを越えると、例の雀の子のシーンなど、話に引き込まれるだけ引き込まれていった。
そして次第に古文の文体にも慣れたのか、あるタイミングから読み砕くスピードのギア?が一段上がったと感じた時は我ながら面白かったな。
さらに終盤は指でなぞるように読むと更にスラスラ読めたりして(トレーシング・リーディングと言うらしい)。
しかし、決して平易ではない文章をこんなに没頭しながら読めたのは、当然ながらこの物語自体にすっかり引き込まれてしまっていたからなのだ。
登場人物がみな「キャラが立って」いて、しかもエピソードそれぞれが現代にもそのまま置き換えられそうな趣があって。
玉鬘を蛍で照らすシーンは映像が露わに思い浮かべられてゾクッとしたし、近江の君のエピソードには紫式部の意地悪い性格を感じられて微笑んだり。
まあ、物語中の男性たちは現代の価値観から言うとドン引きしてしまいそうなのばっかりだったけど。
それはともかく、なかでも自分の気持ちが共鳴したのは浮舟だった。
いくらなんでも不憫すぎる、勝手な男たちの愛欲の被害者。…という感覚でやはり見てしまうよね。当時はどう見られていたんだろう。
浮舟が自ら命を絶とうとするまでに至る一連の流れは、結末を知らないだけに何度涙しただろうか。
まして、読書の際のBGMに「光る君へ」のサントラを流し始めたらもうやばい。
この音楽が合うんだよなー。そう刷り込まれて聴いているからなのだろうけど。
浮舟と言えば、すべての話の終わりがあの形というのがまた凄いな。
単純に凄いと思った。
大団円でも悲劇の結末でもなく、そこに希望も絶望も感じない。
悪く言えば極めてぶっきらぼうに終わる。
この終わり方は、それこそこの千年間いろんな人が論評してきたのだろう。
この先の展開を誰もが想像せざるを得ない、そんな強制的な余白を提示して筆を置いた紫式部さんに、この真意を聞いてみたいな。真意というほど大袈裟な思いはなかったのかも知れないけれど。
最後に。
岩波文庫版は、学術的に極めて誠実な作りになっていて、注釈はいちいち精緻だし系図はほんとありがたい。
いやー、系図があるとないとでは全然理解度が違うわね。
初めまして。
古文でお読みになったのがすごい!
と思いました。
宇治十帖で涙を流されるのも、感受性豊かな方だなーと、感心してしまいました。