マンション管理のお勉強日記+スピリチュアルなブログ:飯田史彦教授 江原啓之氏 坂本政道氏等の精神世界の書籍を読んで

先立った最愛の彼女といつか必ず逢いたい…彼女が枕元に置いて逝った江原啓之氏の書籍…Spiritualな世界の存在を信じて

江原啓之氏 -大切な人の死をどう受け止めればよいのか-

2007年11月19日 01時34分07秒 | ★書籍で探訪|江原啓之氏
久し振りに以前購入した江原啓之氏の「一番幸せな生き方がわかる!
スピリチュアルジャッジ」王様文庫を手にとって読んでいました。

江原啓之氏は、「家族や友人など、大切な人が事故で突然亡くなったとき、ついさ
っきまで元気だった姿をみているだけに、信じられないという思いでしょう。」
と事故死を取り上げて語っている箇所が本書にあります。

・・・

ホント、突然でした。。。
朝出かけるときには、ごく普通に元気だったのに。
亡き彼女は、事故当日の昼過ぎ頃でしょうか、ファッションセンターしまむらで買
い物をしていました。買い物をした袋にはタグのついたままのズボンが入っていま
した。。。

さっきまで元気に行動していた様子が部屋に残されていて、どうして突然いなくな
ってしまったのか、なぜ事故なんかをで・・・って思うと今でも涙が止まりません。

バカタレ!なんで僕を置いて逝ったんだよ!と思うときだってあります。

・・・

江原啓之氏は、
「この本でも何度も書きましたが、死は決してつらいことではありません。」
「それは病気でも事故でも同じことです。死は人生という旅を終えたということ。
すべての苦痛からの解放でもあるのです。」

「生きている側から見ると、悲しくつらいかもしれませんが、スピリチュアルリズ
ムの観点からいえば、現世で悲しみや苦しみを抱えて生きることのほうが大変なの
です。」

とおっしゃり、
事故死の場合、長患いというものが無い分、あまりに突然すぎて自分が死んだこと
が信じられないということがあると言っています。

ですから、
故人は、「生への未練を断ち切って、死を受け入れなくてはいけないのです。」
と語っています。

そのためには・・・
江原啓之氏は、
「遺された人が、『あきらめる』ということも必要なのです。」
「最初のショックから立ち直って、亡くなった人の浄化を願ってあげることです。」
「未練をもっていると、亡くなった人も未練を捨てることができません。」
とおっしゃり、
「『もう何を言っても届かない』と泣きたい気持ちは痛いほど分かります。けれど、
心配することはありません。」

「必ず届きます。」

「『思い』はすべて、亡くなった人に伝わるのです。」

「『どうして死んでしまったの』と悲しく思う気持ちも届いているし、『つらいけ
ど、あなたの分まで頑張って生きるから』と立ち直ろうとする気持ちも届きます。」
とおっしゃっています。

私も今は、
そう信じて、生きる、生き抜くほかはないと思っています。


そして、
「この世に生きている人の多くは、あちらの世界からのメッセージを受けとることは
苦手です。ですから私は、『天国からの手紙』(フジテレビ系列)というテレビ番組
に出演して、亡くなった人の声を遺族に伝えるという仕事もしています。」
とおっしゃっています。

しかし、江原啓之氏は、
「けれど、こちらの思いを伝えることだけなら、スピリチュアル・カウンセラーで
なくてもできるのです。思うだけで、あちらの世界には届いています。」

「それを信じてください。」

「だからこそ、亡くなった人の未練をかきたてないよう、無事に浄化できるよう励
ます思いをつねに心に抱いていただきたいのです。」と語っておられます。

・・・

確かに、亡き彼女の足を引っ張っていちゃいけないとは思いますが、どうしても
悲しい悔しい寂しいという感情が湧き上がってくるときだってあります。。。

しかし、天国からの手紙スペシャルをTVで見まして、
「見えない世界ってあるように思えるなぁ」と感じていますので、あまりこちら
(この世から)で喚くのも考えようだなぁとは、思っています。

