野中広務、なんとも捉えようのない人物だ。
恐らくは政治の裏の裏の汚い場面をいくつもくぐり抜けてきた、
旧来型の政治家の象徴であり生き証人でもあるのだろう。
クリーンなタカ派と対比で、ダーティーなハト派と称される。
ひとつだけ確かに言えるのは、
その懐の深さは途方もない、ということだろうか。いろんな意味で。
安倍シンゾウだの麻生タロウだのの著作は読んだことないし、
死ぬまで手にとることはないだろうが、
彼ら「お坊ちゃん政治家」の立ち振る舞いや言動を思い出すにつけ(思い出したくもないケド)
野中広務的政治家の「深さ」が際立ってしまう。
被差別出身→苦労人→政治家として大成、などという単純図式にあてはめるつもりはないが、
それでも出自と生い立ちのバックボーンは大きな影響を及ぼすのだろう。
---------- キリトリ -----------
興味深かったのは、野中の次のような発言だ。
(以下要旨)
第二次大戦の戦後未処理問題の検証と整理に取り組みたい。
自分にとっての戦後処理(の前提)は、
「我が国が他国を侵略した」こと。
「他国が日本に軍隊を送った」訳ではない。
それなのに、日本は自らが戦後問題の処理をしようという意欲に欠けている。
たとえば、中国大陸の遺棄化学兵器問題、強制連行や原爆の被害者、「残留孤児」。。
これらの問題が置き去りになっている現状は非常に恥ずかしい。
まさに、これは俺がかねがね心に引っかかっているポイントだ。
近代以降において、決して中国や朝鮮が日本に攻めてきたのではない。
日本が、(理由をどう捏ね繰り回そうが事実として)隣国へ軍隊を送り、
少なからぬ被害を及ぼしたのだ。
これは、アメリカ合州国が(理由をどう捏ね繰り回そうが事実として)ベトナムやイラクに軍隊を送ったのとまったく同義で、
侵略行為に相違ないのである。
確かに、結果としての被害把握に意見の相違はあろう。
いわく、「大虐殺」ではなかった、
何十万人も虐殺してない、
慰安婦は強制ではなかった、、、
数が問題ではない。表層的(法的制度的)に強制かどうかが論点ではない。
攻め行って、併合して、
戦争に巻き込んで、事実として多くの痛みを与えた。
この点だけで、我々はもっと謙虚になる必要がある。
侵略者の宿命なのだ。
南米大陸に対するスペインの、北米先住民に対する合州国の、
ユダヤ人に対するナチスの、パレスチナに対するイスラエルの。
それらととまったく同義で。
(つまり日本だけが卑屈になる必要があるわけではないという意味でも)。
足を踏まれた側の気持ちは、踏んだ側には解らないかも知れん。
それでもなお、解ろうと努力すべきだ。想像力を巡らすべきだ。
田母神に象徴されるような、昨今の声高な「愛国主義」には、
この感覚が決定的に欠けている。
---------- キリトリ -----------
話が逸れたが、逸れついでに続けよう。
ちょっとでも日本国の戦争犯罪を直視しようとすると、
必ず浴びせられる言葉。
「売国奴!」「反日!」
片腹痛いわ。
そういう輩に限ってこう言う確率100%。
「俺は愛国者だ」「日本を愛している」
それは違うだろw
自分の属す場所。それが国であれ町であれ家庭であれ会社であれ、
誇るべき点と反省すべき恥ずべき部分をいずれも認めてこそ、
真の「愛○者」であらう。
どんな集合体であれ、目を背けたくなる汚点はある。
まして、戦争の主体となり得る国家なら尚更なり。
目を背けるな。強がるな。
汚点も含めて、愛すべきわが祖国ではないのか?
その点において、
排外的言動と歴史を顧みない態度は、
圧倒的に「反愛国的」である。
彼らの表現を借用するなら、
非常に「売国奴」的である。
野中の言う通り、「非常に恥ずかしい」!
