六字の名号「南無阿弥陀仏」、必ず救うとは阿弥陀様の私どもへの呼びかけだが果たして本当にそうなのか。特に信じ切るわけでもなく、でも親鸞聖人の本を読み、ふらふらとだがその教えを理解しようと努力する自分がいたりもする。
ところで阿弥陀仏だが、最初から阿弥陀仏ではなかったそうだ。法蔵という菩薩が全ての衆生を救うと高らかに宣言し、長い年月の修行を経て阿弥陀様になられたとの事。阿弥陀仏が存在するという事すなわち全ての衆生が救われているという事。だから私たち衆生は「すでに救われている」はずなのだが、果たして本当なのかどうなのか、こんな私が浄土に行けるのか、全くもって不安でしかない。
私たち凡人を「丸ごと救う」と宣言し阿弥陀仏になられた法蔵菩薩、この事実からして生きながらにして私たちは浄土が確約されている。信心定まればすなわち往生定まるわけだから。でも裏を返せば生きていながらにしてすでに死んでもいるという事でもある。方角や暦にまどわされ、崇りや霊に恐怖する私たちだが、それらは取るに足らない事だと喝破する親鸞聖人、そんな瑣末な事を憂うより、一番恐るべき、また受け入れるべき「死」への対峙、すでにあなたは阿弥陀様に十二分に護られているんだよ、といった幸せをちゃんと味わおうではないかと思えばいいのか。
此岸と彼岸の連続性、こちらとあちらのシームレスな関係性。昨日のオンライン仏教講座、死の話はしにくいが、後悔先に立たず、生きているうちに近しい人と死の話をするのも悪くないと思った次第だ。
浄土に行けるという確約こそが、衆生が浄土教に熱狂した所以かとも思い始めているのだが、正直まだよくわかっていない。だが生きているうちに死んでもいる、という考えはなかなかに味わい深く、死もそうたいした事ではないはずのだとは思いたい。思いたいのだが、やはり避けてしまうのは修行が足りないせいだろうか。
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