江原啓之氏は、このようにもおっしゃっています。
「事故死であれ、病死であれ、人は自分の学びとして、一番適切な道を選ぶだけ
です。一部の殺人や自殺は別ですが、死に方による違いはありません。」

「たとえどんな年齢であっても、宿命として定まっていた『寿命』ということなの
です。」と。

・・・

そして、
「死に方がどうであれ、その人の生きてきた人生の輝きが失われるわけではありま
せん。その輝きを胸に、ふるさとに帰るときがきたということ。」

「そして、またいつか、私たちがふるさとに帰れば、必ず会えます。」

「決して永遠の別れではありません。」

「その方の人生に敬意を払いつつ、静かに送ってあげてください。」
と、江原啓之氏はおっしゃっています。

・・・

どう騒いでも、どう嘆いても、この世という世界を去っていったのは事実。。。
今後の唯一の望みは、死後には江原さんの語るスピリチュアルな世界が存在して
いて、そのときには必ず亡き彼女に会えるんだということだけ。。。

そう信じる以外、私はこれから前に向いて歩ける方法はありません。
だから、信じたいです。
コメント (22)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 気ままな話と、ふと思ったこと。 | トップ | 大学進学に資格テスト?・・... »
最新の画像もっと見る

22 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
息子の彼女 (エバ)
2013-03-04 05:58:16
自殺しました。
初めてから 何か気に入らず 結婚を反対しましたが、
一緒に暮らし結果自殺 どう受け止めたらいいのか
返信する
Unknown (管理人)
2013-03-10 20:07:38
エバさま、何とお答えしたらよいのか、正直、分かりません。。。

一緒に過ごしていたお二人に何があったのか、自殺された彼女の心に何があったのか・・・ご本人同士でないと、理解出来ないことも、多々あるのではないかとお察しいたします。

死を選ぶということは、必ずそこには原因となるものがあるかと思います。

その彼女さんを追い詰めた想いは、何だったのかを知り、そしてご家族皆様が亡き彼女さんの想いに触れて見つめ直し考えることが、何よりのご供養ではないかと、私は思います。
返信する
親戚の死 (タチュ)
2013-05-14 19:11:33
大切なおじさんが昨日、なくなりました。おじさんは親戚に当たりますが親戚の子供たちをみんな可愛がってくれました。
おじさんが亡くなった原因は、病気です。膠原病という病です。誰に対してもやさしかったおじさんがなんで最後の最後まで苦しんで死なないといけなかったのかが分かりません。人の痛みだってわかる人なのになんで痛みを最後に学ばなければならなかったのかが分かりません!!
返信する
Unknown (管理人)
2013-05-19 22:48:57
タチュさま、コメントありがとうございます。

人の痛みも分かる人(おじさん)が痛み苦しんで亡くなられたのですか。。。

よく全ては「学び」「修業」そして「(生まれる前に)自分自身が決めてきたこと」言われますが、果たして、どうなのだろう・・・と思うようなことが多々あります。本当に他人によく世話をしてきた方が、残忍な殺され方で亡くなったり、普通なら軽い怪我程度で済むところが命を落としたりと、見ていて「それでも自分(ご本人)が決めてきたことなの?」と思うような出来事を目にします。

理不尽だと感じることも多いです。
とくに身近でよく知っている人の死を目の当たりにするとき、強く感じます。

毎月、何件かの社員のご家族の葬儀に参列していますが、80歳を超えての長寿で永眠された方が多く、「ここまで生きられたら、人生よしとできる」などと自分自身に当てはめてみて、そう感じたり、思ったりしています。

ただ、この2ヶ月の間に、50歳代の正社員の男性本人が亡くなりました。

50歳代で・・・若くして・・・と思う方の死を見ると、「果たして、死というもの、死を迎えるということ自体、平等に誰しも訪れるという死さえも、差があって何故・・・」と思ったりします。平等なのだろうか、理不尽じゃないか、など色々と思いますね。

ある人は生活(食生活など)を取上げて、不摂生だったからだ、という人もいます。しかし、では先天性の場合は?本人にとっては何も悪いことしていないじゃないの?などと、結局は誰のせいでもない、ただ「来るべき時、逝くべき時が来た」という事象なのかなと感じていまます。