---------- キリトリ -----------
話を本書に戻そう。
そんな野中だが、俺だって共感ばかりではない。
たとえば国旗国歌法。
世羅高校校長の自殺がきっかけだったことは、俺も知っている。
野中には野中なりの、不毛な争いに終止符を打ちたい的な気持ちは解らぬでもない。
そして野中は、当時から国旗国歌を強制するものではない、と言っていた。
ところが、その結果は今の悲しむべき状況である。
東京都において、より典型的だが、
教育委員会の名のもと事実上の強制が、大手を振って行われている。
少なからぬ教員が、その良心に基づく異議申し立ての結果、処分を受けている。
野中がなんと言おうが、この悲しむべき状況に対する結果責任を感じていただきたいものだ。
「(法制定のおかげで)学校現場に紛争がなくなった」トカ言っているが、
ここら辺が彼の限界を示しているのだろうか。
他にも色々印象深い発言があった。
石原慎太郎という差別主義の権化みたいな人物に対して、
辛淑玉はいつものように辛辣だが、
野中は庇いだてをしてる風である。
「(石原にも)僕のように忠告を出来る人間がおらないといかんでしょ」
まあ、そうではあるが(笑)
確かに石原が少しでもまともな事をするとすれば、
そのきっかけは市民運動的働きかけなどでは決してないだろう。
かえって石原は頑なに拒絶するのではないか。目をしばたかせながら強がって。
そこで威力を持つのは、やはり懐に入り込むことのできる野中的人物なのだろう。
そういう意味でも、野中広務の存在価値は衰えることはない。
政界を引退しようが、彼のような人間はまだまだこの国に必要だ。
同時に思う。
彼のような良くも悪くも度量の広い、清濁併せ呑む人物が
今の国家指導部に何人いるのだろうか。
そう考えると、自民党も民主党もどれもこれも、
純粋培養の無菌室育ちの怖いもの知らずな顔触れに見えてしまう。
野中広務氏の、より一層のご活躍を心から祈念します。
恐らくは政治の裏の裏の汚い場面をいくつもくぐり抜けてきた、
旧来型の政治家の象徴であり生き証人でもあるのだろう。
クリーンなタカ派と対比で、ダーティーなハト派と称される。
ひとつだけ確かに言えるのは、
その懐の深さは途方もない、ということだろうか。いろんな意味で。
差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)辛 淑玉,野中 広務角川グループパブリッシングこのアイテムの詳細を見る |
安倍シンゾウだの麻生タロウだのの著作は読んだことないし、
死ぬまで手にとることはないだろうが、
彼ら「お坊ちゃん政治家」の立ち振る舞いや言動を思い出すにつけ(思い出したくもないケド)
野中広務的政治家の「深さ」が際立ってしまう。
被差別出身→苦労人→政治家として大成、などという単純図式にあてはめるつもりはないが、
それでも出自と生い立ちのバックボーンは大きな影響を及ぼすのだろう。
---------- キリトリ -----------
興味深かったのは、野中の次のような発言だ。
(以下要旨)
第二次大戦の戦後未処理問題の検証と整理に取り組みたい。
自分にとっての戦後処理(の前提)は、
「我が国が他国を侵略した」こと。
「他国が日本に軍隊を送った」訳ではない。
それなのに、日本は自らが戦後問題の処理をしようという意欲に欠けている。
たとえば、中国大陸の遺棄化学兵器問題、強制連行や原爆の被害者、「残留孤児」。。
これらの問題が置き去りになっている現状は非常に恥ずかしい。
まさに、これは俺がかねがね心に引っかかっているポイントだ。
近代以降において、決して中国や朝鮮が日本に攻めてきたのではない。
日本が、(理由をどう捏ね繰り回そうが事実として)隣国へ軍隊を送り、
少なからぬ被害を及ぼしたのだ。
これは、アメリカ合州国が(理由をどう捏ね繰り回そうが事実として)ベトナムやイラクに軍隊を送ったのとまったく同義で、
侵略行為に相違ないのである。
