近頃しばしば「官僚が悪い」という言葉を耳にする。
確かに今の官僚の所業には、目に余るものも多い。
しかし、これを官僚だけの所為にしていて良いのだろうか?
公務員の中には立派な人も大勢あると思う。
その中で、悪貨は良貨を駆逐するの法則の下、欲張りであくどく権力志向の強い者が、
善良な普通の役人を押さえ勝ち抜いて、権力に取り付いているというのが、現実なのではないだろうか?
真面目に国のために働こうと努力するようなお役人は、
国から少しでもかすめ取って、自分の懐に入れたいと、鵜の目鷹の目の役人にとっては、目障りで邪魔な存在であろう。
こんなとき政治家が、真面目に国の為を思って目を光らせていたら、悪い方の役人は排除され、真面目に国のために尽くす役人だけが出世して、
国民は国の恩恵を受け続ける事ができるだろうけれど、
政治家が、甘い汁を吸うことにのみ関心のある者だらけになってしまったから、
甘い汁を吸うのには真面目な役人よりも、悪い要求でも何でも対応してくれる役人の方が都合が良いから、悪い役人ばかりが政治家の後押しを受けて出世していく事になったのではないだろうか。
質の悪い官僚だらけとなったのは、政治家の協力が有ったればこそで、役人が独りでそういう状況を作りだす事など、できはしないのではないだろうか。
「魚心あれば水心」と言う事で、両々あいまって今日の状況は作り出されたのだから、
政治家が他人事のように、役人の悪口を言うとしたら、無責任極まりない事と思う。
民主主義国日本では、私たち国民は主権者であると言われている。
政治家は私たち主権者の代理人である。
社主が会社の管理人を雇って、会社を運営させるとき、
社主は人選には特に心を砕くだろう。
間違った人選をしてしまったら、財産を乗っ取られる恐れがあるのは分かりきった事であるから。
人に自分の財産を任せるときは、そのくらいの事は常識であるのに、
自分たちの生殺与奪の権を握るかもしれない権力を任せると言うのに、
私たち国民はなんとのんきだった事だろう!
繰り返しになるけれど、政治家は私たち国民の代理である。
代理人がちゃんと仕事をする人間かどうかについて、どれ程私たちは気をつけていただろうか?
一方政治家は国民の代理人であると言う事を、どれだけの政治家が意識しているだろうか?
苦労して国民を騙し、やっと国会議員という地位を手に入れたのだから、
手に入れたからにはこっちのものと思っていはしないだろうか?
そして国民の多くも国会議員がそう思っているのを、当然のこととして、特に怒りなど持ったこともないのではないだろうか?
国会議員が国民の代理人として、国家公務員を監視しているのだと言う意識がなくなり、公務員に助けてもらって、政治家として、又は大臣としての職務を、何とかこなそうと思い、
そう思うことを別に恥とも思わず、当然の考え方と思う政治家だらけになったから、
悪徳役人も、したい放題ができるようになったと言う事なのではないだろうか?
政治家も国民も、国会議員と言うのは国民の代理人として、国民の権利を守るために国会に出ているのだという事を思い出さねばならない。
国会議員になったのは、国会議員というのが見入りの良い職業だから、
自分の生活費を稼ぐ為の就職として志した者だらけになったから、
自分自身のためにのみ働く事を、恥と思わない国会議員だらけとなっているのではないだろうか。
私たち国民は国会議員の意識のありかを良く見極めて、
今度の総選挙には臨みたいものである。
官僚を見張るべき政治家を選ぶのは、私たち国民なのだから・・・・・
確かに今の官僚の所業には、目に余るものも多い。
しかし、これを官僚だけの所為にしていて良いのだろうか?
公務員の中には立派な人も大勢あると思う。
その中で、悪貨は良貨を駆逐するの法則の下、欲張りであくどく権力志向の強い者が、
善良な普通の役人を押さえ勝ち抜いて、権力に取り付いているというのが、現実なのではないだろうか?