もし、死後に見えない世界がありましたら、ご本人は生き抜き最後も苦しみながらも「生」をまっとうしたことに恨みも無ければ、後悔や悔いもないように思います。

いずれ、生きている人皆、死を迎えます。そのときに、どういう気持ちで死と向き合うかを、先立った方の死を見て、自分なりの姿勢や心構えを持っていればよいのかなと感じています。
返信する
死を考える (タチュ)
2013-05-25 13:19:09
管理人様、私の質問にお答え頂きありがとうございます。お話を読んでまた私の中で疑問や考えることが出てきたのでコメント投稿させていただきます。

先日のおじさんの死をもっていろんなことを考えましたが、最終的に死というものは現世に生きるものに与える課題なのではないか?という思いに行き着きました。
しかし、それと同時に私は現世の生まれ育った土地や空気、家族・・・全てを忘れたくはないのです。
江原さんは言います。この世で経験したこと、感動したことは魂に刻まれていると。だから、自分というものは現世でもあの世でも存在していると。
でも、私は思います。経験や感動は忘れないと言えども、また新たに生まれてくるときに容姿や環境が違えば、私はまた違う自分となり今までの自分として生きることができなくなると思うのです。
魂に刻まれているというのはどのような程度で、どのようなものなのでしょうか?
それに思います。本当に魂が覚えているのであれば皆、死を嘆き悲しまないと思うのです。何もかも忘れてまた最初に戻るという思いがあるから涙も止まらないのでは?と考えます。
返信する
Unknown (管理人)
2013-05-26 21:56:29
タチュさま、コメントありがとうございます。

「死というものは現世に生きるものに与える課題なのではないか」私もそう感じています。死生観と言いますか、最愛の人や身近な人の死を見つめて、では何故今ここに自分は生きているのかを考えさせられる感が、亡くなっていく方を見守っている中でふと考え浮かんできます。

なぜ生きていて、そしていつかは必ず死んでいくものなのか。その生から死への流れの中にどのような意味があるのかなど、考えてしまいます。

-死んでも生きている-
-死後も、見えない世界で魂(心の塊のようなもの)は生き続ける-
と、ほとんどのスピリチュアルな話をする方はそう言いますよね。

あと、「死んだ人を見た」とか「幽霊が出た」など、亡くなった者を見る、見たという人も意外と話をしていましたら、身近に聞くこともあります。普段はみんな見た見たとは言いませんけどね。


本当に「見えない世界(あの世)」があるのかどうかは、自らが逝くときにしか分からないですし、また「あぁ、そうだったのか」と体験そして納得は、いくら周りから聞かされても自身が身をもって体感しないと受け入れられない面があるのも事実です。実際に私も未だ半信半疑な面も色々と感じています。

ただ、ブログに書いている書籍を読みますと、あの世には多くの階層があり、それは心(精神)の状態で住む世界が違い、または「あぁ、そうだったのか」「もうそんなこと(他人を悲しませたり傷つけたりするようなこと)は辞めよう」と悟る度に上の階層(更に明るく、悟っている魂がいるところ)に上がっていくような世界が広がっているようなことが書かれています。そして、最終的には、悟り、もう一度現実の世界で修業しようと決意して輪廻転生したり、またはそのまま天界とか神界と言われる幽体や霊体も持たない光の世界へと進んで行くなど、枝分かれがあるとも言われています。

