治療院の観葉植物です。
子ども達みんな、どこに行っても愛されると思っている親バカなこの私。子育てのほとんどを妻に任せた私が言うのもあれなのだが、こんな利己主義な私がいるのによくぞまっとうに育ってくれた。本当に感謝している。もちろん私なりに心配は尽きなかったし、子どもが4人もいればそれぞれに色々あった。特に長男の交通事故は本当に大変だったので、ここまで大きく育ってくれてありがたいといった気持ちが先行する。あの経験から、子どもにどうなってもらいたいとかが無くなり、とにかく生き続けてくれたら嬉しいという気持ちが勝るようになった。
「一寸先は闇」とはよく言ったもので、子育ては本当に色々ある。ありすぎる。嬉しい楽しいだけでは子どもは育てられない、ある意味自然災害に匹敵するものだと思っている私である。ケラケラと笑っていたかと思ったら、いきなりのギャン泣き、熱を出したり痙攣を起こしたり。子育てはいつ何が起きるかわからない、災害だと思って接した方が理解しやすい。
でもたまに見せる可愛い仕草に愛くるしい表情。さながら台風一過に見る晴天、災害をもたらした大雪に沈む太陽。自然が見せる災害の後の一瞬の美しさの神々しさに匹敵する子どもの存在がそこにある。そんな数少ない喜びを糧に子育てを継続できたのだと思う。
「生きていてくれてありがとう」から始まった子育てなので、子どもへの期待は他の方々より少ないと思う。だからどこの学校に行ってもらいたいとか、どうなってもらいたいとか、考えることはあまりなかった。もちろん勉強しなくて怒ったことも多々あったが、育ってくれているだけで素直に嬉しい、といった気持ちが根底にあったので、腹立つこともすぐに薄らいだように思う。
ところで巷では中学受験が激戦だと聞く。2022年入試の首都圏の中学受験者数は5万人強。これは1991年の人数を上回り史上最多の人数で、この傾向はこれからも続くそうだ。子どもの将来へ介入をどこまで許すかは各々の親の判断だが、子どもの将来の不安から勉強を強制するは少し違うように思う。子どもの将来は子ども自身がすでに知っている。すでに内在している子どもの将来を、子どもと相談しながら掘り出す作業、さながら仏師が木材を慎重に削り仏像を完成させるように、子どもを観察しつつ相談しつつ子どもの可能性を慎重に削り出す。
その子の生きやすい場所はその子だけが知っている。この苦海で生きやすくするための働きかけはその子をベースに考える。それは親や周りの年長者が決めるものでは決してない。子どもだけが知っている無限の可能性を親は子どもから引き出すだけ。そこが親の腕のみせどころ、お互いがんばろね。
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