真面目に国のために働こうと努力するようなお役人は、
国から少しでもかすめ取って、自分の懐に入れたいと、鵜の目鷹の目の役人にとっては、目障りで邪魔な存在であろう。
こんなとき政治家が、真面目に国の為を思って目を光らせていたら、悪い方の役人は排除され、真面目に国のために尽くす役人だけが出世して、
国民は国の恩恵を受け続ける事ができるだろうけれど、
政治家が、甘い汁を吸うことにのみ関心のある者だらけになってしまったから、
甘い汁を吸うのには真面目な役人よりも、悪い要求でも何でも対応してくれる役人の方が都合が良いから、悪い役人ばかりが政治家の後押しを受けて出世していく事になったのではないだろうか。
質の悪い官僚だらけとなったのは、政治家の協力が有ったればこそで、役人が独りでそういう状況を作りだす事など、できはしないのではないだろうか。
「魚心あれば水心」と言う事で、両々あいまって今日の状況は作り出されたのだから、
政治家が他人事のように、役人の悪口を言うとしたら、無責任極まりない事と思う。
民主主義国日本では、私たち国民は主権者であると言われている。
政治家は私たち主権者の代理人である。
社主が会社の管理人を雇って、会社を運営させるとき、
社主は人選には特に心を砕くだろう。
間違った人選をしてしまったら、財産を乗っ取られる恐れがあるのは分かりきった事であるから。
人に自分の財産を任せるときは、そのくらいの事は常識であるのに、
自分たちの生殺与奪の権を握るかもしれない権力を任せると言うのに、
私たち国民はなんとのんきだった事だろう!
繰り返しになるけれど、政治家は私たち国民の代理である。
代理人がちゃんと仕事をする人間かどうかについて、どれ程私たちは気をつけていただろうか?
一方政治家は国民の代理人であると言う事を、どれだけの政治家が意識しているだろうか?
苦労して国民を騙し、やっと国会議員という地位を手に入れたのだから、
手に入れたからにはこっちのものと思っていはしないだろうか?
そして国民の多くも国会議員がそう思っているのを、当然のこととして、特に怒りなど持ったこともないのではないだろうか?
国会議員が国民の代理人として、国家公務員を監視しているのだと言う意識がなくなり、公務員に助けてもらって、政治家として、又は大臣としての職務を、何とかこなそうと思い、
そう思うことを別に恥とも思わず、当然の考え方と思う政治家だらけになったから、
悪徳役人も、したい放題ができるようになったと言う事なのではないだろうか?
政治家も国民も、国会議員と言うのは国民の代理人として、国民の権利を守るために国会に出ているのだという事を思い出さねばならない。
国会議員になったのは、国会議員というのが見入りの良い職業だから、
自分の生活費を稼ぐ為の就職として志した者だらけになったから、
自分自身のためにのみ働く事を、恥と思わない国会議員だらけとなっているのではないだろうか。
私たち国民は国会議員の意識のありかを良く見極めて、
今度の総選挙には臨みたいものである。
官僚を見張るべき政治家を選ぶのは、私たち国民なのだから・・・・・
19世紀末~20世紀初頭のフランスの思想家ジョージ ソレルは『代表議会制民主主義は政治家達が政治的エリート階級を形成しジャーナリスト批評家等が思想エリート階級を形成し意味の無い論争を繰り返し市民の為には殆ど機能しない政府になってしまう。』と言う様な事を言っています。結局、政治家が民意を無視すると、現在の労働者の権利、人権、民主主義を築き上げた19世紀末~20世紀初頭の時代の労働者達の様に街頭に出てストライク、デモンストレーションで市民が政治家を揺す振る手段しか無いのではないでしょうか?当時はストライクやデモ中に警察や軍隊に虐殺された労働者が多かったそうですが民主主義を護る為には其れ位しないと政治家は絶対市民の為には動かないと言う事なのでしょうか?
其れとオーストラリアは選挙の投票は市民の義務とされていて投票を怠ると罰金を払わなければいけないそうです。此れも良い方法ですね。
王政よりも血に飢えていると言っていたのですか,民主主義が?