そのなかで、また生まれ変わり、何も覚えていない状態で、またこの今私達が生きている現世にやってきて色々な苦労や楽しみを味わいながら寿命まで生きるという繰り返しについてですが、そのときの、そのとき生きた時代で感じた出会った見てきたものが、果たして生まれ変わりのときに、忘れてしまっている、あるいはかき消されてしまっていて、どうやって
、以前、そのまた以前に経験したこと感じたことを生まれ変わりにの際には消されてしまっていて、どうなのか?もう過去世(生)の記憶はどこかへ消えてしまったのではないかということですが、これに関しては私が読んできた書籍の中には大体同じような話が書かれていました。まず①は死後に、あの世でこのような生き方をしてきたなどと生きてきた全てを振り返りながら反省するそうですが、そうしているうちに、徐々に「あの人は、前々回のときはお父さんだった」「さらにその前は妹だった」などと思い出してくるというパターンです。そして、そのときはあんなことがあった、こんなことがあったなどと思い出してくるそうです。思い出せば出すほど、その事柄を今体験している感じになるくらい現実味あるもののようです。そのときの感性や姿かたち、出会った人たちも同じく、また今まさにそこにいて当時と変わらない思想で話が出来るようですよ。そして②はこれは映画のような話ですが、アカシックレコードと言われていることで、自分自身の記憶の過去がある場所があって、そこで今までの経験が納められているというようなパターンです。たぶん、イメージしにくいので部屋のような、または倉庫のようなところに過去の記録が置いてあるような感じで分かり易く説明していますが、要は自分の心(魂)の中にそのような引き出し(記憶の場所・媒体)があり、今までの生まれ変わりの全てを思い返すことが出来るようになっているようです。その「思い返す」ですが、これは、今まさに実体験しているかのように鮮明にそのときの自分を自分自身が、そのときの自分に戻れる、あるいは戻ったくらいの実感さだそうです。ですから、この世でいう暦年で数百年前に、別れたくなかったあの人への思いなど全てが思い出されて、そしてそのときの「わたし」になれるそうです。

記憶を閉じ込めて貯めているような感じですね。

そのような仕組みがあるので、生まれ変わるときには「一旦記憶を忘れて」イチから体験するために生まれてくるのではないでしょうか。私は、ブログで紹介している書籍を読んできて、そのような話を知りました。

そして、また、死後、あの世での話に戻りますが、時の無いあの世で過ごしていく中で、また過去の自分の生き方を見て、またチャレンジ(この世に生まれてきて生きる)しようと感じるのではないでしょうか。

話はちょっと逸れますが、私が「あの世にいるときは、よし次はこのような過酷な試練を経験してみよう」と思ったとします。しかし、それは「喉元過ぎれば暑さ忘れる」と同じで、あの世でずっと悟ったり、逢いたいだけ逢いたい故人に会ってみたりとしているうちに、「もっと色々な魂と出会ってみよう」「もう一度、実態のある世界へ行って経験してみよう」と思ってくるのだと思います。それは、いくらあの世で過去の体験を出来るアカシックレコードのようなものがあっても、過ぎ去ったことだから、冷静に感じられるのだと思います。ですから、今のままの私がそのままあの世に逝ったならば、「もう亡き彼女を早くから死別したくない、辛いから嫌だ」の気持ちを貫き、そして、もうそんな体験はしないと決めると思います。しかし・・・またこれも、ずっとあの世にいたら、「さらに厳しい経験をしてみようか・・・」なんて思うのでしょうかね。。。

あの世という世界があり、そこでは全てが分かるのであれば、あの世側にいるときは、またこの世界に帰ってくるんだから、こういう仕組みになっているんだから、などと分かってしまっているので、過去の記憶など無い今の私達とは感覚が違うのでしょうね。気楽と言いますか、分かっているから安堵しているといいますか。。。

長文になりましたが、このように、そのとき生きた自分は残っているそうです。
また、そのときの自分にも心境といいますか、その自分になれるそうです。

しかし、あの世、死んでも生きている世界があることを知り(悟り)、そしてあの世で生きていると、また挑戦しようと感じるものなのかも知れませんよね。

記憶が消されて、この世に生まれてくるその直前は「(あの世という存在を知っている段階で)また、戻ってきたら、全ての記憶は戻るのだから」「さぁ行って来よう」などと思いつつ、私達もこの世へ来たのではないかなぁと思っています。

また、逆に死後に「無」しかなかったなら、死後に「なんだ、何にもないし、頑張って生きたのに、先立った人にも会えないじゃないか!」と怒る心も悲しむ心も無いわけですから、それはそれで・・・とも思っています。そこが、私がまだ「あの世はあるんだ」と言い切れない気持ちが現れている考え方でしょうかね。

