「おおしたさん」のブログです

2005年6月に始めたこのブログ、鍼灸院をやってた頃のことを含め、今も気ままに書いています。

個の概念が希薄な日本人と田舎暮らしと

2023年02月09日 | 考えていることとか思っていることとか
孫ちゃん靴を履いてあるけるまでに成長しました。
そして歩く姿がキュートすぎるぅ ♡




個の概念が希薄な日本人と田舎暮らしと

日記を読み返していたら「日本人の一人称は二人称で決まる」との言葉に目が止まった。出所ははっきり分からないが、その前後の記録からしてたぶん養老孟司さんの著書からのものだと思う。この言葉の説明に「手前」は自分を指し、場合によっては「てめぇ」として相手を指すとあった。そういえば私は京都のある大学で学んだのだが、入学して間もない頃「自分はどこの出身?」と先輩に聞かれ、「私に質問しているようだが、もしかしたらこの続きにこの先輩は自分を語り始めるかもしれない」と戸惑ったことを思い出した。関西では「自分」という言葉が会話の流れで相手を指すことがある。関西に長く住めばそれも自然と言えるようになり、あまり深くは考えたことがなかったが、よく考えてみるとなんだかおかしい。立場によってI(アイ)がYou(ユー)に変わるのだから。多分英語ではあり得ない事だろう。そんなことを日記の一文から思い出した次第だ。

日本人は個人という概念がもともと希薄だったらしい。今では個性や自分を大切にしようとしきりに言うが、そもそも日本人は個人よりも人間関係、会話の内容よりも文脈の中にいる自分を大切にしてきた。「相手あっての自分」を殊更に強調して生きてきたのだ。相手に合わせることが最も大事、立場により先生として、パパとして、上司として、部下として、自分の側に属す人かどうかを瞬時に判断し、相手に合わせて一人称を巧み操る。それを無茶苦茶難しい尊敬語や謙譲語、丁寧語などを駆使しつつ、人間関係に気を遣う会話をしてきた。だから数えきれないほどの一人称と二人称が存在するのだ。

この、自分を固定しない文化の中で、所属するコミュニティーにより立ち位置を変える作業を何のためらいもなくできるようになるためには、相当な学習が必要だ。これを各コミュニティで地道に学び、ようやく出る杭にならず生きることができるようになる。

とにかく相手との距離を瞬時に測り、相手を立てるか上からの目線で話を始めるかを決めなくてはいけない。なんとも日本人は複雑怪奇である。

コミュニティーにおける自分の立ち位置。まさに村社会的な思想だと思うのだが、これが都会でさえも求められる日本だ。より個の概念が消される田舎暮らしに都会の流儀を持ち込んだとしたら、どうなるかは言わずもがなである。田舎におけるローカルルールは絶対だ。時短、集約、段取り等とは無縁なルールが多々あるし、その訳のわからないルールに従えない場合は村八分にすることも厭わない。それほどまでに変化を恐れる田舎がいまだにあるので、上に書いたような極めて日本人的コミュニケーション能力が試される。30数年前に田舎暮らしを経験し、そのローカルルールに対応できなかった私である。コミュニケーション能力が試され仕事で人間関係にもまれ、今はどこに行ってもそこのルールに合わせることができそうな気がする。

都会でさえも暗黙のルールが複雑なのに、田舎の小さなコミュニティでのローカルルールは、より繊細で奇々怪界なのは仕方ない。そういうところだ日本は。もちろん少子高齢化や社会のデジタル化により、これからの人間関係は大きく変化するであろう。しかしこの複雑なローカルルールはこれからも存在し続けるし、それはどこの国に行っても同じこと。だから勉強よりも人間関係の機微を教える方がよほど大切だと思ってしまうのだ。そんな事を言ったら旧態依然の人間だと思われるかもしれないが、この国で生きやすさを求めるなら、ここを避けて通ることはできない。


都会では当たり前でも田舎では非社会的な行動に見られることは多々あるので、、。
〜〜〜抜粋〜〜〜
その非社会性について具体的な例を挙げるとすれば、食事中にトイレの話はしないとか、葬式に白いネクタイをしていかないとか、余命いくばくかのお嬢さんの誕生日に父親が「役にたつ」という理由で棺をプレゼントするとかだ。コミュニティ維持する上での暗黙の了解は法律で取り締まる筋のものではない。そうしたからと言って誰も罰することはないのだが、このような非社会的なことを繰り返していれば、そのコミュニティで住みにくくなるのは当然と言えば当然である。




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