確かに、現在のアメリカは将にそうなっていますね。
そして日本も何とかそうなろうと、権力者たちがうごめいているようですが・・・・・
労働者が命がけで権利を主張しなければならないような政府が、民主主義の政府といえるのでしょうか?
でもそれ以外に方法がなくなってしまうということなのですね。民主主義はその時既に死んでいるということなのでしょうか。
オーストラリアの方法は、政府がまともなときは良い方法かもしれませんが、特権階級が出来てからでは、立候補したものがみんな横暴な権力者かその走狗であると分かっていても、選挙に行かねばならないということになってしまうかもしれません。
でも、白紙投票するという方法も有りますか。
そうなると罰金が第2の税金になったりして・・・・・
民主主義の原則論のようなものを書いてみましたが、現実はそうは行かないのが民主主義の悲しいところなんですよね。
全員が主人であると言う事は、主人が無いというのと同じことになってしまうというわけで・・・・
その上テレビと言う、大抵の人が気を取られてしまうような便利なものが発明されたお陰で、騙す側にしたら、民意は意のままにあやつれるという状況まで出来てしまっているのですから、庶民としたらかないませんね。
私がアメリカに来たころは未だ言論の自由等を考える必要の無い社会でしたが,ブッシュになるとブログやE-メイルでも言葉に注意を払わないといけない様な社会になってしまいました。何だかヤクザの支配を受けているような感じです。(今でも中央情報局や其の他の組織の状況は余り変ってないのではないかと思っています。)
20世紀の第二次大戦以降まで民主主義国家と言われる物は殆ど存在せず、其れまで労働者や進歩的思想化たちが彼等の血で民主主義的な人民の権利を政治の中に確立してきたのです。スイスでも女性の投票権が認められたのは1970年代になってからですから------日本の場合は第二次大戦と言う大流血の後,連合国側から民主主義を押し付けられてのです。結果として考えると第二次大戦と言う大流血の結果として日本に民主主義が成立した事になります。
日本の場合、儒教の影響が強く本当の民主主義は育たないかも知れませんね。儒教の発生した時代は周王朝の崩壊を保守的な思想で存続させ様とした努力が儒教ですが、仁義等の言葉がヤクザの社会で重要視されている様に市民個人個人の自由意志を重要視しない思想で非常に権威的なのだと私は思うのです。
儒教の影響の最も強い韓国では目上の人とお酒を飲む時目下の人は目上の人から顔を背けてお酒を飲まなければいけないそうですが、お酒を飲む時でもこの様な事を心配しなければいけない社会は本当に平等な民主主義の定着は難しいのでは?
オーストラリアではブッシュの友達ハワード首相を選挙で蹴り出し中道左派労働党のケビンラッド首相を選出ましたから罰金制度は日本より機能しているのでは?
兎に角、どの国でも歴史的発展段階に違いが有りますから或る外国で機能しているからと言って日本で同じシステムが機能するかと言うと疑問ですが、日本での市民の主権に対する関心の無さはアメリカ以上ではないかと心配しています。
仰るとおり東洋は儒教の教えが染み付いていますから、本当の意味での民主主義になりにくいのかもしれませんね。
只、孔子の教えによって培われた徳目にも、捨てがたいものが数多くあり、
民主主義国アメリカの現在の体たらくを見ていたら、
完全な平等思想の者が完全な自由意志で投票したつもりでも、情報の段階で騙されていたらどうしようもないということが分かります。
それ位なら論語によって培われた徳目を捨ててまで、完全な民主主義思想になろうとする必要をあまり感じないのです。
考えて選んだつもりが、言ってる事や情報が嘘だらけでは、どうしようもありません。
最悪の人間に政権を取られたら、国民にどんなに自由思想がいきわたっていたとしても、権力者に対してはどうする事もできなくなる事もあるでしょう。