このようなことを考えたり、または忙しい日々に追われながらも、とりあえず、とにかく生き抜こうとしています。

コメントありがとうございました。
返信する
ありがとうございました! (タチュ)
2013-05-26 23:20:37
私は2年前くらいに江原さんの書籍を初めて手に取りまして、それから死後の世界や現世を生きる方法などを学んできました。そして今日、やっと2年間で膨らんだ疑問が管理人様により解決しました!!!では、私たちの各々の元となる自分という存在は死後の世界にあり、現世がむしろ全てを分かっている世界からみれば修行の場(一部分しか分かってない世界)であるということなんですね!!??
私ごとではありますが、私は生まれてから今まで死についてのことは、周りの人以上に考えてきました。考えすぎて私の考え方や意見を受け入れてもらったり、一緒に話してくれる人がなかなかいませんでした。今年で22歳になりますが、未だ大学生活で私の考えと一致しない人間と衝突があったりします。そして、無駄に傷ついたり、悲しんだりしました。そんなことで前に進めてない自分は嫌だと感じ、今は、江原さんの考え方をベースに自分というものを見つめ直している最中です。
管理人様とインターネット上ではありますが、お話することができて本当によかったです。あがとうございました。
また時々ブログを拝見させていただきます^^管理人様も頑張ってください!
私も頑張ります!!
返信する
Unknown (管理人)
2013-06-02 11:57:42
タチュさま、コメントありがとうございます。

返事が遅くなってすみません。月末で経理の仕事に追われていました。

タチュさまが思っているように、死後に精神世界があったならば、今生きているこの現世が表ではなく、死後の世界が表なのだと私も思っています。

永遠とか不老不死など、この世で生きている人の中には、大昔から(特に権力を持った支配者など)そのような生を求めていた人もいたように、「ずっと生き続けたい」という思いを持つ人も多くいますが、人はいつか「必ず死ぬ」これは、いくらゲノム解析が進んだり、IP細胞で臓器の一部が作れるようになっても不変なことですよね。こころや感情までは作り出せないし。

この世に生きて、永遠の生命を求める人は、おカネだけでなく、今の生活や周りの環境が良いなど、「ずっと持っていたいものがある」「失いたくない幸福に感じる何かがある」などして、そう求めるのだと思います。

私も日々の生活の中で、例えば、今は職場で今の上司、同僚、後輩と働いているのが楽しく感じています。色々な仕事をしてきましたが、人間関係は今までの中で最高に良い会社なので給料は安いですが、この状況で働けることのほうが価値(おカネ<今の職場)があります。

この環境がずっと続いてくれたらなぁと思っていますが、いつかは・・・2年後くらいには、関東や関西、北陸方面へ人事異動になるのは間違いありません。男で経理の正社員はどこへでも行かされますから。

そこで、いつかはそうなるのであれば、今を楽しみながら働こうと思い生きています。

・・・

タチュさまは、お若いのに死生観を持っておられることに凄い!素晴らしい!!と感じました☆
なかなかスピリチュアルと言いますか、死後世や見えない世界のことを含んだ話を友人などに話をすると、せっかく仲良くなってきた関係も相手がスーッと引いていく場合も多々あると思います。

腹を割ってと言いいますか、心の中を打ち明けて自分の考えを分かってもらおう、分かり合える関係になりたいと、一歩本心を話すると分かり合う、理解し合うのではなく、否定されたり、変わった人だとか、相手が去って行ったりと、悲しく辛い思いをされてきたのですね。。。

タチュさまは、考え過ぎであったりではないと私は思いますよ。また無駄に悲しんだりでも無く、その葛藤の中で、また深く生死、生命、何故今生きているのかなどを見つめ直していってますので、今のタチュさまの心や頭の中で思考していることは全て有用なことだとコメントを読んでいましてそう感じました。

ただ、傷つくのは嫌ですよね。。。でもね、傷ついても分かり合える友人等を求める思いがタチュさまの心の中にあり、そして、親しくなっていく中で分かってもらおう、私の考えを理解してもらいたいと思う気持ち、それはどうしても心の中から出てくるものです。そして、傷つくこともある。。。

