レーリンク判事と東京裁判:2

2006年10月08日 00時10分16秒 | Weblog

ベルト・V・A・レーリンク氏(1906~1985)は、1933年に刑法学の研究によりユトレヒト大学から博士の学位を授与されるとともに、同大学の刑法関係の講義を担当し、第二次世界大戦が始ってオランダがドイツ軍に占領されていた期間には地方裁判所の判事の身分をも兼ね、大学では特にオランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)の刑事法の研究によって高く評価されていた。19451年に、39歳のレーリンク博士は、オランダ政府により、連合軍が東京に開設する極東国際軍事裁判所の同国代表判事に任命され、前述の東京裁判での個別的反対意見の発表により世界的な注目を浴びた。裁判終了後に帰国したレーリンク博士は、フローニンゲン大学教授として刑法学の講義を担当したが、東京裁判での経験を踏まえてその学問的関心は急速に国際法学に集中し、1960年には名著と謳われる労作*拡大された世界における国際法*を刊行して国際法学者としての評価を高め、1963年には同大学の国際法担当教授に就任した。博士はまた、戦争犯罪にかかわる事件を扱った破毀気特別法廷の判事を勤め、またオランダの国連代表団の一員としても活躍していた。その後、レーリンク博士は:平和研究:に多大の情熱を注がれ、大学においても戦争原因論の講義を担当された。1983年(昭和58年)5月28日から二日間にわたって東京池袋のサンシャインビル国際会議場で、東京裁判を問いなおすための国際シンポジュウムが開催されたときには、同裁判の十一名の唯一の生存者として七十六歳の老躯に鞭打って出席され(裁判後初めての日本再訪)、かって日本人被告のために奮闘された米人弁護人のファーネス氏やブルックス氏の参加とともに、シンポジュウムの意義を大いに高められた。終了後、博士は熱海・伊豆山の興亜観音に参詣された。興亜観音はもともと松井石根陸軍大将(東京裁判により処刑された)の発願により観音像と御堂が建立されたものだが、いわゆるA級戦犯として絞首刑に処せられた七名の被告の遺灰を蔵する 七士の碑 で知られている。ここを訪れた東京裁判の判事としては、レーリンク博士はパール博士に次いで二人目であり、かつ最後の人である。

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レーリンク判事と東京裁判・平和に対する罪とは何かー佐藤和男(法学博士)

2006年10月08日 00時06分53秒 | Weblog
大東亜戦争で敗れた日本の戦時指導者を連合国の占領軍が裁いた軍事裁判であるいわゆる東京裁判は、昭和二十三年十一月に最終的な判決を下して、昭和三年以降の日本の対外軍事行動を断罪したが、十一名の判事中三名の判事が個別的反対意見を表明して、この裁判に対する非常に厳しい批判を繰り広げたことはよく知られいる。すなわち、わが国で最も有名なパール・インド代表判事は、日本の軍事行動を犯罪とした多数派(七名の判事が中心)判決をまっこうから否認して、重大戦争戦争犯罪人(いわゆるA級戦犯)として訴追された被告全員の無罪放免を主張し、ベルナール・フランス代表判事は、東京裁判の審理過程の全般について検討した結果、手続き面で非常に多くの不備を見いだし、このような不完全な手続きをしている裁判は有効とは認めがたいと論断し、さらにレーリンク・オランダ代表判事は、長文の反対意見書を提出して、序論、法に関する考察(裁判管轄権、平和に対する罪、不作為責任)、事実に関する考察、被告各個人への判定の四部に区分して、裁判への鋭い批判を展開した。本稿では、レーリンク判事の東京裁判に関する見解の主要論点について検討することとする。
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