そんな時同じ悪い権力者であったとしても、
その心の中に、ほんのわずかでも「いっぱしの人間として、そんな恥ずかしい事はできない。」とか
「そんな可哀そうな事は出来ない。」という思いをもたらすツールが全然ない人間よりは、
いくらかでも、人間らしい心を持ちたいという思い、時として心を励まし、時としてブレーキをかける、心のよすがというものが有る人の方が、全然ない人よりはましではないかという気がするのです。
指導者としての矜持がほとんど無く、
自分の欲望を満たす為なら、どんな事でもためらいなく出来る、何一つ心にブレーキを持たない人間が、
ブッシュ政権のほとんどのメンバーを占めていたのではないかという気がするのです。
宗教には色々の弊害も確かに有るでしょう。
しかし何をやっても少しも心がとがめない。
どんな事でも躊躇なく出来るという人間が、
絶対権力を握って、その強欲を丸出しにしたときの、恐るべきやり口を見せられた今、
昔の人が地獄の話を作り出した理由が分かるような気がします。
地獄のような子供だましの話では、今の時代もう効き目がないでしょうけれど、
人として恥ずかしいことかどうかという反省が身についている民族であるならば、
折角付いたその習慣は大事に守るべき徳目ではないかと思うのです。
子供の頃から両親の一方ならぬ庇護があったから、
自分は無事大人になる事ができたという恩を考えたら、
両親を敬うという態度は、当然取るべき態度であると思います。
たとえ周王朝の秩序を維持したいという、動機があったとしても、
だからと言って排除せねばならないものではないかと思うのです。
それが民族として染み付いた習慣であるならば、恩を知るという良い性質を守るためにも長上を敬うという習慣も、大事にした方が良い習慣ではないかと思います。
それによって、縁故投票の弊害はあるかもしれませんが、マスコミに騙されてイカサマ師に投票する危険性と比べて、その危険性はにそれほどの差異はないかと思うのです。
国民に政治家を選ぶチャンスが設定されている民主主義は、得がたいシステムですので、私たち庶民の為にも、民主主義はなんとしても守りたいシステムですが、
民主主義の精神を全うする為には、身に付いた徳目、例えば儒教精神を払拭せねばならないとまでは思えないのです。
どちらにしても完全など有り得るとは思えませんので・・・・・
ガンジーは『民主主義は政治形態の形式ではなく市民の心が民主的な考えに変らないといけない。』正確ではないのですがこの様な事を言っています。
其処で、前のコメントをもう一度繰り返させて頂きます-----<どの国でも歴史的発展段階に違いが有りますから或る外国で機能しているからと言って日本で同じシステムが機能するかと言うと疑問ですが>------
私は民主主義といっても唯一つの形式があるとは考えていないのです。日本的な民主主義もあるだろうしアメリカ的な民主主義もあると思います。外見的な形式は如何であれ人の心の中に真実の平等と言う意識があれば其れが民主主義なのだと私は考えます。
欧米に儒教が無いからといって日本的な恩、仁義、等々の概念が無いわけではないのです。(共和党、民主党は企業から受けた恩を返す為に働いています。だから市民の為には殆ど何もしないのです。冗談半分です。)人間は何処の国民でも文化でも人間として共有している性質がありアメリカ人も日本人も実は余り違いはないと私には見受けられます。
其れと儒教の影響強い日本、朝鮮半島、中国等で孔子の教えが他の国よりより良く生かされているのでしょうか?日本、朝鮮半島の現状を見ると形式的な面ばかり重要視されていて実際の日本人は政治家、資本家から庶民まで全く反対の行動をしている様に外からは見受けられます。アメリカが民主主義国家である筈なのに外国人は米帝国主義だと見ているのと同じ事のように見えますが如何でしょうか?