しかし、タチュさまのように、すでに若いうちから死生観、死後世、精神世界を知り理解しておくことは、これから生きていく中で強くゆるぎない自己の指針になると思いますよ。

カッとなったとき、どうしようと悩んだとき、人を恨んだり憎しみを持ったとき、色々な場面で自分自身の行動規範に今まで知ったスピリチュアルな視点が歯止めになったり、気持ちを落ち着かせてくれたりしますよ。

私も「あの人、ホント身勝手だなぁ・・・、まっあの世へ行ったときに反省させられるわ」などと思い、適当に相手にするなど仕事上で不快な思いをしたときにそう考えてみたりして、心を落ち着かせたりしています。

長文になりましたが、

タチュさま、タチュさまはもう十分に精神世界のことは理解し尽くしていますので、あとは自己の中で、自身の心の引き出しを整理すること=見つめ直しかなぁと思います。

タチュさま、こちらも改めて考えさせられた面もありました、ありがとうございました。

またいつでもお気軽にお立ち寄りください☆

私も、日々の仕事と興味を持ったことをやりつつ、生かされている間はとにかく生き抜いてやろう!という思いで歩んでいってます。

タチュさま、とにかく生き抜く、そこに何らかの意味が出てくる、なぜ生きているのかが見えてくると思いますよ。

お互い頑張って行(生)きましょー♪
返信する
Unknown (サラ)
2013-06-09 11:28:57
こんにちはw突然のコメントすみません。ネットサーフィンをしていまして偶然見つけて興味深く読ませていただきました。私も物心ついたときから人間の死と生、そして神についてなぜだかずっと考えて、いろいろ書籍やあるいは文学作品から思索し迷い続けているものです。江原さんの本も読んだり霊訓読んだり、前世についての本を読んだり、その中でもドストエフスキーのイワンの問いはそういう仕組みに対する完全な否定のように感じ共感するところがありました。モーゼズ等の霊訓も読んでいますが思うのは霊能者のかたによって感じ方やあの世のことの説明が違うということです。
そういうのをいろいろ読んでいると何が正しいのだろう、そして神はなせそういった仕組みを作って私達はそれを生きなければならないのだろうと思います。突然変なコメントごめんなさい。ただ仕組みについて論じておられたのでその大元、なぜそうなのか、なぜそうしなければならないのか、(おそらくそれは神について)のことについてはどう思うのだろうと感じたのでコメントしてしまいました。
返信する
Unknown (管理人)
2013-06-10 01:05:38
サラさま、コメントありがとうございます。

多くのスピリチュアルの書籍をお読みですね☆まだまだ有名な著書でも読めていないものが多くあり霊訓に関しても前世に関しても、もっと知らないとと思っています。

確かに、似たようなあの世の仕組みを書籍を通して知りましたが、霊媒師、霊能者が語る見えない世界には、無表情で荒野のようなところを、ただどこかへ向かっているだけだとか、ハイジのようなアルプスっぽい場所で心静かに(現世を)生きたことを振り返っているなど、色々あるような話がありますが、順を追って考えて見ますと、スピリチュアルな書籍ですから「あの世(見えない世界)はある」と言っていますよね。

私もそうであって欲しい、そうだと思うようにしています。ただ、今年3月にも全身麻酔をして手術した役職者に聞きましたが、麻酔が効いてきますと、プツッと意識が無くなるそうです。そして、数時間後、「○○さん」と看護師の呼ぶ声が聞こえて目を覚ますと、手術は終わっているという状態だそうです。「そのとき、意識が無いときって、どうでしたか」「夢みたいなものを見ましたか」「何か不思議なことは無かったですか」と聞いてみましたら、「プツッと意識が途絶えて、そして声を掛けられているのに気づき目覚めた」「その間の記憶は、全く無く、パソコンとかと同じで電源がOFF、ONのようだった(特に寝たくて寝たわけでもないので)」だそうです。

