言葉を語るということは自己限定である、というごく日常的に経験していることが、明確に意識にのぼってきた日々。
コトハ・・言・端・・・言(事)のすべてではなく、ほんの端にすぎないもの
人は死ぬという「こと」を生き延びているわたしが言葉で表現しようとすると同時に限定されていく「こと」。
言葉の欺瞞作用の面に関心が向くという「こと」も
生き延びてゆくための”物語”を拒絶したい「こと」も
生命的関心に従って世界を意味づけている「こと」。
コトハ・・言・端・・・言(事)のすべてではなく、ほんの端にすぎないもの
人は死ぬという「こと」を生き延びているわたしが言葉で表現しようとすると同時に限定されていく「こと」。
言葉の欺瞞作用の面に関心が向くという「こと」も
生き延びてゆくための”物語”を拒絶したい「こと」も
生命的関心に従って世界を意味づけている「こと」。
正確に覚えていませんが、昨日観た『ニュー・シネマパラダイス』の中で印象に残っている科白です。
たとえば、自他共の悲しみや困難に出会う場面で、無力な言葉しか持たない自分につくづく・・・してしまったり。
ただ、私の場合、言葉のまた違う側面、「情報」としての言葉を意識すると、そもそも表現するに足りる経験と情報を持っていない分野が多い、ということがあります。
「知らない」と太刀打ちできないですものね。
観るのも聴くのも読むのも、好き、だけど、知らないことばかり、少しは言葉で語れるものをストックしたい、と思っているこの一年の冒頭です。
ビターオランジェを早速お店で探して食べてみた(美味しい♪)のも、昨夜、木枯らしを聴きなおしたのも、楽しみに拝読しているテルさんのブログに影響を受けました。
どうぞ今年もよろしくおねがいします。
本当に、そう思います。
言葉で誠実に自分を表現しようとするけれど
ひとつ方向を間違うと、フィクションになってしまう。読み手のミスリードも、頻繁に発生する。
予定調和的な、結果丸見えの安易な物語から、自由になりたかったり。
自分が、意外と複雑な心理構造を持っていることに気づいていくプロセスのようにも思います。
今年も、言葉と心の間で揺れ動くだろう私です。
今年も、fascicleさんの文章を読ませていただき、考えを深めていきたいと思います!