私は1930年8月9日横浜で生まれました。
小学校一年生になった時の7月7日、つまり、1937年に
日中戦争が始まったのですが、その頃ののどかな暮らしぶりが、
戦争によってどんな風に変わっていったかと言うことをお話
したくて、少しづつ、書いてみようかと思っています。
また、戦後も、私にとっては苦しかったり、怖かったり、
戦争と同じ、あるいはそれ以上だったと思えますので、
それも書いていきたいと思っております。
当時、私達家族が住んでいたのは、横浜の屏風ヶ浦と言う
ところで、北には小高い山が連なり、南側には東京湾の穏やかな
海が広がっていて、日曜日には、よくいとこ達が遊びに来たり
して、裏の山にみんなでお弁当を持ったりして登るのですが、
山の上で、お弁当を広げていると、横浜港へ出入りする大きな
船やら、漁船や貨物船が、何隻も出入りしていて、汽笛を鳴ら
したり煙を吐いたりしていて、いつまで見ていても飽きなかっ
たのですが、時には、父が、”あの大きな船は鎌倉丸かもしれ
ないなあ。新聞に入港すると書いてあった”と言ったりして、
あの鎌倉丸が行くアメリカはどんなところだろうかと思いを
馳せたこともありました。
(続く)
小学校一年生になった時の7月7日、つまり、1937年に
日中戦争が始まったのですが、その頃ののどかな暮らしぶりが、
戦争によってどんな風に変わっていったかと言うことをお話
したくて、少しづつ、書いてみようかと思っています。
また、戦後も、私にとっては苦しかったり、怖かったり、
戦争と同じ、あるいはそれ以上だったと思えますので、
それも書いていきたいと思っております。
当時、私達家族が住んでいたのは、横浜の屏風ヶ浦と言う
ところで、北には小高い山が連なり、南側には東京湾の穏やかな
海が広がっていて、日曜日には、よくいとこ達が遊びに来たり
して、裏の山にみんなでお弁当を持ったりして登るのですが、
山の上で、お弁当を広げていると、横浜港へ出入りする大きな
船やら、漁船や貨物船が、何隻も出入りしていて、汽笛を鳴ら
したり煙を吐いたりしていて、いつまで見ていても飽きなかっ
たのですが、時には、父が、”あの大きな船は鎌倉丸かもしれ
ないなあ。新聞に入港すると書いてあった”と言ったりして、
あの鎌倉丸が行くアメリカはどんなところだろうかと思いを
馳せたこともありました。
(続く)