これを聞くと、「無」・・・じゃないか・・・と思ってしまいます。

確かに寝ているときも、とても疲れていたりしたら、目を閉じた途端に意識無く寝て、ハッと気づくともう朝ということが多々あります。

その眠っている途中って、記憶も無い(もしかしたらスピリチュアルな書籍で言いますと、あの世へ行っていて、記憶を消されて戻ってきているというのかも知れませんが)というのが現状の真実ですよね。そう思うと、死後「無」なのかもという思う気持ちもあります。

しかし、少なくともスピリチュアル的な書籍、例えば飯田史彦先生などの書籍を読みますと、実際に心(魂)と肉体(身体)は別々に思えてくる内容ですし、わざわざ全てをでっち上げて不思議な話を書いたところで、そういう書籍はたくさんあるのでヒット(金儲け出来るか否か)するかどうかも分かりませんし、でっち上げた話を書く必要性など無い(当時は国立大学教授という身分の方)わけですから、やはり、飯田先生が体験されたようなことは、飯田先生には実際に起こったことなのだと思っています。

そうしますと、「自分はどちらの考えを取るか」という選択肢に当たるわけですが、それなら、あの世がある、見えない世界はあるという方を取るほうが、いつかは必ず死を迎える私達にとっては、死後にも希望が持てるというものですので、ポジティブ思考で「死後の世界はある」に賭けたいなと、私はそう考えて、生きて行こうとしています。

もちろん、聖職者でも仙人でもないので、物欲等も持ちながらですけどね。


ただ、確かに心配なのはあの世があったとして、そのあの世で先立った彼女に逢えるのか否かのところです。もちろん、本物の生前の彼女にです。

書籍によっては、私の死後直後、乃至は死の直前に「お迎え」に来る霊は、実は私を死の恐怖から和らげるために彼女に仮装してお迎えの勤めをしているあの世の霊が来るような話もありました。
「本物の彼女じゃないじゃない」と思いましたね。しかし、そこのところだけ取上げても、他には生まれ変わっていて、すぐには迎えに来れないけど分身ではないですが、生まれ変わっている本人さえも知らないところで、前世で親しかった人の死の直前直後に迎えに行っているなど色々な話があります。
また、輪廻転生はこちらの時間でいうと1日で出来たり、数百年かかったりなど色々言われていますので、この生まれ変わりに関しても死後の自分自身の悟り具合で変わってくるのかなぁと推測するくらいしか方法はありませんね。

死の直前から死後、そしてとにかく逢いたかった先立った最愛の人に逢うという流れだけとっても不明なところが多く、これは結局のところは自分自身が逝ってみないと分からないところだと思っています。

そして、階層になっているという世界。日本の仏教でも天道や人道、修羅道、畜生道、餓鬼道など色々と階層があるように言われていますが、その階層が1階層何段でどのくらいの階層があるのかは、これまたあの世に逝ってみないと分からないことだと思います。

ただ、これだけスピリチュアルな書籍だけでなく、歴史の中で各宗教でも死後のことや階層についても書かれているということは「そのようなかたちで何層かになっている」と思われるというのが、実際にあの世と言う世界があったときには、自分自身の中で多少心(魂)の片隅にでも心得ていればよい程度かと思っています。

その階層を幾層も見た霊媒師、霊能者も入れば、低い1階層だけを見た霊媒師、霊能者では当然見解は違ってくることと思います。

ただ、広く書籍を読んでいきますと、「階層は色々あるようだな、これは和でも洋でも言われているし、あの世があったなら、そのような仕組みだと思っていよう」という気に、私はなりました。

A・ファーニスの書籍にもありましたが、霊能のある者でも、見えるレベルがあるそうですし、霊能のある者が全て聖人かと言いますとそうではないので、その辺りで、確かにAという霊媒師、霊能者が見たあの世の仕組みとBという霊媒師、霊能者が見たあの世の仕組みとでは違ってくると思います。
一面なのか、多面なのか、さらに多角的に見えるかの差が、ただ実際に見た霊媒師、霊能者は「これだ!」「確かに私はそのように見たんだ!」というのも嘘ではない、どれも真実なのだと私はそう捉えています。