確かに、結果としての被害把握に意見の相違はあろう。
いわく、「大虐殺」ではなかった、
何十万人も虐殺してない、
慰安婦は強制ではなかった、、、
数が問題ではない。表層的(法的制度的)に強制かどうかが論点ではない。
攻め行って、併合して、
戦争に巻き込んで、事実として多くの痛みを与えた。
この点だけで、我々はもっと謙虚になる必要がある。
侵略者の宿命なのだ。
南米大陸に対するスペインの、北米先住民に対する合州国の、
ユダヤ人に対するナチスの、パレスチナに対するイスラエルの。
それらととまったく同義で。
(つまり日本だけが卑屈になる必要があるわけではないという意味でも)。
足を踏まれた側の気持ちは、踏んだ側には解らないかも知れん。
それでもなお、解ろうと努力すべきだ。想像力を巡らすべきだ。
田母神に象徴されるような、昨今の声高な「愛国主義」には、
この感覚が決定的に欠けている。
---------- キリトリ -----------
話が逸れたが、逸れついでに続けよう。
ちょっとでも日本国の戦争犯罪を直視しようとすると、
必ず浴びせられる言葉。
「売国奴!」「反日!」
片腹痛いわ。
そういう輩に限ってこう言う確率100%。
「俺は愛国者だ」「日本を愛している」
それは違うだろw
自分の属す場所。それが国であれ町であれ家庭であれ会社であれ、
誇るべき点と反省すべき恥ずべき部分をいずれも認めてこそ、
真の「愛○者」であらう。
どんな集合体であれ、目を背けたくなる汚点はある。
まして、戦争の主体となり得る国家なら尚更なり。
目を背けるな。強がるな。
汚点も含めて、愛すべきわが祖国ではないのか?
その点において、
排外的言動と歴史を顧みない態度は、
圧倒的に「反愛国的」である。
彼らの表現を借用するなら、
非常に「売国奴」的である。
野中の言う通り、「非常に恥ずかしい」!
---------- キリトリ -----------
話を本書に戻そう。
そんな野中だが、俺だって共感ばかりではない。
たとえば国旗国歌法。
世羅高校校長の自殺がきっかけだったことは、俺も知っている。
野中には野中なりの、不毛な争いに終止符を打ちたい的な気持ちは解らぬでもない。
そして野中は、当時から国旗国歌を強制するものではない、と言っていた。
ところが、その結果は今の悲しむべき状況である。
東京都において、より典型的だが、
教育委員会の名のもと事実上の強制が、大手を振って行われている。
少なからぬ教員が、その良心に基づく異議申し立ての結果、処分を受けている。
野中がなんと言おうが、この悲しむべき状況に対する結果責任を感じていただきたいものだ。
「(法制定のおかげで)学校現場に紛争がなくなった」トカ言っているが、
ここら辺が彼の限界を示しているのだろうか。
他にも色々印象深い発言があった。
石原慎太郎という差別主義の権化みたいな人物に対して、
辛淑玉はいつものように辛辣だが、
野中は庇いだてをしてる風である。
「(石原にも)僕のように忠告を出来る人間がおらないといかんでしょ」
まあ、そうではあるが(笑)
確かに石原が少しでもまともな事をするとすれば、
そのきっかけは市民運動的働きかけなどでは決してないだろう。
かえって石原は頑なに拒絶するのではないか。目をしばたかせながら強がって。
そこで威力を持つのは、やはり懐に入り込むことのできる野中的人物なのだろう。
そういう意味でも、野中広務の存在価値は衰えることはない。
政界を引退しようが、彼のような人間はまだまだこの国に必要だ。
同時に思う。
彼のような良くも悪くも度量の広い、清濁併せ呑む人物が
今の国家指導部に何人いるのだろうか。
そう考えると、自民党も民主党もどれもこれも、
純粋培養の無菌室育ちの怖いもの知らずな顔触れに見えてしまう。
野中広務氏の、より一層のご活躍を心から祈念します。
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