私は儒教の全てが悪いと言っているわけではないのですが、例えば仏教の様に人間や動物全てが神性を持っていると考え、全てを平等に尊敬する立場に立つのなら儒教の教えは蛇足の様にも感じられます。
1世紀程前に日本人にも影響を与えたピーター(ピョートル)クロポツキンと言うアナキストの思想家は『人間は過去に生きた先祖達の残し蓄積した思想、科学知識、発見、発明品を利用し其の上に又一寸だけ何かを付け加えて生き続けているのです。ですが多くの人間は何かを発明したと思う時“此れは俺が自分だけで発明した物だ!だからこの俺の発明品で得られる利益は俺だけの物だ!”と考えるのです。何と近視眼的で利己的なのでしょうか!新しいと思われる発明も過去の人類全ての努力の成果無くして存在できないのです。其れ等は人類全てで分かち合うべき物なのです。』この彼の思想は先祖の“恩”に非常に近い発想ではないでしょうか?唯、彼は別の名前で“相互扶助”と言っているのです。そうです皆で助け合うと言う民主的な考えです。
民主主義的な考えでは、私は和久希世さんの考え方や、生き方、意見を尊重するのであって、年齢、社会的階級、性別等で私の貴方に対する意見が影響されるのではないのだと思います。
兎に角、民主主義とは平等な社会を目指す“行為”であって、既に完成した形式、思想、等ではないのだと思います。確かに不完全で何時も市民が目を光らせて監視していないとブッシュや日本の公明党や自民党の様なヤクザに乗っ取られる物ですから頼りない物なのですが、だからこそ我々市民が御互いに平等な立場で尊敬し合い守っていかなければいけない“心のあり方”だと私は思います。面倒臭く不完全ですが我々は他に良い方法を未だ考案してはいないので今の所民主主義を大切にするしかないのではないか?と思っています。
引用された「人間は過去に生きた先祖達の残し蓄積した思想、科学知識、発見、発明品を利用し其の上に又一寸だけ何かを付け加えて生き続けているのです・・・・・」は、全くその通りだと思います。
キリスト教にも、仏教の影響があったでしょうし、回教もキリスト教の影響を受けたところがあるという話を聞いた事があります。
それぞれの時代、地域に合うように、
修正されたから、その教義はその地に根を下ろし、今日まで続いているということなのでしょう。
仏教にもキリスト教にも、回教、儒教にも、その他どの宗教にも、
恐らくそれぞれの祖師が唱えられたのとはかなり違う、
時代や地域の手垢が付いていて、悪い部分もたくさん追加されている事でしょう。
ですから時代にあった改革は、絶対必要であると私も思います。
只、思い出しますのに、
私の子供の頃には、浪花節の人気がまだ残っており,ラジオやテレビなどで、しょっちゅう浪花節の声が聞こえていたのですが、
ある頃を境に、ぴったりと消えてしまいました。
浪花節が聞かれなくなった頃から、
人々は義理人情を唱える人をつかまえて
「浪花節でもあるまいし・・・・」という言葉を投げかけるようになっていた様でした。
浪花節の主張するところには、
いわゆる封建思想が満ち満ちていますが、
義理とか人情という、人として大切な思想も含まれています。
浪花節を否定した時、日本人は「義理人情」という良い部分も捨てねばならないと思い違いをしたのではないかという気がするのです。
それ以後の日本に流行ったのは、エコノミックアニマルという言葉でした。
平等思想がもたらすものは、
相互に尊重しあうという良い部分ばかりではなく、
これからは門地にかかわらず平等だそうから、
ここは一番頑張って、自分の力でのし上がってやろうという風に考える者を、大勢生み出すきっかけにもなった様です。
それが学歴社会を生みだし、
人々は子供の頃から競争社会入りさせられる事にもなるし、
儲ける為だったら血も涙もないことをしても、平気な人間を生み出す契機にもなるもののようです。
平等思想に反するからと言って、儒教を全否定してしまったら、その他の良い部分まで全部否定して仕舞わねばならないと、人々は錯覚してしまうのではないでしょうか?
(それはどの宗教においてでも、同じかと思いますが)
悪い部分は時代に合わせて、修正する事にしても、その教えそのものを全否定してしまうのは、もっと悪い結果になるのではないかと思うのです。
代わりに、どんなにすばらしい教えを持ってこられたとしても、
民俗の血肉になるには、時間がかかるものですから、結局付け焼刃となって、以前よりも悪い結果を生み出す事になるかと思うのです。
民族のバックボーンとなっていたものは、悪いところは随時修正してでも、大事にして行ったほうが良いのではないでしょうか。
バックボーンを突然取り上げられたら、
人々は混乱し、自信を失くしてしまって、
結果として軽薄な我利我利亡者だらけになってしまうのではないかと危惧されます。