そして、真実は・・・「百聞は一見に如かず」ですね。

そして、なぜこの現世に生まれてきて、そして苦楽を体験し、死を迎え戻っていく、輪廻転生するのかという点ですが、

私がスピリチュアルな書籍を読んできまして、紆余曲折もありましたが、やはりいつかは何らかの結論を自分自身の中で出さないといつまでも考え込んでしまいますので、私になりにスピリチュアルと決着をつけた点でお話しますと、

1つは「体験するには物質(肉体・モノ等)が必要なので、精神世界と物質世界の2つがある」と考えています。

そして、一番の根幹のところである2つ目、「なぜそういう仕組みの中で肉体を持って生きたり、死んだり、そして魂の世界があって、また生まれ変わったりする」のかですが、大昔と今を比べましたらTVや自動車など石や土の中から色々なモノを人間は作り出してきましたよね、どんどん物資的なものが生まれてくる時代で高度化されて、その中で起こる事象を体験することによって、さらに感情や知能も上がってきています。それがどんどん進み・・・その間どんどんと霊的な世界も現世で体験してきた内容が複雑化してくると、あちらの世界も事細かくなっていくものと思います。

それを続けて、そこに、その先に何があるのか、神は何を求めているのか、どこまで行き着けばよいのか。
それは、原点に戻ると言いますか「モノ(物質)が全てではない」「愛(他利愛)を学ぶ・超越する・魂に刻む」という点になるのではないかなと思っています。

その行き着く先は、私はあると考えています。しかし、それはほとんど永遠のような仕組みでずっと続くに等しいものだと思っています。

例えば、地球だってそうです。太陽系だって物質ですし、人間と同じで最後の日は来ます。たとえゲノムが解明されたことで、いつか不老不死まで行き着いたとしても、太陽系が滅ぶか新たな地球のような星を見つけるかどちらが早いかという問題もあります。

宇宙では、星や銀河系が消滅するところがあっても、また新たに生まれてくる星もあります。最終は何も物質が無い見た目は無の世界になるのでしょうけど、そのときには、これ以上経験する、その経験から得られる心(魂)が無いほど超越した魂の集まり(類魂)になり、1つの愛の塊となるか、この世的に言いますと、みんなが全ての魂が慈悲に満ちた愛の魂ばかりが存在する世界を作り上げるのではないでしょうか(みんな苦楽を嫌という程経験した良い者ばかりが集まった世界)
そして、一滴も濁りのない者の魂ばかりが暮らす世界です。

見えない世界の長(神)あるいは、見えない世界そのものが、途方も無い時間をかけて創り上げようとしているように、私は感じています。

では、そのような世界を作ってどうしたいの?

ですが、それは私達の魂が求めた、求めている世界(桃源郷や理想郷)だからなのかも知れませんね。幸せになりたい。みんなそう思っていますよね。その思いや気持ちを見えない世界の長(神)は、最大の愛情を持って作ってくれている、その中で私達の魂も努力しているのではないかなと感じています。

ですから、正しくは、見えない世界の長(神)が、私達に何かを押し付けているわけではなく、私達が求めている姿に、私達自らが進んでいる、そして見えない存在の何かは、その「手助け」をしてくれている(色々な仕組みがそうです)のではないかなぁと思います。

スピリチュアルについては分かった→しかし、なぜこのような試練を経験したり、繰り返したりしないといけないのかの答えはこの辺りにあるように思います。

ちなみに「幸せ」と言いましても、ただの我欲のようなものではなく、例えば、自分は新しいメガネが欲しかったが、彼女がみかんを見て、みかん食べたいし欲しいなと言った際に、自分が欲しいものを買うのではなく、彼女が欲しいものを買ってあげ、そして、その喜ぶ笑顔の彼女の姿を見て、自分自身も嬉しくなり幸せに感じる、=彼女が喜んだり幸せそうな姿が、自分にとっても幸せ、のような感じの幸せです。


長文となりましたが、私が捉えている考えはこんな感じです。

コメントありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

★書籍で探訪|江原啓之氏」カテゴリの最新記事